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定年後の人生(1)

緑風さんが独立して自分の会社を設立して2,3年の頃だった。
「今うちの幹部が入院中で、見舞いに行ってきた。給料も届けてきた。すごく喜んでくれた」・・
会社を設立したら、そういった働いていない社員にも給料を支払わなければならない。個人経営の会社は大変だなと思った。
緑風「うちの社員として、元気なときは働いてもらっていたからね」
働かせてやっているという、社長と、働いてもらっている、という社長と、この違いはすべてにおいて社風を根本から異なったものにする。

入院中の幹部の人の話になった。
仮に名前をD氏としよう。D氏は一流大学を出て一流企業に就職、そこで定年を迎えた。そのまま年金暮らしをすることも出来たが、まだ元気で働く意欲も充分にあった。そこへ知り合いの会社から、ポストと高給を保障され、それまでの経験を活用してほしいと、ぜひにと迎えられた。
断る理由がない。願ってもない話だった。第2の人生をスタートさせた。・・
1年ほどした頃、ほんの形式だけだからと、借入金の連帯保証人を頼まれた。自分のポストを考えると断れない立場にあった。
1回2回と繰り返し、挙句にバブルがはじけて、その会社は倒産した。
今までの人生があまりに順調だったためか、疑ったことなどまるでなかった。しかし、嵌められた、と結果的には思えないこともない。そう考えると疑惑は確信になった。
息子の嫁の実家に恥を忍んで借金の申し込みに行った。あんたはなんて馬鹿なんだと、笑いものにされ大恥をかいただけだった。家、土地、株、預金、全部を処分して裸で出直すしかなかった。
D氏は一生分の悔しさをその時味わったに違いない。
ゼロから就職活動を始め、ようやく緑風さんの会社に生活のために職を探し当てたのだった。
「他山の石としたい」と緑風さんは言った。
「何とかなる。誰かが助けてくれる。そんな甘い考えは捨てなければならない。僕もよく肝に銘じようと思った」と。

D氏に限ったことではない。類似した話は世間に5万とある。想像力がなくても、D氏の味わった苦汁は察するに余りある。
入院は癌のため、ということだったが、やはり、この苦渋がその引き金になったと言えないこともないだろう。

半年後に緑風さんに会った。
「今日は社員の葬儀だったんだ・・」
誰の、と聞かなくてもすぐにわかった。
人生いつ、どこで地雷を踏むかわからない。不景気になればなるほど、見えないところで音もなく、その地雷の数は粛々と増えている。

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MIKE BRAND 「Laisse-moi t'aimer」
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「さよならは云わない」コンサートレポート(2)

第二部はシャンソンメドレーで幕開け。
アンドレ・クラボーの「エルザの瞳」の前には作詞者のルイ・アラゴンについての言及が入った。シャンソン歌手の多くに作品を提供しているルイ・アラゴン。「シュールレアリズム宣言」のアンドレ・ブルトンと袂をわかっているので、P.エリュアール同様、実は私は興味をなくしていた。しかしシャンソンの作詞家としては、むしろブルトンよりも注目すべきだと、改めて思った。近々、アラゴンについて小記事を書いてみたい。
アンコールは「大好きなダミアに捧げます」と言って、「かもめ」を歌われた。オランピア公演で照明のジャック・ロベラリスを感動させたダミア直伝の曲。そして最後は、もう石井好子氏のテーマ曲といってもいい「二つの愛 J'ai deux amours」。最高に盛り上がって幕となった。終始自然体で率直なトークの上手さも炸裂して大成功だった。敬老の日とはいえ、”老い”を微塵も感じさせない、パワフルなステイジだった。

最後に1曲のみを取り上げるとすれば「NE ME QUITTE PAS」だろう。紛れもない石井好子の「NE ME QUITTE PAS」特にこの日のこの曲は永久保存ものの素晴らしさだった。
日本人シャンソン歌手として、和訳で歌うか、原語で歌うか、は解決不可能なジレンマ。それにも敢えて言及され、原語で歌われた。
新刊の「さよならは云わない」にはもっと大胆な問題に触れられている。「わたしだって、シャンソンならフランスの一流の歌手を聞きたいし、ジャズならアメリカ人で聴きたい。では日本人シャンソン歌手とは一体何なのか」と。(これは何もシャンソンに限らない。オペラをはじめすべての洋楽歌手に関係する問いだと思う)
歌手にほれ込み、原曲にほれ込み、年月かけて自分の歌にすることだ。
日本人シャンソン歌手の「NE ME QUITTE PAS」ではなく石井好子の「NE ME QUITTE PAS」まで歌いこめば、この永遠の課題も一瞬に解決する。この日の石井好子の「NE ME QUITTE PAS」はそういった意味でも、この名曲を再生し、さらに成長させたと言えるだろう。こうして毎年進化する「NE ME QUITTE PAS」は圧巻だった。そしてブラボーの声が飛んだ。
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大野修平氏の石井好子コンサートレポートはこちら
永瀧達治氏の石井好子コンサートレポートはこちら
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Les Goelands (かもめ)」 石井好子

ダミア亡き今、「かもめ」は石井好子の歌だと言えるだろう

「さよならは云わない」コンサートレポート

2005年9月19日(月)敬老の日に、芝・メルパルクホール石井好子歌手生活60周年記念コンサート第一日目が行われた。祝日のため開演は16時30分と、2日目の18時30分に比べて早めに設定された。開演一時間前にすでにメルパルクホールの前に人々があふれた。男性の姿も多い。そしてどの男性を見ても、シャンソン評論家に見える。女性客もシャンソンとの関わりの歴史を感じさせる。パリにも何度も行っている、本場のコンサートも日本のシャンソニエにも常時出かけていて、中には自分も教えている歌っているという感じの方も多かった。歌手と客層がピッタリ一致する。なんだか、私だけが勘違いして、格闘技を見に来たような雰囲気を漂わせてしまっていて、恐縮する。

一部開幕は、原信夫とシャープス&フラッツの「IN THE MOOD」。意表をつかれた。父がよくレコードを回していた曲だ。ダンスをしていた曲だ。戦後60年の年の60周年記念コンサート。石井好子氏のデビューは進駐軍相手のジャズシンガーだったから、ここは外せない。昔はこういったビッグバンドジャズが主流だった。久々に一人ノリノリになってしまった。

今回の構成・演出は石井好子氏ご自身。これが非常によかったように思う。曲の紹介、解説、自分との関わり、コンサートの流れに、説得力がある。客席に向けてのトークも平常心、自然体で、ステイジと客席が一体化してゆく。司会は永 六輔氏、木原光知子、ピーコと、三人とも石井好子氏とは阿吽の呼吸。百万の援軍。(近親者を亡くされた後だったけれど)力んだり、壮絶になったり、悲壮になったりする必要すらない。これは杞憂だった。
石井氏&ピーコ氏の「サトウキビ畑」はしみじみとして、ステージ上での歌唱とは思えないほど素朴で、永六輔氏もおっしゃっていたが、これは企画家・演出家、石井好子の才能の一端を垣間見させた。
第一部終了曲は「生きるものの歌」。詩も曲も素晴らしく、そして選曲的にもピッタリで、この曲を聴くためにCD店を駆け回るファンは一気に増えるだろう。「こんにちは赤ちゃん」が”生”を歌ったものなので、その対極として”死”を歌ったものを書いたと、永六輔氏はおっしゃっていた。「生きるものの歌」とは、”死”を”生”に飲み込んでいる者の歌なのだ。

ここで20分の休憩。パンフレットを開けて「パリの女 石井好子」という永瀧達治氏の文章に目を通す。そして感嘆!石井氏と永瀧氏と、共に二つの故郷(J'ai deux amours,mon pays et Paris)を持っておられる。その上での石井好子論。完璧で脱帽ものだ。
ー「クラースはブランド物を身につけたり、マナーを学んだり、一流のホテルやレストランに行くことで得られるものではない」ー
ここのところを勘違いしている人がどれだけ多いか。残念ながらその勘違い組みには、真の石井好子の姿は永遠に見えないだろう。・・
ロビーに出てみてあっと驚いた。お祝いの巨大なお花のスタンドが所狭しと並んでいた。ロビーは突然、花々の密林と化していた。そのほとんどはタレント・芸能人・歌手などなどからの贈り物。ロビーに出た客は身長よりもはるかに高い花々の迷路の中を歩くが如し。と突然「こちらはシャンソン界の第一人者、大野修平さん」という声が聞こえてきた。そちらを向くと「いえいえ、そんな・・」といいながら、人々と挨拶をされている、HPの似顔絵イラストそっくりな大野氏がいらっしゃった。一瞬ご挨拶に行こうと思ったが、先にも書いたようにいでたちが場違いなので、恐縮して気後れしてやめにした。      (つづく)

Double Booking (2)

「カウンターの人にそんなに怒っても、仕方ないでしょう。もう諦めましょう」と言う。
「そんな訳にはいかない。あちらの空港で何人も待っている。遅れるわけにはいかない」
「もう飛行機は出てしまったんですから。諦めてみんなで、次に乗れる便が来るまで、静かに待ちましょう。我慢しましょう」と言う。
ミンミンが言った。「カウンターの人たちには責任はないけれども、この人たちと交渉するしかないでしょう。先生、気にせず、交渉して何とか、乗せて」
実は先生、5日前に淡路島の先山にバイクでツーリングして、下りのなんでもないところでゆっくりと転倒し、そしてギックリ足を捻挫していた。本当は立っているのも辛い。しかしそんなことは言っておれない。我慢するべき我慢と、我慢してはいけない我慢がある。交渉を続ける。
「とにかく、次の便に」?「直行ではありません」
「どこまで?」?「ロス行きです」?「それから先は?」・・
45分ほど立ったまま交渉を続けて、7人分だけロス行きの席を用意いたします、という回答をやっと得た。
6人が「わぁっ」と喚声を上げた。すぐに搭乗券が渡され、搭乗口に向かった。その時、思いがけず罵声が飛んだのだ。
壁に並んで疲れて立っている60人以上の日本人が一斉に憎悪と軽蔑の目で私たちを睨みつけた。
「自分たちだけが乗るのか?」
「なんて恥知らずで利己主義なんだ」
「あんまり自分勝手なことをするな」
「私たちの立場になったら、そんな勝手なことはできない筈でしょう」
「エゴイスト!!恥知らず。日本人の面汚し!!」

「ミンミン、あの人たち、何故怒ってるの?」
「わかりません」
「あの憎悪に煮えたぎった眼。交渉をやめろと言ったのに、交渉を続けたから?」
「先生、気にしない、気にしない。早く乗りましょう」・・
座席に案内されて、また6人が喚声を上げた。
螺旋階段を昇って2階に上がる。ファーストクラスだけが空いていたのだ。「やったー!」6人が喜んでくれている。ゆったりとしている。スリッパに履き替える。
「食事もファーストクラスが出るのかなあ」
「食事は無理でしょう」(笑い)・・

ロスに到着してからまたひと波乱あった。ニューヨークに到着してからも、荷物だけが先に届いて、空港の倉庫に入ってしまっていた・・というような事態まで発生した。・・
空港近くのホテルで、月曜日の朝倉庫が開くまで、身動きとれずに無駄に待たなければならなかった。

月曜日、空港の倉庫まで全員で荷物をとりに行く。
ミンミンが倉庫から出てきて言った。
「ソウルに残っていた日本人も来ていました。私を見てこう言うんですよ。『あの人は来ていないじゃないか。あのエゴイストは今度はあんたたちを、おっぽり出して、先に行ったんだろう』って」
「それで?」
「それで『ちゃんと一緒に来てますよ。先生は機内荷物がないので、外でじっと待ってくださってるんです。先生も私たちも、あなたたちに集団で罵倒されるような、エゴイストでも、何でもありません』って言いました」
「うーん。何かが許せないんでしょうね。何なんだろう。何があんなに憎しみを生むのだろう??そしてそれがこっちに向くんでしょう、I wonderね。Why,Why,Why,Why?」
「本来overbookingした大韓航空に向くべきなのに、怒りを押し殺したので、違う方向に向かってきたんでしょうね」
「どうして間違いに気づかないんだろう?」
「自分たちは交渉出来ないから、うらやましくて、憎たらしいんでしょ」・・・・・

私とて初めから、人と対話できたわけではない。これはParisの生活で身についたのだ。当然の権利を行使するためには、発言しなければならない。楽しい楽しくないではなく、そうしなければParisでは生きていけない。パリ病に罹ってノイローゼになる日本人が多いのは、一般的に対話訓練、交渉訓練を全く体験せずに、特殊な風土の中でずっとみんな一緒に”長いものに巻かれる”のを善として生きてきたからだ。

参考サイト:「人間を幸福にしないシステム

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  「J'ai encore reve d'elle」 Il etait une fois
このグループ名が面白い。「昔、昔・・」と言う感じの意味。このグループ名の前半を耳元で色っぽく呟くと、日本人男性はギクッと興奮する(?)

全文を表示 »

Double Booking (1)

私がトラブルに巻き込まれて、窮地に陥っていると、普段は普通なのに、必ず、敵側の発想を振りかざして怒りをぶつけて来る近所の人(TM)がいる。隣に無断でかなり迷惑な設計の家が建つので、工事を止めて話し合いに入っていた。すると関係のない(TM)が「腹が立つ」と怒ってきた。以前にもこういうことがあった。
(TM)はいつも近隣のことで揉めている。グチばかり聞かされる。近隣問題で悔しい思いをしている人だ。しかし、困ったことにそれは、妄想だったり、話し合えばいいことなのに、幼児のようにまるで交渉の能力がない。内容も相手に取り合ってもらえず、戦わずして負けてばかりの悔しい思いだけを抱えている。
今回のことで(TM)の怒りが、時々何故こちらに向くかがやっとわかった。
自分は不利な立場におかれても、交渉する能力がないから、堂々と交渉している人が、許せないのだ。
みんなで泣き寝入りしましょう、というのが日本の社会の筈なのに、何故あの人は泣き寝入りしないのか、何故あの人は主張してそれが通るのか・・・悔しい!!というわけだ。
以前にこれと同じ体験をしたことがある。私一人に、この種の怒りをぶつけてきた日本人は、その時は60人以上いた。

以前日記に書いた若い男女6人を連れてニューヨークに行ったときのことだ。あの時はケネディ空港近くのホテルでBicketと連絡が取れず、途方にくれているところを書いた。
実はBicketはレンタカーを借りてChanとGatyaとZenの3人の友達を連れて時間通り迎えに来てくれていた。搭乗者名簿の確認までして、乗ってきた筈だと、4人で何時間も待っていてくれた。しかも一旦帰って翌日も来てくれた。なのに何故空港で会えなかったのか。私たちが十数時間も遅れて到着したからだ。原因は大韓航空のダブルブッキング。


気がついたら、乗る筈の飛行機が去ってしまっていて、私たちは積み残された。オーバー・ブッキング。積み残された日本人がロビーに集まってきた。みんな愕然としている。「積み残しました」という説明があった。時間がたち積み残された日本人にも状況がやっとの見込めてきた。そして日本人らしく?あっさり諦めてうな垂れている。「いつの便に乗れるのか?」などと聞く人もいない。成り行きをじっと傍観しているのだ。ミンミンが「先生なんとかして」と私にせっつく。先生、ここでおもむろにカウンターに出向く。そして英語でやりあうのだ。怒りを表さなければならない。「もっと言え、もっと言え」とミンミンとパッシェルが囃す。先生、カウンターを右手でドンと叩いて、強気の交渉をする。「食事を出します」?ダメ!。「今夜のホテルを用意します」?ダメ!「何人様ですか?」?「全部で7人」・・
そこへ私の袖を後ろから引っ張る日本人が3,4人現れた。      (つづく)

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Herve VilardKilimandjaro」 名曲、と思います。必聴。

趣味の世界

8月15日とは、関係のないことを書こう。

10年前古い本箱を整理していた。この本箱は父自らがデザインしたもので、普通の家具色よりも少し色が薄く黄色っぽい。父の大切にしていた書籍がそこに多数横たわっていた。
「丸」という雑誌に「35年前に亡くなった父の蔵書を差し上げます」と、メッセージを出した。

まず裁判所で仕事をしているという年配のH氏が仕事を休んで家までみえた。何人の方に何冊づつ上げればいいかよくわからない。この中から10冊ほど・・と言った。
B「本当はもっとあったんですけど、35年前に大半をKさんに、差し上げたので・・」(と言うと)
H「Kさんって、あのNavy CircleのKさんですか?Kさんをよく、存知でいます。いまからKさんに電話して、僕の身分を証明してもらいます」(と言われた)(そしてKさんが電話口に)
K「H君は本当にまじめな人物なので、安心して上げてください」・・
父の友人のK氏と突然話すことになった。なにしろ父が亡くなったとき、私は小学生で、父より随分若いとはいえ、大人のK氏と直接口をきいた事はなかった。
H氏は紙袋に本を詰めて、明日もまた参りますと言って、帰って行かれた。
次にいかにも営業マンという感じのL氏が会社の車に乗ってみえた。喫茶店で会うことにした。
B「これは父が作った模型ですが、わかりますか?」
L「これは改良された後の赤城ですね」
この方にも写真集を含め何冊か差し上げた。

遠方の方からも「欲しい」という手紙や葉書が数通きた。一番驚いたのは防衛庁資料室のT氏から電話があったことだ。

模型も全部丁寧に引き取る、と言うことだった。防衛庁の資料室に引き取っていただければ、大切に保管されるに違いあるまい。


そこへK氏からTELがあった。
「お父さんはイギリスの19○○年と19××年の年鑑と、そしてイタリアの・・、そしてドイツの19△△年のもの、・・それと・・それに・・を、持っておられた」
私はK氏の記憶力に圧倒された。K氏は一度しか父の本箱を見ていない筈だ。しかも35年も前に。よくこれだけ正確に記憶できるものだと。
K「全部他の人に上げないで僕の分もちょっと取っておいて下さい」
B「それが、さっき防衛庁のT氏から・・・」
その時点では全部防衛庁に渡そうと思っていた。

K「Bruxellesさん、防衛庁のTは評判の悪い人物ですよ。Tはそうして手に入れた資料を神田の○○という古書店に売り飛ばしているんですよ。だめだ。断った方がいい。僕らの間では有名で、どんなルートで売りさばいているかも判明している」

Bruxelles悩む。電話では信頼のできそうな人だった。疑う気になれない。しかしK氏は生前の父が信頼していた友人だ。私は覚えていなかったが、父の棺にK氏はNavy Circleの機関紙数冊と小型の模型数個を入れられたそうだ。家族と心をひとつにして父の死を悼んで下さった方だ。

防衛庁のT氏に断りの電話を入れた。新幹線に乗って引き取りにいくとまでいって下さったT氏。「防衛庁の資料室で保管したほうがお父様もきっと喜ばれたでしょうに・・」そう言われてしまった。

翌日H氏に紙袋2個分を差し上げた。あの情熱ならきっと大切に読んでくださるだろう。K氏にも希望されたものを送った。もともとK氏と父が心をひとつにしていた趣味の世界だ。これでいい。
その後何人か来られたが全部K氏の弟子のような方々だった。K氏の自宅には床が抜けそうなほど、身動きがとり難いほど資料があるらしい。出版社や防衛庁の方々もK氏に写真提供を依頼されることも多いと聞く。それにあの記憶力だ。趣味とはいえ私の想像を超えた立派なお仕事をされているに違いない。民間でこそ資料が生きることもある。情熱こそが決めてだ。・・


ある時電話のついでに七曜会の先輩の福井氏にT氏のことを聞いてみた。福井先輩は自衛隊や防衛庁に人脈がある。数日後回答が来た。
「人格評判、取り立てて問題なし。将来性のある人物なり」

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「Les Valses de Vienne」 par Francois Feldman
この人はよく知らないが,この曲TVドラマに挿入すれば大ヒット間違いなしの旋律。

SON OF A GUNというかなり古い頁に今日はTRACKBACKを張ってみる。こんな古い頁誰も見ないだろうけど。
・・・・・

父は隣の教会の子供たちと遊んでいるとき、祖父がアメリカから持って帰った銃を取り出し「バーン」と引き金を引いた。そしたら実弾が飛び出したらしい。肝を冷やしたと言っていた。心臓が飛び出す程驚いたと。3月13日(金)の空襲でその銃も姿を消したらしい。

私が幼児のころ、父は空気銃で雀を撃っていた。折り曲げて、鉄の玉を入れて引き金を引く。自分の身長ほどの長さの空気銃を持って立っている私の写真がある。

私は銃が好きだ。祖母も父もクリスチャンだったので、貧しい家庭の割にはクリスマスを盛大に祝っていた。サンタクロースは毎年来てくれたし、イブの日は近所の子供全員を招待してパーティを開いた。大きな樹木が家に入って来て毎年本格的飾り付けをした。「ジングルベル」や「聖しこの夜」を近所の子供達も皆歌った。幻灯や蓄音機が家にあったからパーティは毎年盛り上がって、皆が楽しみにしていた。「何が欲しい?」と聞かれて、女の子の私は毎年「ピストル」といっていたのを思い出す。小学生になって「カメラ」や「時計」「電話」などと言い出すまでは、毎年ピストルだった。お人形だったことはない。

その後もずっとピストルが好きだし、大人になってからも何個かおもちゃを買った。「GUN」という雑誌で、サークルを探し訪ねていったこともある。大の男がおもちゃのピストルで真剣に遊んでいる。実弾を撃てる場所はないですか、と聞いたら能勢に射撃場があるという。車で行ってみたら、警察官の練習場みたいなところで、一般人の登録入会は、はなから無理だった。日本に実弾を撃てる場所はない、というのが情報収集後の結論だった。

グアムかハワイに行くしかない。30数ドルでマグナム銃まで撃たせてくれる射撃場があるという。早速ハワイまでピストルを撃ちに行った。1985年あたりだったと思う。ガクンと反動が凄いだろうと覚悟したが、たいしておもちゃと変わらなかった。
銃は持つと必ず撃ちたくなるだろう。それは結果人を殺すことにしか繋がらない。帰国しておもちゃのコルトをハンドバッグに入れて、それで充分満足することに決めた。
いきなりバッグから銃を取り出すと、たいてい人は吃驚仰天する。その顔を見るだけで、充分悪戯心は満足する。
車を運転しながら、いきなり取り出して、隣を走る車を撃ったことがある。全くドが過ぎる危険な悪戯だった。

母の弟は猟友会の会員だ。何度か遊びに行って話を聞いた。家には家人にあんまり愛されていない猟犬が2匹いた。猟はチームのゲイムらしい。取り囲んで追い込んでいく。そこの家には何度も行ったので、新鮮そのものの牡丹鍋や雉鍋もご馳走になった。ピストルマニアと猟銃マニアとは好みのズレがあることも知った。猟は解禁シーズンも短い。さすがに私には猟犬を連れて猟をしたいという願望は全くない。

陪審員」という映画を見た。主人公のデビィ・ムーアがあれだけ勇気を持って恐怖と社会悪と戦えるのは、銃を使えるからだと気づいた。
私は銃擁護社会には大反対だが、女が男と同じように平等で戦うには、銃は必要不可欠だと思った。銃を持って初めて女は、バーチャルな男になれる。男と同じ勇気と発想が持てる。男と女の違いでもあり、アメリカと日本の違いでもある。
拡大解釈して「銃」を「核」と置き換えれば、国際政治がわかりやすい。

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「Nazi Rock」 Serge Gainsbourg

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