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FMセブン

FMセブン 2005年5月2日 (Mon) 15:53:10

20年ちょっと前、富士通のFMセブンを持っていた。他にシャープのMZ、NECの98などがあったが、FMセブンは低価格でなんとなくおもちゃ感覚だった。その頃ワープロとパソコンは別個の物として存在していた。なにしろパソコンは日本語入力が出来なかった。ゲイムソフトは「ポートピア殺人事件」が大ヒットしていたが、販売ソフトでさえカタカナでセリフのやり取りがなされていたように思う。
何もかも別売だった。フロッピーディスクは既にあったが、私は保存(SAVE)に音楽テイプや、富士通のカセットテイプレコーダーを使っていた。自分で作ったプログラムを保存するのだが、ピーピーガーガーという音しか出ない。辛気くさいしランダムアクセスも出来ない。おそらくプログラムを収納しておく場所がPC内部に存在しなかったのだろう。LOADもそのmusic tapeからまたピーピーガーガーとする。
私は画面と呼んでいたが、ディスプレイはNECの中古のものを直人(天草の弟)を連れて車で日本橋に買いに行った。直人は100キロを軽く超える柔道坊やで重い荷物を軽々と運んでくれた。中古でもFMセブン本体より高いNECの画面、高いだけあってカラーがきれいに出た。しかしついにプリンターまでは手が出なかった。どこでプリントアウトしていたのかというと、梅田にあった富士通のショウルームにせっせと通った。あまり通うのでprint out用紙は持参するように、と言われたのを覚えている。

日本でコンピューターが一般的に登場したのは30,40年くらい前だろうか。情報のinputは穴を開けた沢山のカードのようなものでしていく。キーパンチャーという穴あけ専門の入力職業が、それ以前のタイピストの延長線のようなかたちで存在していた。このパンチカードはかなり長い間使用されていたように思う。情報処理というのは計算機機能の延長線上にあり、思うに通信の分野と言うより、統計学の分野でその威力を発揮したのではないだろうか。

巨大なタンスのようなコンピューターは、計算機から音楽分野に進出した。私はなけなしの貯金をはたいて、国産第一号のローランドのシンセサイザーを買った。それは既に、コンピューターから、一般人の使用可能な楽器に立派に変身していた。どこから見ても。ただその国産第一号、悲しいかな、単音しか出せなかった。
その頃1枚のLPの中の1曲が私の心を捉えていたPremiata, Forneria, MarconiつまりP.M.F.というイタリアのグループの「PHOTOS OF GHOSTS(幻の映像)」の中のA面2曲目「CELEBRATION」のあの出だしの音が出したかったのだ。音と言うものは機械的に出さない限り単なる楽器では、時と共に確実に弱まり消える。いくらfermataで引っ張ったところで、餅のような強い粘りで連続持続し、しかも強めることは出来ない。だからシンセを買ったのだった。他には犬の鳴き声やヘリコプターの音やら、何しろありとあらゆる音が出せることが、本当に楽しかった。その伏線としては、music concreteの影響があった。私がどれだけ生活の中の音を収録したかを、いつか話したい。

情報処理のほうは容量がどんどん巨大化し高速化し、判断力も増し、もはや先祖が計算機だったとはとても思えない進化を見せていた。一般にまで浸透したのはBASICの登場からではないだろうか。コボルやフォートランに比べてBASICはコンピューター言語というより日常語に極めて近く、人間とコンピューター間での言葉のやり取りを可能にした。
タモリがTVで大々的にFMセブンを宣伝しはじめ、私がそれを購入したのもちょうどその頃だった。そんなある日、本町の直ちゃんの喫茶店「エミグレ」で養護学校時代にお世話になったF先生に偶然再会した。(続く)
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Dalida 「Partir ou Mourir」

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装具&涙と笑い

装具&涙と笑い 2004年8月17日 (Tue) 18:56:13

3ヶ月目に装具が出来てきた。左側を母が右側をTTが支えてくれた。ベッドを降りて歩く練習を始める。脚を全く動かせない。ただ支えられているだけ。装具は鉄とプラスチック、皮とゴム、マジックテイプ等で出来ている。一見義足に見える。バランスをとって立つことさえ出来ない。踏ん張ってみても。踏ん張ってみても。気がついたら身も世もなく号泣していた。「歩けない、歩けない」と叫びながら。
院長である主治医が廊下を通りかかる。「悲しませるために作ったのではない。立ち上がって、喜ぶだろうと、作ったのに」

装具をつけて物につかまって、直立する練習から始めた。3ヶ月の絶対安静で元からたいしてない筋肉が萎え切っている。翌日から松葉杖をレンタルすることになった。

松葉杖は脇で支えると思っている人がいるかもしれない。腕でコントロールする。脇の下からボール一個分離れていなくてはならない。最初は2本、慣れてくると1本。意外なことに、左足が悪い場合はその1本は右側に持つ。

手術立会い看護婦が言った。「膝は完全に砕けていました。院長先生がピンセットで飛び散った欠片を、一生懸命拾い集めて何とか形を作られました」
膝の皿は本来動くものらしい。ボルトで固定してあるので皿が動くどころか、膝はピンと突っ張ったままほんの少しも曲げることは出来ない。ギプスは何度作り変えただろうか。

古いギプスは、脚につけたまま電動ノコギリで切り裂く。脚まで切られないかといつもハラハラした。
初めてギプスを巻いた日CCがカラーマジックペンを沢山持参してきて思いっきり落書きをした。「アメリカではこうするのだよ」
医者も看護婦も何も言わなかったが、内心ギクリとしていたに違いない。この行為で顰蹙を買わなかったのは、ひとえに若く美しかったからだ。最初の3ヶ月ほとんど毎日のように来て、夜遅くまでそばにいてくれた。そしてその真摯な態度にジワジワと病院の人気者になっていった。

最初の日、脚に錘をつけて、ベッドに釘付けにされている私を見てCCは、イスを引き寄せハラハラと涙を流した。慌ててティシュを摘み出し涙を拭いていた。「Let me kiss you,Bruxelles」そしてkissして「I love you,Bruxelles」と言った。?

もう手術出来ないほどパンパンに腫れ上がった大腿、血まみれの髪の毛と顔、最初訪れた友は皆一様に言葉を失くした。ただ一人だけ嬉しさを抑え切れなくて心からケラケラと笑った人がいた。
「Bruxellesちゃん、世の中に神様って本当にいるんだね。今日それを確信できたよ。」
そしてまた肩を揺すって笑った。?狂っているのか。そんなにも苦しかったのなら、その笑いで、・・その笑いで正気を取り戻せるなら、思いっきり笑うといい。

思えばこの時もう15年、本人の言葉を借りれば「奴隷のように」尽くして尽くして生きてきたのだと言う。これで振り向くだろう、これでどうだと、まるで意地のように誠意と善意の大盤振舞い。いつかのBさんのように「可哀相に。どうするつもり」と人は言うだろう。でも、人の想いに対して、「可哀相に」等という同情は「失礼」以外の何物でもないと、私は今も思う。

TTはまだ笑っている。
「僕にもようやく運が向いてきた」心の中でなく、声に出してそう言った。

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Mylene Farmer 「Alice」

雪上転落上から下まで

雪上転落上から下まで 2004年6月27日 (Sun) 17:09:16

その人は野菜を買い込んでいた。東京行きの新幹線の中。
「あらごめんなさい。大阪で買うほうが安いから。あなた一人旅?何処まで?北海道?はは?ん。北へ向かって失恋の旅ね。違う?違うの?・・私のこと知ってる?ちょっと顔見てよ。必殺に出てるの。・・思い出せないの?・・私もあなたくらいの時ある別れがあったわ。結婚を迫られたの。私は演劇をとった。そしたら、屋上に靴を揃えて、その人飛び降りようとしたの。お互い必死だったのよ。飛び降りたかって?止めたわよ。男の純情って、手を焼くわ。今?平凡な結婚して子供もいる。生活臭プンプンしてるでしょう。撮影のたびに大阪で買い物して帰るの」

冬季割引切符を持って、東京からは鈍行で、その後青函連絡船に乗って北海道の大和留寿都スキー場に向かっていた。ケイティ・ピータースが「仕事ばっかりしないでスキーにおいでよ」と誘ってくれた。雪国は初めてだった。ケイティは3分の2は日本にいる。3分の1働いて3分の1は日本を旅行する。一昨年は一人で、去年は友達を連れて、おんぼろ我が家へ泊まりにも来た。堺の、高槻の、貝塚の友人宅にも頼んで泊めてもらった。ケイティとは市谷のユースホステルで出会った。「ジャニス・ジョップリンに似てるね」私のほうが声をかけた。身長1メートル78cm。大きな身体をして人形を抱いてベッドの上でうずくまっていた。
日本のすべてが珍しく楽しいらしい。母と一緒に四天王寺にお参りしたときも、すごくご機嫌だった。

スキーは連れられて以前に2度。シューと耳に聞こえる風を切る音が苦手だ。今日は晴れ、さあどうしよう。ケイティは着物を着て仲居のお仕事中。とにかくミニスキーを借りた。長い物よりコントロールしやすいだろうと間抜けの浅知恵が働いた。リフトはとにかく上まで、上級コースに乗った。無知とは恐ろしい。結局一度も立ち上がることが出来ず、山の一番上から、下まで転がり続けた。雪山転落死!辛うじて気絶しなかったのが幸いして、死は免れた。

ケイティの友達の車にのっけてもらい留寿都を後にした。登別温泉に入浴。札幌で知人に会い、雪祭りも見た。その間に200回以上転倒した。倒れ方が普通でない。すでに全身打撲。寝台車で東京に辿り着いたころには関節の痛み、発熱、悪寒で、駅の医務室に駆け込んだ。
あまり震えるので寒いのかと思いワンカップ大関を買って、痛みに耐えた。新大阪に到着した時は全部の骨がバラバラガクガクの感じ。当時親友がいて親友の姫神(仮名)さんと母が救助に来てくれた。両側から支えられバラバラの感覚で帰宅。熱は40度に達していた。

行きの新幹線で隣席だった今や老女優TI(70歳?)の記事を最近新聞で見た。今度プロの歌手と組んで歌手デビューするらしい。もしヒットすれば、芸能史上大ニュースになるに違いない。

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「GENTIL DAUPHIN」Gerard LENORMAN
ひょっとしたら、男性フランス人歌手ではLENORMANが一番のお気に入りだったかもしれない。

ダンス!ダンス!ダンス!

ダンス!ダンス!ダンス! 2004年6月20日 (Sun) 17:11:01

「ということは、今日は私はなんて名前?」
結婚式場主催のparty。急に彼女に用事ができて、ピンチヒッターに来てほしいとSKから電話があった。「支払った高い会費が無駄になる」フランス料理のフルコースに釣られて行った。ディスコパーティーが用意されていた。SKも私もノリはいいほうだが、踊りは駄目。楽しめばいいと、ステップを踏んだ。自然とシャドーボクシングになる。SKもそれに合わせた。蜂のように刺し蝶のように舞う、モハメット・アリではなくカシウス・クレイのスタイルが自然と出てくる。二階からホール全体を照明が舐めて走る。なになに、優勝したらダイヤの指輪が貰えるんだって?

私は一度だけダンスで脚光を浴びた思い出がある。京都の日仏のクリスマスパーティー。BFのJ達が全部企画したものだ。まだトラボルタも存在せずディスコという言葉もない。ゴーゴーと言っていた気がする。Jは踊りを一通りマスターしていた。リードに任せればいいだけ。partyがスタートした。みんなノリノリ。息もぴったり。無我の境地で踊る。ハッと気づくと、回りのみんなが踊りを止めて、私たち二人を何重にも取り囲み、ただじっと見ている。あらら。次に拍手が起こった。二人に向けられた暖かい拍手。京大医学部の小笠原さんが私の耳元に近づき大声で「Formidable!」と叫ぶ。Jを見て笑った。Jも笑っている。皆が自然と動いて、ステイジに上がる花道を空けてくれた。Jと私は激しく踊りながらステイジに上る。後は今から思えば、サタデーナイトの二人トラボルタ状態。「Joyeux Noel」「Bravo!」「Merveilleux!」「Fantastique!」「Magnifique!」・・・そしてまた会場全体から拍手が来た。

敗戦直後社交ダンスが大流行した時期があったらしい。たいていの人がダンスシューズを持っていたとか。父も父に教えられた母もダンスが踊れる。その後しばらくしてRock'n Rollがアメリカに登場。手回しの蓄音機に鉄の針,78回転のRock Around The Clockをかけて、若い父が5,6歳の私をぐるぐる回す。今思えばジルバだ。プレスリーより少し前のロック。

父はある日こんなことを言った。「死ぬ時ツンツロリンのカックン,と言って,そのまま死ぬ人がいたら、すごいなあ」「よし、ワシはそう言って死ぬぞ!!」・・・
だから本当にバカな私は、父の臨終の場で、いつ父がそれを言うのかと、ずっと待っていた。何も言わない。ただのど仏がコトンと音を立てるかのように落ちた、のを見た。頭の上に誰かの涙が2,3滴落ちてきた。その後若くして死んだ母の妹が「Bチャンの病気、一緒にあの世へ持って行ってあげて!!」と、まだ暖かい父に言った。子供なりに不謹慎だと思った。一番不謹慎なのは、自分だと、今ならわかる。・・

参加者全員の頭上を動き回っていたライトがSKと私のところで止まった。ファンファーレが鳴る。ディスコ・クイーンだ、優勝だ!二人して司会者の横に行きボクサーのように両手を高々と上げた。ダイヤの指輪は、当日欠席したSKの彼女にプレゼントしたのは言うまでもない。

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Michel Sardou 「J'accuse」「告発」日本にサルドゥーのサイトがないのはどうして?

日仏学館創立50周年記念Party

日仏学館創立50周年記念Party 2004年5月19日 (Wed) 14:59:52

動いているつもりだった。おかしい。進んでいない。手を突き出してフロントガラスに触れる。無い。砕けて何もかも無い。顔にぬめりを感じた。手をやる。血だ。バックミラーで確かめる。血まみれだ。頭が切れているのか、割れているのか。事故?証拠写真を撮ろう。カメラに手をやる。血まみれの自分を撮るのか?そこを他人に見られたら。やはり異様だろう。止める。先を見る。バンパーが少し浮き上がって、そこから煙が出ている。逃げなければ。ドアに手をやる。足がピクリとも動かない。血が滲んだ膝の骨が突き出て皿が三角形になっている。急に肋骨全体が痛み出した。息ができないほど痛い。折れたのか。血が吹き出て、目があけておれなくなる。・・・

今日はアメリカ人CCが企画したPartyの日。二人で全部やってきた。ワインにチーズ等の軽食。レコードにPAシステム、ミラーボールのレンタル、アルコールの発注。ポスターの制作。パーティー券300枚の完売。アルバイトの配置、室内のデコレーション,フレンチガーデンの小イベント。何日もかけて、多くの人に会い一つ一つ整えていった。会場は京都の日仏学館館長と交渉して、タイトルも創立50周年記念Partyとした。今日、総合司会を英仏日語でやる。シルバーグリーンのドレス。シルバーのハイヒール。そして何枚かの愛聴盤を車に積んである。綺麗に洗浄して、包帯を巻いて添え木をして松葉杖をついて、遅れていくか。CCに連絡しなければ。それより早く脱出しなければ。

CCと会ったのはCCが日本に来た翌日。雨にぬれて道に迷って20分遅れて教室にやってきた。リスニングの授業のアシスタントティーチャーだ。CCは日本に到着したその足で面接に行き、翌日、つまりこの授業が最初の仕事だった。まだホテルに泊まっていた。週末に家を探すと言っていた。・・いつも帰りに和風パブで語り合うようになった。何より持病が同じだ。吸入器を見せ合って笑った。・・CCに日本語を教えるようになり、毎回父の英文日記を1冊貸し、平行して敗戦直後の日本を教えた。CCは日本に順応するのが驚くほど速かった。私よりも15若い。一ヵ月後にはクラブに所属するファッションモデルになった。当然語学学校(ECC)でも人気絶大だ。とても柔軟な性格でその上謙虚だ。ただCCは語学の教師やモデルより将来的には別の何かをやりたがっていた。このPartyは、とりあえずのワン・ステップだった。

結局私は膝の皿と大たい骨の複雑骨折その他で、レントゲンを見ながらの観血手術、3ヶ月の絶対安静、六ヶ月の入院、一年のリハビリ・・という、とんでもない悲劇のドラマをこの先体験することになるのだが、当初は何とかPartyに行けると思っていた。休日の筈だった院長が出てきて、私の膝にドリルで金属の棒をゴリゴリゴリゴリ回転させて貫き通した。膝の骨が出会い頭に、癒着しないためだ。さらに足の先に錘を付けて引っ張る。院長は滑車の原理で説明した。すでに頭は7針ほど縫った。服も顔も髪の毛もシーツもマットレスも何もかも血まみれでベトベトだ。

その頃日仏学館の会場には、私の友達も多く詰め掛けていた。花束を持って。渡す相手が見当たらないのでウロウロしていた。CCが急遽オープニングの挨拶を代理で始めた。訳がわからず不安で声が震えている。
       「 SPECIAL THANKS TO MY FRIEND BRUXELLES.」

18年前の今日の出来事だ。
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Il pleut sur Bruxelles. par DALIDA

Bruxellesちゃん登場

Bruxellesちゃん登場 2004年4月18日 (Sun) 17:52:42

中学生の時に同人誌デビューをした。その時YOさんが「新作品」に紹介文「Bruxellesちゃん登場」を書いて下さった。その抜粋を引用する。

・・・再びめぐり会えぬ死の別れに、彼の人は「子供、可愛がってや」と言った。残してゆく幼い子の上を思い、心を痛めている彼の姿に、私は声をのんで泣いた。・・・若死にされた友の遺児二人、幸せに育ち、立派に成人し、世の人が、やはり彼の人の子よ、とうなずくを、せめて彼の人の妻が微笑み聞き、肩の荷をおろす歓びの日を、私もそっと待ち兼ねる。・・・Bruxellesちゃんは喘息がしばしば起こる.殆ど登校も出来ない。彼女は宿痾の喘息を詩に訴える。苦しみが極限に達すると、生と死を考える。真摯な筆法が光り、私は、故人に、彼女がペンで、彼女の世界を表現するまでになったと知らせたく、切に念う。・・・

このままなら死んでしまうと、府立の養護学校を探し出し,入校させて下さったのは、実はこの人だ。逆境の鏡餅のような状態の私が、決して絶望したり、卑屈になったり、不幸に染まってしまわないように、心を砕いて下さった。肩車をするように、常に下から上に押し上げ、支えて下さった。子供の時代、何とか水面から首を出して生き延びられたのは,この人の力が大きい。

母が脳梗塞で倒れ、母の介護をし、母を見送り、しばらくしてふとわれに返って、花束を持ってこの人の家を探し探し訪ねた。一週間前に旅立たれた後だった。お葬式もお経も戒名も祭壇もなかった。墨で名前が書かれた木片がひとつだけあった。


大沢さん、私と、一緒に、もう少し、生きていきましょうね。


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