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昨夜書くはずだった日記 : 御堂筋walk

天然ラジウム温泉を昨日は数時間早く切り上げた。イルミネーションが始まって、いつもの時間の送迎バスが無くなったからだ。電車を乗り継いで梅田についてから、いつものように地下鉄にもぐらないで、群集にくっついて適当に歩いていたら西梅田の阪神百貨店まで流されていた。そこまで来ると、さすがに方向感覚が蘇って、昔「人間この抽象的なるものの中で」というグループ展を開いた画廊のあたりにたどり着いて、そこからようやく御堂筋を南下することが出来た。あんな田舎のイルミネーションを見るくらいなら、御堂筋を歩きたいと思ったのだが、イルミネーションにはまだ時期が早すぎた。大江橋を渡る時は、なんだか胸が一杯になった。40年ほど前、毎日このあたりを、船荷証券などを手に持って、うろうろ歩いていたのを思い出したからだ。夜でも昔の私のような若いひとたちが沢山歩いていた。当時上司だった中村さんは、多分もう亡くなられただろう。そういえば、息子さんが大阪市大医学部の学生さんだったっけ。中村さんの弟さんは後に社長になられて、そのあと数年で大腸がんで亡くなられた。その方は生き残りの特攻隊員だったけれど、中村さんは、出陣の日に仮病を使って、戦場にいくのを逃げた、そしてその後は、通信兵だった、などという話を思い出しながら歩いた。そしてもし病気でなくても、私はもう人生の末期にたどり着いているのだと、実感した。病気を取り払っても、末期は末期なのだと、しみじみとはじめて実感した。淀屋橋に来た。1月4日着物を着てここを歩いていたら、NHKのカメラにつかまって、その午後の全国ニュースで私の顔が流れたこともあった。何人かの人が電話で教えてくれた。今も1月4日は女性は着物を着て半日出社するのだろうか?

石原時計店のショウウィンドウを覘いた。むかし家に残っていた、おじいちゃんやおばあちゃんの持ち物に似た時計が並んでいた。御堂筋の南下は今日はここまでにして、ビルの地下のMJBcafeに初めて入ることにした。本当は石原時計店に入っていきたかったのだが、買う予定も無いのに入りそびれた。since 1946という文字が見えた。このビルが敗戦後に建てられたのか、MJBcafeがその年に入居したのかよくわからない。祖母が亡くなった時、祖母のただひとりの身内である、高名な医師だったかたが、私に「あんたとこの店は、淀屋橋のミズノと尚美堂の間にあった」と確かにおっしゃった。とすると石原ビル、ここしかないのだ。表にはスペイン風Cafeと書いてあったが、地下に入るとJazzが流れていた。7色コーヒーが売りらしくて、月曜日はアラビアン、それでアラビアンCafeを注文した。「スペイン風かと思ったら、Jazzが流れているのですね」といったら「スペイン風は室内装飾です」という返事が返ってきた。最近chansonばかり聞いているので、久しぶりに聞くJazzは非常に心地よく、Jazzばかり聞いていた若き日の私の日常が、ふと蘇ってきた。豊穣な時間だ。ケーキ類も何種類もあったが、糖分はがん細胞の餌にしかならないのでやめた。コーヒーについてきた二つの角砂糖も、使わなかった。

父の日記を思い出した。1945年3月13日、B29の空襲で、祖母と父はバラバラになって逃げた、が石原ビルの地下で、二人は再会する。群集は北へ北へと逃げたと書いてあったが、皆がたどり着いた石原ビルは、当時は心斎橋にあったのだ。後に西武百貨店のPARCOになったあの場所だ。もちろん今はそのPARCOも無くなっている。私が今いるこの地下は、祖母が着の身着のままで逃げてきた、(心斎橋の)石原ビルではない、ということなのか。しかしこの広さなら、あの日記の石原ビル(心斎橋)の地下をイメージできる。御堂筋を北へ北へ、ならば、淀屋橋の石原ビルだった可能性も打ち消せない。私は空間と時間の概念が完全に未発達なので、これ以上考えるのをやめた。

ふとテーブルの右を見ると柱があって、そこにインディアンの顔や頭の羽根を、スプーンやフォークでかたちどった、パネルがあった。保存状態は良好なのだが、物凄く古いものであることがわかる。スプーンには持ち手のところにアメリカの州の名前が装飾されていて、額の上部には「アメリカの思い出」と英語で書かれている。メッキかどうかまではわからないが、スプーンもフォークも金製に見える。これはおじいちゃんがアメリカから持ち帰った「お土産」ではないか?ここにこうしてこういう形で残っているのではないか?ふとそう思った。アメリカの州の数を数えてみた。スプーンやフォークは全部で30、この数は当時のアメリカの州の数ではないか?私は時間と空間の把握に弱いので、はっきりしたことはいえないが、祖父は12年間アメリカで学業に励んだ。そして卒業証書を二つ持って帰国したと聞いている。のちに祖母と結婚。後年しかも大型倒産をしているらしい。このパネルは明らかにまだアメリカの州が30だった頃のアメリカ土産に間違いない。何しろIndianの顔がモチーフの時代のアメリカ土産なのだから。フォークもスプーンもやはりおそらく金製だからゆえに、何人か人の手を経て、こうしてこの場所に残ってるのだろう。倒産の時に祖父が吐き出した、思い出の品なのかもしれない。これ以上のことを調べる時間が私にはもう無いし、調べる術もない。父にも祖父(日露戦争で弟が死んだ)にも兄弟がいなかったから、そして父は若死にしたから、過去のことは実際何もわからない。祖母のたった一人の甥であった前述の高名な医師から、話を聞くまで、祖父が親戚から借金をするほどの大型倒産をしていたことさえ、何も知らなかった。わからないものはわからないままでいい。ただ、もう一回あのスプーンやフォークのIndianの顔に会いに行こう。そして淀屋橋止まりにならないように、クリスマスまでに一回くらいは、梅田から心斎橋まで、夜のイルミナーション煌く御堂筋walkにチャレンジしたいと思っている。

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昨夜書くはずだった日記  悲しそうな人

地下鉄であれ、京阪であれ、阪急であれ、近鉄であれ、最近「どうぞ」と座席を譲ってもらえるようになった。驚いている。昨日は若い男の子が「どうぞ座ってください」と駅と駅との途中で立ち上がってくれた。何故なんだろう。そんなによれよれで、死にそうな顔をしているのだろうか。目を開けて戸惑っている私に、その子はさらに「座っていいです。座っていいよ」と付け足した。???
治療場では、同じ患者仲間に「あなたはとてもお元気そう」だと、いわれることが多い。自分でもその気になってそのように外では振舞っているつもりなのだが。
つり革にぶら下がって、目を閉じて立っていた。どんな顔をしていたんだろう?どう見ても再発末期がん患者に見えるような顔をしていたのだろうか?
家に帰って鏡を取り出し、目を閉じて、それから薄目を開けて、鏡の中を覘いて見た。真っ先に出てきた形容詞は「悲しそうな」顔、だった。自分では全く自覚が無かったが、妊婦のように大きなお腹をかかえて近所の内科医院の門をたたいたあの日から、去年の3月末のあの日から、私はずっとずっと、とても悲しかった、そしていまもずっと「とても悲しい」のかもしれない。初めてそのことを自覚した。こんな病気になってしまったこと、そのほか、もろもろ、すべてに対して。
「あなたはとてもお元気そう」だと、治療場の人たちから声をかけて励ましてもらえるのも、逆に言えば、あまりにも「悲しそうな顔」が、私に張り付いてしまっているから、かも知れない。自分の心に充満している「悲しみの」感情を、自覚する余裕さえ持てなかった、だけかもしれない。一日を生き延びるために、あまりにも毎日が多忙だ。

ホスピスという希望 佐藤健 著

がん治療を専門としている医師は、抗がん剤の治療で癌が治るものではないことを知っています。抗がん剤は効果があれば腫瘍が小さくなると言うことで、それによって延命に繋がることもあれば、たとえ効いても延命に繋がらないこともあります。画像上わからなくなるほど効いたと言うことは稀にあっても、がん細胞がゼロになったと言えることは皆無なのです。
(「ホスピスと言う希望」 P.112 佐藤健 著)
これに関しては、何度か書いてきた。私の執刀医も「癌がひろがりすぎていて、ほとんど取り除くことが出来ませんでした」「これからは抗がん剤治療にはいります」「抗がん剤で、病気が治ることはありません。常に死を頭の隅に置いて考えてください」「抗がん剤はやっている時しか効きません。(副作用に耐えられなくて、やめたら再発するということ)」「抗がん剤が効いても、治ることはありません」「抗がん剤をすれば、数ヶ月の延命の可能性は出てきます」「効いた場合は延命の可能性がでてくる場合もある、と言うことです」言葉も意味もわかるのだが、やはり「嘘だろう」という漠然とした気持ちがあったように思う。昨夜久しぶりに三番街の紀伊国屋に立ち寄って、この本を買って、ここまで読んで、ここで立ち止まり、今ようやくダイレクトに主治医の言葉が、差し迫ってきた次第である。すでに頭では充分理解していたが、また理解していたがゆえに、抗がん剤治療を途中で打ち切らせていただいたのではあるが、今回このP.112を読むまでは、そこを深く考えることをしなかったように思う。それこそが、がん患者にとってホスピスが必要なその理由である、こともわかった。
初めから「ホスピス、ホスピス」と言っていたわりには、ホスピスに関する知識もほとんど無かった。出来るだけ苦痛を軽減してあの世に旅立たせてくれる施設、のように認識していた。
今回この本を読んで、ホスピスの3つの入院(P.43~P.58)があることを知った。
1.最初の病症コントロールのための入院
2.休息の入院 レスパイトケアの入院
3.お別れの時が来るまでの入院 見取りの時
つまり、3の「見取りのための入院」しか知らなかったことがわかった。

まだ3分の1も読んでいない。読んでから続きを書いていくつもりである。
「ホスピスという希望」と言うタイトルの意味も少しわかりかけてきたが、その希望は裏返せば「癌医療の絶望」との対になっていることがわかってきた。ひとは皆いずれ死ぬのであるから、「希望」という対の存在はありがたい。単に心理的な宗教的な心のケアーだけではなく、苦痛緩和、という役割の重みに期待し、安らかな旅立ちを「希望」したい。
ただしこの本に出てくるホスピスは「国立病院機構豊橋医療センター」のことであり、執筆者はそこの緩和ケアー部長である佐藤健氏である。すべてのホスピスがここまで理想を追求できているか否かは、勿論断定できない。

追記:2015年7月24日
後半はこの医師のこれまで、そして国立病院機構豊橋医療センターの誕生過程などに、内容が移っていく。どのような医療理念のもとにホスピスの存在があるのかがよくわかる。ただ前半ほどには患者がみえない。それにみんながみんなこのような先端理念のホスピスにたどり着けるわけではない。団塊の世代は、死ぬ時も「おしくらまんじゅう」なのが現状なのだろう。
一番心に残ったのはP.354のこの一行だ。
「ホスピスは患者さん自身の人生の自己決定を支えるところです。」
そんなホスピスに出会えたら、今まで生きてきたすべてに対して最高のご褒美になるだろう。患者が最後に望むことは、まさにその「支え」だと思う。自己決定を尊重してもらい、しかもそれを支えてもらえる、患者にとってはそれはすでに天国への入り口のように見えるはずだ。感謝と希望を持ってこの世を去ることが出来れば、患者は最高の「さよなら」ができる。どうか、ありえることであって欲しい。

去年の昨日

いつか昨年を振り返って、初めから記述したいと思いながら、全く進まない。探す気がないからか、メモも見つからない。昨日ふと考えたら、去年の昨日が手術日だった。2014年6月10日。朝一番の手術で、どういうわけか歩いてエレベーターに乗り込んだ。ここでは手術患者は皆そうする。ドアが閉まるまで敬礼していた。この世に対して、自分の人生に対して。
朝の6時に公衆電話から同志F氏とO氏に電話した。「いまから手術に参ります」何故かこのまま死ぬような気がしたからだ。
手術前説明で医者からさんざん言われた。「手術中に死ぬこともあります」繰り返し言われるので、サインを躊躇していると医者が言った。「死ぬ死ぬと言っても、そんなに手術中にポコポコと死ぬわけではありません」ポコポコだったらたまらない。誰でもしない方を選び取るだろう。麻酔は全身麻酔で、手術中は一旦自発呼吸は止められて人工呼吸となる。口を大きく開けて酸素の管を気管支の中まで押し込んだようだ。記憶はないのだが、手術をした人は皆、長引く咳に苦しむ。人工呼吸の管を挿入する際に気管支に傷がつくかららしい。麻酔に関する危険、そして輸血に関する危険の説明も詳しくあった。それでかなりビビッてしまったことも確かだ。説明を聞いた感想としては、ポコポコのひとりになる可能性がかなり強かった。なにより、覚悟を決めなければならなかったのは「手術をしても全部は取れない。大部分が残る。手術をして生体検査をして(それが手術の目的)組織系が判別したら、そのあとその組織系に対応できる抗がん剤が決まる。そこから抗がん剤治療が始まる。しかし抗がん剤では完治はできません。いくばくかの延命に賭けるのみです。いくばくは数年ではなく、数ヶ月の延命。しかもうまくいけばの話。癌が怖いと認識されるのはそのためなのだろう。末期癌はほとんどの場合治らないのが現実のようだ。
入院のしおり、をみると、入院する前に「歯科にいくように」と指示が出ていて、私も歯科に行ったが「中途半端にいじって、そのまま入院となるより、治療するなら退院してからのほうが良い」と言われた。事実、入院前に歯の治療をしてくる患者は滅多にいないようだった。その目的はと聞いてみると、酸素吸入をする時に太い固いものを口にくわえるので、歯が折れたりぐらついたりする場合があり、折れて喉に転がり込むと危険だからだそうだ。管を引き抜くときも歯に強く当たるので、折れたりぐらぐらしたりするらしい。私はあらかじめ、強い衝撃を歯にかけないように(セメントでくっつけているだけの折れた歯があるので)お願いした。「わかりました、気をつけます」と言っていただいた。今、一部小さなメモが見つかった。「治らない可能性がある。死んでしまう可能性がある」と走り書きしているが、これは医者が言った言葉、そのままだ。ひとり暮らしなので、隠さないでありのままに全部伝えて欲しいと申し出ていたので、ありのままに伝えられたわけだ。「常に死を頭の中に入れておいてください」とも言われた。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ、という噴水の中にいたので、他のことは一切考えられないような状態だった。
今6月9日の日記のようなものが見つかった。「4錠の下剤で黒いウンコが出ると、おなかがへこんで腹水が溜まっていないように見えるくらいになった。」(月曜日が体重測定の日だった)「体重39.25Kg、この体重の減少は何なんだろう。(普段は56Kgだった)」
「衰弱感と一致するのだろうか?では衰弱感はどこから?」-腹水が溜まると栄養が全部ソコに取られてしまう。それで腹水を抜くと、著しく衰弱する。この体重の減少もそのためだろう。40Kgを切るなどということは、子供の時以来だ。もし30Kgを切る時が来たら間違いなく死ぬだろう、とその時に思った。癌で死ぬ人は顔に癌相が表れる、と聞いたことがある。がりがりに痩せるのだ。エイズと同じ。隣のベッドで医者が患者に「生きる死ぬは体重が決め手」といっているのを聞いたこともある。確かにそうだと思う。食べられない、あるいは食べても消化できない、となると痩せるしかない。そう、癌死はある種の餓死だと聞いたこともある。
6月7日の文章には、腹水が溜まり始めた、と書いている。だから6月9日の腹水云々の記述はかなりいい加減だと思ったほうがいい。ここで確認しておきたいのは、私は手術前に腹水を7000cc以上抜いていて、その後はらはらすることは幾度もあるが、一度も抜いていない。また上に衰弱感云々と書いているが、ここに記入した衰弱感はその後何ヶ月も何ヶ月もつきまとった。衰弱感というのは、よろよろ感だ。他の患者さんに比べてやはり「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ」状態だったのだろう。

手術前にどういう説明をうけたのか、抗がん剤投与前にどういう説明を受けたのか、そして腹水を抜く前にはどういう状態だったのか、これらはまた特別に日を改めて書いてみたい。

再発・転移 情け容赦の無さ

明日から4月、去年の4月5月頃からのことを、振り返って話をしようとずっと思ってきたが、筆が進まない。あまりにも辛く、不愉快なことがことの始まりから勃発していたからだ。とにかく死と直面して、怒涛のように押し寄せてくる死をはらんだ日々に、ただ流されるだけで反応も反撃もそして「気づき」もさらに「記憶」も出来なかった。辛い、残忍で不愉快だと感じる余裕がうまれたのも11月を過ぎてからだ。振り返っても目が過去を見ようとしない、手が過去を書こうとしない。滝にうたれる心境で、今はすべてを「記憶」から洗い流そうという気持ちが強い。いつか個人を離れ、普遍的な重要テーマとして、書き残せる日が来るかもしれない。ずばり「ひとが死ぬということ」というテーマに直結するやや思索的な内容になるだろう。当分は書かない。だから今は振り返って書くとしても、病気と治療及びそれに関することに限定して書いていこうと思っている。

心配しないでいいですよ、再発・転移 卵巣癌、瀧澤憲著を今手にしている。いきなり2015年3月31日の現在から話を始める。前回11、前々回13だった腫瘍マーカー値が、3月20日、41に上昇してしまった。閉経後の女性の基準値は15以内だから、すでにマーカー的には再発・転移の入り口に入ってしまった。ひと安心できた期間は僅か4ヶ月、たった4ヶ月でがん患者、末期がん患者に逆戻りだ。数値的にも体調的にも末期がん患者ではないが、初発の際の判定が第三期のCであった患者は、その後もずっと第三期のCの患者として扱われるらしい。つまりそのひとの癌の性質が、第三期のCということなのだろう。問題は次回のマーカー値だ。上昇が続くと、再発の可能性が急激に上がる。せめて1,2年はもつだろうと楽観していたが、僅か4ヶ月での上昇。この期間が短いことは、あとあと、悪い結果に繋がるらしい。そして第三期の患者は、再発・転移の可能性も極めて高い、再発は決して珍しいことではないとかいてある。人が癌をおそれるのは、特に末期の癌を恐れるのは、癌は決してくじけず、最終的にはかならず人を死に至らしめるからだろう。最後に「やっぱり癌は勝つ」、この本を読んでそんな感想を持った。
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P.153:限局性の再発で治療が成功する条件
1.孤立性の再発であること
2.化学療法に反応すること
3.再発まで時間が長いこと
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P.155:セカンドラインの化学療法が無効のときは、治療を中断します。と書いてある。中断してどうするかというと、緩和ケアーに徹する、と。この意味がお分かりだろうか?
P.158:新しい患者さんを受け入れるために、再発した患者さんは意識的に排除していくような施設もあるかもしれません。そこから癌難民が生まれるというわけだ。とくに私のように、抗がん剤の副作用が強すぎて自ら望んで抗がん剤治療を止めた患者は、そういう扱いになる。そのことに不満はない。病院の現実を見ていると、次々と新しい手術を必要とする患者さんが来るので、抗がん剤治療をしないとか、効かなくなった患者さんをどこかで切り捨てなければ、機能麻痺になってしまう。癌体験者にしかわからないと思うが、癌難民は「いつかは自分」の現実なのだ。自由診療の病院も沢山あるので、そこへ流れると思うのだが、最終的には何割がどこで最後を迎えるかは、わたしにはまだ想像できない。
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P.159:初回治療をしてくれた病院から安易に離れることは、最後のターミナルケアーの場所を探す時に大変不利な状況になるということを知っておいたほうがいいと思います。
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P.159:再発治療の手段がないと他院で判断された場合は、その期待に(癌研有明病院が治療を引き受けること)応えることが出来ないことが多いのが現状です。
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P.163全身状態が悪化するとはどういうことか? つまりどういう状態になって死に近づくのか?
1.痛みによるもの(麻薬の使用及びその副作用)
2.癌性腹膜炎(腹水・腸閉塞によるもの)
手術後の腸閉塞で死に至る場合もあり、手術を繰り返す場合もある。術後10年を経た後で、腸閉塞に苦しめられる場合もあり、10年たったからといって安心できるものではない。便秘を緩和するからといって食物繊維を多くとるのも、腸閉塞を起こす原因となる。薬草系の便秘薬で腸に刺激を与えるのもよくない、健康体では無いのだから、鍛えて筋肉をつけようとする行為も、つねに危険性を孕む、ということを忘れてはならない。食べ物と同じで、これがいい、あれがいけない、という単純な意見や判断に、安易に寄りかかってはいけない。膨大な資料を集めて命を懸けて自分で判断する必要がある。従って患者の頭や持ち時間はつねに病気治療に関することで埋め尽くされている状態となる
3.癌性胸膜炎(呼吸不全、呼吸の悪化によるもの)
ほかに感染症、合併症によるものもあるだろう。治療中や手術中の事故も。
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P.168:ターミナルの患者さんに一時的な延命を考えて、気管挿管をして人工呼吸器をつけるということは厳に慎むべきであるというのが私たちの考え方です。
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P.癌の末期などで心停止ないし呼吸停止した際に心肺蘇生を行わないという特別な指示(DNAR)がある場合、(病院は)心肺蘇生を省略することが出来る。
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心配しないでいいですよ、というタイトルの割には、読後心配で真っ青になって不眠に陥る内容であった。しかし、治療に関しては非常に詳しく、これとこれをこうするああする、ここまでしか出来ません、とはっきり書いてあって、くどくど不安に陥って悩むことはない、懇切丁寧で明快な本であった。結論的感想としては再発した場合は、ホスピスに行くのが最善、「最後にやっぱり癌は勝つ」という現実を見せつけられた思いがした。今日二度読みして、自分の置かれた現実と、少し先の自分の未来が、くっきりと見えてきた。癌の怖さが良く見えたが、次に本当に知らなければならないのは、(必ず通らなければならない)死に至る過程の「情け容赦の無さ」、だろう。

短い訂正と追記 (1)

死にたくない思いが強くなってくるのに比例して、怯えや不安でガチガチになってきた。立ち上がって戦うしかない。けど、どうして、どのように? そのせいか最近狂ったように癌に関する本ばかり読んでいる。昨年も情報はかなり集めたが、まともに本を読む時間的精神的余裕が全く無かった。頭は常に「死への旅立ち」に関する想いで一杯で、書物を読んで全体を理解する隙間がなかったのだ。
昨日から「癌に関する本」から「卵巣癌に関する本」にようやく移行できた。医学書を読まないで、メモを頼りに素人が思い出しながら書いた、前回の記事の中の間違いに早速気づいたので訂正し、若干の情報を追加しておく。
組織系は組織型の生体検査は病理診断の間違いでした。訂正してお詫びします。
追加は第3期のCについて。
3期とは=腫瘍が骨盤を超えていたり、後腹膜や鼠径部のリンパ節に転移している。組織を調べたときに小腸や大網、肝臓にがん細胞がみられる。
3期のCとは=直径2センチを超える癌が腹腔に見つかるか、リンパ節に転移している。
ついでにそれより酷い4期とはどんなものかというと=腫瘍が遠隔転移している。となっている。

また前ペイジに、S病院の初診で、子宮体癌の細胞診をしたように書いているが、あれは婦人科一般の内診、即ち双合診と膣鏡診だと思えてきた。どの段階でか忘れたが、直腸診も受けたのを思い出した。これも訂正してお詫びします。

最後に誰にとっても重要だと思われるので「子宮・卵巣がんと告げられたとき」 (岩波書店)の小見出し「抗がん剤が効く、とは?」から2行ほど引用しておきたい。
○この抗がん剤の奏効率は20%です、というのは腫瘍の一時的な縮小効果であって、残念ながら「この抗がん剤で治療したときに癌が治る可能性が20%」ということではありません。腫瘍が小さくなることは、癌が治ることではないのです。
○繰り返しになりますが、「抗がん剤が効く」ということは「腫瘍を小さくする」効果があるということです。癌の完治や「生存期間を延長させる」ような効果を意味しているわけではないと言う点は押さえておく必要があるでしょう。

試験開腹術の不可欠

直前の記事、日付は12月4日となっているが、Blog TopをKeepするために更新してきたからだ。実際は2014年5月9日くらいに書いたものだ。今日は12月30日、8ヶ月弱経過している。その間、日記を続ける余裕は無かったし、正直今もまだ振り返ってこの8ヶ月を記述する精神的ゆとりは無い。しかし今書き残しておかねば、ひょっとしたら永遠に書けないかも知れない。怒涛のような日々だったので、順序だてた記憶がないのだ。だからメモなどを参照しながら無理にでも試みてみようと思う。
末期がん患者体験とは、それは強烈なもので、この体験を経た後と、経る前では別人にならざるを得ない、誰でも、と思う。

メモによるとS病院には4月に8日、10日、17日、24日、と4日間歩いて電車で通院している。
4月8日、S病院にひとりで来る。今日の検査。体温、血圧測定、子宮がん検査(異常なし)、採血6本、MRI、とあるが、どこのMRIを撮ったのかは書いていない。これが初診。4月4日くらいの時点で卵巣癌が発覚し、そのFilmを持参してきているのに、何故子宮がん検査をされたのか、意味がわからなかった。M医師と若手の研修医と二人が子宮の奥の方の細胞を掴み取ったような気がする。
ここに来る前に、初めて受診される方に、というパンフレットをさんざん見てきた。メモをとる。
診察申込用紙・保険証・紹介状→カルテと診察券をもって受診する科へ→カルテと診察券を提出して待つ→すぐに入院が必要かどうか相談
帰ってからは、入院の進め方というあたりを熟読する。入院については「入院受付」で尋ねよ、とあった。180日を越えると15%が保険の対象外となる、と書いてあるが、どれくらいの入院になるか見当もつかないので、この部分はすぐに忘れた。これはどこの病院でも同じだろう。4月に通っていた総合診断センターは一階だが、婦人腫瘍科になると13階、その外来は3階、レントゲン撮影などは地下一階、血液検査は2階など、方向音痴なので、まず病院内の地図を覚える。
・・・・・・・・・・・
詩を書いていた頃からの古い友人で産婦人科医であるS氏という心強い味方がいる。卵巣癌がわかった後でS病院に初診に来る前の段階でSOSを発信した。「相談に乗りましょう」と心強いお言葉を頂く。どれだけほっとしたかわからない。彼がまだ京大医学部の学生だった頃に知り合った。30数年前子宮筋腫とS病院で診断されたときも、彼に相談した。筋腫とは良性の瘤だから、多量出血とか痛みとか耐え難い不都合がなければ、急いで手術する必要は無い、と言ってもらった時、どんなに不安から解放され嬉しかったかよく覚えている。私は癌の初心者だ。癌の「が」もわからない。彼の存在は本当に心強い。まず彼に教えてもらったとても重要なこと。
卵巣癌の場合、まず開腹して取り除いた部分の生体検査をする。それによって組織系を判断し、それを基にして治療方針が決定する。それと腫瘍らしきものがあるのは画像からでも判断できるが、良性か悪性かは、生体検査のあとでしか、決定は出来ないらしい。従って開腹手術が不可欠だということがまずわかった。そのあと、放射線ではなく抗がん剤治療が始まることも。
一回目の入院診療報告書によると、(病名)骨盤内腫瘍、(症状)腹部膨満、(治療計画)試験開腹術を施行します、(推定される入院期間)約1ヵ月、となっていて、日付は6月6日、私自身もはや覚えていないが、こうして記録を見るとS病院への最初の入院は6月6日だということがわかる。4月8日に紹介状を持って初診にやってきて最初の入院が6月6日、それまで何をしてきたかと言うと4月はほとんど検査ばかり、5月から入院待ちリストに登録される予定だったが、5月の入院前検査中に、腹部膨満が異様になり、S病院からの紹介でO病院に入院し腹水を抜いたこと、その後肺炎が発覚して翌日またO病院に引き返し2週間ほどそこに入院したこと、などの顛末があった。直前の記事に、喘息発作で苦しいと書いていて、病院でもそのように扱われたが、実は肺炎であったことがO病院に入院した際のレントゲン撮影でわかった。S病院でも胸水がレントゲンで確認されていたが「おそらく喘息のためでしょう」と判断されていた。このように6月6日にS病院に入院する前に実はO病院に2回入院(5月14日~15日&5月16日~29日)していたことになる。このあたりが「苦しいからだ」と書いた直前の記事から数日後の展開だ。思いもかけない肺炎のために、がん治療が御預けをくらった。先が読めない日々に突入する。しかし確実に言える事は、もし14日の晩にO病院に緊急入院して腹水を抜かなければ、手術にたどり着く前に、とうの昔に死んでいただろうということだ。
これも記録を見るまで忘れていたが、試験開腹術の手術は6月10日、最初の抗がん剤投与は6月27日、抗がん剤治療に関する説明は前日6月26日の夜にあって、卵巣癌という病名を正式に医者から聞いたのはその時である。ステイジは第3期のC。回復は望めないが、うまくいけば数ヶ月のわずかな延命は期待できる可能性、なきにしもあらず。手術前説明よりも、抗がん剤治療説明を先に書くのは順序は逆だが、抗がん剤はパクリタキセルとカルボプラチン、そして分子標的薬アバスチンを治療に加える計画だということだった。

手術に辿り着けない

4月初めから始まった様々な検査はひととおり終わった。5月1日ようやく執刀医とお目にかかった。「厳しい手術になる」と言われた。5月7日手術前検査。5月9日、入院手術待機者名簿に登録。そこまできていたのだが。
5月8日の朝から喘息の発作が出た。パンパンで苦しい上、胸水まである、その上に喘息の発作だ。苦しくて仕方がない。休み休み、普段の4倍くらいスローにしか歩けない。15分かかるところなら一時間だ。歩けたらまだましで、タクシーに頼るしかない。頭の中にあるのは思考の領域でなく苦痛の苦しみの領域のみだ。顔はつねにゆがんでいる。
入院前外来というのがあって、9日そこへ行ったのだが、「その状態では登録は無理。肺活量の測定ができない」と言われた。あと血栓症も手術前検査で引っかかっていたらしく「こちらもこのままでは全身麻酔の手術には耐えられない。死の危険が極めて高い」と。
「とにかくまずは喘息治療。近くの病院で治療してきてください」「ここの呼吸器内科で治療していただけませんか?」予約が取れない、ということだった。早急に苦しさを軽減しないことには、このままの状態ではいつになっても手術はできない。
家に帰り一番近い診療所に行く。断られた。その代わりそこの紹介で別の呼吸器内科へ、タクシーで行く。もう死にそうに苦しい。事情を話し点滴を受けお薬も出た。めでたしめでたしの筈なのだが、治療が合わないのか点滴も薬もほとんど効かない。従って喘息は止まらない。喘息のときはいつもそうだが、食事は全くできない。考えてみれば、喘息の発作が出る前からパンパンお腹や胸水で相当苦しかった。どうなるのだろう、私の手術。手術も事前に説明されたが治療のための手術でなく、組織系識別のため、どんな抗がん剤治療をするかを決定するための治療前手術だ。その全身麻酔に耐えられなくて死亡となれば、結局本当の手術までは辿り着けない。今でさえ食べられない出せないで、衰弱している。一回目の治療前手術まで、あるいはそのあとの抗がん剤治療まで持たないだろう。もたもたしていては治療がどんどん遠のいていく。お腹はどんどん膨れ上がっていく。そもそもこのお腹さえ現代医学ではへこませる事ができない。何度も言うが癌性腹膜炎恐るべし。「がん治療革命」の中でさえ、未来の最先端においてさえ「癌性腹膜炎は完治不能」とある。
それでも希望を捨てずあれこれ戦っていくつもりだけれど5月末6月の初めまで、自分が自分であり続けていれるかどうか、心もとない。余命3ヶ月から一年だが、その一年は地獄だろう。3ヶ月なら今月か来月だ。思考が混乱して、現実に負けているような気がする。とても苦しいからだ。

癌性腹膜炎

4月の初め町医者に行く決心をするまえから、今度は死ぬ、という予感があった。だから「死にたくない」「死にたくない」と何度か口から言葉が漏れた。町医者に放射線科の専門病院で腹部のCTをとってきてください、といわれた。「ここで検査していただきたいのですが」「ここではできません」
勧められたところは以前にいった経験があり、すごく印象が悪かった。二度といきたくないと思った記憶がある。そんなに遠いところではない。結局行けと言われれば、行かざるを得ない。
今度は印象がいい。順番も異様に長く待たなくてもいい。いたわって接してくれる。医者も若くてハンサムで信頼できそうだった。しかしfilmをみて何も言わない。私から質問した。
「先生、癌だとしたら、どこの癌ですか?」「卵巣の辺りに...」
初めて癌だと知ったこの日は4月4日、だったように記憶する。町医者が翌日休診。その日は家で休養をとることにした。さあ、どうしよう。あれやこれやいろんな場面を想定して準備しなければならない。目が覚めて放射線科の報告書を思い出した。中を開けてみてみよう。「癌性腹膜炎 卵巣癌第3期

癌性腹膜炎。初めて聞く。しばらくしてからネットで調べてみた。余命3ヶ月から1年。「長くはないから早くお見舞いに行ったほうがいい」「死が近い」イメージとしてはベッドに痩せて臥して今にも死にそうな患者。
「卵巣癌?取ったらいいんじゃないの」「腹水?抜けばいいんじゃないの」誰でもその程度の認識しかないので、余命云々といっても誰も信じない。私自身も。
最近、腹水が溜まれば癌も末期だ、という意味がようやくわかってきた。

九州のBARABARAさんが「がん治療革命ー未来への提言」という先進医療の本を送ってくださった。未来の治療はこうなるだろうという明るい見通しが提言されている。決してあきらめないで「生きること」しかし、その先進医療の希望の本の中でさえ、癌性腹膜炎は「難治癌治療の最後の難関」として取り上げられている。完治困難となっている。腹膜にがんが広がれば、腸管や胆管、尿管といった管の臓器が狭くなり、それぞれ、腸閉塞、封鎖性黄疸、水腎症という状態を引き起こし、患者さんの生活の質が落ち、ひいては生命の危機にもつながります、とある。あまり内容的には実感理解できなかった。「そうなの?」という感じである。

・・・・・・
5月1日に、今後の手術、抗がん剤治療がほぼ決定した。最初は検査のための手術。そのあとで、本格的手術があるはずなのだが、それに関して医者は何も言わなかった。すぐ前のエントリーにも書いたが、今の心配はパンパンに膨れ上がったお腹、手術の日までなんとか持たせることができるかどうか、一番悩んでいる。市大病院に行ってそこからまたさらにどこへ行くのかが、わからないので、そこで一泊手術といわれても、考えただけでへとへとだ。しかしあまり我慢しすぎると気絶したり倒れたりするらしい。実際排尿排便のあと紙で拭くのが困難になってきた。方向を変えて工夫しているが、相撲取りの状況だ。(付け人でもいたら拭いてもらいたい)それくらい膨らんできた。
尿が出にくい。試験管に1センチも一回にでない。膀胱が圧迫され尿管もつまりかけているのだろう。腎臓の機能もそのうち不全になる。心臓もすい臓も脾臓も肝臓も腎臓も圧迫されて、さらに肺にも水が溜まっているので、いずれ全機能不全になる。胃も圧迫されているので、食欲を完全に忘れている。管を通して尿を排泄という手もあるが、ベッドに縛り付けられたままになる。動作が遅いので、外出すると踏み切りで転倒する可能性もある。呼吸不全のために、酸欠で目を剥くかもしれない。腸が働かないと、栄養の吸収ができない。下剤をかければ、なんとか排水できるが、知らぬ間に脱水症になる可能性もある。一番最初の血液検査のときに、脱水症の症状を指摘された。それに体力をつけるためにがんばって食べても栄養分のほとんどは、腹水に取られてしまうらしい。腹水には養分が一杯だから、そもそも腹膜穿刺は、非常に体力を消耗するらしい。物の本によると、がん細胞をフィルターにかけて取り除き、また養分一杯の水はお腹の中に戻すのだそうだ。この辺の意味はまるでわからない。最新方法らしいが、これでは腹水の量は減らないではないか?腹水を取り除いてもすぐに元に戻るので、これはそもそも応急処置であって、治療とはいえない。それでも死ぬよりはましだから、何度も腹膜穿刺を繰り返す人もいるらしい。ここまで来ると単なる延命だ。そう、生きてはいるが日々衰弱するしかない。ありとあらゆる内臓の病気の症状が現れてくる。いまのところ体重は5キロしか減っていないが、10キロ減るのはこの調子だと時間の問題だ。そのころに手術だ。手術で卵巣癌の生体を取り出し、組織系の分類の作業に入るらしい。そこで、そのあとで抗がん剤投与が開始される。衰弱の上に手術、抗がん剤投与、生き残れるのはプロレスラーくらいしかいないだろう。要するに腹水のための衰弱、これがすべての原因だ。経験を通して、最近、腹水が溜まれば癌も末期だ、という意味がようやくわかってきた。「がん治療革命ー未来への提言」という先進医療の本にまで、癌性腹膜炎は「難治癌治療の最後の難関」と書かれている意味もわかってきた。物事には100%はないので、必ず死ぬとは限らないが、すでに死神の顔が見える。それは衰弱しきった自分自身の顔かもしれない。

悔いもなく怨みもなくて行く黄泉
(とりあえず)他人様の辞世の句をお借りして


アンダーバスト拡大10センチ

腹水が溜まりすぎて横隔膜を押し上げ胃を圧迫する。膨れ上がった胃のせいで、ブラジャーのアンダーバストが痛い。4センチほどの補助具をつけているのだが、全く足りない。8センチから10センチほどの補助具が必要だ。
「いずれ手術をすることになると思います。」
「手術はしたくありません」
「手術しないとそれこそ大変なことになりますよ。手術を強くお勧めします」
この大学病院に通い始めておよそ一ヶ月だが、婦人科にきたのは今日がはじめて。この人が執刀医になるのだろう。
医者が説明する。この手術は治療目的の手術ではなく、最終診断と今後の治療方針決定のために必要な手術だということ。それは知っているので聞き流す。その次に医者はそれでもその手術の危険性をさんざんに言う。「そんなにポコポコと手術中に死ぬわけではないけれど、手術には高い危険性があるのです」だから手術が決定すれば、その説明の際に同行者、立会人が必要だと。「もしものことがあるかもしれませんから」それも知っている。
「友達に頼んでいます」「友達じゃなくて肉親はいないのですか」「いません」「ご両親は?」なかなか食い下がる。「もうとっくに亡くなっています」「他には?」「いません」
町医者が最初堺市の労災病院に紹介状を書くといったので、どのへんか一度下見に行った。乗り換えもあり、歩きも遠い。しかもバスを使って。ちょうど日曜日で正面玄関が閉まっていた。中に入って様子を見る。なんだか暗い。なじめそうもない。うろうろしてると、患者用のパンフレットがあった。それぞれの疾患に関して、一冊ずつ。患者が勝手に絶望したり楽観的に考えすぎないように、病院側が作った患者教育用のパンフレットだ。「卵巣癌」のパンフレットを手に取る。じっくりと全部読んでみた。最初にPCで調べたとおりのことが書いてある。腹水がたまるのは、既に末期。余命3ヶ月から一年。最後に抗がん剤が体に合わなければ、ホスピス行きだ。ホスピスで死ぬのも悪くはない。あのパンフレットを読んだだけでも、労災病院に来た価値がある。しかしこの病院はやめよう。
早速月曜日に町医者のところに行って、紹介状のあて先の書き換えを伏してお願いした。駅から近い、なじみのある病院にしたかった。今かかっている大学病院は父が54年前に胃がんで死んだ病院だ。私が子供の頃そこの「喘息教室」に入院していたことのある病院だ。だから紹介状を持ってはじめてひとりで大きな大学病院を訪れても、気後れすることはなかった。しかし大学病院の仕組み、システムになれないので、最初は緊張の連続だった。あっちに行け、こっちに行け、と最初は連続検査だ。それから毎週検査、検査。手術をすれば死期が早まると考えていたので、毎週の検査の連続はあり難かった。なかには他の病院に出かけて、胃がんと大腸がんの検査を一日でして来なさい、というものもあって、これは非常にびびった。特に大腸がんの検査では2リットルの水を飲まなければならないとかで、腹水で既にパンパンの胃や腸に、どうして2リットルもの水を押し込むことができるのか、恐怖に近かった。近所のSさんが自分の体験談をかなり具体的にしてくださったので、なんとか恐怖心を押さえ込むことができた。それにしても入院もせずに一日で上下両方の検査は過激だ。「麻酔を1日に2度もするのですか」と聞いたら、病院のひとはなれたもので「一回の麻酔で、連続してするのです」と説明してくれた。やれやれ。
そんなこんなで、検査検査で手術を引き伸ばしていたが、腹水が溜まりすぎていよいよ限界が来たので、総合診療センターの担当医に苦痛を言ってしまった。膀胱と胃が圧迫されておしっこが出にくい、食欲が全くわいてこない、肺まで圧迫されて、夜になるとくらっとするほどの呼吸困難に陥ると、お薬が必要なくらいに呼吸が苦しいと。
今日ついに婦人科に回された。ここまできたら、手術の具体化しかない。
5月7日には手術前検査、これで丸一日。中を見て吃驚。エイズ検査まである。5月9日にその結果を聞きに婦人科へ。そこまでクリアーできたら、ようやく入院・手術待機者リストに登録されるとか。「それから実際の手術までは、どれくらいですか?」と聞けば「およそ一ヶ月、多分5月の末か6月の初めになるでしょう」
入院してから手術の説明の日がありますから、それと手術の当日は、必ずあなたの場合、お友達を連れてきてくださいと、再度念をおされた。手術のあとは抗がん剤だ。抗がん剤が合わなければ、ホスピスか?いずれにせよ、想定通りの運びなのだが、ひとつだけ大問題がある。
この腹水のパンパンだ。これで食欲もなく寝汗ばかりかいてどんどんやせている。中には息苦しくて気絶するひともいるらしい。いまはすでに自由には歩きにくいし、動作も緩慢で日常生活も普通には送れない。あと一ヶ月、一人暮らしが続けられるかどうか。医者が言った。
「もうひとつ大事なことを言いますが、もし腹水が溜まりすぎて、我慢できなくなったら、婦人科に電話してきてください」
電話すると、そこからまたよその病院に回されて、一泊で水を抜く手術を受けるのだそうだ。お腹のパンパンは癌性腹膜炎で、この水を抜くことは、できるだけ避けた方がいいらしい。なぜなら水を抜いてもまたすぐに溜まるから。しかもその水には栄養分が含まれているらしくて、抜いた水をろ過して、普通はまたお腹に入れ戻すのだそうだ。でないと極端に衰弱する。水抜きは当然避けた方がいい手術である。しかし、このままパンパンで、どんどんやせて、呼吸困難で気絶でもしたら、生命の危険を伴ってくる。医者が言う。
「あまりギリギリまで、我慢をしないで、限界の少し手前で、連絡してきてください」
水抜きの手術を繰り返すようになったら、ろくなことはない。できれば、避けなければならないと今は考えている。さてあと一ヶ月、この腹水の固く腫れ上がったパンパンをどうして耐えようかと、実は今悩んでいる。一人暮らしで気絶でもしたら、手術前に一巻の終わりだ。
水抜きの手術もしたくない。卵巣癌の手術もしたくない。抗がん剤も打ちたくない。だけど私は、死にたいわけでもない。いままでのように生き続けたい。


まじまじと穴の開くほど...

このところ、その祖母の姿をしきりに思い出していた。廊下の隅にしゃがんで、ガラス戸で体を支え、じっと庭を見つめていた。何かを深く考えている、子供にもそれがわかった。
「おばあちゃん、どうしたの?」
おばあちゃんのお小水が、今朝オレンジ色をしていた、と心配顔の返事が来た。
「ビタミンを飲んだり、粉末ジュースを飲むとおしっこに色がつくよ」、と私は言った。
おそらく祖母一人が死ぬほど心配し、私は気にも留めなかった。気にも留めなかったが母や兄にも「おばあちゃんのおしっこがオレンジ色なんだって」と伝えたと思う。母や兄には耳に届いたはずだが、もうひとつの耳からすぐに飛び出して消えてしまったようだった。
それから1,2ヶ月して祖母は寝込んだ。1ヶ月ほど寝込んで、たしか10月頃入院し、そして翌年の1月9日に肝臓がんという病名でなくなった。

放射線科で撮ったCT写真をもって、消化器内科に行くように言われた。内科医に写真の判定を仰ぐためだと思い込んでいた。なにか説明をきけるのだろうと。ところがいきなり「検査の予約はどうしますか?」と聞かれた。「何の検査ですか?先生に診断していただくためにここに来たのですが」「だから予約、するの?しないの?診断は検査してからでしょう。胃がんの検査と大腸がんの検査と。検査しますか?しませんか?}
まあそういう行き違いがあって、結局は検査予約をとってもらうことにした。胃がんと大腸がんの検査は、嫌でしかたがないが、診断してもらうために必要なら、どうこう言っている場合ではない。検査の判定は2週間先になるらしい。しかも近くの別の病院に回されての検査である。病院はいっぱいいっぱい込んでいるので、はやく予約を取りたければ、そこに出向いて検査を受けるしかない。
もとの総合診療センターの医師のところに戻ってきて、予約してきたことを告げた。検査から判定まで時間があるので、その真ん中の日に肺のCT検査も、入った。撮ったばかりの肺のレントゲンで、肺にまで水がたまっていたためだ。
「ところで先生、わたしさっき、勘違いしてぬか喜び(卵巣癌より胃がんの方が治る可能性が大きい?)していましたが、ひょっとして、肺がんで、胃がんで、大腸がんで卵巣癌、つまり全部である可能性もあるのですね?」
医者は私のほうを振り向いてじっと見た。まじまじと無言で数秒間穴の開くほどじっと視線を私の顔に固定した。何を意味するのかわからないが、何か吃驚するようなことを私が言ったのだろうか?空気を戻すために、医者が答えられる質問をしなければ。
「先生、もし万一その場合は、いろんな科の先生が一緒に手術をして下さるのですか、それとも、手術は別々になるのですか}
医者の視線の固定がようやく外れた。「おそらく先生たちがスケジュールを相談されて、打ち合わせをされて、なるべく一回になると思いますよ」

失業者 頼みの綱は親の年金

姪にリスニングの教材を送ろうとThe Japan Times News Dijest Vol.46と言うCD付の本を買った。その9番目の記事が本文上のタイトルである。2008年に不動産バブルがはじけて以来の不況を今も引きずるスペインで、生き延びるためには年金暮らしの親に頼るしかない家庭が増えている、と言う記事だ。日本でも2,3年前話題になったことがある。死んだ親の死体を隠して親の年金で暮らしていた人たちがたくさん浮かび上がってきた。ああいう事件は最近はもう報道もされないが、無くなったわけではないだろう。スペインでも日本でも親の年金でかろうじて生き延びている息子の家族というのは多いはずだ。安部ノミックスで景気浮上などと言っているが、実際解雇された後定職につけない一家の主、あるいはそのために結婚できない中年に達した男性、女性も多いはずだ。
自主独立が基本だった欧米にあっても、最近は親との同居も増えているらしい。不況は世界的なものなのだ。
日本でも別居していても、孫が毎日食事に祖父母のところに来ると言う話をよく聞く。お小遣いは親から貰うものではなく祖父母から貰うのを当たり前にしている孫の話もよく聞く。子供を飛ばしていきなり孫に相続させたい祖父母も多くなっているらしい。子供が子育ての負担を背負いきれないからだ。
アベノミックスなどといって、経済の教科書の基本のような、金融・財政政策だけでは、根本解決には程遠い。引きこもりという別の問題もあるが、20,30,40代で定職につけない男性・女性はかなりの数になる。
最近NHKで若い女性の貧困をテーマにした番組が放映されたらしいが、これもまた深刻な問題である。就職はあきらめて婚活に励むわけだが、専業主婦の女性を一人で養える男性の数自体がそう多くは無い。結婚できた男性・女性は勝ち組、できなかった男性・女性は負け組みとなる。勝ち負け、などと言う言葉を使う神経自体が人心の荒廃を物語っている。
本の解説によると「40代以下の人たちは経済成長も終身雇用も知らない世代で、老後の備えどころか、明日の生活費にも困っている。だから親の年金に頼るのだろうが、それもあと10年くらいが限度だろう。」とあった。
少子化対策として移民の大量受けいれや、それにまつわる政策はどんどん進んでいるが、ただでさえない日本人の仕事が移民に奪われるだけである。今までの経済の教科書を根本から書き換えるような発想の転換が必要である。産業構造の変化があまりにも考慮に入れられていない。少子化対策、移民の導入などよりも、雇用の創出が最優先課題でなければならない。時代を鋭く見つめて、今まで考えられなかったような雇用を創造していかなければならない。バスの車掌、重役の秘書、蕎麦屋の出前え、書類のコピー、個人の家電販売店、個人薬局、駅前商店街、などなど、消えていったものは多い。その割りに新しい雇用の創出はなされていない。今朝もラジオで言っていたが、俺俺詐欺をはじめとする、大小さまざまな詐欺だけが、雇用を増やしているらしい。質の劣化した日本人しか雇用を発見できない?そうなったら、この世もお終いだ。最近も餓死した姉妹や餓死した母娘の記事があった。30%くらいの日本人にとってアベノミックスは多少の成果を見せるだろうが、70%はこの先餓死や野垂れ死にの不幸に直面せざるを得ないだろう。
日本人特有のお花畑でなんとかしのげるのは、あと10年くらいかもしれない。その後は日本は日本でなく、日本人も日本人でなく生きていくことになるのかもしれない。杞憂であってほしい。

間違いを間違いのまま、正しいと押し通す...(4)

あの市会議員のことを思い出すと、数ヶ月に渡る辛い日々を追体験する羽目になり、打ちのめされた。いつも複数で芝居を打つのだ。こちらは常にひとり。それで今回は友人に頼んで付き添ってもらうことにした。ところが直前になって彼女の親族のお葬式が入ってキャンセル。運勢を見て6日遅らせることにした。そのあいだに証拠探しだ。住民票にしろ運転免許書にしろ、母の土地の売買契約書、それに家の登記簿、探せば父の大学の成績表も、なんでもある。とにかく全員が何度も謄本を取り今のその字で生きてきたのだから。祖母が亡くなって数年経ってから祖母名義の土地が見つかって祖母の古い戸籍謄本をさかのぼってとったことがあるのを思い出した。その時も全く何の問題もなっかった。それをさがす。出てきた。ただところどころ、字の角がはみ出ているものがある。父の字は明らかに離れているが、祖父の字が、日の片方が少し長くなって月のように見える。勢いよく書けば眞という字だって目が下の一にかぶさることがある。日の左側の縦の線が長くなって伸びているものや、右側の線が伸びているもの、目のように見えるものもある。もちろん正しいものもある。これでいけると思った。ただあまり理路整然と話すと嫌われる、ということを経験から知っている。「アホですから教えてください」と言わなければ、きむさんのように敵対心をむき出しにしてくる。そうなったら注意してね、と友達に頼んだら、私も役人には嫌われるタイプだから無理、と言われた。その一週間前に家庭裁判所に行こうと思って電話して要件を言った。すると「こちらに来る必要はない。まず、区役所に言ってください」と言われた。で、総合的に情報を集めた結果、担当次第、運次第、という結論に達したのだ。つまり証拠などたくさん持って行っても意味がない、ということだ。
区役所では祈りが通じたのか、感じのいいMさんにあたった。要件を言って、土地の古い登記簿を見せた。パラパラと見て「法務局の書類ですね」といってすぐに返却された。やっぱり証拠など持ってきてもたいして意味はないのだ。私は自分で謄本を順番にさかのぼって何枚か取らなければならないと思っていたが、「調べますのでお待ちください」と言うことになった。待っているだけだ。きむさんは「謄本を一部取るのに750円かかる」といったが、要件さえ言えばあとは役所で勝手に調べるのだ。ソファーに座って友達と話をしたが、気が気ではない。長い時間がかかっている。Mさんが、内部協議をしているのだろう。
こちらへどうぞ、と4人用の机に案内された。和兵衛さんの戸籍を見せて「字が違う」というのだ。父が戸主であるものも字が違うという。そこで古い謄本を持ち出し、父の字が完全に正しくかけているものを示した。混在は認めた。しかし。であまり喋らずに話を聞くことにした。そして示された、古い謄本をちらとみた。曾祖母の「ゆう」は石原萬助の娘なのか。祖母は、廣島長兵衛の六女なのか。祖母は両親や兄弟が早くなくなったので姉に育てられた。その姉は女だけれど戸籍を持つ戸主で名前を「イチ」という、こともわかった。和兵衛さんの戸籍に日露戦争でなくなった祖父の弟の名前が無い。戦争で焼けて後で手書きで適当に書いたものではないかと、一言だけ言った。日露戦争は今から100年以上前だから、戸籍が残っていないのだと言われた。なんだかおかしい。死んでも父の戸籍の中で✖で除籍されるだけではないのですか?「違う」という。和三郎の戸籍になくても和兵衛の戸籍にはあるはずだ、お国のために日露戦争で死んだのだし、これじゃ生きた人の影も形もない。などと話していると、M氏が本を取り出した。私の戸籍だけなら書き換え可能だという。本を見る。ペイジを見る。正字として、本来の私の姓が書かれている。読みかたも正しく書かれている。驚いたのは「戸籍に書かれている文字」として、その気色悪い字が書かれている。つまりこの字は正しいのはこっちで、戸籍には間違ってこう書かれていますよ、と気色悪い方の字が書かれているのだ!!!「へェー、役所にこんな本があるんですかぁー」「この本は市販もされています」ヘェー。友達の名前には駒が入る。駒を見ると「戸籍に書かれている文字」として口が点になっているものや、ムになっているものなどがある。馬の字は戸籍に書かれているものとして四つの点が、漢字の一になっていたりする。初めから、何をどう間違えていたかが、わかっていたのだ。今までの人生で、誰一人全く一度も戸籍が問題にならなかったのは、どちらが正しいか、本籍地の方で正誤の判断が既になされていたからだ。その後である。私の戸籍はもはや私一人しかいないので、申請すれば書き換える。しかしさかのぼって曽祖父や祖父の戸籍までは書き換えられないという、何故なら、申請する人がなくなっているからだ、そうだ。そんなー、馬鹿な。本来戸籍は戸主とその配偶者によってしか書き換えられない。私の場合は、生き残っているのが私一人なので、書き換え可能。しかしすでになくなっている先祖のものを私が(正しく)書き換えることは、できない、という。
まずは私の戸籍を正しくしよう。但し、ここからが役所なのだ。私は真正の回復手続きをするのではなくて、名前の変更を申請することしかできない、という。私は生まれた時からこの名前で生きてきて、変更するわけではない。「しかし、変更しかできない。そうしないと、免許書や住民票も、戸籍に合わせて全部書き換えなければなりませんよ、現本主義ですから」と。
申請書を出してくださいというと「はい」ここと、ここと、ここに、お名前を書いてください。印鑑はこちらに。ここはどちらの名前ですか?気色悪い方の名前を書けという。こちらは?そこは住民票の名前を。住民票の名前は私の本来の名前ですよ。「あ、それじゃ、先ほどと同じものを」「こんな字は、生まれてこの方一度も書いたことのない名前ですよ。それを2回も書くのですか?」「いやここにもう一回」「えぇー、3回も、こんな気色悪い偽字を、私が書くのですか。吐き気がするー。」「申し訳ないですが書いていただかないと、そう書いていただかないと変更できないのです」いつか生きて社会にもどれる可能性があるよ、と言われ、死ぬよりマシだと、自白書にサインする冤罪者の気持ちがよくわかる。可能性を残すとしたら、それしか道がない。それを拒めば、全ての書類の名前を全部気色悪い字に書き換えなければならないという!あーあ。
「申請理由」のところはどう書くのですか?「それはこちらで書きますので」「空欄のままで?」「はい」・・・

M氏があの本を出してくれなかったら、最悪の事態になっていただろう。あの本のおかげで、少なくともどちらが正しい本来の字であるかは、証明されたのだ。帰りに友達に言った。「あの本があってよかった。あの本、しかし誰が書いたのか。そして戸籍の字が間違いとはっきりわかっているのに、何故先祖の名前の真正の回復を子孫ができないのだろうか?」戸籍の名前はみんないつか消えるのです。私の先祖も、すでに戸籍から消えているものもいます。M氏はそう言った。けれど、曽祖父の戸籍に祖父の弟の名前、だけで無く、存在そのものが消えてなくなっていた、納得ができない。先祖の名前も正しくしなければならない。戸籍法でだめなら、何かほかの方法で。お墓がある。古いお寺に行けば古い古い過去帳もある。そこに正しく記されている。それともあるいはひょっとしたら、死んでからまで馬鹿馬鹿しい役所の誤字にこだわる必要はないのかもしれない。まして生きていた時に、書かれも呼ばれもしなかった誤字の書かれた戸籍などに、人生の実態など全く何もないのだから。今回学んだこと。戸籍とはなんといい加減なものなのだろう、ということ。ただ気色悪いのだけは許せない。

・・・・・(追記:2013年8月18日)・・・・・
間違いを間違いのまま、正しいと押し通すの4回分に関して。
今回の不愉快な出来事は、最終的に、改竄ではなくて、明治の役人の無教養、文字知らずの書き間違いだということが、わかった。どのように戸籍に誤記されているかまで、役所が突き止めていることまでわかった。しかも「間違いを間違いのまま、訂正しない」こともわかった。また続きを書く事もあるだろう。ただ役人の中に、日本人でないものが増えると、戸籍のいい加減さはますます手がつけられなくなるだろう。また夫婦の合意があれば本籍も名前も自由に変えられるようでもある。これでは家系の伝統の継承なるものももはや意味がなくなる。日本国はかつての五族協和を日本国内で実現させようと何かにつけて「共生社会」を目指しているようだ。出自を問うことは「共生社会」の妨げになると言わんばかりに、就職においても結婚においても良くないことだと敵視されている。自分の名前に対する意識もこれからはうんと変わっていくだろう。そう言えば歴史を調べてい思うのだが、白人は住む場所住む国を変えると、名前まで平気で変える。呼ばれやすいために変えるのか、素性を隠すために変えるのか、よくわからないが、もともとはこういう名前だがこう変えた、という記述は頻繁に見る。いずれ日本もそうなるのだろうか?真っ先に思い出すのはCharles Andrew Willoughby(Adolph Karl Weidenbach)、Jack Ruby(Jacob Leon Rubenstein)。ユダヤ系ハンガリー人、ナジボーチャイ・シャールケジ・パールの(移民2世の)息子はサルコジというフランス大統領になった。その妻は亡命イタリア人である。
話がそれてしまった。1ヶ月以内にこれら4回分は、Tel Quel Japonから別のBlog、個人的な日記Blogに移動しようと思っている。

・・・・・追記:2013年8月25日・・・・・
念の為に昨日全部事項証明、戸籍謄本をとって来た。戸籍事項のところに戸籍改製、改製日平成21年12月12日とある。改正ではなくて改製である。改製事由=平成6年法務省令第51号附則第2条第1項による改製とある。具体的にはわからないが勝手に法律を作って勝手に改製していたわけだ。同じところに文字更正とあり、そこには(従前の記録)として、前の気色悪い字が書かれてあるではないか。書き換えの記録は当然残すべきだろうが、役所の書記ミスの文字を延々書かれるのもうんざりする。まあ文字変更ではなく、文字更正とあるので、ほんの少しは気分がおさまるが。
ただ改製法で、例えば茅ヶ崎や、城ヶ島などのカタカナは、大きな字になって茅ケ崎、城ケ島と、戸籍には記載されることになったらしい。これは日本語の表記としても全くおかしい。カタカナ、ひらがな、には大きな字と小さな字がある、意味もなく小さな字まで大きな字に、戸籍上勝手に書き換える必要は全くない。越権行為である。一番驚いたのは、戸籍謄本にもかかわらず、母の記載が一切ない。戸主の名前と本人の名前だけなら、戸籍抄本と全く同じだ。除籍として父の存在は見えるが、母は戸籍謄本にさえ、その存在そのものがない。父が除籍として記載されているなら母も除籍として記載されてしかるべきである。しかも父の除籍にも、例えば死亡とかなんとかの理由がない。私の名前のところに父母として両方の名前が正しく記載されているので、それでいいということなのだろうか?
祖母は、何百年も続いた家なので過去帳を見れば、全部記録がたどれると生前に言っていた。母が18年前に亡くなった時、ふとそれを思い出し、今のお墓の前のお墓、今のお寺の前の前のお寺(谷町にあった)を訪ねてみたことがある。そのお寺には確かにお墓があった。名前を言うと住職がすぐに過去帳を見せてくれた。生まれて初めて来たお寺、生まれて初めて見る過去帳に胸がときめいた。確かに延々と記録が残っていて、もう途中で見るのもやめた。過去帳には先祖たちの名前、生まれた日死んだ日、結婚の相手の名前、などがそれこそ延々と書かれているが、ひととなりが全くわからないのだ。どこに住んで、どんな仕事をし、どんな人生を送ったか、つまりどんな人だったかが全くわからなくて、がっかりしたことがある。そもそも名前を知っているのは祖父、曽祖父、その一代前までくらいで、過去帳から立ち上がってくる想いが全くなかったのを覚えている。
話を戸籍改製に戻す。いったい今までなんの目的で何度改製がなされたのかよくわからないが、この傾向としてやはり日本人固有のアイデンティティーを、家族の絆を、なんだかなくす方向に動いているような気がする。父を戸主とする戸籍謄本なのに、母も兄もいない、昔いたはずの祖母もいない、消えてなくなっている。たとえば長男が別戸籍の戸主となるなら、跡取りという概念も同時に消える。親が死んでも遺品整理業者に任せて、顔も見せない息子や娘たちはこれからも増えるだろう。親子、兄弟、祖父母、叔父叔母、従兄弟、そのへんの関係も、これでは子孫がさかのぼってたどれなくなる。戸籍改製の目的はズバリ言うと、素性の追求を困難にすること、ではないかと思う。謄本を取る際には目的を聞かれるし、直系でない限り請求・閲覧すら困難になりつつある。ひとの素性の追求はやめなさい、ということだろう。そういうコンセプトだからこそ、記載間違いを把握しているにも関わらず、今回のようにこちらが独自に気づいて、自主的に手続きを踏まない限り、全く気にも止めないで平然と放置しておれるのだ。正しい記録を正しく残し、素性を明確に記録する為に戸籍があるのではない。戸籍売買や、偽装結婚の話をご存知だろうか?戸籍法改製者や役所の戸籍係など、むしろそちらを促進するために業務に勤しんでいるのではないかと思えるくらいだ。用がなくても一度戸籍謄本をご覧あれ。当然あるべき重要事項が欠落していたり、ひょっとしたら知らぬ誰かがあなたの戸籍に入っているなどという、真夏の怪談に出くわすかもしれませんよ?

間違いを間違いのまま、正しいと押し通す...(3)

先のペイジに市役所まで歩いて10分、と書いているが、警察までは歩いて7分。改竄を疑わなかった私は、帰る途中警察に立ち寄った。よろず相談係があるのだ。
「この話を一応記録に取っておいてください。警察とは関係ないのですが、戸籍を改竄して、偽造パスポートでも作られる可能性もありますから」
頭の中には蜂谷真由美が日本人の名を名乗り、日本のパスポートを持ち、日本人になりすましていた事件が思い起こされていた。警察官は笑い出す。
「そんな心配はありません。この名前なら、すぐに調査ができますから。使うならもっとありふれた名前を改竄するでしょう」?
私は登記の話を持ち出し、だから心配なのだといった。「警察ではご希望通り相談記録を書いて残しますが、どうすればいいかはわかりません」と言われた。それで充分、別に不満はない。

祖母と父を知る人で、現在もコンタクトをとっているのは、年賀状をやりとりしている、S氏ただひとり。帰ってすぐにS氏に手紙を書いて「当時のうちの家の表札はどんな字でしたか」と聞いた。2日たっても返事が来なかったので、電話することにした。「おっしゃる通りと記憶します。念の為に姉にも聞いてみます」
それから2日後返事が来た。僕も姉もあなたのおっしゃる通りだと、記憶していました。姉は7歳年上で現在93歳、いまだ頭脳明晰です、とあった。するとS氏は86歳。お元気でよかった。S氏は親戚ではなく、当時隣同士だったというそれだけの間柄だ。本当に身内がいないので、若き日の父の話を聞こうと思って、20年弱前に私からコンタクトをとったのだった。警察の鑑識課におられ定年後も鑑識のお仕事をされていた。仕事の上司のお葬式に行ってその場で偶然再開した。再開したというより事実上はあの時初めてお会いしたといってもいい。
「ピストル遊びをしていて、隣の子に向けて引き金を引くと、実弾が飛び出して、命が縮んだことがある、と父が申していましたが、本当でしょうか?」その話の確認をとりたくて、コンタクトをとったのが最初だった。ー
S氏の手紙には自分の知人もそういう目にあった、話が記されていた。どう解決したかはわからない。(今日追記のお手紙を頂いた。解決せずそのままらしい。木偏に外などの字はない。その方の本籍はありえない偽字のままということになる)その人の名は木偏に舛と書くのが正しい。ところが戸籍を見ると木偏に外が書いてあったという。これをきっかけにいろんな間違いがあることに気づいた。たとえば簡単なところでは上が土と書かれていたとか。それなら臼と白、自と目、血と皿、弐と式、束が東、土偏が手偏に、まして明治大正昭和は手書きなのだから、いくらでもあり得る。謄本を必要とする機会はそれほどなく、提出するために受け取るだけで本人が謄本をまじまじと見ることもない。
こういう経過を経て、今では改竄説は捨てた。書き写し間違いだ。冷静に考えようと思う。どういう方法を取れば、一番スムーズに真正の姓名の回復ができるか。滅びゆく一族の最後のたったひとりの締め役として、私に課せられた重い義務だと、今では思っている。(2013年年7月28日記)

・・・・・追記2013年8月5日・・・・・
冷静に慎重にと言い聞かせ、じっくりと時間をおいた。そのあいだにいろいろ聴きかつ調べ、いろんな対応を想定してシミュレーションをしてみた。出た結論は、担当の性格次第。つまり、ある意味博打である。だから「今日の運勢」にもこだわった。権力を傘にきて、人が苦しむのを喜びにしているような役人の対応は、充分経験済みだ。(例の登記と法務局の件だけでなく、10数年前市役所のNagao氏にその対応で死ぬほどいじめ抜かれたことがある。)私が区役所に行くことは、おそらく市役所のきむさんから連絡がいっているだろう。きむさんは「いやなら裁判をしろ」といったが、どこの裁判所で誰を相手に裁判するのか、なにも言わなかった。調べてみると、どうやら家庭裁判所だ。行動に移すと決心がついた日から、眠れなくなった。役所は市民にサービスを提供する筈のところだが、お上、という言葉が今も生きているように、トラブルが発生したとき、対等の立場で相談に行けるような場所ではない。サービスを直接売っていないからだ。S氏の手紙にも「間違いをすんなり認めるところではない」と書いてあったし、友達が寄せてくれた様々な情報からも、困難が予想された。司法書士に相談しようかとも思ったが、かえって複雑になる可能性もあり、第一、当人でないので客観的な仕事の範囲にとどまり、どうしてもという「心や熱意」は入らないだろう。「ダメでした」を平気でいう可能性がある。そこで終わってしまう。弁護士相談20分無料、というのも友人に勧められたが、その対応に腸が煮えくり返る思いをしたことがある。体験からの結論を一般化して言うとせいぜいよく言って「無料サンプルお試しセット」つまり、依頼人獲得のための営業窓口でしかない。10数年前に30分5千円という弁護士会の法律相談にも行ったが、解決を決定的に困難にするようなふざけた提案をしてきた。同じような体験をされた方はたくさんいらっしゃるだろう。(話が少しそれるが、昔「西川布団縫い針混入事件」というのがあった。当時私の知っていた弁護士の一人がこう言ったのを覚えている。「僕が以前弁護士会の相談の担当が回ってきたとき、犯人になったあのひと、あの件で相談に来た。あの時僕がもっと真剣に聞いてやれば、ひょっとしてあの犯行は食い止められたかもしれない、と。弁護士にしてみれば、そんなものは当番制の奉仕活動のようなものなのだろう。)市会議員も考えた。今までにもトラブルに巻き込まれて市会議員に相談したが経験がある。一番最近の一件の時は、どうも対応する市会議員の態度や発言が「おかしい」と初めから気づいたが、こちらはお願いする立場だから「とことん信じきる以外にない」と決心して、反論もせず、疑問も口にしなかった。しかし対応がおかしい点が目立ってきた「何なんだ、この市会議員は」と思うことがあまりにも多くなった。5ヶ月経ってその市会議員の任期が切れた時に、不満を口にして、依頼をはっきりと撤回した。その3ヶ月くらい後だったか、私が敵対している相手が、うっかりと口をすべらせたのだ。あの市会議員はもともと自分側の味方だったと。「でも、そんな市会議員をみつけてきたのは、そっちなのだから、責任はそっちにある、誰も騙したわけじゃない」と。薄々感じていたこととは言え、崖から突き落とされる思いだった。これは特別な場合だろうが、市会議員に関してほかの経験も踏まえて言うと、市会議員は最終的に票を読む。圧倒的に票の差が大きいと、途中からでも多い方に靡く。一票では党の熱心な支持者にならない限り、なんらかの希望的行動が一動作でも起こされることはない。

(つづく)

間違いを間違いのまま、正しいと押し通す...(2)

長くなりすぎたので前記事の後半を以下別ペイジに移動しました。

・・・・・追記:2013年7月24日・・・・・
役所を相手に喧嘩しても絶対勝てないことは身にしみて知っている。今回も勝ち目がない。ほかのことに頭が働かなくなる。そして昨夜寝ようとしたが、なかなか寝付けない。一時間二時間、何を考えているというわけではないが眠れない。お墓に行ってわかったことが一つある。この間違いはたての棒が二本、少し突き出ている、それだけの違いだということだ。それだけで別の字になってしまっていた。明らかに役所のミスである。役所も家族も100年以上違いに全く気づかなかったのは、多分、「あ、そうですね」と言ってその場で役人がはみ出ている線を短くきり書類を発行したのだろう。一つわかったことは、多分改ざんではない、単なるミスだということ。そしていつかはわからないが戸籍改正法が施行された時に、間違いが定着したのだろう。冷静になる期間を置いて良かったと思っている。
それより昨日不安になってお墓に行ったこと、自分を恥じている。ひょっとしたらと、自分の先祖を疑ったからだ。例えば手書きの場合、日だろうと月だろうといい加減に書かれれば区別がつかない。古い毛筆ならばなおさらだ。ただ役所はコンピュータ化した気色悪い字の方を、正しいというスタイルを絶対に崩さない。それをたったひとりで、どう納得させるかだ。この戸籍に生存しているのは私一人である。父も一人っ子、祖父も一人っ子(日露戦争で弟が若死にした)つまり私にはおじさんもおばさんもいとこもいない。なんという家系だ。「兄がいる」と言ったのだが、独立して別戸籍だから、どんな字であろうと、それが正しいという証拠にはならないという。兄に電話したら兄の方の戸籍には気色悪い字は一切登場しない。これが証拠だ、と言いたいのだが別戸籍だから「役に立たないらしい」。
・・・・・
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昨日「実は思い出したことがあるのだ。だから今回は絶対役所のいいなりにはなりたくないと思っている。」と書いた。私がかっかきたのはその経験があるからだ。
バブルの時にお隣が家を売ろうとした。そこで、その家の地番と我が家の地番が入れ替わっていることが発覚した。連日のごとくお隣が「うちも書き換えるのでそちらも書き換えろ」と言ってきた。書き換えには20万30万とかかる。年金生活者の母は「書き換えは同意するが、費用は売買の代金でまかなって欲しい」といったのだが、金を出せの一点張りである。寝耳に水で20万30万、「はいはい」と出せるわけがない。我が家に許可をお願いして売買利益獲得者が支払うのが当たり前だろう。しかし母に隣の男が毎夜長時間詰め寄ってくる。それで、母の相談を受けて法務局に出かけた。登記簿の元帳を調べると、記載は何も間違ってはいない。明らかに書き写すときに役所の人間が番号を間違えたのだ。元帳を見せて、写し間違いを指摘して、訂正を要求した。常識で考えれば、それで済む話なのだ。ところが法務局はガンとして「登記のやり直しを要求した」。何度も行ったのだが、「過去のものより、新しい現行のものしか、正しいとは認めない」と言い張る。そうこうしているうちに母が回転性めまいで倒れた。病気になったことのない母が、入院した。すぐに診断がつかず原因不明と言われ、不安な日々を過ごした。友達に電話をかけまくり「突発性難聴ではないか」というヒントをもらった。医者に言いに行くと「あぁ、そうですね」と羞恥心もなく納得する。手当が遅れたので、その後母はあちこち循環器障害を起こすようになった。退院してから母は、自分と同じ郷里の瓦屋で不動産を買いあさっている男を見つけてきた。その男は、登記の費用も喜んで払うといった。隣の男はさらにプラス500万ほどふっかけて、家を売って出て行った。そんな話はどうでもいいのだが、結局バブルがはじけて、母と同郷の瓦屋は大損をした。そして母は「瓦屋さんに大損をさせて申し訳ない」と悔やんでも悔やみきれずに、体調を崩してそのあと、入退院を繰り返し、脳梗塞で死んでしまった。
法務局が間違いを素直に認めれば簡単に済む話だった。役所というところは間違いを決して認めず、尻拭いを民間にさせる、しわ寄せしその皺を押し付ける、私は体験からそれを知っている。「怒りで頭蓋骨が吹き飛びそうだ」と23日に記述しているが、その経験があるからだ。書類を揃えて理路整然と説明しても、役所相手では埒があかない。最後に法務局の役人が私にこういった。「こういうケイスはよくあるんですよ。マンションなどの場合、登記は右から、部屋番号は左から、とかね」
今私はあの時の母と同じような立場に立っていると思う。そして(母には私がいたが)私には私がいない。

・・・・・同日追記・・・・・
さっき長い間弁護士事務所で仕事をしていた友人のKから電話があった。私は昨日のことを話したのだが、自分でも思わぬ方向のことを口にしていた。帰る電車の中でふと思ったのだ。長い間正しい名前でずっと生きてきたのに、市役所のきむさんに「あなたは生まれた時から、それとは違う名前ですよ」と言われただけで、不安になりお墓の文字を確認に来た自分を思い出して、ふと冤罪のことを考えたのだ。よってたかって何時間も「あなたの名前はそれじゃない。実はこれが正しいのですよ」などと言われたら、ふと自分の信念に疑念が生ずる。おまけにいい加減な目撃者とか、「こんな色の服を着ていた」とか、手に包丁を持ってどこそこにたっていたとか、全く覚えのないことを、多くの人に遮断された状況で確信的にいわれたら、誰でもふっと「ひょっとしたら、そうかもしれない」と思うのかもしれない。冤罪とはそういうふうに生まれる、なんだかそれがわかるような気がした。それを言うと、その友人のKも「そうだ。冤罪とはそういうものだ」と言った。また私もよく知っているがそこの弁護士事務所はたくさんの冤罪を扱った。法的に見ると、戦後社会は冤罪の山だったとも言えないことはない。私はその弁護士事務所と同じ階にある貿易会社で働いていたのだが、そのころたくさんの有名な事件を扱っていたのでよく知っている。そこの弁護士はB・C級裁判の弁護も担当した人で、パール判事とも懇意で、インドに同行したという話も後で聞いた。日弁連とはもともと左翼系で、事件もそのようなものを扱っているようだったが、その昔は日本でも冤罪などを考えると、人権弁護士が正義だった時代も確かにあったような気もする。それと同時に犯罪に政治が絡んで、明らかな犯人が冤罪になり社会問題化して無罪になる事件も見てきた。その弁護士が晩年に引き受けたK事件などがそうだ。「今度ばかりは、ここの先生間違っているね」とよくKと喧嘩した。Bruxellesちゃんだけでなく実は○○先生からも電話があって「晩節を汚すことになるから、今度ばかりは手を引いたほうがいい」と意見があった、とKがポロリと言った。「それで、ここの先生はどう答えたの?」と聞いたら「信念を持って引き受けている。外部から余計なことは言うな」と立腹されたらしい。失礼だが、老いて焼きが回るとはこのことだと思った。私はそのK事件の調書をこっそり黙って全部読んだ。その上でそう思うのだが、引き受けた弁護士は、信念だけで、調書など1ペイジも読んでいない。弁護士は時間がなくて調書など読まない、また調書自体をそのまま信じるのは素人だという考え方もあるようだ。今から思えばそこが取り扱った有名事件で最も新聞を賑わせたのは「金大中事件」かもしれない。私は多分海外旅行などしていて、帰ってから聞いたが、はっきり言ってまだ若かったし、なにがどうなっているか全くわからなかった。日本に来ていて、エレベーターの中で誘拐されて韓国に連れ戻された?その程度の理解である。若い時は興味が拡散して、他国の政治にまで干渉する気にもなれない、なれなかった、それが正直なところだ。そしてあの事件は未だによくわからない。冤罪のはなしから大きくそれてしまったが、今日Kと電話で話したことは「冤罪はありうる、誰の身にも降りかかる」そして人の気持ちとは、状況によってはいくらでも誘導されるものだと、そう考えると人の信念とか、確信とか、本来とても脆いものだと、今日はそう結論を出さざるを得ない。

間違いを間違いのまま、正しいと押し通す...(1)

・・・・・以下は2013年7月18日入稿・・・・・
今月から歩いて10分の市役所でパスポートが取れることになったので、予定はないが取ることにした。私の本籍は大阪市東区、しかしいつの間にか東区と南区は合併して中央区となっていた。戸籍抄本を求めて中央区に電話すると最近は郵送希望の場合は大阪市役所の郵便事務処理センターが一括して請け負っているので、そちらに請求くださいとのことだった。申請書に記入しながら気づいたのだが、送られてきた戸籍抄本が、改竄されているではないか?いや、改竄というよりも、センターで一括処理のために入力する時に、打ち間違えたのではないか、そう思った。苗字の漢字が違っているのだ。こんな漢字は見たことがない。パソコンにもない。大阪市役所にいる公務員の中国人の仕業か?そう言えば以前郵便局の簡易保険、死亡受取人の名前を変えた時に、局員がボールペンで2本の線を引き、横に手書きで名前を書き換えた。それが、字になっていなかった。「こんな字はない」こう書くのですよと、別の紙に書いてみせた。その局員は、見ながらでさえ、漢字をうまく書けない。有り得ない字を書く。そんな字じゃなくてこうですよ、とまた別の紙に書いて見せた。それでも読めるような字が書けない。字が書けないのなら、郵便配達にでも回ればいい。何故簡易保険の係をしているのだろうか。もう保険証書が汚くなってしまった。ありえない字の手書きでは、いざという時の保険金もおりないだろう。簡易保険の元締めの京都のセンターに手紙を書いて、新しく正しく印字したものに取り替えてもらった。どう考えても日本人ではないな、と思った。その人は決して感じの悪い人ではなかったが、そんなに頭も悪くはなさそうなのに、全く漢字が書けないのだった。たまたまそう言う人に当たったとは思えなかった。日本で義務教育を受けていない非日本人が、すでに沢山日本に来て官庁で仕事についているのだろう。
書類を整えて近所の市役所に申請に行った。そして戸籍抄本の苗字が書き換えられていることを告げた。運転免許書も持っていったし、市役所なのだから住民票もあるのだし、過去の提出物を調べれば、戸籍抄本の間違いはすぐにわかると思ったのだが、そうはいかなかった。パスポートの申請も初めてではないのだし、入学や就職やライセンス獲得の際にも、何度も提出しているのだから、ここに来て初めて戸籍抄本の間違いに気づくことなどありえない。私一人ではない、昔は家族もいたのだし、全員が何十年も間違った戸籍名で、就学したり就職したりパスポートを取得したり出来るはずがない。常識で考えればわかるだろう。ところが常識が通じない。この字は東洋大漢字辞典に記載がある、というのだ。「じゃあどうすればいいのですか?」と問えば、もう一度申請しろという。「何度しても同じでしょう、一度中央区の区役所で確かめて見てください」、と言ったのだが、上司と相談してみます、ということで1時間以上待たされた。本来はこの字で、抄本の字は電子辞典にも出てこないものだと言ったのだが「戸籍係が区役所に問い合わせると、生まれた時からこの字だったのですよ」と言う。「うちのお墓もこんな字ではありませんよ」といっても、市役所はなにより戸籍抄本を中心に考えるので、免許書やら住民票やら、ライセンスやら、お墓の名前なども含めて、戸籍抄本に合わせなさい、というではないか。「人の戸籍を改竄しておいて、それに合わせろって。それ犯罪になりませんか。今から私に、苗字を変えろというのですか。私が生きてきた今までの人生は、どうなるんですか」といっても全く応答なし。「名前を変えないのなら裁判でもして、使いたい名前を獲得しなければなりません」という。「改竄するにしても中国人しか、こんな字を思いつかないでしょうね。大阪市役所にも沢山中国人が採用されているのでしょうね。裁判ねぇ。ところで、あなたのお名前はなんとおっしゃるのですか?」と必要になると思って聞いてみた。黙っている。名札を覗くようにするとようやく言った。「キムです」ーこんなものはオチにもならない。やっぱり、という話だ。特に戸籍係や旅券係に多いのだろう。やりたい放題改竄して、「すべて戸籍抄本に合わせなければなりません」ー消えた年金も年金係が企業が収めた年金や一括納入した一般の人のお金をネコババしたという話は、いや程聞いた。それが重なって大問題になったではないか。「ワタリ」もそうだが、役所というところはかばい合う。私はすでにパスポートを取る気はなくしたが、戸籍を改竄されたままにするわけにはいかない。
この記事を最初に書いたときは、福岡市の話だったが、すでに日本の市町村の大部分が、福岡市状態ではないだろうか。

・・・・・追記:2013年7月20日・・・・・
近所の市役所との話し合いは、徹底的に不愉快だった。とにかく本籍地にいけと。でそこで、手書きの時代のものを取得して、今までのなまえと同じであれば、間違いを認めてこのおかしな戸籍抄本を書き換えてくれるんですね、といえば、「それが間違っている可能性がある。したがって裁判して判決を得て、初めて、どちらが正しいか決まる」という。「コンピュータ化の際の入力ミスに決まってるじゃないですか?」といってもダメ。違う、ということは、どちらかが間違いだということでしかない、という。さっき友達から電話があって「間違いがわかれば、役所は書き換える」筈と教えてくれた。ただ、私が市役所の「キム」さんと長々とやり取りした結果では、役所側は、自分の側のミスを徹底的に認めないようだ。つまり、異なっていたとしても、その当時の申請者側の間違いで、あくまでも郵便処理センターが送ってきたものが、正しいという認識を押し通す。だから裁判しかないという。そう言いながら「裁判を勧めているわけではない」と逃げを打つ。「ではどうすれば?」といえば、初めに書いたように、自分の所有物やライセンス、印鑑証明、通帳に至るまで、全部このニセの名前に書き換えろという。間違いがわかれば、役所が書き換える、というのはあくまでも間違いが役所以外にあるという発想に基づいている。役所には間違いがない、という前提での「間違いがあれば」なのだ。
改製原戸籍について少し調べてみた。以下は抜き書きである。
ー確実な確認実施(本人同定)の為には、古い戸籍である改製原戸籍(改製原戸籍謄本)の確認が不可欠です。なぜなら、改製される前と後とで、内容に違いが出てくる可能性があるからです。つまり、改製される前の古い紙戸籍に書かれていた内容が、 改製された後の新しい戸籍に完全に全てに書き移される訳ではないということなのです。このような理由から、戸籍の改製が行われた場合は、必ず「改製原戸籍謄本」を取得して、 真実に漏れがないか確認する必要がある場合が在るのです。ー
(役所の間違いに気づかない場合は、間違った役所に責任はなく、個々の人間に「自発的にチェックしなければならない」という責任があるということ?)
ー(改製原戸籍の)審査は、住民票の請求よりも厳しいものとなっており、現在の運用では、殆どの市区町村が 犯罪被害の回復より、差別に繋がる調査や違法調査を排除する目的の方が優先されております。 正当な理由がある場合には、特定事務受任者(弁護士、司法書士、などの士業の方々等) を副代理人として選任するか、先生に依頼者を紹介して任せてしまいましょう。ー
原戸籍の申請は個人には厳しく制限され、またコンピュータ化したものとの違いの審査そのものも、第三者に依頼しなければならないということ?そのあとで裁判して判決を得て、そのあとで「書き換え請求」を提出しなければいけない。その全部をクリアーするのは、不可能という仕組みになっているのだろう。精根尽き果てた日本人に、人生をさかのぼってまであれこれ全部にわたって名前を変えさせる手続きを強いる。ここに至って親切な「キムさん」の親切な上のアドヴァイスに、一致するということか?

・・・・・追記:2013年7月23日・・・・・
「間違いがわかれば、役所は書き換える」筈と教えてくれた前記の友人がもう一度専門家に聞いてみると言ってくれて、そしてその結果の回答を昨日電話で教えてくれた。役所関係者が上から指導を受けていることに従えば、原戸籍が正しくて、その後誰かによって改竄されたかあるいは、コンピューター化の際の入力間違いが、たとえ明らかになっても、役所というところは原則として郵便処理センターが送ってきたものだけを真実とみなす。従って、こちらが証拠をいくら提出してもいかなる証拠も「間違い」で押し通す、ということだった。そんな馬鹿な、と怒ってみても、この人は親切に教えてくれただけなので、怒る相手が違う。対策として「最悪の場合は法務局に相談に行くという手がある」と教えてくれたが、それは市役所のキムさんが、弁護士に相談して裁判をする、という手がある、といったのと同じで、解決に向かうこととは全く別の話で、怒りを聞いていただく相手が見つかる、それだけのことだ。きむさんの話だと、裁判して最高にスムーズにことが運んだとしても、諸事情により、私が「名前を変える」という手続きを踏むことになり、役所が間違いを訂正する、という結果には繋がらないという。抑えようもなく、怒りが爆発する。しばらく冷静になる期間をおいたほうがいいだろう。今動くとあちこちで喧嘩になるだけだ。それでは、解決には永遠に近づけない。自分で川の淵を歩いて、突き落とされに行くような行為だ。

実は思い出したことがあるのだ。だから今回は絶対役所のいいなりにはなりたくないと思っている。少し落ち着いたら、そのことを書き込みたいと思っている。こういうことが勃発するのはなにも私に限ったことではないと思うからだ。それに読者の中に専門家の方がいらっしゃれば、何らかのアドヴァイスをいただけるかもしれない。ひとりで黙々と行動をしても、最後はヘロヘロになって、別人にされてしまう、私一人だけでなく、亡くなった家族全員を引き連れて。家系抹消の行為につながるのだ。
そう言えばキムさんは最後に話をすり替えた。例えば澤の字と沢、藏の字と蔵、渡邉の字と渡辺、藪の字と薮「そういう間違いもよくあるのですが、全部戸籍通りに書き換えてもらっています」と。同じ字ではないか。私の場合は字も音読みも訓読みも意味までも違う、別字である。論点をすり替えてまで、人に名前を変えさせようとする。怒りで頭蓋骨が吹き飛びそうだ。

・・・・・同日追記・・・・・
戸籍が偽物になると、なんだか自分がいなくなったようでソワソワする。不安になったのか、お墓に行って名前を確認したくなった。ひょっとしたらお墓の文字まで変わっているのではないかなどと、自信がなくなる。電車に乗ってお墓に行ってきた。大丈夫、どの墓石にもしっかり本来の名前が刻まれていた。なんでこんなことまで、不安になったのだろうと思う。そしてお墓の文字をよく見てみた。この字を行書体でかくと、確かに郵便送付センターが送ってきたあの出来損ないの文字になる、ことに気付いた。無教養な役人が読み間違えたのだろう。充分あり得る。それしかありえない。いつの時代を調べればいいか考えてみた。それで気づいたのだが、昭和20年3月13日の大阪大空襲で、古い書類は全部焼かれているのだ。祖母の話だと江戸時代はおろか、もっと先まで家系図があると、否あったと言っていた。昔はみんな手書きで、しかも毛筆、あったとしてもボロボロだろうが。私は祖父の資料を調べようと思ったのだが、あったとしても、戦後に手書きされたものでしかない。つまり3月13日(金)以前には書類では正式には遡れないのだ。別字なのだが、パッと見ただけでは違いに気づかない。まさかと思うから、誰ひとり、気づかなかったのかもしれない。実印だって、お墓の文字と同じだ。賞状も証書も、皆の全てが、本来の名前で生きてきている。誰を相手に裁判し、どれくらい書類を揃えればいいのだろうか?今のところ何もわからない。泣き寝入りだけはしたくない。はっきりしているのはそれだけだ。

女三界に家なし

摂氏33度くらいまでなら平気だが、33度を過ぎるあたりから、アイスキャンディーが欲しくなる。35度なら、アイスキャンディーを食べ続けることになる。今年初めてアイスキャンディーが必要となる温度に気づいた。
子供の頃、祖母が市場から帰ってきて「Bちゃん、はい」と言ってアイスキャンディーを手渡してくれた。「あれ、ひとつだけ?おばあちゃんの分は?」「私はいらない」祖母の顔を見ると、顎から汗が流れ落ちている。暑くて仕方がないのだ。きっとアイスキャンディーを食べたいのだろう。「おばあちゃんの分がないのなら、これを半分にしよう」そうすると祖母は半分食べる。「どうして自分の分を買ってこないの?」と聞いても返事をしない。不可解な行動だ。なぜなのだろう。同じようなことが数回続いて、そのあと祖母は初めから棒の二つ付いた、真ん中でポキンと二つに割るアイスキャンディーを買ってくるようになった。
いつ頃だったか思い出せないが、それが祖母の遠慮だと後でわかった。馬鹿げた遠慮だ。食べたいものを食べたい時に買えばいいのに、何故つまらない遠慮をするのだろう?父がいないので、母が働いている。その母のお金でアイスキャンディーを買いたくないのだろう。「女三界に家なし」と祖母がつぶやいたことがあった。「どう言う意味?」と聞いた。子供の時はお父さん、結婚したら夫、年老いたら息子、に厄介になって生きる、という意味だと教えてくれた。「お父さんの家、夫の家、息子の家、で、与えられた役割に従って生きるということ?」のようだ。では息子に死なれた母親はどうすればいいのだろう。息子の嫁に養ってもらうしかないのだろうか。祖母の場合母は「お気に召さない嫁」なのだ。孫の世話をしている限りは、この家にいる権利はある。けれど祖母の心の中では「自分が暑いからといって、自分の食べるアイスキャンディーを買う」という行為は、できない、と思い込んでいるのだろうか?何故なら祖母自身が、母を他人と考えているからだ。息子の嫁とか、家族の一員とかという意識があれば、当然アイスキャンディーは2本買ってくるだろう。それはある意味プライドなのだろうか?訳がわからない。いずれにせよ何の意味もない「遠慮」である。よく「私は遠慮している、遠慮している」と言っていたが、そういうことなのだろうか?
おじいさんと嫁ならもっと大変だ。息子が死んだあと、おじいさんと嫁が同じ家で暮らすことになる。いろいろと世間はうるさいだろうし、実際下衆の勘繰りの通りの事件も決して少なくなかっただろう。ただこういう問題は息子や娘が二人以上いれば、簡単に解決する問題である。昔はだいたいどこの家にもおじいさんやおばあさんが普通にいて当たり前、我が家にいなくても、おじさんの家とかあばさんの家とかには、おじいさんおばあさんがいたものだ。最近は長男でも親と同居の結婚などありえない。そして老人には年金があるので、老いて子供に養ってもらう親もいない。むしろ、40、50を過ぎても、親に何かと生活の援助をしてもらっている息子や娘のはなしはよく聞く。祖母ももう少しあとに生まれていれば、「女三界に家なし」に縛られることなく、つまらない遠慮をする必要もなかっただろうに。しかしどちらが幸せかはわからない。いくら祖母が「遠慮しい」でも、死んだらこっそり家族葬でいいわ、などという遠慮は思いつきもしなかっただろう。考えてみれば、日本社会も日本人の意識も大変な変わりようである。

祖母の話に戻る。ほかに一回祖母がおかしなことを言い始めて、どうしたのかと、思ったことがあった。あの時代の「息子のいないおばあさん」の心理を私が全く理解していなかったに過ぎないのだが。
近所の昔私も絵を習いに行っていた絵描きさんがなくなった。するとお嫁さんの一族が家族会議を開いて、絵描きさんの母親(その家のおばあさん)を養老院に放り込んでしまった。それにショックを受けたのか、祖母が「私を養老院に入れたら孫である、たとえばBちゃんが、世間の笑いものになる」と繰り返し言うようになった。それで吃驚した。「いったい私が何をして、世間の笑いものになるのですか?」の話である。「おばあさんを養老院に入れたら...」「誰が養老院に入れられるのですか?」「おばあさんが...」「どこの...」・・・「笑いものになるとかならないとか、より、そもそも誰もそんなこと発想さえしていないのに、何回同じこと言って、怒ってるのよ。おばあちゃん、あのね、自分に自信持ったほうがいいよ。この家における自分の存在価値に自信があるでしょう。誰がそんな馬鹿なことを考えるもんですか。おばあちゃんともあろう人が、そんな妄想にとりつかれるなんて、おかしいわ。」それから祖母は憑き物が落ちたようにその話をばったりやめた。
前にも書いたが祖母には甥がひとりいるだけだ。母は八人兄弟なので身内が多い。兄弟だけでなく甥や姪もたくさんいる。今になって考えればの話だが、母の一族が家族会議などを開いたら、祖母もそういう目にあっていた可能性は高い。しかし(亡き)父が立ちふさがる。母の夫である父の母である。いくら大人数でも母の一族が家族会議を開いて祖母に関して何かを決めるような立場にはない。そのへんの常識さえ吹き飛ばして祖母は何故くだらない妄想に苦しんだのだろうか?いつか検証しようと思っている。

ラーラーラーシャバダバダ

私の昔の友人のYはいつも男のことを考えているのか、男の話ばかりしていた。作品もかなりエロチックで、エロスの詩人と呼ばれたときは平然としていたが、ポルノ詩人と言われたときは猛然と怒っていた。彼女に限らず、女性とは、彼女のように常に男を意識において生きているものかもしれない。道を歩いていて出会った男にときめく、などという話はよく聞く。いくつになっても恋をしましょうなどという話もよく聞く。だとすると私は、どこかで何かが不足しているのだろうか、滅多にときめかないし、男性を意識もしない。男と女は身体の造りが全然違うものだと、むしろ最近になってようやく気づく始末だ。もちろんときめいたことがないとか、恋愛体験がないとか、不感症とか、そういうわけではない。女友達より男友達の方が多かったから、いちいち意識などしてる暇も、する必要もなかったような気がする。男性に慣れすぎていたのが原因かもしれない。一生のうちで心がときめいたりドキドキしたり、そんな経験は、うーん、数えても10本の指で充分あまりやお釣りがもらえそうだ。ただそんな私が、人生で一度だけ、不可思議な行動をしたことがある。何故そのように動いたのか、自分でもわからない。
梅田のインタープレイ・ハチに一人で夕方に出かけた時だ。暗い階段を下りて店の中を見渡すと、その人はパラパラといる数人のお客の中にいた。右側だ。私は右側の席に座ろうとした。その人をじっと見ていたわけでもない。飲み物を注文して、音に意識を集中しようとする。多分その時私は寂しかったのかもしれない。ぽつんと一人で座っている、その男性の隣に、座りたいと思ったのだ。そんなことはもちろん初めてだ。その男性がタイプだったとか、セクシーだったとか、ハンサムだったとか、それは違う。ただとても「暖かい心の人」に見えたのだ。普段は、心が暖かいとか、優しいとか、そんなことで決して人に魅力を感じたりはしない。知りもしない彼に、一体何を感じたのだろうか?飲み物が運ばれてくる前に、私は席を立ち、その男性の隣に移動した。自分でびっくりである。しいて言えば、家族のような兄弟のような、いきなりの信頼を覚えたのだ。隣に座って、やはりほっとした。これで落ち着けると思った。友達と一緒にいるような安心した気分になった。私も彼も、当然ながら口をきかない。ここはジャズ喫茶なのだ。私はマッチョ好みなのだが、彼は小柄だ。私は、喧嘩してでも守ってくれるような男が好みなのだが、彼は喧嘩も弱そうだし、口論にも向かない、ように見える。顔は川津祐介に似ている。いい人風で気持ちのいい顔だ。私は色白が好きなのだが、この人は色が黒い。それだけ考えると、それ以上彼のことを考えるのはよそうと思った。音楽に意識を集中する。でもなんだか少し楽しい気分になってきた。20分ほどそこにいた。普段はもう少し居るのだが、こんな些細なことで喜んでいる場合ではない、という気がしてきて、さっさと帰ることにした。少し無理をしているなと思ったが、彼の方に視線を向けることもなく、さっさと一人で店を出た。
10mほど歩いたところで「ちょっと、ちょっと」と私を呼び止める声を聞いた。振り向くと彼だった。あんなに内気そうな彼が、私をナンパするの?「よかったら食事でもご一緒にいかがですか」と彼が言った。そして私は多分彼と食事をしたのだと思う。そのへんのことは、もう忘れた。
フェロモンだ。多分好き好きフェロモンを発散していたのかもしれない。内気な彼が階段を駆け上って追いかけてくるなんて、きっと彼は断られない確信を掴んでいたのだろう。住所や電話を交換した。彼は会社に電話をかけてきて、仕事が終わったあとで会うようになった。彼は何歳か年上で、大人だった。彼はキャバレーに私を案内した。「淀」やら「富士」やら「ワールド」やら、もう忘れてしまったが、キタやミナミにたくさんキャバレーがあった。ホステスのお姉さんたちが遊んでくれるので、彼も私も気を遣う必要がなかった。ふたりで京都に行ったこともある。「車はないの?」と聞いたら、学生時代に乗っていたけれど、当たり屋に当たられて、ひどい経験をしたので手放したと言った。きっと大変嫌な経験をしたのだろう。彼の住む中百舌鳥の社宅に行ったこともある。彼の部屋でジャズをきいた。いいレコードもいいステレオも持っていた。あるとき「今日はこれで買い物をしてきてくれないか」といって5000円を私に渡した。「はい」と言って買い物に行きステーキを2枚買ってきた。それを焼いて食べたのだが、美味しかったのだが、彼は私が主婦に向くかどうか、チェックしていたのかもしれない。その頃の彼の給料は8万円だと言っていたから、一回で5千円使い切ると、ペケである。当時、私には生活観がまるでなく、人間生きるのに一日三回食事しなければならない、などということさえ考えたことがなかった。結婚はあの世以上に異次元のことだった。彼と一緒にいるとき彼に電話がかかってきた。長々と話は続き彼が申し訳なさそうに繰り返し断っている。「何の電話?」とあとで聞いたら、親友が自分の妹と彼との結婚を望んでいるので、断ったのだ、といった。タイミング的にあの電話は仕組まれていて、彼は私の気持ちを確かめたかったのだろうと思った。「いいひとだったら、結婚すればいいのに」と言った。彼は真面目で内気だから、私が何を考えているかまるでわからなかったのだろう。「私のために断ってくれたの。嬉しいわ」とか言えば、ベストなのだろうが、そんな大嘘は言えない。もうこの部屋に来るのは最後にしたほうがいいかもしれない。その日は遅くまでいて、タクシーで帰った。それからも会ったのか会わなかったのかよく思い出せない。半年以上経ってから彼から家に電話がかかってきた。「もう僕と会う気はないの?いい人ができたんだね」「急に何を言うの?会わないのはあなたが電話をくれないからよ」「僕見たんだ」「何を見たのよ」「Bちゃんを、あの店で。一緒にいたのは誰?恋人?」「あの店ってハチ?」「いいムードだったよ。もう僕の出る幕じゃないと思って、電話かけられなかったんだ」「誰のこと?そんな人いないわ」「カウンターに並んで座っていて、Bちゃんは、となりのサラリーマン風の男の肩に手を置いてとても親しそうにしていた」「多分あの人ね。全然どーでもいい人よ」「あれを見て、ぼくがどんな気持ちになったか、君は想像がつかないんだね。こうして電話するまで随分時間がかかった」「何が言いたいの?誤解よ、誤解。」「僕自身がこの目で見たんだよ」「カウンターに並んで座っていただけじゃないの」「普通の関係じゃないムードだった」「ちょっと待ってよ。それらしい人の話なら少しは誤解も仕方がないけど、相手があの人じゃ、言いがかりにもならないわ」「じゃ、Bちゃんにはあれくらい親しげに接する男友達が何人もいるってことだね」「サヨナラをいうのなら、はっきり言えばいいのに。自分が被害者の立場に立ちたいのなら、人を攻めたいのなら、もっとマシはストーリーを考えてよ」「全く、君って人は」・・・激しい喧嘩になってしまった。彼は自分の気持ちに決着をつけるために、そのためだけに電話をしてきたのだ。しかしいくらなんでもあのTTを私の恋人と思うなんで、馬鹿馬鹿しすぎるわ。けれど、この喧嘩をきっかけに彼が新しい方向を見つけるつもりなら、それを祝福しよう。そう言えば彼は「Bちゃんは一瞬僕を見たんだよ。そしてすぐに、我が身をその男の影に隠したんだ」と言った。そう思い込んでいるのだ。私はあの店で彼を見た記憶などない。もし私と目があったのなら、ヤーヤーとカウンターにやってきて、肩でも叩いてくれればよかったのに、そうするには彼は内気すぎたのだ。

あれを一目惚れというのだろうか?よくわからない。かれが追いかけてこなかったら、何事も始まらなかった。私が一度座った席を離れて、誰かの隣に座りに行くなんて、あとにも先にも一度きりだ。私が男性に対して何らかのアクションを、起こしたことも、起こそうと思ったことも、この時以外にはない。不可思議な例外的行動という以外にはないのだ。
この日記を書き始めてすでに10年目だ。10年目にして初めてTI氏のことを書いた。私の心の中で彼がどのようなpositionにいるのか、よくわからない。彼はもう定年を迎えているはずだ。故郷の姫路に帰っているのだろうか。中百舌鳥に家でも買って、今頃は孫たちとでも遊んでいるのだろうか。いずれにせよ「あー、あんな女と思い切って別れてよかった」と思えるような人生を歩んでいてくれれば、たとえ誤解がとけなくても、私は充分に満足だ。

・・・・・追記:2013年5月5日・・・・・
久しぶりに今朝とても嫌な夢を見て、不愉快すぎで目が覚めた。そして昨夜書いた私自身の不可解な行動の意味がサーっとわかった。そのとき私は寂しかったのだ。心の中で悲鳴をあげていたのかもしれない。「暗い階段を下りて店の中を見渡すと、その人はパラパラといる数人のお客の中にいた。右側だ。私は右側の席に座ろうとした。」私は彼に兄を求めたのだ。「しいて言えば、家族のような兄弟のような、いきなりの信頼を覚えたのだ。隣に座って、やはりほっとした。これで落ち着けると思った。」極端な孤独の底で、私は言葉にできないほど強く、あの時彼の中に「兄」や「家族」を見つけ出したのだと思う。

故きを温ねて、何もわからず

「ちいさいおうち」という文庫本を読んでいて、またしても大阪大空襲のことやら祖母のことを思い出した。
祖母はその時代の教育だったのか、ほとんど自己表現を抑制した人だった。ただ一度だけ、意外なことにアメリカに敵意をむき出しにしたことがあった。私がおもちゃのB29を手に持って「ブーン、ブーン」と祖母の周りを回っていると、突然そのB29を私の手からひったくって、畳に投げつけた。ビックリして「おばあちゃんがBちゃんのB29を投げつけて壊した」と母に言いに行くと「B29に家を焼かれて一切をなくしたからでしょう」と母が言った。
私はまだ幼稚園くらいで、そんなことは何も知らない。戦争に負けて男は全員殺され、女は皆奴隷にされると思わされていたけれど、マッカーサーという人が、コーンパイプを口にくわえて丸腰でかっこよく厚木に降り立ち、とても紳士的に日本を統治した、だから鬼畜米英は何だったのかと日本人はあっけにとられた。と言っていたので、祖母はアメリカ好きだと信じていたのだ。
わからないことはほかにもある。おばあちゃんが若奥様だった船場の「天満屋」は、たしか「大阪で初めてのデパートメント形式のお店だった」と言っていたように思うのだが、それがどこにあったのかの場所がわからない。その時「なんのお店だったのか」と聞いたら洋品雑貨店だといった記憶もある。モーニングやシルクハットやステッキを扱っていたと。確かに天満屋の銘の入ったブラシやハンガーは見たことがある。しかし私が知っている限り、天満屋というのは、影も形もない。この写真を見て思うのだが、祖母の言っていた「大阪で最初のデパートメント形式のお店」というのは、この店のことではないだろうか?だとしたら、これは石原のお店だ。天満屋とは違う。おじいちゃんはどんな仕事をしていたのか、と聞いたら「自動車やオルガンの輸入をしていた」と言った。石原のお店の広告を見ると「時計のほか、写真機の輸入販売、自転車の輸入、製造販売、楽器の輸入製造販売(オルガン工場)など専門の店舗、工場も有った事が分かる」と書いてある。オルガンの輸入をしていたのは石原であり、おじいちゃんではなかったのではないか?それとも石原とは親戚なので、祖父は、石原の輸入部門を担当していた、ということかもしれない。また祖父の母親が石原家から天満屋にとついできた頃は、石原よりも天満屋の方が遥かに伝統も古く裕福な家だったとも言った。そうすると曾祖父母か祖父母の代で逆転したことになる。祖父は15歳くらいからアメリカの高校と大学、大学は文学部と法学部を卒業している。これも昔毎日新聞の編集長をしていた遠縁の久保田さんに私が大人になってから聞いたのだが、12年間もアメリカで学問に励んでいたそうだ。弟がひとりいて、跡取りと期待されていたが、日露戦争で若くして戦死。慌てて祖父がアメリカから呼び戻された。石原家には優秀な男児が何人もいて明治後半あたりからおそらく天満屋との逆転は始まっていたのではないだろうか?よくわからない。ただ、大学生の角帽を被った父が、車を運転している写真がある。だから過去に商品に車を扱っていた可能性も多少はある。ハモンドオルガンと提携をしていたことに関しても、昔父は学生の頃アルバイトに教会でオルガンを弾いていたということも聞いたので、楽器の輸入云々にも、なにかの事実関連はあるのだろう。ここに石原時計店は大正4年に南久宝寺町から心斎橋南詰に移転した、と書いてあるが、以前祖母のさかのぼっての戸籍謄本を取り寄せたことがあるが、祖母の古い本籍は南久宝寺町だった記憶がある。祖母は元々箕面の人なので天満屋の場所が南久宝寺町だったということになる。心斎橋にビルを立てる前に石原時計店があった場所に、天満屋があったということ?になりわけがわからない。自他の区別がつかないほど、ものすごく密接な親戚関係だったのだろうか?昨日お墓参りをしたが確かにここに出てくる石原久之助氏のお墓と我が祖先のお墓は同じ区画内にある。祖母が珍しく何回も話したことなのでよく憶えているが、祖父のお葬式は御堂筋の交通をストップさせて、四頭建ての馬車をシャンシャンと連ねた派手派手の大葬列だったらしい。費用は全部石原さんに出してもらったと言っていた。昭和11年、その頃の経済力は月と鼈になっていたのだろう。残された祖母と父は母子家庭、焼け出された家も、石原さんの借家に住まわせてもらっていたらしい。祖母は身内のほとんどない人で、自分の身には医者になった甥がひとりいるだけで、全く身寄りがない。そうそうそのドクターH氏は晩年に自分の亡き母を追悼した書物を「思い出の記」として出版、その「はじめに」に「母の妹の嫁ぎ先が事業に失敗し、その負債を弁償しなければならなくなったので...」と書いてあるのを見て、母も私もひっくり返るほど驚いた。祖父は日本の気候が身体に合わず、喘息がひどくなり働けなくなって天満屋を閉じたと思っていたのだが、親戚(祖母の実家にまで)に迷惑をかけるほどの大型倒産をしていた、とは!!「それで借金は返済しましたか、まだですか?」と問うたら「返済してもらいました」ということだったので、胸をなでおろした。このドクターH氏に「天満屋はどこにあったのですか?」と私は祖母の法事で一度聞いたことがある。すると「おばさんのお店は淀屋橋のミズノと尚美堂の間にあった」とおっしゃった。そのころ私はもう大学生だったのでよく覚えている。しかししかし、淀屋橋のミズノと尚美堂のあいだにあるのは3代目の石原ビルだ。ここは現在の地名で言うと東区北浜4丁目、我が家の本籍に非常に近い。負債を減らすために土地を購入してもらったのだろうか?明治、大正、昭和、平成と時代が流れ、曽祖父から私まで4代、石原のビルにしても淀屋橋で3代目。わかるのは天満屋は衰退の一途を辿ったということだけだ。そして私は衰退の底に生まれ、底の底に留まり続けている。父が亡くなったとき祖母は「かわいそうに。この子には、いい時がなかった」と呟いていた。ということは祖母には「いい時」があったのだ。アメリカ留学帰りのインテリで船場の天満屋の跡取り息子に、実家が医者だというだけで、これといって社会的背景の全くない祖母が、見初められた。結果的に倒産したとは言え、自動車やハモンドオルガンを大量に輸入する資力がまだあった頃の祖父に愛され、シャープや阪急電車を育てた石原の親戚として、西洋化した時代の先端の文化を享受できた「いい時」が祖母にはあったのだろう。
「私にも娘時代はあった」と祖母が私に言った。
「でもBちゃんが生まれた時からは、おばあちゃんははじめからおばあさんだったよ」...
私も年を重ねて、祖母がそれぞれの折にどんな気持ちでいたかが、ふと分かる時がある。そしてしみじみ思うのだが、「いい時」があった分、晩年は余計に辛かったのではなかったかと思う。

がここに書いているエレベーター。これは大阪大空襲に耐えた心斎橋の石原ビルの話である。生徒から学生になっても私は喘息で入院ばかりしていたので、その後の心斎橋の石原ビルを知らない。私が22,23才の時だと思う、新聞に記事が出た。東京百貨店資本の大阪進出として報じられたのは、他でもない、この石原ビルの西武による買収であった。大阪大空襲、B29の焼夷弾にも屈しなかった心斎橋の石原ビルはその年西武百貨店に歴史的場所を明け渡し、そこは心斎橋パルコとなった。祖母が亡くなった翌年、くらいだったと思う。その年私は小説「置き去りにされた夜明け」を「海とユリ」誌に発表した。

誰ぞ知る、娘の苦労

昨夜昔の母の言った言葉を突然に思い出した。今まで一度も思い出したこともないのに。
母は50歳前後で、会社勤めをしていて、付き合っている一歳年下の男性がいた。駅のホームで知り合ったらしい。そこへさらにまた駅のホームで知り合った2歳ほど年上の男性が割り込んできたというのだ。その男性は母と私が一緒のところも見ていて、娘である私の存在も知っているらしい。
「僕とも付き合ってくれ」と言ってきたらしい。「断ったら、母親が若い男と付き合っていることを、娘にばらすぞ」と脅されたというのだ。なんとたちの悪い男だろうと思ったが、それ以上は何も記憶にない。母にそれを言うと「ちゃんとした人で、やくざではない」という。母が何故そんなことを私に言ったかと言うと、おそらく、その年上の男が実際私に近づいて告げ口すると困る、と思ったから先に打ち明けたのだろう。何しろ、一種の脅迫であるから。
似たようなことが、70歳過ぎの母親にまたおこった。母には老人会で知り合った一歳年下のTという男性がいて、その人には妻子も孫もあったが、毎週豪華な果物一式が家に届けられた。町の運送会社社長のT氏の愛情表現なのだろう。そこへ老人会の別の男性TTが割り込んできた。否知り合ったのはTTの方が早いし、TTは家にも押しかけてきた。母といるのが楽しくて仕方がない風情だった。恋心に年齢は関係がない。しかし社長のTに比べると年金生活者のTTは、気前がよくない。大体女の家に押しかけて上り込んで、果物かごも持ってこないのだから、母が迷惑に感じ始めても仕方がない。T氏からは電話がかかる。母はそれを楽しみにしている。しかしある時からぷつんと電話がかからなくなった。母が理由を聞くと「TTの自転車がいつも家の前に止まっている。TTが家の中に入り込んでいる、と思うと面白くない」と言うことだった。それを聞いてすぐには母は「もう家に来てほしくない」とはっきりTTに言い渡したらしい。それから一週間後、老人会の運動会の日だった。ハートブレイクの老人TTはそれまで口もきいたことのない私にいきなり電話をかけてきた。
「Bさん、あのねお母さんがTさんと二人で運動会を抜け出して、タクシーをとめて、乗り込んでいま、大和川の方面にむかった。あの辺はホテル街だからね」
恋する80歳の老人の狂気である。「はい、それで?それがなにか?」
娘でありながら、母親の母親のようにふるまわなければならなかったことがある、という思い出話である。

Yoshida Joe の命日

昨日手帳をみていたら、「今日がJoeの命日だと気づいた」。2005年6月24日からもう丸7年が過ぎた。
今日ネットを見ていたら、柏木隆雄と言う方の筆になる「吉田城さんのこと」という文章に出会った。読んでみて彼らしい人生を生きたのだなと思った。子供のころからこうありたいという人生が彼にはあって、病気と闘いながらも決して屈することなく、思う存分に人生を生きたのだと、楽しんで人生を生きたのだと思うことができた。
彼の妻のHPにもあたった。二人力を合わせて同じ道を歩んだのだと思う。好きな仕事で結果を出すということは、男として最高の人生だったと言えるだろう。そう、実のある人生、これからも、彼と関わったいろんな人たちの時間の中で、かれは生き続ける筈だ。
ふとご両親のことを思った。彼の父は彼が20歳の頃、すでに60歳に近かったように思う。母上の年齢は知らないが生きておられてもすでにご高齢な筈だ。東京の千駄ヶ谷のあの自宅はまだあるのだろうか?彼の姉上はどちらに嫁がれたのだろう。東大の大学院に進んだかれが、まさか最終的に京都の人になりきるとは思えなかった。しかも阪大に職を得たこともあったらしい。「あずまおとこ」と自分のことを書いていたっけ。
柏木氏の文章を読んでいると、年齢を重ねてもけっして世俗の垢にそまらない、彼の生き様がみえてくる。「過ぎ去った時間は戻らない」にしても、過去を忘れても、またいつか共に輪廻転生して、どこかで逢おう、きっとまた逢えるだろう。北白川のロッシーニュ先生の家で、初めて会った時のように、お互いすぐに、何かに気付く筈だ。 

数字、ひらがな、漢字、ABC...

子供の数が少なくなって、幼児教育にもその分熱心になって、最近の子どもの中には、飛び級を考えた方がいい子供も多い筈だ。私の頃は日本もまだ貧しくて、そんなに教育熱心な親たちは周りにはいなかったような気がする。
私は8まで数えることができたが、母に「その後はなーに」と聞いたが小学校にあがるまでには、8まで数えられるようになればいい、と言うことになっているので、あとは必要ないと言われた。それ以上覚えたら、逮捕されるのかと、犯罪にでもなるのかとふと思った。
祖母が出てきて「8の次は9だ」と教えてくれた。「その次は?」「10」「じゃ、その次は?」「10と1で11」吃驚した。「じゃ、次は12ね。そしてその次は13」なんて簡単なのかと思った。今から思うと数の概念はなかった。人が並んでいて、何番目の人が誰であるか、のように順番としてとらえていたように思う。「19の次は」「10、10」「じゅうが2つで、2じゅう」「えーっ、じゃ、次は21ね」99まで到達するのに、3分もかからなかった。「99の次は?」「100」「100の次は?」「100と1だから101」そこからは999まで3分もかからない。指を折って数えてるうちに、だんだん数の意味が分かってきた。つまり順番とは、1を次々に足せばいいのだと、足し算がわかった。そして指を使って足し算ができるようになった。
次の日の朝「数は1000まで数えられるし、指を使ってなら、足し算もできる」と母に言ったら、近くにいた父が「28たす39は、いくら?」と聞いてきたので、吃驚した。指が足らないからだ。父が「足の指を使え」といったので、28から後を指で38まで数えて、足の指一本を10に見立てることを思いついた。28から39回指を折って声に出して数えていった。「67!」父がほめてくれた。昨日まで8までしか知らなかったのだから、大変な進歩である。最初に指を使って数えたので、私はいまだに足し算は指を使う。数字を覚えてからは、数字の形で数を分解するようになった。たとえば、6は習慣的に5と1に見える、数字の7は5と2、8は5と3、9は5と4に形的に数字がそういう表情にみえるのだ。これは今でも便利だと思っている。
前に書いたかもしれないが、兄が小学生になった時、祖母が妹の私にも筆箱や鉛筆や下敷きや帳面を与えるように母に言ってくれた。小学生でもないのに、文房具を手に入れた私は、もう身に余る嬉しさを感じた。祖母は私にABCをまず教えた。なにがなんだかわからないが帳面にABCを書いていった。
教育熱心な家庭ではなかったし、わたしも勉強に向いている知的な子供ではなかったので、そういう遊びはすぐにやめてしまったが。ただ鉛筆をもって字を書くということは、当時の他の子どもよりも早く覚えたかもしれない。
小学校に入るころから、小児ぜんそくが酷くなって、ほとんど学校に行けなくなった。だから比較的息を吸い込みやすい日は、昔の帳面にあいうえお、の練習をした。小学校の2年生になると、漢字だ。昔の帳面に教科書の漢字をまねて書いた。祖母も私に教えることには、飽きたのか絶望したのか、ひらがなや漢字は見たとおりに書けばよいと言って教えてくれない。ただ「寝ていろ」と言うだけである。そんなわけで、私は、ひらがな、カタカナ、漢字は全部自分で勝手に覚えた。
英会話の教師をしていた頃、たまに何かの連絡事項などを黒板に書くと「先生、ひょっとして日本の小学校に行ってないのではないですか?」と生徒に聞かれた。吃驚した。何故私がろくに小学校に行ってないことが、生徒にわかるのだろうか。「なんでわかるの、そんなこと」と聞くと、筆順だという、筆順が無茶苦茶なのだそうだ。

祖母の思い出

祖母が床に臥して何日かがたった頃だ。
その日珍しく私は元気で朝に起きて大学に行こうとしていたのだろうか。鏡の前で髪に櫛を入れていた。背中を覆うくらいに長く多い豊かな髪である。
すると祖母がガラス戸を床に伏したまま、手で力いっぱいに開けた。そしてわたしをじっと見ている。じっと見られるのは嫌なもので、すぐにそのガラス戸を閉めた。鏡の前からガラス戸までの距離は1,2メートル。鏡の前にもどって櫛を入れようとすると、祖母がまた手で力いっぱいに開けた。祖母がこういう風に強く自己主張することはまずないので、少し驚いた。
「あまり、じっと見ないで。どうしたの?何が見たいの?」
「気持ちよさそうに髪を梳いているところを見たい。命の輝きを感じるから。見させて」
「どうぞ。わかった。おばあちゃんの目には、こんな私でも、羨むような生命力を感じるの?」
「本当に気持ちよさそうね。私も娘のころの気分を思い出す」
「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな。おばあちゃんは、まさにこの歌の心境なのね」
「黒髪の驕りの春。Bちゃんもいつの間にかそんな年頃になったのね」

与謝野晶子のこの歌を思い出すとき、私はいつもこの日の祖母の顔を思い出す。そして今自分がその時の祖母の気持ちが、手に取るようにわかるようになったことを、祖母に告げたいと思う。

本当は

祖母が口癖のように「本当は」「本当は」と言っていた。私が16才の時だ。その「本当は」が気になるようになった。そばにいた兄も同じことを言った。
「おばあちゃんの本当はの、本当の基準は何か」
そういわれて祖母は黙ってしまった。「本当は」と言う言葉には、自分の基準のみが正しいと言う前提が見え隠れするのだ。祖母の立場から見れば、随分と価値観の、あるいは判断基準の違う、世界に生きていたのだろう。「本当は」はささやかな抵抗であったのだと、今になって思う。
祖母の「本当は」がおかしいと気づいたにもかかわらず、その前の16年間の無意識の積み重ねで、私の中に祖母の「本当は」はいつの間にか価値基準となって定着しているのだと最近気づいた。
些細なことなのだが。たとえば、去年のお正月51年前に亡くなった父の趣味の友人が、突然家に来られた。
お土産などいらないのに、「Bさんこれどうぞ食べてください」と包みを出された。食べ物だ、一緒に食べましょう、と言われたのでふたを開けた。バームクーヘンなのだが、すでに三分の一なくなっている。食べ残しである。祖母の価値基準が「この人はおかしい、まともに相手にしてはいけない」と私に告げる。
祖母の言っていた「本当は」はつまり、祖母の常識と言うものなのだろう。マナーの場合もある。
スープの飲み方、ナイフの取り方、落としたフォークを自分で拾ってはいけないなど。口に物を入れてしゃべってはいけない、ぺちゃくちゃ音を立ててはいけない、など。
階級に根ざしたものもある。お中元にはたとえば塩昆布ならどこそこ、佃煮ならどこそこ、贈り物もたとえば百貨店なら少なくともどこそこ。もちろんレストランも大切な相手なら最低どこそこ、がある。これはしかし、懐具合の関係で、どうにも出来ない場合もある。私などスーパーのお中元を平気で利用している。分相応と言うものもあるのだ。ただ「本当は」もっと「ちゃんとした」ところから送らなければならないと、心ではしっかりと思っている。
言葉遣いもそうだ。私が目をかけている生徒に「がんばって私を踏み台にして未来に羽ばたいてね」と言ったら、その生徒は「先生こそ、私を踏み台にして羽ばたいてください」と返してきた。その言葉遣いはおかしいと、祖母の価値観が言う。考えていったわけではない、悪気などないのだ、と思うのだが「この子はおかしいぞ」と、頭の中で祖母の声が聞こえる。こういうおかしな言葉遣いは頻繁にある。だから私は頻繁に言葉のやり取りではゲンナリするのだ。祖母はTVやRadioのアナウンサーの言葉遣いにまで「本当は」の突込みをいれていた。たいてい祖母の方が正しいのだ。浪花千栄子の船場言葉のアクセントはいつも祖母に「本当は違う」と毎回突っ込まれていた。
呼び方もそうだ。私のことをいとこが「B」と呼び捨てにしたら、祖母は怒っていた。「本当は少なくともBさん、Bちゃんと呼ぶべきで呼び捨てなど勘違いも甚だしい」と言うわけだ。これも私の中で16年の間に定着していて「お前」とか「あんた」とか、名前を知っている人にそう呼ばれると「まともに相手にしてはいけない人」の範疇に放り込みたくなる。お互い尊重しあって付き合おうと思っている人なら、決して相手を「お前」とか「あんた」とかは当然呼ばないはずだ。
祖母の「本当は」の根底には茶道だあるのだと私は思う。そして和装の感性もある。所作に決まりがあったり、季節ごとにトータルな衣替えをしなければならない、コーオーディネイトの決まりもある。「本当は」の詰まった世界だ。だから所作やファッションに対しても知らず知らずに祖母の基準が私の中に染み付いていたりする。
服装に五月蝿くない知り合いがいて、彼女はいつもバザーで、2,3百円の服を買って着ている。それはそれでいいのだが、たまに「あなたにあげる」と言ってバザーで買った服を持ってくる。「本当はそんなことをしてはいけないよ」と言いたいのだが「本当は、の本当の基準はあなたと、私では違うのだ」と言われるような気がして、非常に戸惑う。

宗教と葬儀

父の葬儀のあとしばらく入院していた。退院して帰宅した次の日の朝だった。
母と祖母が言い合っている。父は一人息子で父には、祖母と祖母の甥の従兄弟ひとりを除いて、兄弟も親族もいない。
祖母はこう言ったようだ。クリスチャンとして旅立って欲しかったと。
母は,自分はキリスト教を知らないし,やって来た親族は母の肉親ばかり、手伝いも力になったもの、お花を出してくれたのも皆キリスト教を知らない私の身内ではないかと。(父が子供の頃、隣の教会に住んでいた父の幼馴染の男性二人が(牧師の息子達)来ていたが)
母の口調が少し激しい。葬儀は若死にしたので気の毒に思ったのか、父の会社が例外的に社葬をしてくれた。立派な葬儀だった。社葬ならばキリスト教でと頼めば、会社がしてくれたのではないかと、祖母。

「お父さんが悲しむから二人とも止めて」と私は心の中で悲鳴をあげた。2,3時間もたたないうちに激しい発作に襲われ、一日帰っただけで、その日のうちに市大病院に逆戻りした。
父がいた頃は、クリスマスには本物の木が家に運ばれ毎年飾り付けをし近所の子供達を呼んでお菓子やプレゼントを配り、自宅でパーティーをそれなりにではあるが、盛大にした。ああいう家庭は父とともにもうなくなってしまうのだと、思った。

父は自分が癌だとわかった時、母に聞いたらしい。
父「おばあちゃんと一緒に、これからの生活やっていけるか。広島の兄貴(祖母のたった一人の甥)に、面倒見てもらうように頼もうか」
母「どこまでいけるかわからないけど、とことんまでおばあちゃんとやっていく」
父「そうか。おばあちゃんにも聞いたら、お前も俺がいなくても大事にしてくれるし、孫達とも離れたくない、このまま、できる限り今の家で一緒に暮らしたい、と言ってた」
祖母からも母からも同じ話を聞いた。そして祖母は「可哀想に、死ぬときまで、私のことを案じてくれた」と言って泣いた。

父の会社には未亡人を雇用する制度があって、2週間も経たないうちに母は会社に出勤するようになった。今まで何もしなかった70歳の祖母は、市場に買い物に行ったり,料理をしたり洗濯をしたりするようになった。

10数年前に父の大学の成績表等と共に、父が文部省の留学生試験をこっそり受けていた書類が見つかった。
自分には妻も母も子供もいる。条件的に無理かもしれないが、神学を学び、クリスチャンとして生きていきたい、と応募英作文に書いていた。大昔に祖父が友達3人と教会を建てたこと、自分の家がクリスチャンの文化を受け入れて来た事、父とは子供の頃毎週一緒に教会に通った事、そして父がアメリカから持ち帰った本物のアメリカ民主主義を自分もこの混乱の日本に持ち帰りたいと、応募動機に書いていた。

40年前祖母が亡くなったとき、祖母に来る年賀状を頼りに、私は面識のない人たちに連絡をしてみた。
祖母から名前だけ聞いていた遠縁のご婦人たちが2,3人出席された。
「あれっ、クリスチャンだった筈ですが」と。
「母がキリスト教を知らないものですから」
「お孫さんが、お爺様からの遺伝?でか、やっぱり酷い喘息で、学校に行けないって、心配なさってました」
「そうですか。そうでしたか。その孫が、私です。」
霊前に進み出てその方たちは一礼、そして十字を切られた。
私が生まれる以前は、祖母は(そして父も)クリスチャンの家庭でクリスチャンのお友達とクリスチャンとして暮らしていた事がよく分かった。

Au Revoir, Rose !

Parisに帰る日が来た。午前中マルセルに案内してもらってレコード屋に行きベロニック・サンソンのLPを買ってきた。心ばかりのRoseへのお礼だ。Roseは若いカトリーヌ・ドヌーブだと思っていたが、感性としてはベロニック・サンソンに近い。
今は車を取りに家に帰ったマルセルを待つだけだ。Roseはどこかに消えてしまって姿を見せない。三階の窓から外の様子を見ている。楽しかったPlace de la Paixともお別れだ。あっ、マルセルの車がこちらに近づいてくる。と同時にドアがノックされ、Roseが息子の手を引いて入ってきた。
「もう帰るの?」?うん。いろいろ有難う。?
「Bruxelles,私も下に降りてお見送りをしてもいい?」?Rose、何言ってるの。当たり前よー
三人で階段を降りる。
外に出て驚いた。近所の人たちが家のドアの外に出てきている。通りがかりの野次馬まで立ち止まっている。こんなにたくさんの人達が見送りしてくれるの?
「みなさん、いろいろ有難う御座いました」
マルセルの車に乗り込む。マルセルが車をUターンして方向を変え、そしてストップ。
群集の中の一番先頭にいるRoseとWillyに手を振る。Roseが息子の手を引いて、通りを横切り、車に近づいてくる。Roseが窓をノックしている。窓のドアをクルクルと降ろした。
「Bruxelles、最後にちょっとお別れのキスしていい?」Roseが車の窓を覗き込んで恥ずかしそうに言う。
Roseは一生の友達だって言わなくちゃ。
Roseにあたらないようにゆっくりとドアを開けて、一旦車から降りた。
Rose,私のこと忘れないでね。そんな気持ちで強く抱き合って、また熱烈なキスをした。近所の人達や野次馬50人くらいが、じっと私たちを見ている視線を感じる。かまわない。Rose、感謝している。暖かい気持ちを本当に有難う。Roseと息子は後ずさりして群集の中に入っていった。Roseだけにずっと手を振ろう。そう思ってRoseとWillyに視線を向けると二人はもうそこにはいない。消えた!と思ったら、RoseとWillyが走って家の中に入ってしまった。
Marcelが車をゆっくりスタートさせる。
ー何故家の中に入ってしまったのだろう、何故??
ふと悲しくなった。その時二階の窓が左右に音をたててバタンと開いた。RoseとWillyがそこから身を乗り出して手を振っている!
「Au revoir,Bruxelles!」Roseの声がはっきりと聞こえる。
「Rose,そんなに身を乗り出したら窓から落ちるよ。Rose, merci beaucoup et Au Revoir!」
私も大声で繰り返した。Rose, Au Revoir !

Roseからの手紙

思いがけず昨日の夕方、郵便受けにRoseからの手紙を見つけた。石井好子先生が亡くなられて、もう手紙を書く喜びも受け取る喜びも忘れかけていた。Roseのことは、自分の終焉を考える時いつも思い出していた。
Roseの夫は癌、Rose自身も変形関節症に悩んでいるようだ。
---Je te remercie beaucoup pour ton cadeau et aussi pour ton amitie. Car tous les jours tu es dans mes pensees et j'espere un jour te revoir. Tu reste dans mon coeur pour toujours. Je t'aime Bruxelles, n'oublie jamais ton amie. Je t'embrasse tres fort... R---
こんな手紙を私に届けてくれるのは、もうRoseしかいない。Roseは老いたと書いている。私に会いたいと書いてきている。少なくとも手紙が欲しいと。

30数年前、Roseは大きなカフェを持っていて、その上はホテルになっていた。そして私をそこにただで泊まらせてくれた。お客さんや近所の人たちともみんな友達になって、最高に楽しい日々を、私はRoseと共有している。

ベッドに座っているとRoseが入ってきた。そして横に座る。「Bruxellesは男に興味がないのか?」といきなり聞いてきた。そんな事はない。「Bruxellesはほとんど男性の方に視線を向けない」Roseが私の視線の先をいつも気にしていたことはわかっていた。Roseは自分と感性の合う話し相手をずっと求めていたのだろう。Roseは会った瞬間から私に興味を持ってくれた。Roseも私も姉妹がいない。父を早くなくしている。母親の愛は兄だけに向けられている。私もストレートだが、Roseは自分の感情にもっとストレートだった。その他の環境も性格も、かなり近い。
「Bruxelles,私も同じようにするから、どうか私に対しては、心を手のひらに乗せて、包み隠さず見せて欲しい」
そう言った。「Marcelと再開した時、キスしてたけど、Marcelのこと好きなのか?」?特別好きではないけど、再会の挨拶。「好きと、誤解されるよ。MarcelはBruxllesにもう夢中なんだから。それにMarcelはスーを持っていない。スーを持ってない男と付き合っては駄目」「私は18で子供を産んだ。たった2回しかしてないのに。無知だったのよ。仕方がないから結婚。あっという間に母親で妻。あなたのように自由はない。私もあなたのように、一人でふらりと、異国に行ってみたい」-Rose、日本人って、珍しいの?「そんな事はない。お店でスロットマシーンをする日本人は多い。よく来る。けれど話す気にはなれない。感じるものが全然ないし、しゃべらないもの」・・・
Roseには夫以外に恋人がいた。たしかJacquesといった。他にもRoseに好意を寄せているお客さんも多い。Roseは男の必要性をよく知っている。女であるためには男の愛が必要なのだ。
「でもね、子供ができるのは困る。Bruxellesだから言うけど、ここでは中絶はできない。2年前実は子供が出来て、そのときは迷うことなくアムステルダムに行った。この意味わかる?」-Roseの人生は18歳で、止まってしまった、子供のせいで。そう思ってるのね。Willyのこともっと可愛がってあげなくちゃ。でも18じゃ、いきなりおかあさんになれないかもね。「Bruxelles,明日もあさってもずっとここに泊まってていいよ。いろんな話しようね」

RoseはBruxellesはカウンターの向こうにいるのでなく、私のそば、つまりカウンターの中においでよ、という。何もしなくて座ってるだけでいいから。そしてRose一人が働いている。Roseはお客さんと話すが、私がカウンターのお客さんと話すとイライラする。「Bruxellesは私の友達よ」と睨みを利かせてから、飲み物をテーブルに運ぶ。そうこうしている内に、カウンターに戻ってくるたびに「Bruxelles,私のこと好き?」とあたりをはばからず聞くようになった。大勢の人の前で「好き」など、冗談にも言えない。また飲み物を運んでいく。そして戻ってくる。そのつど、Roseの様子がおかしくなってきた。次第に心理的安定を欠いていったのだ。「Bruxelles,私のこと好き、愛してる?」と何ものかに憑かれたように繰り返す。Roseが近づくたびに、心がバランスを崩すほど、その質問に捕らわれているのがわかった。精神はぐらぐらだ。どうしよう、Roseに愛している、と言ったところで、ここまで不安定になると、最早効果はない。「Bruxellesは私のこと、好きではない。だって、あなたと話をするけど、私には何も言わないもの」カウンターのお客さんに愚痴る。Roseは男に囲まれているけれど、女性の、お母さんの、お姉さんの愛が必要なのかも、あるいは心の通う女友達の愛が。どうしよう。お客さんもRoseの様子が変なのに少し気づいてきた。「Rose,日本人の子、困ってるじゃないか」誰かが言う。「だって、愛してるって言ってくれないもの」近づくとRoseのイライラの波がこちらにも伝わってくる。どうしよう、少し焦った。私はかつて精神科医を志したのだ。分かった。覚悟を決めた。今度カウンターに戻ってきて、また同じ質問をしたら...。
Roseが同じ質問をした。Roseの手が空っぽになるのを確認してから、Roseを振り向かせRoseと向き合い、Roseを両手で抱きしめて、挨拶ではない心を込めた熱烈キスをした。
波が引くように、Roseのイライラが、スーと音もたてずに溶けてなくなって行くのが分かった。別人のように安定したRoseが笑った。カウンターのお客さんたちから拍手が沸き起こった。(日本だと、こうは行かない!)

とり残される不安

学校から帰ると珍しく祖母が玄関から飛び出してきた。
「どうしたの?」
「あー、よかった。帰ってきた。」
「帰ってくるって、当たり前なのに、どうしたの?」
「誰も家に帰ってこなかったらどうしようと、不安になって」
「他に行くところがないから、みんな帰ってくるに決まってるのに」
「一人で家にいると、このままひとりで、とり残されたらどうしようと」
私は病弱でほとんど学校に行かない。従って祖母も一人で家に残されることもめったにない。珍しく私が5日も続けて学校に行ったものだから、祖母は次第に不安になってきたのだろう。それにしてもあの時の祖母は本当に不安そうな顔をしていた。

もっと小さい時の夏休み、父と母と兄と私と、祖母を残して4人で母の実家に行って何泊かしたことがあった。あの時祖母は、一人で家に残されて、やはりそのような不安を感じていたのだろうか。
・・・・・

子供が家を建てたりマンションを買ったりして一家で出て行き、団地にひとりとり残される老人が多いと聞く。昔流行したニュータウンの団地は、今や、独居老人の集合住宅と化しているとも聞く。大邸宅に一人とり残された老人も多いだろう。

・・・・・
私の祖母が精神的不安を訴えたのは、あの時が最初で最後だ。昔の老人は生活手段を持たない。同居と言う暗黙のルールを盲信して生きていた。しかし息子に死なれた母の場合、嫁に再婚相手が出来た場合、一般的にはどうなっていたのだろう。息子に死なれた老いた父の場合、嫁に再婚相手が出来た場合、一般的にどうなっていたのだろうか。「世間の非難」という見えざる手があって、こんな場合嫁が再婚する可能性は前提として、摘み取られていたのかも知れない。世間の非難や賞賛の眼が、福祉の役割を果たしていたのかもしれない。

祖母は世俗にまみれることもなく、迎合することもなく、精神的に堕落することもなく、掃き溜めの鶴のようにいつも毅然と生きていた。孤立に耐えられたのは、豊穣な体験と知識に加え、読み書きが完璧に出来たからだろう。

祖母が亡くなった翌年、祖母の部屋の棚の奥に一冊の手帳を見つけた。何年も前の手帳で、パラパラとめくってみたが何も書かれていない。それより未使用のまま古くなってペイジがくっついている。それを剥がしていくとその中の一頁の一行に、読み取れないような弱弱しいかすかな字で、何か文字が書いてある。一冊にたった一行。虫眼鏡が必要なくらいの字で、祖母の字なのだろうか、こう書かれていた。?淋しい生ー

一人息子に先立たれて...

どう運ばれてきたのか、父の遺体が家に戻ってきた。めったに感情を表さない祖母が、とりすがって大声で泣いた。布団の上に刀が置かれている。それが上下に動いて、まだ息をしているように思えた。

父の葬儀の日、私は喘息の発作が出て、母の姉の家で医者の往診を受けていた。当然注射だ。強烈な注射をして起き上がり、着物を着せられて、焼香をした。そのときの写真があるが、私は本当に小さいひょろひょろの子供だ。酷い喘息で骨と皮で、見るからに発育不良の虚弱児だ。火葬場には行かず、誰か知らない人の背に負われて、父の出棺を見た。
祖母はどうしたわけか、喪服に着替えず普段着のままで、しかも火葬場に行く車には乗らなかった。私の隣で首に両手を当てて、母の兄弟や甥達が棺を車の中に運び入れる出棺を目で追っていた。
私はそのまま、また母の姉の家に連れて行かれ、布団の中で苦しんだ。何日かその家で寝ていた。そしてそのまま市大病院に入院した。
その後、父が骨と灰になり家に戻り、家の中で何があったか何も知らない。

その後何年かたって、祖母から同じ話を何度も聞かされた。
「おばあちゃん、えらい元気ですね」
火葬場から戻った母の妹のHおばさんが、一人息子に死なれた祖母にそう言ったらしい。誰一人、声をかける人もいない、慰める人もいない祖母に、ただ一人声をかけたのがHおばさんだったのだが、祖母のショックはおさまらなかった。
「代われるものなら代わりたい、自分が死にたいと思っている人に、あんなことを言うなんて...」
Hおばさんに悪気があったとは思えない。ただ状況を見て「この人元気だな。世の中はなんて皮肉なんだろう」とフト思ったのだろう。「何故年齢の順番に人は死なないのだろう」と心底その時思ったのかもしれない。言われる者の立場を斟酌する余裕がなかったのだろう。
Hおばさんは人一倍身内思いの人で、その後も姪の私にはよくしてくれた。しかし祖母はその後一生、そう言われた言葉を噛みしめて、辛い思いを抱いたまま生きたのだろう。

思えば誰にでも経験があるかもしれない。
「あの人のあのひとことだけは、どうしても許せない」
そんな思いがひとつや、ふたつ。あるいは思い出せないくらいに沢山...

姫神さんへの手紙 (6)

○手紙有難う。文京の方、校正するの、そんなにイヤ?そんなに?実はブリュッセルの友達が貿易会社の仕事口見つけてくれそうなので、近日中にウイかノンを言わなくっちゃ。

○もしね、もし文京の四城シリーズ(これも単独でなく芦原修二とカップリングだと思うのです)が出て、潮流社の連載が決まったら、・・・その時は、私の青春のためにではなく、それにピリオドをうって、今度は職業としてストーリー・テラーになるつもり。そして自分自身のためには・・(略)。これからは、ジャーナリストとしての眼をもった作品を書きたい。

○小川氏の手紙転送有難う。やっと嬉しくなってきた。だって、この件でもガックリきてたんだから。でももうすぐね。出たら、知らせてね。一体どんな本なんでしょうか?

○あの本が出た夢を見た。出るな・・という気がしたけど、よけい無理に期待を殺してきた。

○とにもかくにもあと少しで(あの本)が出るんだから嬉しいです。文庫本に入るみたいね。あの社会思想社の現代教養文庫に入るなんて光栄。でも小説として出るのか、手記として出るのか、どっちだろうか?これに加えてもしあの四城シリーズが出たら、あとは何とか、なんとか頑張ったら、やり方次第で、なんとかなるかもね。

○W法律事務所の上田さんと言う人に、10月末出版予定の中の(1)が私の本だと、伝えて下さい。彼女に調べてもらったんだけど、タイトルは「1945年を軸としてー昭和史の記録?」(仮題)だそうです。出たら、すぐに知らせてね。

○新刊の単行本じゃなくて、少しがっかりだったけど、あなたの言うように単行本だったら、数ヶ月で書店から消える。でも文庫本だったら、何年も何年も書店に行けばそこで手にとることが出来る。これって、凄いよね。それに社会思想社の教養文庫なら、どこの書店にもある!

●出るのか出ないのか、出るとしたらどの出版社からか、またどういう形になるのか、全く分からなかった。著者不在で、結局あれよあれよと言う間に著者校正のないまま出版された。作品は四城シリーズの中から一編。しかも昭和史の記録として、つまり社会性のある記録作品として、全三冊のシリーズの一冊に収録されるという形になった。私としては純文学のつもりで、イデオロギー性は全くないと思っていたので、とても意外だった。私の作品のタイトルは「帰ろう愛の天使たち」サブタイトルは「または無音のシラブルの意思について」、サブタイトルからも分かるように、三分の一は言語に関する哲学的考察である。ストーリーのメインは堕天使たちの悲恋のお話。残りの三分の一は、昭和42年あたりから昭和46年辺りまでの時代背景。つまりあの’68の青春記録である。今読めば確かに確たる政治的視点がある。詩を書き、創作し文学仲間と交わりながらも、学生時代政治クラブに身を置いていた。姿勢は一貫して揺らぐことはなかったが、時代の流れや文学仲間達と完全に逆流していた。時代は私にとっては押し寄せてくる大波であった。実際匿名の者達から脅迫状や刃物を受け取ったこともある。大波を被り息も絶え絶えの政治的立場でありながら、確かに怯える時もあったが、政治的・思想的視点が揺らぐことはなかった。文学仲間においては黒羊である。黒羊は決して表立って登場できないマイナーな思想者であったが、それなりに時代を政治的・思想的に切りとる眼は持っていたのだ。編集の小川氏がそこに着眼され、あの作品を昭和史の証言のなかに、社会思想史の中に押し込んでくださったことを、今は実感を持って感謝している。昔の自分を思い出したように、私は今、ある政治サイトを運営している。昔と視点は決してぶれてはいない。人生の半ばをかなりすぎてから、自分の中の社会思想性に再び出合ったのだ。文学からは大きく遠ざかってしまった。政治的・思想的視点は、相変わらず大波を被り溺死寸前のマイナーな黒羊である。

●時にはマグリットの森のようにも見えるヴァンセンヌの森に面した豪邸の屋根裏部屋で、私は自書を手にした。姫神さんが送ってきてくれたのだった。嬉しくてParisの友達の陽子さんに見せたら「Bruxellesさん、これBruxellesさんが、誰かに書いてもらったんだ。絶対そう。あなたが書いたんじゃない。絶対」と言われた。どうしたわけか、私は詩や小説を書いたり、政治を語ったり、哲学したり、思索したりするような(タイプ)には(絶対)に見えない(タイプ)なのだ。それでむしろよかったと思っている。プロであろうとなかろうと、女性にとってそれはあくまでも内的趣味であり、外的評価には決してなりえないからだ。

●残念なことに、バブルがはじけて出版不況が来た頃に、社会思想社は倒産した。せっかくの現代教養文庫も今では書店で見ることもない、過去になってしまった。いずれその名も人々に忘れ去られてしまうだろう。

・・・・・追記:2010年6月6日・・・・・
●水彩画の裏を見ると、定期的に喘息の薬を姫神さんに送ってもらっている。エフェドリンが入った頓服用である。Parisの気候は、特に湿度の低さは、身体には快適で特に害にはならなかったのだが、食べすぎが一番呼吸困難を誘発したようだ。食べ過ぎて動けなくなるのだ。食道楽の大阪から来て、こう言うのも変な話だが、Parisは貧しいものにも、食の重要さを教える。貧しくてもコース料理を覚えてしまうのだ。ただ、今から考えると、毎回なんらかの食物アレルギーを起こしていたのかもしれないが。身体は太りはしないが西洋人風に「がっちりしてきた」と日記に記している。

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