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一人息子に先立たれて...

どう運ばれてきたのか、父の遺体が家に戻ってきた。めったに感情を表さない祖母が、とりすがって大声で泣いた。布団の上に刀が置かれている。それが上下に動いて、まだ息をしているように思えた。

父の葬儀の日、私は喘息の発作が出て、母の姉の家で医者の往診を受けていた。当然注射だ。強烈な注射をして起き上がり、着物を着せられて、焼香をした。そのときの写真があるが、私は本当に小さいひょろひょろの子供だ。酷い喘息で骨と皮で、見るからに発育不良の虚弱児だ。火葬場には行かず、誰か知らない人の背に負われて、父の出棺を見た。
祖母はどうしたわけか、喪服に着替えず普段着のままで、しかも火葬場に行く車には乗らなかった。私の隣で首に両手を当てて、母の兄弟や甥達が棺を車の中に運び入れる出棺を目で追っていた。
私はそのまま、また母の姉の家に連れて行かれ、布団の中で苦しんだ。何日かその家で寝ていた。そしてそのまま市大病院に入院した。
その後、父が骨と灰になり家に戻り、家の中で何があったか何も知らない。

その後何年かたって、祖母から同じ話を何度も聞かされた。
「おばあちゃん、えらい元気ですね」
火葬場から戻った母の妹のHおばさんが、一人息子に死なれた祖母にそう言ったらしい。誰一人、声をかける人もいない、慰める人もいない祖母に、ただ一人声をかけたのがHおばさんだったのだが、祖母のショックはおさまらなかった。
「代われるものなら代わりたい、自分が死にたいと思っている人に、あんなことを言うなんて...」
Hおばさんに悪気があったとは思えない。ただ状況を見て「この人元気だな。世の中はなんて皮肉なんだろう」とフト思ったのだろう。「何故年齢の順番に人は死なないのだろう」と心底その時思ったのかもしれない。言われる者の立場を斟酌する余裕がなかったのだろう。
Hおばさんは人一倍身内思いの人で、その後も姪の私にはよくしてくれた。しかし祖母はその後一生、そう言われた言葉を噛みしめて、辛い思いを抱いたまま生きたのだろう。

思えば誰にでも経験があるかもしれない。
「あの人のあのひとことだけは、どうしても許せない」
そんな思いがひとつや、ふたつ。あるいは思い出せないくらいに沢山...
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民主主義

小学校1,2年の頃だったと思う。近所の悦ちゃんが「私のおばあちゃんは、男の兄さんと女の私を酷く差別して扱うので、悲しくて仕方が無い」と言うような作文を教室で発表した。具体的にこうだ、ああだ、と書かれていて、聞いた私は心底吃驚した。家に帰って自分の祖母に「悦ちゃんのおばあさんは、こんなんだって。おばあちゃんは全然そんなことないねぇ」と言った。
「この辺の田舎のおばあさんは、そんなものかもしれないねぇ。大人になって出て行く女の子は、どうでもよくて、跡取の男の子は大切にする。男女平等、つまりは民主主義をしらないのだと思う」と言った。民主主義?初めて聞く言葉だった。
兄が小学校に入学した時、祖母は母に「Bちゃんにも、鉛筆や筆箱やノートブック(祖母は帳面と言わずにノートブックと言った)を買ってあげて」と言ってくれた。母は買ってきて風呂敷につつんだそれをまず祖母に見せた。小学校に入学してもいないのに、小学生の兄と同じ物を買ってもらって、とても嬉しかったのを憶えている。まず鉛筆の持ち方、そして削り方を教わった。それから自分の名前、そして住所、さらに本籍地を学んだ。「世が世なら、Bちゃんは乳母日傘の船場のイトハンや」祖母はそう言った。本籍地を暗唱させられた。ノートにはABCを書いていったように思う。あいうえお、は幼稚園の前に、既に祖母に教わっていた。そう言えば、私の最初の絵本は「イエスキリストの生涯」。祖母が買ってくれて、同じ本を何度も読めと言われて、実際あきあきした。そのせいで私は長い間、読書嫌いだった。今度のABCはなんだか、楽しかった。ひらかなや漢字ではない文字が好奇心をかきたてたのだと思う。音も面白い。悦ちゃんの作文を聞いたとき、おそらく兄もまだ学んでいないABCを初めてノートブックに書いたこの時のことが頭に浮かんだ。
・・・・・・
私は日本の近現代史のBLOGを書いているが、最近再びHerbert Normanを取上げた。そこに都留重人の名前も登場するのだが、とても幼い頃既にその名を祖母の口から聞いていたことを思い出した。私がまだ東も西もわからない頃、祖母が口にしていた名前は数多く、今になって思うのだが一体祖母は何故そんなに多くのいわゆる知識人を知っていたのだろうか。まさかとは思うが、個人的接触もひょっとしてあったのだろうか。(祖母が若かった頃は、立派な洋風の家に住んでいて、人を集めて講演会や演説会などをする部屋もあったようなので、そこでそう言うことをしていたのかもしれない。)
私はからだが弱かったので、担任が見舞いにくることもよくあった。すると祖母は必ず教師に出身大学を聞き、教師が答えると、あそこだったら教授に誰と誰がいる、などと話し始めるのだ。どんな大学でも自由自在、著名な大学教授はまるで全部自分の知りあいのように話していた。また今思うと、賀川豊彦、新島襄、新渡戸稲造、内村 鑑三、などキリスト者の名前も当然よく口にしていた。
祖母にはどのような交流があり、どのような知識があったのだろうか、と今頃になって不思議に思う。
昔兄が一度だけ言ったことがある。それは60年代の初め兄と私がボクシング・ファンになっていろいろ話していると、祖母も噛んできて、白井義男やピストン堀口のことまで話し始めた時だ。「Bruxelles、考えて御覧、おばあちゃんのあの歳で、情報もそう多くない時代を生きて、白井義男やピストン堀口のことまで知ってるなんて、ちょっと考えられないよ。お茶やお花や、邦楽や、時事問題や、政治・経済の話でもない。ボクシングの話だよ。うちのおばあちゃん、ひょっとして物凄い知識の量をもっているのかもね!恐るべしだよ、全く」

3月:合格発表

3月中旬なのに大雪だった。道路脇に積み上げられた雪は50?60cm。兄は黙って緊張して歩いている。向こうから逆流して帰ってくるお兄さん達がいる。大半が押し黙って歩いてくる。笑っている人はほとんどいない。中には涙を流している人たちもいる。兄の顔を見る。不安で一杯に違いない。私に一緒に行こうと言った真意はわからない。喜びを見せるつもりなのか、厳しさを知らしめるつもりなのか。
泣いている人を見て兄は足を速めた。駅からなんて遠いのだろう。私のような女の子は一人もいない。校門をくぐって兄はさらに足を速めた。
発表までの長く感じられる日々を兄は「蛇の生殺しだ」と苦しんでいた。国立一期は三日間連続試験だった。うぬぼれてもいけないし、怯えてもいけない。三日間集中していなければならない。楽勝だと言われると、なおさらプレッシャーがあるだろう。
「もしも」があれば、地獄が口を開ける。
二期校は名古屋工大に願書を出していたが、勿論母子家庭だから下宿なんて余裕はない。私立なんて余裕もない。だから一発勝負なのだ。
妹を連れて発表を見に行こうと言うくらいだから自信はあるのだろう。自信はあってもなんの保証にもならない。

私は自分の発表を兄のそれほど、明確にはもう思い出せない。私は勉強をするよりも「心の力で夢を実現する」という実験に賭けていた。337という受験番号が合格掲示板に張り出されるイメージだけをしっかりと練習していた。大学の写真を見て、その中の教室で授業を受けている自分を強くイメージした。ホイラー訓やらマーフィーの法則に類するテクニックである。
合格発表掲示版に近づいたら、337と言う数字が何十倍にも拡大されて飛び出してきたのを憶えている。ひとりでひっそりと見に行ったのを思い出した。2流校でその上、病弱のため授業にもほとんど出ていない。どの教科書もほとんど新品のままだ。誰もまさか、合格するとは思っていない。10月の模擬試験はD判定だったのだから。
私は小、中、高としっかり勉強して合格したのではない。人に話しても誰も本気にしないような方法で合格した。だから3月の入試シーズンになると、いつも思い出すのは、兄と二人で歩いた大雪の大阪の道だけだ。
・・・・・・・・

私が実感の無いままふらふらと家に帰ると、そうだ、あの日玄関に日の丸の旗がはためいていた。
「よくやった」という兄からのメッセージだ。私は兄と同じ大学に滑り込んだのだった。

まつぼっくり

ついに養護学校でも寝ついてしまった。保健室に来てもう一ヶ月になる。ひどくもならないが、どうしてもラッセル音が消えない。耳骨を伝ってゼーゼーとうるさい。

音楽室が近いので時々みんなの元気な歌声が聞こえてくる。
その時は楽しい気分になれる。音楽の授業は全校生(30数名?)一緒、同じ内容。
注意して聞くと毎回同じ歌を歌っている。

♪「春になれば、しがこも溶けて、どじょっこだーの、ふなっこだーの、春が来たかと、思うべな」
楽しい歌だと思う。もう一曲は

♪「輝くよ、輝くよ、青草の牧場に、輝くよ、輝くよ、元気よく、ランラン!」
元気が出る歌だと思う。早く元気になりたい。もう一曲は

♪「花の周りで、鳥が回る、鳥の周りで、世界の子供。回れ、回れ、回れ、鳥の様に歌いながら、地球のよおーに回ろうよ」
スケイルの大きな歌だ。

ある時安静時間に誰かが弾くオルガンの音で目が覚めた。初めはラジオかと思ったが違う。明らかに誰かが音楽室のハモンドオルガンで弾いている。
知っている曲だ。マーチだ。いい曲だ。
それに、う?何故知っているんだろう。よく知っている曲だ。夢を見ているのだろうか。素晴らしい演奏だし・・それにそれに、これは私が作曲した曲ではないか!!
自分の曲を誰かに演奏してもらうって、こんなに嬉しいものなのだろうか。本当に夢を見ている気分。覚めないでと祈っている。
学校で新聞部をつくりその紙面に自分で作曲した曲を学校の校歌(「まつぼっくり」)として以前掲載したのを思い出した。
後で聞いたら、教頭の西山先生が、その新聞を見て演奏してくださったのだ。元気だったら、走っていって横で歌いたい気分。勿論歌詞も付けていたのだ。

・・・・・・・・・・・・

音楽室にあったハモンドオルガンで元気な頃直ちゃんに「口笛を吹く男」と「孤独」(これらは例のギターで作曲した)を歌った。この8月に久しぶりに会った直ちゃんに、その話をしたら、きっちり全部、歌詞を間違えずに歌ってくれた。
もうここまできたら、彼女は一生あれらの曲を心に宿していてくれるだろう。嬉しい。

play the guitar

生きるためだけに全力を費やしていた時代が長い。文字通り呼吸困難に襲われ、溺れかけた金魚のように口をパクパクと酸素を吸うためだけに全体力を消耗する。
養護学校から”脱走”したものの、普通校への通学が急にできる様になったわけではない。
その頃の慰めは以前大沢さんに買ってもらったguitarだった。曲が弾けるわけではない。元気な時に持って振り回すだけだ。時々はポロンポロンと弾いて作曲もしたけれど。

高校生になって芸術の選択は音楽をとった。何か楽器を決めなければならない。ギターしかないので、ギターにした。
まだ学校にもクラスメイトにも慣れていない頃だった。病み上がりで登校すると、青梅さんと言う人が「今度の音楽は楽器のテストよ」と教えてくれた。「テストって?」「前回練習した曲を一人一人別々に弾くの。Bruxellesさんはギターでしょう」「どんな曲?」「心配しなくてもコードを弾けばいいのよ」「コードなんて知らないし...」「じゃ私が教えてあげる」

青梅さんと言葉を交わしたのはその時が初めて。しかも4日後のテストのために「家においで」と誘ってくれた。
阿部野橋まで出てそこから路面電車に乗る。まだ新しい家で家人は誰もいないようだった。上がる前に足を濡らしたタオルで拭くように言われた。向かい合って椅子に座る。彼女がするとおりに真似た。一時間ぐらい練習して終わり。
「こんなのでいいの?」「それを先生のピアノに合わせて弾けばいい」

昼食時にT坊に調弦してもらった。午後の最初が音楽の実技テスト。
「さあ、どういう順番にしよう。希望者から手を挙げて」
待ってドキドキするのがイヤだったので真っ先に手を挙げた。「ハーイ」
何も考えずに青梅さんに教えてもらったそのままに弾く。
終わってやれやれと思っていると、教師が言った。
「真っ先に手を挙げるだけあって、なかなか上手だ」
ビックリした。そんな馬鹿な!本当は何もわかっていない。
全員が終わって、もう一度音楽教師が、私の実技を褒めてくれた。おかげで私がギターの名手だと勘違いするクラスメイトが何人か現れた。噂とはそういうものだろうか。

夏休み前になって少しずつクラスが出来上がり始めた。
授業中後ろの方がなんとなくざわついた。一番後ろの席の子が椅子ごとバタンと倒れた。大きな音がしてクラス全員がそこへ駆け寄った。
「靴を脱いで頭にのせろ!」「口にタオルを入れろ!」
叫んでいるけれど、誰も動かない。
彼女が口から泡を吹いていた。
保健室に急ぎながら思った。彼女には持病があったのだ。だからまともに登校も出来ない私に共感してくれたのだ。今度は私が彼女を守らなければ。

養護学校に彼女と同じ病気の子が二人いた。彼らに比べると青梅さんの発作はきわめて古典的だ。ただああいう倒れ方をした場合、地面に石や岩があると危険だ。

翌日彼女は元気な姿を見せてやって来た。けれども二度と私には話しかけることも近づくこともなくなってしまった。私が見てしまった事に彼女がこだわっているのだ。
私もあれ以来ギターを弾かなくなった。
ただ、ポロンポロンと作曲していた時にできた、左手の指のギターダコが消えるまでに、その後数年かかった。
・・・・・・・・・・・・・・
BGM:「Johnny Guitar

「白夜」

ポストに小包があった。差出人はY教授。いつも手紙は奥様から来る。本が一冊ポコリと入っている。「白夜」というタイトルの句集。手紙が一枚はさんである。やはりY教授の名前で。字が薄い。何故?まさか、まさか!二行目に妻が永眠しました、と書いてある。69年の生涯にわたって書いた俳句をまとめて・・。現物を見ることがかなわなかった・・。急性心不全。何度も読み返す。

養護学校時代の直ちゃんに電話する。通じない、話し中。奥様は私たちの寄宿舎の寮の先生だった。不眠症になった私を自分の部屋、自分のふとんに寝かせてくださった。そしていろんな外の世界の話。「Bちゃん、こんなところに長くいてはダメよ。社会復帰できなくなる。外の子供たちは高校受験に目をむけているのよ」
鍛錬の時間、体育教師に走らされて、ひどい発作が出たことがある。「こんなになるまで走らせるとは何事ですか!」私のために目に涙をためて抗議してくださった。

若い頃から心臓を病んでおられた。学問好きな方で、養護教員になられてからもずっと勉強を続けておられた。断言できるが私は特に愛情を注いでいただいたと思う。
広田さんの勘違いのお葬式のとき、浪人中の私はハッパをかけられた。「主人がそこで教えているから」・・それだけの理由だったが、あの時出会わなかったら、私は人生に対して一度もファイティングポーズをとることなく、とっくの昔に一生を終えていた気がする。自分自身に持病があるから病弱者に理解が届くのだ。「合格」を告げた時、涙を流して誰よりも一番喜んでくださった。

20年前、直ちゃんの喫茶店「エミグレで「Basicに興味がある」とフト言ったら「それじゃ主人に頼んであげる」ととても嬉しそうな顔をしておっしゃった。夏休みの時期でもあり早速翌週から、私は大学でY教授のBasic個人レッスンを無料で受けることができた。しかも奥様の手作りの昼食付で!ちょうど客員教授としてお二人でペンシルバニア大学に旅立たれる前だったので、英会話のアドバイスを少しして、挙句にその報酬までいただいたのを覚えている。

以前「私がもし間違いを起こして子供を産んだら、先生育ててくれますか?」と何気なく言ったら「私たちが年取る前に。なるべくなら3年以内に産んで頂戴」と冗談をかわされたこともあった。

一昨年大学の構内にできたレストランでフレンチのフルコースをいただいたのが最後となった。

20日の日曜日、養護学校時代の仲間と誘い合わせて、40数年前の先生に会いに行く。

お兄ちゃんがやられてる!

ゴムまりでワンバン野球をしていた時だと思う。何かが原因でアッと言う間にケンカが始まった。貴広ちゃんが兄の胸倉を締め上げて家の外壁に押し付けた。弟のT坊が兄の利き腕を両手で押さえつける。
「お兄ちゃんに何するねん」
私はT坊に後ろからくらいついて引き離そうと引っ張る。正孝ちゃんがそんな私を捕まえてさらに後ろから引っ張る。振りほどいてT坊の腕を払いにいく。正孝ちゃんが今度は私を突き飛ばす。私、倒れる。
「Bruxelles逃げろ」と兄が叫ぶ。
家の中に駆け上がって台所に向かって叫ぶ。
「お兄ちゃんがやられている!」
母は平気な顔をして驚きもしない。そのことに私はさらに驚いて、母のスカートの裾を引っ張って、よいしょよいしょと玄関の外まで連れ出した。
まだ喘息の発作が酷くなる前の幼稚園くらいの思い出だ。
F家の兄弟は皆生まれながらの金髪がかった茶髪、特に貴広ちゃんは運動神経が抜群で、きっとプロ野球選手になるだろうと近所で評判の子だった。
兄と貴広ちゃんは中、高と別々のところにそれぞれ越境入学したので、次第に接することもなくなった。T坊と私は、高校生になって、偶然クラスメートとして再会した。

F家はT坊と私が高校を卒業した直後に引越ししていった。
私は窓を少し開けて、T坊が荷物を運ぶのをじっと見ていた。
小さな天草と外で遊んでいると、いきなりT坊が「バアッ」と言って窓から顔を出したことがあった。T坊のバンドで私がヴォーカルをやったこともあった。
感傷的な気持ちになって、それでも「さよなら」を言いに出て行けなかった。
トラックのエンジン音が聞こえた。
その瞬間兄が立ち上がり、本棚から一冊の本を抜き取り、家を飛び出していった。私が後を追うと、黙って貴広ちゃんにその本を差し出していた。本棚をみると兄の愛読書エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」がなくなっていた。
参照:「そのほかの日々
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   GILBERT BECAUD 「L'important C'est La Rose」

高校2年生

N「Bruxellesさん、田中先輩と親しいの?さっき図書室で話してたでしょう。ねぇ、田中先輩、素敵でしょう?」
B「えェ?ああ、あの人?素敵とか別に思ったことないけど。知ってるの?」
N「クラブの・・」 B「あぁ、コーラス部のね・・」
N「憧れてるのよ。ああして親しく話してみたいわ。羨ましい」
B「電車で朝一緒になるから。話はするけど、別に親しいわけじゃない」

さっき図書室にいたら、後ろから近づいてきて「だ?れだ」と目隠しする人がいた。見当もつかない。「全然わからない。降参」そう言って後ろを見たら、田中先輩だった。後ろに立って両手を私の肩に乗せて、突然小声で耳打ちする。

T「Bruxellesさん、阪大に進学して」
B「ええェ、どうしたんですか」
T「神戸女学院、神戸女学院の方がいいかも」
B「それより、田中先輩は?」
T「親に反対されて、就職することになったの」
B「そうですか。神戸女学院に行きたかったんですか?」

神戸女学院だったらコネがあるから、行けるかもしれないけど、うちは母子家庭だから、お嬢様大学は絶対無理。
T「じゃ、やっぱり阪大」
そこへ田中先輩の友達がやってきて二人でそのまま去っていった。「Bruxellesさんだったら行ける。だから行ってね、約束よ」って言い残して。
B「約束よって、一方的すぎますよ」

女には学問は不要だと考えている親は多かった。その数年後に全国の大学で「女子大生亡国論」なるものが闊歩したくらいだった。「親に反対されて・・」田中先輩の声はたくさんの女性たちの声であり気持ちであった。その気持ちを集約させて、私の両手に置いて、彼女は去っていった。

2年生になって、進学どころか、私は高校さへ止めたいと真剣に思っていた。
遅刻して行って、遅刻の理由を聞かれ、よくは覚えてないのだが「授業がつまらない」と言ったらしい。早速担任に呼ばれた。教師に対してそんな失礼なことを言った覚えはないのだけれど。(思ってはいた)

理由はともあれ、私は最近の登校拒否や引きこもりの人たちの気持ちはよくわかる。
子供には将来の自分にとって何がプラスになり何がマイナスになるか、本能的にわかってしまうのだ。

現行のシステムを抜本的に改革し、機会均等,敗者復活も含め、今よりもはるかに多くの選択肢を用意すべきではないだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

  FREHEL  「La Java Bleue」

1月9日「成人の日」

身体が弱かったので、雨が降ったら外出するな、風が吹いたら、外出するな、と言われて子供時代を過ごした。雪が降ると、転ぶと危ないから学校は休みなさい。もし東北や北海道の子供だったら、自宅軟禁状態になっていただろう。
毎日ゼーゼーヒーヒーいいながらTVを見て時を過ごした。20歳までに死ぬと言われていたので、成人したり社会人になることを想定したことなど一度もなかった。
だから20歳を迎えたときは愕然とした。
薬物中毒で、もうどんな薬も効かなくなって、病院のベッドの上で死にかけていた。
でも私には未来があり、この身体のまま、これから先も死ぬことなく生きていかなければならないのだと自覚して、絶望のどん底に突き落とされた。
未来がまるで地底に続くように真っ暗だったからだ。どうして生きていけばいいのか?
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Mamy blue」DALIDAで。フランス語で歌ってもイタリア語で歌っているように聞こえるけれど、これは本当にイタリア語で歌っている。

父との思い出(1)

まだ小学生低学年だった。めったにないことだが、父が私を外に連れ出してくれることになった。父のデザインしたセーラー服を着た。二人で神戸について、後の二人と合流。この二人のことをほとんど思い出せない。?

ずっと昔、もっと小さい頃、神戸で父と二人で時間つぶしに映画館に入ったことがある。ディズニーの漫画だ。猫がネズミを延々と追い掛け回すだけで、面白くない。「楽しいか?」と聞かれて「ちっとも面白くない」と言ったら、じゃあ出ようと言うことになって、10分足らずで出たのを覚えている。・・

?目当ての軍艦は入港していなかった。それで父が漁船をチャーターした。私は嬉しくて舳先に座った。海風を受ける。漁船はかなりのスピードで沖に飛び出してゆく。キャッホー!

その後の記憶は、私たち4人が岸壁でその船の入港を待っているところだ。甲板に海兵が整列して敬礼している。アメリカの青年たちだ。船が着岸する。一人が私を見てニッと微笑んだ。私と同じセーラー服を着ているアメリカ兵。私を見て手を振ったことが、とても深く印象に残っている。船名は「ゆきかぜ」。米軍に接収されていたのだろう。米兵しか乗っていない。父が一人タラップを昇って行く。米海兵と話をしている。父が振り向く。許可が下りたのだ。私たち三人もタラップを昇っていく。そして「ゆきかぜ」という米軍の軍艦の中に入った。?
(今日は「ゆきかぜ」のことを書いてあったこのBLOGにTrackbackをつけてみます)


まだ5,6歳だったと思う。何かの帰りに父に手を引かれて、神戸の街を歩いた。暗くなり始めている。どこへ行くのだろう。見覚えのない街並みだ。その一軒の前に立ち止まり、父がドアをノックする。
すると中から、金髪のアメリカ人の若い女性が飛び出してきて、いきなり父に抱きついた。そしてキス!!なっなっなんなんだ!!こっこっこの人は!!中に入れと言っている。絨毯の上を靴を脱がずに歩いてゆく。アメリカ風のリビングルームに案内される。若いアメリカ女性は父と私に紅茶を淹れてくれた。私にも話しかける。わかるわけがない。ムチャクチャの英語でジングルベルが歌えるだけだ。父は会社の英会話サークルを仕切っていたので、今から思うと多分そこの女教師だったのだろう。父はジェームス・ディーンに似ていたとはいえ(???)なにしろ貧しいので、そこまでもてるわけがない。・・

父にはところどころ祖父のアメリカが遺っている。父と外出するとすぐにタクシーに乗せてもらえる。そして「Keep the change」父はいつもおつりをチップとして渡す。父は貧しいのだ。多分祖父の所作を継承しているだけだと思う。父は祖父の使った明治時代のゼンマイ式の懐中時計と、上からのぞく蛇腹式の小型カメラを、ずーっと大事に使っていた。兄弟のない父は、そうして早くに亡くした祖父を、心に住まわせていたのだと思う。

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Kiki de Montparnasse 「Le Retour du marin(水夫の帰還)」
 この曲を解説しておられる葦原英了氏の声を録音したテイプを持っている。この曲もストーリー性の強い名曲。旋律もいい。古いシャンソンのよさが滲み出る曲のひとつに違いない。

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