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故きを温ねて、何もわからず

「ちいさいおうち」という文庫本を読んでいて、またしても大阪大空襲のことやら祖母のことを思い出した。
祖母はその時代の教育だったのか、ほとんど自己表現を抑制した人だった。ただ一度だけ、意外なことにアメリカに敵意をむき出しにしたことがあった。私がおもちゃのB29を手に持って「ブーン、ブーン」と祖母の周りを回っていると、突然そのB29を私の手からひったくって、畳に投げつけた。ビックリして「おばあちゃんがBちゃんのB29を投げつけて壊した」と母に言いに行くと「B29に家を焼かれて一切をなくしたからでしょう」と母が言った。
私はまだ幼稚園くらいで、そんなことは何も知らない。戦争に負けて男は全員殺され、女は皆奴隷にされると思わされていたけれど、マッカーサーという人が、コーンパイプを口にくわえて丸腰でかっこよく厚木に降り立ち、とても紳士的に日本を統治した、だから鬼畜米英は何だったのかと日本人はあっけにとられた。と言っていたので、祖母はアメリカ好きだと信じていたのだ。
わからないことはほかにもある。おばあちゃんが若奥様だった船場の「天満屋」は、たしか「大阪で初めてのデパートメント形式のお店だった」と言っていたように思うのだが、それがどこにあったのかの場所がわからない。その時「なんのお店だったのか」と聞いたら洋品雑貨店だといった記憶もある。モーニングやシルクハットやステッキを扱っていたと。確かに天満屋の銘の入ったブラシやハンガーは見たことがある。しかし私が知っている限り、天満屋というのは、影も形もない。この写真を見て思うのだが、祖母の言っていた「大阪で最初のデパートメント形式のお店」というのは、この店のことではないだろうか?だとしたら、これは石原のお店だ。天満屋とは違う。おじいちゃんはどんな仕事をしていたのか、と聞いたら「自動車やオルガンの輸入をしていた」と言った。石原のお店の広告を見ると「時計のほか、写真機の輸入販売、自転車の輸入、製造販売、楽器の輸入製造販売(オルガン工場)など専門の店舗、工場も有った事が分かる」と書いてある。オルガンの輸入をしていたのは石原であり、おじいちゃんではなかったのではないか?それとも石原とは親戚なので、祖父は、石原の輸入部門を担当していた、ということかもしれない。また祖父の母親が石原家から天満屋にとついできた頃は、石原よりも天満屋の方が遥かに伝統も古く裕福な家だったとも言った。そうすると曾祖父母か祖父母の代で逆転したことになる。祖父は15歳くらいからアメリカの高校と大学、大学は文学部と法学部を卒業している。これも昔毎日新聞の編集長をしていた遠縁の久保田さんに私が大人になってから聞いたのだが、12年間もアメリカで学問に励んでいたそうだ。弟がひとりいて、跡取りと期待されていたが、日露戦争で若くして戦死。慌てて祖父がアメリカから呼び戻された。石原家には優秀な男児が何人もいて明治後半あたりからおそらく天満屋との逆転は始まっていたのではないだろうか?よくわからない。ただ、大学生の角帽を被った父が、車を運転している写真がある。だから過去に商品に車を扱っていた可能性も多少はある。ハモンドオルガンと提携をしていたことに関しても、昔父は学生の頃アルバイトに教会でオルガンを弾いていたということも聞いたので、楽器の輸入云々にも、なにかの事実関連はあるのだろう。ここに石原時計店は大正4年に南久宝寺町から心斎橋南詰に移転した、と書いてあるが、以前祖母のさかのぼっての戸籍謄本を取り寄せたことがあるが、祖母の古い本籍は南久宝寺町だった記憶がある。祖母は元々箕面の人なので天満屋の場所が南久宝寺町だったということになる。心斎橋にビルを立てる前に石原時計店があった場所に、天満屋があったということ?になりわけがわからない。自他の区別がつかないほど、ものすごく密接な親戚関係だったのだろうか?昨日お墓参りをしたが確かにここに出てくる石原久之助氏のお墓と我が祖先のお墓は同じ区画内にある。祖母が珍しく何回も話したことなのでよく憶えているが、祖父のお葬式は御堂筋の交通をストップさせて、四頭建ての馬車をシャンシャンと連ねた派手派手の大葬列だったらしい。費用は全部石原さんに出してもらったと言っていた。昭和11年、その頃の経済力は月と鼈になっていたのだろう。残された祖母と父は母子家庭、焼け出された家も、石原さんの借家に住まわせてもらっていたらしい。祖母は身内のほとんどない人で、自分の身には医者になった甥がひとりいるだけで、全く身寄りがない。そうそうそのドクターH氏は晩年に自分の亡き母を追悼した書物を「思い出の記」として出版、その「はじめに」に「母の妹の嫁ぎ先が事業に失敗し、その負債を弁償しなければならなくなったので...」と書いてあるのを見て、母も私もひっくり返るほど驚いた。祖父は日本の気候が身体に合わず、喘息がひどくなり働けなくなって天満屋を閉じたと思っていたのだが、親戚(祖母の実家にまで)に迷惑をかけるほどの大型倒産をしていた、とは!!「それで借金は返済しましたか、まだですか?」と問うたら「返済してもらいました」ということだったので、胸をなでおろした。このドクターH氏に「天満屋はどこにあったのですか?」と私は祖母の法事で一度聞いたことがある。すると「おばさんのお店は淀屋橋のミズノと尚美堂の間にあった」とおっしゃった。そのころ私はもう大学生だったのでよく覚えている。しかししかし、淀屋橋のミズノと尚美堂のあいだにあるのは3代目の石原ビルだ。ここは現在の地名で言うと東区北浜4丁目、我が家の本籍に非常に近い。負債を減らすために土地を購入してもらったのだろうか?明治、大正、昭和、平成と時代が流れ、曽祖父から私まで4代、石原のビルにしても淀屋橋で3代目。わかるのは天満屋は衰退の一途を辿ったということだけだ。そして私は衰退の底に生まれ、底の底に留まり続けている。父が亡くなったとき祖母は「かわいそうに。この子には、いい時がなかった」と呟いていた。ということは祖母には「いい時」があったのだ。アメリカ留学帰りのインテリで船場の天満屋の跡取り息子に、実家が医者だというだけで、これといって社会的背景の全くない祖母が、見初められた。結果的に倒産したとは言え、自動車やハモンドオルガンを大量に輸入する資力がまだあった頃の祖父に愛され、シャープや阪急電車を育てた石原の親戚として、西洋化した時代の先端の文化を享受できた「いい時」が祖母にはあったのだろう。
「私にも娘時代はあった」と祖母が私に言った。
「でもBちゃんが生まれた時からは、おばあちゃんははじめからおばあさんだったよ」...
私も年を重ねて、祖母がそれぞれの折にどんな気持ちでいたかが、ふと分かる時がある。そしてしみじみ思うのだが、「いい時」があった分、晩年は余計に辛かったのではなかったかと思う。

がここに書いているエレベーター。これは大阪大空襲に耐えた心斎橋の石原ビルの話である。生徒から学生になっても私は喘息で入院ばかりしていたので、その後の心斎橋の石原ビルを知らない。私が22,23才の時だと思う、新聞に記事が出た。東京百貨店資本の大阪進出として報じられたのは、他でもない、この石原ビルの西武による買収であった。大阪大空襲、B29の焼夷弾にも屈しなかった心斎橋の石原ビルはその年西武百貨店に歴史的場所を明け渡し、そこは心斎橋パルコとなった。祖母が亡くなった翌年、くらいだったと思う。その年私は小説「置き去りにされた夜明け」を「海とユリ」誌に発表した。

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Yoshida Joe の命日

昨日手帳をみていたら、「今日がJoeの命日だと気づいた」。2005年6月24日からもう丸7年が過ぎた。
今日ネットを見ていたら、柏木隆雄と言う方の筆になる「吉田城さんのこと」という文章に出会った。読んでみて彼らしい人生を生きたのだなと思った。子供のころからこうありたいという人生が彼にはあって、病気と闘いながらも決して屈することなく、思う存分に人生を生きたのだと、楽しんで人生を生きたのだと思うことができた。
彼の妻のHPにもあたった。二人力を合わせて同じ道を歩んだのだと思う。好きな仕事で結果を出すということは、男として最高の人生だったと言えるだろう。そう、実のある人生、これからも、彼と関わったいろんな人たちの時間の中で、かれは生き続ける筈だ。
ふとご両親のことを思った。彼の父は彼が20歳の頃、すでに60歳に近かったように思う。母上の年齢は知らないが生きておられてもすでにご高齢な筈だ。東京の千駄ヶ谷のあの自宅はまだあるのだろうか?彼の姉上はどちらに嫁がれたのだろう。東大の大学院に進んだかれが、まさか最終的に京都の人になりきるとは思えなかった。しかも阪大に職を得たこともあったらしい。「あずまおとこ」と自分のことを書いていたっけ。
柏木氏の文章を読んでいると、年齢を重ねてもけっして世俗の垢にそまらない、彼の生き様がみえてくる。「過ぎ去った時間は戻らない」にしても、過去を忘れても、またいつか共に輪廻転生して、どこかで逢おう、きっとまた逢えるだろう。北白川のロッシーニュ先生の家で、初めて会った時のように、お互いすぐに、何かに気付く筈だ。 

Oh! My Papa

父が亡くなって今日で半世紀が過ぎた。私は幼すぎて、会話が成立するような年齢ではなかった。人として父を理解できていたとは言い難い。それでも、父が言ったことで、記憶に残っていることが4つある。
1?身に付けるものの色はできれば2色に押さえること。帽子とベルトと靴の色は同色にすること。?なるべく守るようにしている。
2?女性は大切に扱い、親切にすることーこれは兄に向かって言っていたのだが、そばで聞いていた私も、父の教えとして守っている。
3?「死ぬ時は、飛行機に乗って、ピストルで撃たれて死にたい」ーアメリカ中部で飛行機のライセンスを取り、ハワイで実弾を発射してきたのは、頭のどこかに父のこの言葉があったからだろう。
4?好きな人ができたら、食事を共にし、その男がペチャクチャ音をたてたら、交際の対象から外しなさいー父はテーブルマナーがどうのと言っているわけではなく、公衆の面前で女性に恥をかかせて平気な男性を避けなさい、と言ったのだと思っている。女性に車道側を歩かせたり、重たい荷物を持たせたり、数歩前を平気でスタスタ歩く男はすべてカット(男性と思わない)してきた。レストランでイスを引かない男、コートを着せてくれない男、ドアを開けてくれない男、実は全部興ざめしてしまう。困ったことだ。私の一生で興ざめしなかった男性は、厳密に言うと日本人では二人しかいない。
父はどちらかと言うと小柄で痩せていて、マッチョ好みの私としては決して理想の男性ではない。しかし、知的で所作がスマートでハンサムで、子供心にも、父のことを、私達他の家族とは住む世界が違う、かけ離れた存在のように感じていた。まず第一にあの父が私の父だと言うこと、あの父が母の夫だと言うことが、不思議でしかたなかった。父には父にふさわしい子供や妻が別にいるのではないかとうっすらと感じていた。
父の付近には分厚い軍艦の写真集やたくさんの洋書があり、机に座るとタイプライターで外国の友人達に手紙を打っていた。つまり父は、私には未知の世界を持っていたからだと思う。また、父が私を金髪女性が住む神戸の洋館に連れていってくれたこと、TV局を見学させてくれたこと(その時初めて自動ドアを体験した:50年以上前のことだ!)等も、私に父との距離を感じさせたのだと思う。
父との思い出は他に三つある。米軍が接収していた軍艦に乗せてくれたこと、会社の社内旅行に連れて行ってくれたこと、病気で入院する前に、思い出を残すためか、山登りに連れて行ってくれたこと。今から思えば、私が感じている距離感を察して、父はそれを埋めようとしたのかもしれない。
正直言って若くして亡くなった父との思い出が祖母との思い出ほど多くあるわけではない。ただ、39歳で亡くなった父の年齢をはるかに超えている今の私には、既に父は私と同化し私の中で生きているのだと感じることはできる。
いつか彼の世で父に会う時、父が我が娘として誇りに思って出迎えてくれるように、心して残りの人生を全うしたいと思っている。

To my dearest Papa : I love you forever

Joe (3)

今日はJoeの3回目の命日だ。
人生の後半の20数年間、毎週3回の透析を受けていたとは、私には全く想像が出来ない。闘病にもめげず常に笑顔を絶やさなかった「人生の達人」だと書いている人がいた。学者として、健康な人以上に仕事をこなし、素晴らしい成果を残した。約束された王道を歩いた輝かしい人生であったと思える。妻を得、家庭を築き、子供を残した。透析、だけが彼の人生には本当に場違いだ。
「学問は業(なりわい)」だと常に言っていた。真摯な態度に心打たれた。
今日探し読んだ彼に関する文章の中に「日比谷高校の伝説的秀才」だったと書かれていた。そこまでは知らなかった。
Marie「Joe、その大きな頭の中には何があるの?」と聞いたら
Joe「Marie、に比べたら、みんなガラクタだよ」って言った。
場所は京大の「Good Samaritan Club」の部室だ。電気を消して二人でそこに潜んでいたのだった。そこは英語通訳ガイドサークルで、その頃まではまだ英語使いでもあったのだ。
10代後半から20代前半にかけてのJoeの口に上った(彼の好んだ)人達の名前を思い出すままに挙げてみると、生田耕作、澁澤龍彦、塚本邦雄、清水昶、頭脳警察、Herbie Mann、Miles Davis等、あぁ、少ししか思い出せない。Marcel Proustは彼の人生にまだ登場していない。喘息の話のついでにProustについては、むしろ私から話を振ったが、記憶に残る反応は無かったように思う。

彼の著作「プルーストと芥川龍之介」 : 日本文学に関する素養は父親譲りではないかと思える。「この前パパと滝口修造の家に行った」と言っていた記憶がある。私の記憶に間違いがなければ、福原麟太郎先生の家にもパパと行っている筈だ。彼の父が彼に期待と愛情を深くかけていたことが感じ取れた。
吉田城教授の資料
アルゼンチン館の夜はふけて:吉田城に触れた部分
blog 地声: 吉田城に関するペイジ:
blog:recitativo secco: 吉田城訃報
Kazuyoshi Yoshikawa氏とAlain Génetiot氏の吉田城追悼文
L'orbite metaphorique :吉田城への言及
Rockfield Diary : 吉田城への言及
日比谷高校と吉田城について内田樹教授のblog:
確かにJoeは他の男が簡単には真似の出来ないCity Boyの垢抜けた感性と所作を持っていた。
プルーストと身体 『失われた時を求めて』における病・性愛・飛翔 :

その日は京大西部講堂(否、円山公園野外音楽堂だったかもしれない)のRock Festivalに出かけたのだった。ブレイクする直前の井上陽水が東京からゲストとして飛び込み、大袈裟な紹介の後に登場して「傘がない」を歌った。
電気を消して鍵をかけているのに、気がつけばドンドンとドアをノックする人達がいる。見詰め合って身体を硬くした。数秒間の沈黙の後Joeが声を出した。「どなたですか?ご用件は何ですか?」
今ドアを開けるわけにはいかない!

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2007年の命日の記事 : Correspondances
PLANETE BARBARA 過去記事2004年:このとき彼は生きていた!
いつか見たマグリットの空の青:2005年6月 過去記事
Ou es tu, qu'est-ce que tu fais maintenant?
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薬との関わり

今日久しぶりにエフェドリンを多少多めに飲んだ。今効いている。この感じ、頭や気分まで爽快だ。空気が肺の奥深くに入っていくのがわかる。
何度か薬物依存になったけれど、この感覚と共に人生の大半を生きてきた。

ほとんど薬が効かなくなって、京都の漢方薬屋から通販で薬を買っていた時期があった。水の飲めない、たとえば授業中の教室や電車の中で直に飲んだことが何度もある。舌や口の中全体が痺れる。物凄く苦い。
成分に麻黄とある。薬剤師の友人SSに聞いたら、これはエフェドリンの原料だと言った。なるほど、漢方薬にしてはよく効く筈だ。エフェドリンでも化学合成したエフェドリンはほとんど効かない。

小学校2年から喘息発作に特効注射を打つようになった。母の背に負われて真夜中に近所の医院に走ってもらったことがいやほどある。呼吸停止寸前になる。そこへ1ミリくらいの注射と強心剤を片方づつの腕に打ってもらう。2分もしないうちに歌が歌えるほど元気になる。あまりに劇的なので、その快感が忘れられなくなる。しかし、この劇薬、3,4時間しか効かない。一日何度か母に背負われて病院まで走ってもらう。2日目はたいていそのまま病院に入院だ。小学2,3年生はそんな繰り返しだった。体重も身長も増えないし伸びない。朝から夜まで夜中まで、ゼーゼーヒーヒー言いながらTVを見ていた。小学校など、1年に50日も登校出来なかったように思う。

大人になったら治ると言われていたけれど。私の場合は結局治らなかった。

本格的に薬物を減らそうと思って全力で取り組み始めたのは5年前だ。自分なりに知恵を絞り心身両面から取り組んだ。思考回路が完全に病人のものになっていた。こうした時、ひどい発作が出た、というインプットが多くありすぎた。計画が立てられないから、計画性そのものが思考から欠如していた。身体を徹底的に労わり過ぎる。目の前にある薬は、なんといっても薬こそベストフレンドなのだから、何でも口に入れた。そういった自分を過去に葬り去ることから始めた。
3年目で、薬の量を6分の1に減らすことに成功した。同時に肌身離さず持っていた吸入器を持ち歩かなくなった。
今でもまだ薬を絶ったわけではないけれど、5年前に比べれば8分の1くらいに減少させている。2年前からは、喘息を克服したいと言う消極的な目標から、スーパーボディをつくりあげたいという積極的な目標に切り替えた。

P.S:最近こんなサイトを見つけた。目に負担がかかるので詳しく読んでいないけれど、小児喘息に苦しむお子さんをお持ちの方がいらっしゃれば、参考にしてみていいのではないだろうか。こちらです
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Didier Barbelivien 「Les moulins de mon coeur」

生命保険(社会不安の中で)

夜11時過ぎに元生徒の地蔵君から電話があった。生命保険加入をめぐって奥さんと大喧嘩したということだった。子供も2歳になったし、いろいろ調べて将来のことも考えて、保険に入ろうとしたら、奥さんが反対したらしい。保険よりも貯金のほうがいいと。3日前の話だ。

昨日のニュース明治安田生命の1000件を超える不正不払いが報道された。これだけ経済が窒息状態になったら、資金を集めてプラス運用するのは確かに至難だ。しかし保険会社が保険金を支払わないとなれば、自社の墓のみならず、日本の保険会社全体の墓を掘っているのと同じだ。
地蔵君がいろいろ比較した上で加入を決意したのも、そういえば米国のものだった。

銀行に預けても、いつの間にか他者によって預金が引き出されていたり、銀行そのものの破綻の事実もあった。この先年金の削減や増税もチラホラ見えている。
おまけに倒産に人員削減。この15年ですっかり名前が変わったのは銀行だけではない。合併、統合によって、ほとんどの会社が組織再構築(リストラクチャリング)を経て、名前を変えている。あるいは、存在そのものと共に名前を消している会社も多い。

おまけに偽ラベルの食品表示、内部告発で明るみにでた多くの会社ぐるみの不正、粉飾決算、業者の良心が問われる欠陥住宅,悪質リフォーム、ネット関連業者の不正請求、オレオレ詐欺、病院の医療ミスの隠蔽工作、あらゆる取引に伴う嘘八百・・・数え上げたら限がない。心安らかに生きてゆける社会ではない。
さらにこの天変地異。地震、ハリケーン、洪水、津波・・TVの映像はいやがうえにも目に焼きつく。不安は増幅する。この規模の大きさはどうだ。個人の力で踏ん張れる範囲をはるかに越えている。なすすべはない。
挙句に集団自殺、若者が嵌るたいした教義もない新興宗教引き篭もり学級崩壊、いじめ、うつ病、ストーカー、ごみ屋敷近隣迷惑行為児童虐待、尊属殺人・・・勇気をだして直視すると、人間の尊厳も人間間の信用も、もうほとんど破綻に向かって坂を転がっている。よく考えれば、この中で愛の力で克服できる次元のものなど、ひとつもない。

アルコールやセックスや賭博に頭を麻痺させて生きてゆくしかないのだろうか。襲い掛かる社会不安の中で、びくともしない大樹のような精神力を鍛えなければならない。あるいはいっそのこと、さっさと若年でボケてしまうか。はたまた危機感さえ認識できない大多数のダチョウの群れに入って、唯々諾々と尊厳を捨てて家畜化するか。
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「Madame」par Claude Barzotti
Barbaraの「Madame」とは別の曲。Claude Barzotti、あまり知られていないのでサイトを紹介しておきます。お顔などもここで見ることができるので。実力派だと思う。サイトはこちら

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