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6)父の日記

(6)父の日記 2004年7月15日 (Thu) 13:36:27

小さい頃毎朝早起きしては隣の家に出かけて、家族全員の前で歌を歌うのが日課だった。歌は兄が前日幼稚園で習ってきた歌。なんて近所迷惑な子供だったのか。
幼稚園の時は1度ラジオの子供番組に出た。T薬品の提供番組で予選フリー、いきなり本番だった。父が放送局に連れて行ってくれた。ラジオが悪かったのか、声が悪かったのか放送日、ラジオからはゼーゼーという音しか聞こえてこなかった。歌ったのは「土曜日の夜」

養護学校の誕生会でもいつもソロで歌っていた。「恋の片道切符」「オオ、キャロル」「カラーに口紅」「悲しき街角」etc,.

高校の時は予餞会。2年連続アカペラで独唱した。1年目はアル・ジョンソンの「スワニー」2年目は雪村いずみの「約束」。それに加え高1の時、労音の新人歌手コンテストにまで出場した。会場がすでに大ホールだった。課題曲は「夜明けの歌」伴奏を無視して自分の旋律で歌った。思いがけず拍手が来た。歌った後スカウトが来た、と思った。今考えたら、単なる歌謡学校の生徒勧誘だったのかも知れない。2次選考があると聞かされた。自由曲と言うことだったので「スワニー」と書いた。・・病気で出場できなかった。

音楽教師は宮川泰と同期と言うのが自慢の人。この教師に「君のような歌い方をするのは、天才か気違いだ」と言われた。自信が砕けて落ち込んでいたら、友達が「天才か気違いだったら、天才と思えばいい」と励ましてくれた。「そういう考えもあり、か」と思った私は本格的に音楽院で個人レッスンを受けることになった。卒倒するようなレッスン料だ。まずは発声練習から。裏声を使えと言われた。裏返せば上はいくらでも出る。抵抗を感じた。地声で歌いたい。しかし地声なら幅は狭い。
I left my heart in San Francisco??「思い出のサンフランシスコ」などを練習した。・・しばらくたった頃、いよいよナイトクラブで歌ってみないか、と言うことになった。体力的にも無理だったしその上母が大反対した。歌手になる夢は、そのとき消えた。?

そもそもそのレッスン料は、どうしたのかと言うことだ。大沢さんに払ってもらっていた。大沢さんの月収のおよそ30%を私の道楽が食い潰していた事になる。本当に申し訳ない。

大沢さんがABC画廊にみえた。「あっ、これは○○○○さんの字だ」と叫ばれた。「Bruxellesさん、これお父様の字体ね」・・・
父の日記は英文で、タイプで打ってある。ミスタイプを直した部分が2ヶ所、文字にして5文字しか手書きの部分は無い。・・・・
私はひとつの物凄い愛の渦の中に、自分がいたのだと感じた。
「彼の人の子」・・Bruxellesではない、Bruxellesの父の子、それが私だ。祖母の孫でもある。それ以外は自分個人が人との関わりの中でつくり上げていく。その時点の自己認識が、突然明快になった。

父の日記は3月13日の大阪空襲。祖母が真っ先に逃げる。父が最小限必要なものを手に取る。逃げようとすると、犬のポチが泣き叫ぶ。父は迷う。引き返せばとても危険だ。クリスチャンの父は炎の中を引き返す。鎖を解く。犬はしばらくキョトンとして、何を思ったか、家の中に逃げ込んでいった。・・通りには戦争ヒステリーの人もいる。畳を持って逃げている。子供を防空壕に押し込もうとする人。爆風で自転車が電線に、焼け爛れて引っ掛かっている。とにかく熱い。川に飛び込む人もいる。人々は北へ北へと逃げたらしい。持って逃げようとしたものを、次々と道に落としながら。阿鼻叫喚。・・・・唯一の鉄筋のビル、心斎橋の石原ビルに人々が集まる。覆い重なるような多数の人々の一番奥に、着の身着のままで逃げた祖母を発見する。大きな安堵。滅びの家系、祖母には父、父には祖母しか、(同姓の)家族も親族もいない。

この心斎橋の石原ビル、「東京資本の大阪進出」という大々的ニュースと共に、西武資本に買い取られ、心斎橋パルコになったのは、詩画展の4年前のことだった。
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Georges Brassens 「La chanson pour l'Auvergnat」

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Bruxellesボコボコにされる


Bruxellesボコボコにされる 2004年7月1日 (Thu) 17:38:35

「悪がき」という面構えの橋本君という子がいた。その子が何を思ったか急に近づいて来て、校庭に立っている私をからかい始めた。私の周りを手を叩きながらピョンピョン飛び跳ねて、口で挑発。やーいやーい、何とかかんとか。初めは取り合わなかったけれど、我慢しなくちゃと思った途端ウーと身体が縮こまっていく。相手は飽きずにピョンピョンピョンピョン。「うるさい!」と言いたいのだけど、ウーと必死に我慢した。と突然「ウウッ」という大きな声が聞こえた。声のほうを見ると橋本君が両手で口を押さえて、動きを止めている。目を閉じて,縮こまったままファイティングポーズも取らず、腰も回転させず、膝も使わず、正面を向きもせず、いきなり右腕だけを使って、どうやら真横に右ストレートを(ほとんど反射的に)放ったようだ。口を押さえている橋本君の指の間から真っ赤な血がタラ?リタラ?リ、ポタポタ。口を押さえたまま一言も発せず走り去っていった。重い鞄も持ったことのない私のパンチが、あんなに効くものだろうか。

すでにボクシングの試合はたくさん見ていた。原田、青木、海老原、小阪、山口、関、高橋そして川上。でも見ているだけで強くなるわけはない。この学校、傷害事件で退学?何が起こったのかよくわからない。
おやつの時間探したけれど食堂に居ない。男の子に聞くと「御池先生と歯医者に行った」と言うではないか。どんな風に叱られるのだろうか。早く覚悟を決めておこう。・・
担任からも、御池先生からも、橋本君からも、しかし何の苦情も一切なかった。

そんなこと完全に忘れた頃に、女子寮に一通の決闘状が舞い込んだ。巻紙、しかも決闘状として正しく巻かれた、墨で書かれた、候文の。場所と時間も明記されている。受けるしかない。使い走りの子に「たしかに」と伝えた。男子対女子の決闘。女の子たちに伝えると「行く行く」とみんな元気一杯、ワクワクムード。
ノー天気でこっちは何の作戦もない。記された時間に少し小高い校内の山に20人程で登っていった。
誰も居ない。「逃げたな」「出て来い」「卑怯者」口々に叫ぶ。肩すかしの気分。と次の一瞬木々の陰から男子生徒が、次々と現れるではないか。15名程度がやる気満々な顔で近づいて来る。
「キャー」「キャー」「ギャー」
女の子たちは一斉に山を駆け下りる。私を除いて全員見事に。
隊長はおとなしいが身体も大きく頭もいい尾形君だ。「予定どうりだ」と呟く。あっという間に周りを取り囲まれた。
「一対一にしよう」「一度には攻めない」
2時の方向からまずA君が体当たりしてくる。私は構えてそれをかわす。8時の方向からB君が・・。次もかわす。4時の方向からC君が・・。体当たりに見せかけて身体をかわせているのは、どうやら向こうの方だ。その都度私は西を向いたり東を向いたり。次第に速度が速くなる。と、西から東に私が身体を回転させようとした、その途中の一瞬、一人がリズムを狂わせて体当たりしてきた。あっという間に倒される。男の子が上に乗る。振り払おうとした瞬間、次の男の子がさらに上から飛び乗る。・・次にまた・・次にまた。内臓がパチンと破裂しそうになった。我慢。5人目。6人目。7人目が8段重ねになる直前にGive Upした。ゲー。ゲロゲロ。グッタリ。死ぬかと思った。圧死しなかったのが不思議なくらい。尾形君の統制の元、全員黙って引き上げていく。

尾形君ってなんて頭のいいヤツなんだ。きっとこの作戦は漫画で読んだに違いない。尾形作戦の様式美に感心した。15分くらい動けずにいた。女の子数人と学校の担任がこっちにやって来る。
「お前は、あほか」
「何を考えとるんじゃ」
その後職員室でこってり絞られたのは、言うまでもない。
「みんなお前が悪い」
ボコボコにされて、なんだか妙にすっきりした。

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PEDRO par Marie Dubas
バルバラとマリー・デュバは、ユダヤ系お仲間。年は離れているが交友はあったようだ。病院にも見舞っている。


死者の焼香

死者の焼香 2004年6月30日 (Wed) 18:10:23

久々に直ちゃんから電話があった。広田さんが死んだという。広田さんは病弱ではない。偏食矯正という名目で養護学校に来ていた。誰からの連絡?広田さんの彼氏からの連絡。死因は?彼氏が泣いて、よくわからないと言う。×日×時×寺で。どうしよう。直ちゃんは名簿を頼りに全員に招集をかけたという。広田さんのお父さんは結核で入院中。お母さんは、いない。自殺?

お寺には30人あまり集合した。寮母の先生たちの姿も見える。吉野の桜から1年半ぶり。直ちゃんは徹夜して書いたという分厚い手紙を持参していた。お棺に入れたい。誰もまだ20歳になっていない。子供だけれど全員喪服を着ている。いよいよお葬式スタート。長い読経の後お焼香だ。大きなお寺の一番後ろから「喪主、広田美智子殿・・」という声と共に、な、なんと広田さん本人が現れた。「あっ」「あっ」「あっ」30人が全員唖然。ポカンと口を開けたまま。広田さんがお焼香している後姿を見て、誰かが笑った。笑いは感染してその30人の一画全員に波及。時ならぬ笑い声が、お寺に波打ってしまった。

久しぶりにF先生と会う。F先生は郷里の同窓生と結婚されていた。私が養護学校で不眠症になった時、自分の部屋に布団を敷いて私を呼んでいろんな話をしてくださった。ラグビー校の話。イギリスの教育制度。F先生は心臓病のため、目的校への進学を断念されたらしい。それでも、今も勉強もするし教育、特に進学に熱心。「主人が、阪大に教えに行ってるの。Bruxellesさんも阪大に来なさいよ。心理学を教えてるの。ぶらぶら遊んでないでそうしなさい」
・・もう10月だった。阪大クラスなら、判定はDだ。5ヶ月弱でDからAに持っていけるだろうか。祖母の世代は旧帝大に弱い。祖母も納得するはず。しかし。小、中、高、まともに通学していない。高校なんか、卒業してから、日数が足りないと、補習に来いと苦情が来た。オームの記号をQと書く人間が阪大に進学できる?団塊の世代は何事にも競争が激しい。時間が足りない。不可能を可能にする方法がないだろうか?帰りがけに阿倍野のユーゴ書店で「不可能を可能にする方法」という本を買った。

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TOI LE POETE par Ginette RENO
カナダ、ケベック州のシャンソン歌手


オームの法則

オームの法則 2004年6月22日 (Tue) 15:50:36

半月ほど休んで久々に学校に行ったら理科の授業の前にいきなり小テストがあった。「何のテスト?」後ろの子に聞いた。その子は理科の教科書をひろげ「とにかくこの式を覚えて。Vが電圧、Aが電流、オームは抵抗、その計算当てはめるだけでいい」その子が指し示す式を頭に入れた。答案を集めた後、その子と解答の確認をした。全部同じ。OK。

お昼ごはんのとき、後ろで声がした。「お前なんで弁当隠して食べてんねん。見せろよ」後ろに体力のありそうな男子生徒が来て木本君(仮名)のお弁当を取り上げて見せびらかした。初めて見る日の丸弁当。本当にあるんだ。「お前おかずないやんけ。こんなん食ってんのか」私は黙ってその男子からお弁当を取り戻した。その子は病弱な私が振り向いて手を出したものだから、吃驚して去っていった。「何なの、あの子。失礼な。乱暴な。狼藉者。ひどい?。いつもああなの?」・・「僕は気にしない」「それにしても、あんなことされたら、クラス全体が嫌になる」「僕は平気。僕は何されても君さえその席に座っててくれたら、どんな事でも耐えていけるねん」(あらら)「君が休んだら心配だけど学校へ来てくれたら、薔薇色やねん」「・・・」自分の登校が自分以外の人に意味を持つということを、そのとき初めて知った。

木本君は本当に細い。カカシが学生服を着ているよう。それに度の強いメガネ。ケンカ弱そう。その上学年で一番。数学の担任のお気に入り。普段、虐められているのかもしれない。話をしたのはその時一回きり。その後木本君は天王寺高校、阪大と一流コースを歩んだ。

予備校に籍を置いてプータローしている時、その木本君に道でバッタリ会った。「どこ狙ってるの?」実は辻料理学校に行こうと思っていた。どこ?と言われても。どこと言えばみんな納得してくれるのかなあ。「木本君と同じところ」口からでまかせを言った。「そう。じゃあ僕、待ってるからね」・・・私の高校からそんなところへ進んだ人は一人もいない。・・・

私が琵琶湖方面にボウガンの練習に行って帰って来たら「今日、木本と言う人が来た」と母が言った。「Bruxellesさんに会いたいって」居ませんと言ったら、じゃ、お兄さんとお話がしたいといって、家に上がって話していったよ。「何の話?」兄はT薬品の奨学金で専門書は買い放題、だから本棚は満杯。「大学院へ行くらしいよ。アドバイスお願いしたいって。本を見ていろいろ質問していったよ」・・・
木本君は私とだってまともに話したのは前記の2度だけ。非社交的な兄と、初対面でいったい何を話したんだろう。兄はまた例のセリフを言うに決まっている。兄が阪大に合格したとき、私のクラスメートのY君から祝電が来た。喜ぶどころか憮然として兄が言った。「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ。オレは馬か!!」

例のオームの法則のテスト。木本君は満点で、私は0点でかえってきた。「何で何で。答え一緒なのに。おかしい」木本君も首をひねっていたが、やっと気がついた。「君は教科書をチラッと見ただけだからオームのマークを知らなかったんだね。君はほら、全部Qになってるよ」・・・・
木本君は院を卒業して三菱石油に入社、いきなり海外赴任したと噂に聞いた。

・・・・追記:2012年1月26日・・・・
今日突然気づいた。全問正解だったのに、オームのマークが間違っていたためにゼロ点にした、理科の教師。おかしな人だと思っていた。今日気づいた。彼は多分私がカンニングしたと思ったのだろう。テストの後、木本君と答え合わせしていたし、数字だけ全く同じ、マークが全部違う。常識で考えてもそうだ。1か月ほど休んで、全く知らないところの不意打ちテストで、正解なんか出せる筈がないと。じゃあ木本君も共犯にされたわけだ。失礼な教師だ。

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Serge Gainsbourg 「La Chanson De PREVERT」
才能のある人は、真剣に生きられない。この人を見てそう思う。


幽体離脱

幽体離脱 2004年6月19日 (Sat) 16:57:57

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少し話が逸れるが、私はひとつの、面白い体験を持っている。
7年ほど前養護学校の静養室でひどい発作(喘息)に苦しんでいた真夜中のことである。その時の発作は十数年来を振り返っても最も強烈な苦しさで、立て続けにむかついて、咳き込むたびに顔を突っ込みそうになる洗面器からは汚物が溢れ始めていたし、苦しさといったら死んでいるのにまだ追っかけられているような感じで、私は何だか必死で助けを求めて叫び続けた。が、そんなことは一切無駄で、同病の同室の子は2時間ほど前から、バタバタと死ぬように疲れ果てて寝入っていたし、夕方3度ほど汚物を捨ててくれた寮母さんや看護婦さんも、いつの間にか別の棟に消えてしまっている様子で、今の自分の苦しみを助けてくれる希望は全くないことだけはっきり分かっていた。私は何とか息を吸おう吸おうともがいていたが、、一瞬パット苦しさから逃れる方法を考え付き、エーイと実行した。自己分離をしたのだ。今でも覚えている。あれは、私の魂が、苦しんでいる肉体の右前方約38度、高さは目の位置から上約60度、距離は約3メートル程の空中に飛び出して、苦しんでいる私を、同情しながら見たのである。そして私は、まんまと苦しさから解放されたのである。 
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1969年4月15日発行、詩劇通信「ぐるっぺ」に書いた日登敬子詩集「正しく泣けない」についての、拙文からの一部引用である。
まだ幽体離脱などという言葉は無かった。書いたのは69年だけれど、実際の体験は62年辺りか。その後、幽体離脱という言葉が登場し、広くマスコミで取り上げられるようになって、一番興味を持ったのは、幽体が本体を見つめる位置である。すべての証言が奇妙に一致している。私は苦しさから逃れるために、この時、意識的に、自分を分離させている。その点が他の証言とほんの少し異なる。

実は私は、もう一度この体験がある。1986年、例の交通事故で大量の血液を流失した2日目の夜。横たえていた身体が、横たわったままの状態で、ゆっくりと1M程上昇、宙に浮いた。病室全体が俯瞰で見えた。ベッドの配置、同室の人の寝顔、その人のタオルや湯呑みの色。何の力が働いて宙に浮いているのだろうか?すると今度は、足の方向から頭の方向に向かって力が働いた。窓ガラスに頭がぶつかってしまう。不安を感じたとき、すでに私の頭部から肩にかけて、窓ガラスを突き抜けていた。さらに足元から外に押し出す力が働く。横たわったままの状態で今度は夜空に浮いた。ゴーゴーという風の音が聞こえる。何処へ行くんだろう。不安と恐怖で一杯になった。すると、またゆっくり今度は頭部から足元に向けてベクトルが働いた。ガラスをつきぬけ病室に戻ってきた。深い安堵。ただ宙に浮いているので、何処に放り出されるのかという不安は残った。しかし、ふわりふわりと、ゆっくりと、横たわったままの姿勢でベッドの上に、着地した。帰ってきた、と思った。肉体に帰ってきた、と思った。・・・・・

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La Boheme par Charles AZNAVOUR
「悲しき天使」に通じるものがある。青春は、悲惨で滑稽であればあるほど、振り返ってみて、愛しい。


病弱という井戸の中で

病弱という井戸の中で 2004年6月18日 (Fri) 15:13:10

養護学校にいる時、夕食後いつも海を見ていた。夜の海は波音と潮の匂いと気配として存在するだけで真っ暗な闇そのものになり視覚的には消えて見えない。そんな海を飽きもせずに見た。一度母が亡き父の元上司と二人で面会に来たとき、私が居ないということで大騒ぎになった。「どこで何をしていたのか」と聞かれ「ベランダから海を見ていた」と答えた。「海といったって、こんな時間に、何が見えるの?」と、問い詰められた。・・帰省日に祖母が「Bちゃん、夜の海見ていたんだってね。その話を聞いて胸が締め付けられた」と言った。「何で?」「家に帰りたいの?」「別に」・・その時はまだ体調がよかった。それから何ヶ月かして発作が止まらなくなった。苦しくて仕方がない。皆が夏校庭でキャンプファイヤーをしてフォークダンスを踊っているのを、二階の静養室の廊下から見た。持っているトランジスターラジオから「ライオンは寝ている」が流れていた。
小学校5年生の南君の発作は私よりも数段きつい。さっきから「苦しいー」と叫んでいる。座って前後に揺れていたが、あまり苦しいのか、ベッドの柵を越えて、床にドターンと落ちた。びっくりして見ていると、そのまま両手足を使って這って、静養室を出た。廊下を渡って医務室にいく。ドアは南君が体当たりすると簡単に開いた。それから”薬”の入っている医薬品のケイスのガラス戸を、素手でガチャンと叩き割った。彼は血まみれの手で薬をつかんだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このままずっと発作が止まらなかったら、ここに居ても意味がない。寮母のF先生はいつも言っている。「こんなところに長く居ると高校進学もできない。世間から取り残されてしまう」・・どうやら世間では中学生と言うのは勉強しているらしい。私には関係ない。私はただ少しでも楽に呼吸がしたい。どうせ死ぬなら薬を使って楽に死にたい。
次の帰省日、帰ったまま、もう、戻らなかった。

一般の中学校に戻ってからも体調は最悪だった。が薬を使って時には学校に行けた。復帰一回目のテストは500人中380番程度。二度目のテストはいきなり27番。三度目の実力テストはどうしたことか学年で2番になって自分で吃驚した。真っ先に祖母に伝えた。祖母はまた悲しそうな顔をした。「Bチャン、情けない子やね。何で一番になられへんの?」「・・・!!」祖母は続けた。
「比べると言う行為は意味がない。一流校の一番なら価値はあるけど、二流校の二番なんて、喜ぶだけで視野の狭さを立証しているに過ぎない。井の中の蛙大海を知らず、にだけはなってほしくない。玉磨かざれば光なし。もっと磨いて磨いて・・磨くことに専心しないと、本当の自分は見えてこない。喜んだり悲しんだりするのは、その後でいい。価値観は人によって、地域によって、国によって、時代によって違う。価値判断基準そのものを、自分で作り上げていってほしい。受験屋が決めた点数や席次などと言う価値基準、よく考えてごらんBチャン,おへそが茶沸かす代物。出題自体の出来不出来もある。Bチャンは隔世遺伝でおじいちゃんの病気を貰った。とにかくその病気に打ち勝ってほしい。学校や進学と言う枠にはまって人生を考える必要は全くない。健康じゃないと。何より健康。すべてはそれから」・・

この祖母は私に一体何を望んでいるのだろう?健康!!努力によって得られるものなのか。磨けば健康になるのだろうか?意思でどうにか出来るものなのだろうか?

私よりも三年長くいた直ちゃんは養護学校の中等部を卒業した。その時同窓会の名簿を作り、バスをチャーターして吉野山へ桜見物の同窓会を開いた。記念文集「まつぼっくり」も作った。その中に南君、悦ちゃん、木内君、荻野君、植田君たちが,私と同じ病気で衰弱しきって,この世を去っていく最後の日の状況が、取材され細かくレポートされていた。体力を使い果たし、精も根も尽き果てて、呼吸する力そのものを失くして、一人一人、無念の井戸に沈んでいった。
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REGINE「Pourquoi un pyjama」 Serge Gainsbourg 作
シャンソンのこの突き抜けぶりが好き!


天満屋和三郎の妻

天満屋和三郎の妻 2004年5月15日 (Sat) 12:49:08

「Bちゃん、この本分厚いのに安いねえ」
「これね、週刊だし、ほら、触ってみて、紙の質が悪いから」
「それにしても、この大きさで30円なんて」
今日は少し息が楽だ。「少年サンデー」を買ってきてもらって、スポーツマン金太郎を読む。ピッチャーが金太郎でキャッチャーが熊。熊と野球が出来るなんてとても楽しい。

「Bちゃん。漫画読めるんだったら、今お天気もいいし、外に出てみない?・・噂によると職員会議で揉めてるらしいよ」
「今まで、何とか、ほら、ごまかして進級できたから」
「来年もう一回やりますっていってきたけど、今3年だから。来年無いもの」
「じゃ、3年をもう一回する」
「私がカバン持ってあげるから、ちょっと学校へ顔出してみない?」
70歳を過ぎた祖母にカバンを持ってもらい制服を着た。意を決して家を出たものの苦しい。5Mも歩けない。
「ちょっと一服」「うん。そうしましょう」
結局5M歩いては3分ほど休み、5M歩いては5分ほど休み。これじゃなかなか進めない。
「肩で息してるね。ゼーゼー始めたね。どうする。止める?」
「ちょっと休もう」・・呼吸を整える。なんだか果てしなく遠い。記憶の中では学校へ行く道さえ、はっきりわからない。それほど行っていない。

PTAに行った時「これはこれは、Bさんのおばあさまですか。お宅のお孫さんは成績優秀で・・」と、あまり評判のよくない英語の教師によいしょされて、上機嫌で帰ってきた祖母。担任の教師に「君のおばあさん、なんか貫禄あって話すと威圧感を感じる」と言われ「ああ、昔、船場の御寮さんやってたので、人を見るとみんな番頭や丁稚に見えるらしくて。すみません。それにやけにpedanticで困ってます」と私が謝っている事など知らない祖母。ハーハーゼーゼーいって立ち止まってはその祖母と顔を見合わせる。

あれは5歳のときだった。友達と遊んでグッドバイと言って別れ、家の玄関を開けた。祖母が仁王立ちしている。「Bちゃん、今なんて言いましたか?」「何にも」「お友達と別れるとき何て言いましたか」「??・・あっ、グッド・バイ!」・・祖母は悲しい顔をした。「こんな情けない子は私の孫ではない」「・・・」「よその家に帰りなさい」「何怒ってるの?何も言ってないよ」「Bちゃん、Dは口の中に留め置き、大きな音を出さない。DはDOとは違う。Good-bye。言って御覧なさい」「幼稚園でグッド・バイ、グッド・バイ、バーイバイ、ってお歌習ったよ」
  ・・・ ・・・
そう言えば子守唄代わりに一番最初に覚えた歌は全部賛美歌だった。あいうえおの前にABCを教えられた。現住所の前に本籍地を教えられた。「あんたはイトはん。船場のトーハン」B29で何もかも灰になったのに、プライドだけで生きている。?武士はくわねど高楊枝。?Bちゃんは意志薄弱、Bちゃんは傍若無人、Bちゃんは井の中の蛙、Bちゃんは盲蛇に怖じず、Bちゃんは天衣無縫、Bちゃんは、美人薄命かどうかはまだわからないけど。?「はいはい、おばあちゃんには、足元にも及びません」平身低頭。?手ごわい祖母が私にはいた。発音とイントネイションの厳しいチェック。外出時は、服装と表情と姿勢のチェック。長い間完全管理下にいた。?「はい、はひとつでよろしい」

「もう帰ろうか」祖母が言った。今まで来た道を帰るだけの気力が無かった。・・ようやく中学校に到着。階段がうらめしかった。「教室は何階?」「多分3階の左側」登りはさらに苦しい。3段で一休み。ゼーゼー息をして、もう声も出ない。また3段。踊り場で15分ほど休んで・・・。ようやく教室の前に来た。「やっぱりもう帰るか?」祖母の目に哀れみが見えた。私は全力をかき集めた。ここまで来たんだから、今から授業を受ける。それでもドアを開ける前に決心するのに5分程かかった。情けない表情と情けない姿勢でドアを開けるわけにはいかない。元気よく、元気よく。大きく息を吸って、ガラガラガラガラ・・・大きな音で全開した。生徒が皆驚いた顔で一斉にこちらを見る。集中砲火だ。いや集中眼火。気力を込めて一歩踏み込もうとしたら、・・コンキンカンキン、コンキンカンキン・・本日の全授業終了の鐘が鳴った。

卒倒したいところだった。もう、なりふり構わずヨタヨタと教壇に倒れこんで、言った。
「シュ、シュ、シュッシェキ、ゼーゼー、ハーハー、イチニチブン、ゼーゼーハーハー、・・グダジャイーーー!」


今日のお勧めはSerge Lama のJe suis malade.「灰色の途」Dalida がこの歌を歌っているのを見たとき、そこに神経衰弱の女
の顔を見た。あれだけ成功してあれだけ魅力的な女性が、何をそんなに苦しみ、なぜ命を絶ったのか。こんな歌を歌わせて、まるで自殺を教唆するようなものだ。


学園ドラマ

学園ドラマ 2004年5月13日 (Thu) 16:26:49

「あの子のバンドで歌いたい」友達の生徒会長に打ち明けた。夕方向かいのT坊が「Bruxelles,音あわせしよう」と直接家にやって来た。「涙の太陽、と500マイル、でどお?」「プレスリーのHound Dog をやりたい」・・・・・
進学校ではない。校門を入って左右を見渡すと2,3のカップルがすぐに目に付く、青春学園ドラマを地で行くお気楽高校だった。T坊のバンドは鈴木やすしの勝ち抜きエレキ合戦に登場。アニマルズの「朝日のあたる家」をやった学内最高のバンドだ。
Take me take me take my heart and all I was born to be yours・・・テケテケテケテケ・・・

高校へ行くつもりはなかった。通信教育を主張したのだがYOさんが「それでは友達ができない。6年でも7年でもゆっくり通学すればいい。私立でもいい。学費は出させてもらいたい」と言って下さった。お嬢様でもないのにお嬢様校へいける筈がない。身体に負担がかからない様に公立の一番近い学校にしよう。どうなるかわからないけど。

受験の日まで丸2週間吐き続けて、食事は出来なかった。往診してもらいブドウ糖の注射をしていた。久々に立ち上がったがフラフラだった。毛布に包まれタクシーに押し込まれそれでも受験に行った。当時は全教科テストだった。美術のテストで、手で力強く握りこぶしをつくり、デッサンせよ、という問題があった。握り拳をつくってみたが、食べた後のチキンのようだった。気力が失せた。これ以上セキをして迷惑をかけるわけにもいかない。Give Upだ。手を上げ退出した。近くの医者に駆けつけてもらった。当人はこのまま逃げ帰ろうと思っていたが、医者に証明をもらって、午後からも続けて保健室で受験することになった。どんな注射をしたのかわからないが、やけに眠かった。家庭科の教師が鉛筆を落とした私の手に無理やりそれを握らせた。ウツラウツラすると「起きなさい。目を開けて」と、保健の教師が何度も何度も身体を揺すった。ヨダレを拭いて再度問題に目をやった。500人中450番くらいで、どうにかひっかかった。

これが楽しい学校だった。特に1年生のクラス。体育祭の後のキャンプファイヤー。クリスマスのクラスパーティー。トロイドナヒューの「恋のパームスプリングス」でツイストを踊りまくった。1年生で行く修学旅行の霧ヶ峰には行けなかったけれどクラス全員で白樺に木彫をしてお土産をくれた。同じ班の人達は夜空を見上げて現地で私の作った「おやすみなさい」を皆で歌って私をバーチャル参加させてくれた。

文化祭の1週間前からまた病気で動けなくなった。当日も強い薬のために眠っていた。するとクラスメートの(えむ)さんが花束を持ってお見舞いに来てくれた。「友情は楽しさを2倍にし、悲しみを半減する」というメッセイジが付いていた。びっくりしていると次に(えぬ)さんが心配顔でお見舞いに来た。入れ替わるように(あい)さんが、この人はお弁当持参で現れた。「文化祭見なくていいの?」「あんなん行くよりBruxellesさんと話してるほうがいい」と言ってくれた。気遣ってくれているのだ。(あい)さんが帰った後、自分でも何を思ったのか、エフェドリンを水で流し込み気管支を急いで拡張させた。起き上がって服を着て家を出た。一度も行った事のない四天王寺会館へ迷わず行けた。そろりとドアを開けた。ブラスバンド部の「鉄腕アトム」が聞こえてきた。私はひょろひょろと2階の一番奥の隅に座った。

「Close your eyes]のところで真っ暗だった舞台にスポットが当たった。T坊だ。And I love her.・・・ビートルズナンバーを歌っている。わたしの代役の子が現れた。「学生時代」を歌った。その頃、一人が私の存在に気づいた。次に一人。次に一人。何人かが暗闇で私の心を支えてくれた。「何よ、あの子。BruxellesさんのHound Dog聞きたかったわ」「でも良かった」「何言ってるのよ。身体大丈夫なの?私達が家に送ってあげるわ」「これからズッとあのバンドあの子でいくのかしら」「いいことも、きっとあるわ。元気出してね。こんなことで、へこたれないでよ」

やっと事情が呑みこめた。私は病気でボーイフレンドとボーカルの座を奪われた、学園ドラマの悲劇のヒロインになっていたのだ。

ALL MY LOVINGを聞く : And I Love Herを聞く

bruxellesちゃんジャズ喫茶に行く

bruxellesちゃんジャズ喫茶に行く 2004年4月25日 (Sun) 17:02:52

ミナミのジャズ喫茶ナンバ一番にはじめていったのは、大阪市大病院の小児科に入院中の時だった。藤井和子という看護婦さんに連れて行ってもらった。市大には喘息教室というのがあって、骨皮すじ衛門のような瀕死の子供が集まって、蛙飛びやら,乾布摩擦や、体操やらを、上半身裸で屋上で行うのが、訓練であり日課になっていた。いつも歌を歌っていて、そんなに歌が好きなら、という事で、外出許可も取ってもらった。
Take the A trainでバンド交代があって、出てきたのは若い若い内田裕也。サイドの髪の毛が前に生えると言っていた。私も同じだ。まだビートルズの影も形もない頃で、チャック・ベリーやプレスリーナンバーが多かったと思う。飲んだのはコカコーラ。当時コカコーラの販売ルートは日本にまだ無かった。ジーンズショップもまだ無くてジーンズが欲しかった私はY.Oサンに頼んでどこかの工場の作業用のものを特別に譲ってもらった記憶がある。その頃流行していたのは、平尾のマーちゃんの「星は何でも知っている」和製ポップスの最古のものかもしれない。 

同じ時期今度は、インターンの医師のお見合いに同席して、石井好子さんのシャンソンコンサートに行った。インターンとお見合い相手の真ん中の席に座って「あなたはどなた?」と聞かれて「この人の隠し子」と言って、ひどく叱られた記憶がある。

中学生のときは、今度はキャバレー。Y.Oさんの妹さんが宝塚歌劇出身でグループを組んであちこちで洋楽に合わせて日舞のショウをされていた。「富士」「淀」「クラウン」「ワールド」月に一度の養護学校の帰宅日に行っていた気がする。それが身についてか20歳を過ぎて20代の時には、どんなお店に行っても常連のように振舞うようになり、ディスコなどではDJブースをハイジャックするようになった。


割り算

割り算 2004年4月3日 (Sat) 19:22:48

小学校4年生くらいの時、久しぶりに登校したら、皆ノートに屋根を付け足していって、数字のビルを描いていた。「これ何?」「割り算」「割り算て何?」「掛け算の反対」「この家は何?」
・・・宿題が出た。うまくいかない。従姉妹の家にお出かけした。「これなに?」「これは、あまり、このままにして置いておくの」「あまりって何?」「割り切れないもの」「。。。」「あのね、こうして分数にしてもいいよ」「その方が、すっきりするね」「あのね、こうして、小数点つけて、割り算続けて、小数にしてもいいよ」「便利ねえ」・・・家に帰る道々思った。「これでまた6ヶ月位、学校休めるぞ」!!!

病気ばっかりしていた。「今日は雨だから、学校休みなさい」「今日は寒いから休みなさい」ある時「眠いよぉ」と言ったら「眠いのなら、学校休みなさい」さすがに、本とにいいのかなぁ、と思った。小学校はあまり行ってない。中学校になると、全然行けなくて、ついに入院。病院から通ったが、2,3日だけ。ついに、養護学校に入ることになった。


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