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女三界に家なし

摂氏33度くらいまでなら平気だが、33度を過ぎるあたりから、アイスキャンディーが欲しくなる。35度なら、アイスキャンディーを食べ続けることになる。今年初めてアイスキャンディーが必要となる温度に気づいた。
子供の頃、祖母が市場から帰ってきて「Bちゃん、はい」と言ってアイスキャンディーを手渡してくれた。「あれ、ひとつだけ?おばあちゃんの分は?」「私はいらない」祖母の顔を見ると、顎から汗が流れ落ちている。暑くて仕方がないのだ。きっとアイスキャンディーを食べたいのだろう。「おばあちゃんの分がないのなら、これを半分にしよう」そうすると祖母は半分食べる。「どうして自分の分を買ってこないの?」と聞いても返事をしない。不可解な行動だ。なぜなのだろう。同じようなことが数回続いて、そのあと祖母は初めから棒の二つ付いた、真ん中でポキンと二つに割るアイスキャンディーを買ってくるようになった。
いつ頃だったか思い出せないが、それが祖母の遠慮だと後でわかった。馬鹿げた遠慮だ。食べたいものを食べたい時に買えばいいのに、何故つまらない遠慮をするのだろう?父がいないので、母が働いている。その母のお金でアイスキャンディーを買いたくないのだろう。「女三界に家なし」と祖母がつぶやいたことがあった。「どう言う意味?」と聞いた。子供の時はお父さん、結婚したら夫、年老いたら息子、に厄介になって生きる、という意味だと教えてくれた。「お父さんの家、夫の家、息子の家、で、与えられた役割に従って生きるということ?」のようだ。では息子に死なれた母親はどうすればいいのだろう。息子の嫁に養ってもらうしかないのだろうか。祖母の場合母は「お気に召さない嫁」なのだ。孫の世話をしている限りは、この家にいる権利はある。けれど祖母の心の中では「自分が暑いからといって、自分の食べるアイスキャンディーを買う」という行為は、できない、と思い込んでいるのだろうか?何故なら祖母自身が、母を他人と考えているからだ。息子の嫁とか、家族の一員とかという意識があれば、当然アイスキャンディーは2本買ってくるだろう。それはある意味プライドなのだろうか?訳がわからない。いずれにせよ何の意味もない「遠慮」である。よく「私は遠慮している、遠慮している」と言っていたが、そういうことなのだろうか?
おじいさんと嫁ならもっと大変だ。息子が死んだあと、おじいさんと嫁が同じ家で暮らすことになる。いろいろと世間はうるさいだろうし、実際下衆の勘繰りの通りの事件も決して少なくなかっただろう。ただこういう問題は息子や娘が二人以上いれば、簡単に解決する問題である。昔はだいたいどこの家にもおじいさんやおばあさんが普通にいて当たり前、我が家にいなくても、おじさんの家とかあばさんの家とかには、おじいさんおばあさんがいたものだ。最近は長男でも親と同居の結婚などありえない。そして老人には年金があるので、老いて子供に養ってもらう親もいない。むしろ、40、50を過ぎても、親に何かと生活の援助をしてもらっている息子や娘のはなしはよく聞く。祖母ももう少しあとに生まれていれば、「女三界に家なし」に縛られることなく、つまらない遠慮をする必要もなかっただろうに。しかしどちらが幸せかはわからない。いくら祖母が「遠慮しい」でも、死んだらこっそり家族葬でいいわ、などという遠慮は思いつきもしなかっただろう。考えてみれば、日本社会も日本人の意識も大変な変わりようである。

祖母の話に戻る。ほかに一回祖母がおかしなことを言い始めて、どうしたのかと、思ったことがあった。あの時代の「息子のいないおばあさん」の心理を私が全く理解していなかったに過ぎないのだが。
近所の昔私も絵を習いに行っていた絵描きさんがなくなった。するとお嫁さんの一族が家族会議を開いて、絵描きさんの母親(その家のおばあさん)を養老院に放り込んでしまった。それにショックを受けたのか、祖母が「私を養老院に入れたら孫である、たとえばBちゃんが、世間の笑いものになる」と繰り返し言うようになった。それで吃驚した。「いったい私が何をして、世間の笑いものになるのですか?」の話である。「おばあさんを養老院に入れたら...」「誰が養老院に入れられるのですか?」「おばあさんが...」「どこの...」・・・「笑いものになるとかならないとか、より、そもそも誰もそんなこと発想さえしていないのに、何回同じこと言って、怒ってるのよ。おばあちゃん、あのね、自分に自信持ったほうがいいよ。この家における自分の存在価値に自信があるでしょう。誰がそんな馬鹿なことを考えるもんですか。おばあちゃんともあろう人が、そんな妄想にとりつかれるなんて、おかしいわ。」それから祖母は憑き物が落ちたようにその話をばったりやめた。
前にも書いたが祖母には甥がひとりいるだけだ。母は八人兄弟なので身内が多い。兄弟だけでなく甥や姪もたくさんいる。今になって考えればの話だが、母の一族が家族会議などを開いたら、祖母もそういう目にあっていた可能性は高い。しかし(亡き)父が立ちふさがる。母の夫である父の母である。いくら大人数でも母の一族が家族会議を開いて祖母に関して何かを決めるような立場にはない。そのへんの常識さえ吹き飛ばして祖母は何故くだらない妄想に苦しんだのだろうか?いつか検証しようと思っている。

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数字、ひらがな、漢字、ABC...

子供の数が少なくなって、幼児教育にもその分熱心になって、最近の子どもの中には、飛び級を考えた方がいい子供も多い筈だ。私の頃は日本もまだ貧しくて、そんなに教育熱心な親たちは周りにはいなかったような気がする。
私は8まで数えることができたが、母に「その後はなーに」と聞いたが小学校にあがるまでには、8まで数えられるようになればいい、と言うことになっているので、あとは必要ないと言われた。それ以上覚えたら、逮捕されるのかと、犯罪にでもなるのかとふと思った。
祖母が出てきて「8の次は9だ」と教えてくれた。「その次は?」「10」「じゃ、その次は?」「10と1で11」吃驚した。「じゃ、次は12ね。そしてその次は13」なんて簡単なのかと思った。今から思うと数の概念はなかった。人が並んでいて、何番目の人が誰であるか、のように順番としてとらえていたように思う。「19の次は」「10、10」「じゅうが2つで、2じゅう」「えーっ、じゃ、次は21ね」99まで到達するのに、3分もかからなかった。「99の次は?」「100」「100の次は?」「100と1だから101」そこからは999まで3分もかからない。指を折って数えてるうちに、だんだん数の意味が分かってきた。つまり順番とは、1を次々に足せばいいのだと、足し算がわかった。そして指を使って足し算ができるようになった。
次の日の朝「数は1000まで数えられるし、指を使ってなら、足し算もできる」と母に言ったら、近くにいた父が「28たす39は、いくら?」と聞いてきたので、吃驚した。指が足らないからだ。父が「足の指を使え」といったので、28から後を指で38まで数えて、足の指一本を10に見立てることを思いついた。28から39回指を折って声に出して数えていった。「67!」父がほめてくれた。昨日まで8までしか知らなかったのだから、大変な進歩である。最初に指を使って数えたので、私はいまだに足し算は指を使う。数字を覚えてからは、数字の形で数を分解するようになった。たとえば、6は習慣的に5と1に見える、数字の7は5と2、8は5と3、9は5と4に形的に数字がそういう表情にみえるのだ。これは今でも便利だと思っている。
前に書いたかもしれないが、兄が小学生になった時、祖母が妹の私にも筆箱や鉛筆や下敷きや帳面を与えるように母に言ってくれた。小学生でもないのに、文房具を手に入れた私は、もう身に余る嬉しさを感じた。祖母は私にABCをまず教えた。なにがなんだかわからないが帳面にABCを書いていった。
教育熱心な家庭ではなかったし、わたしも勉強に向いている知的な子供ではなかったので、そういう遊びはすぐにやめてしまったが。ただ鉛筆をもって字を書くということは、当時の他の子どもよりも早く覚えたかもしれない。
小学校に入るころから、小児ぜんそくが酷くなって、ほとんど学校に行けなくなった。だから比較的息を吸い込みやすい日は、昔の帳面にあいうえお、の練習をした。小学校の2年生になると、漢字だ。昔の帳面に教科書の漢字をまねて書いた。祖母も私に教えることには、飽きたのか絶望したのか、ひらがなや漢字は見たとおりに書けばよいと言って教えてくれない。ただ「寝ていろ」と言うだけである。そんなわけで、私は、ひらがな、カタカナ、漢字は全部自分で勝手に覚えた。
英会話の教師をしていた頃、たまに何かの連絡事項などを黒板に書くと「先生、ひょっとして日本の小学校に行ってないのではないですか?」と生徒に聞かれた。吃驚した。何故私がろくに小学校に行ってないことが、生徒にわかるのだろうか。「なんでわかるの、そんなこと」と聞くと、筆順だという、筆順が無茶苦茶なのだそうだ。

祖母の思い出

祖母が床に臥して何日かがたった頃だ。
その日珍しく私は元気で朝に起きて大学に行こうとしていたのだろうか。鏡の前で髪に櫛を入れていた。背中を覆うくらいに長く多い豊かな髪である。
すると祖母がガラス戸を床に伏したまま、手で力いっぱいに開けた。そしてわたしをじっと見ている。じっと見られるのは嫌なもので、すぐにそのガラス戸を閉めた。鏡の前からガラス戸までの距離は1,2メートル。鏡の前にもどって櫛を入れようとすると、祖母がまた手で力いっぱいに開けた。祖母がこういう風に強く自己主張することはまずないので、少し驚いた。
「あまり、じっと見ないで。どうしたの?何が見たいの?」
「気持ちよさそうに髪を梳いているところを見たい。命の輝きを感じるから。見させて」
「どうぞ。わかった。おばあちゃんの目には、こんな私でも、羨むような生命力を感じるの?」
「本当に気持ちよさそうね。私も娘のころの気分を思い出す」
「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな。おばあちゃんは、まさにこの歌の心境なのね」
「黒髪の驕りの春。Bちゃんもいつの間にかそんな年頃になったのね」

与謝野晶子のこの歌を思い出すとき、私はいつもこの日の祖母の顔を思い出す。そして今自分がその時の祖母の気持ちが、手に取るようにわかるようになったことを、祖母に告げたいと思う。

本当は

祖母が口癖のように「本当は」「本当は」と言っていた。私が16才の時だ。その「本当は」が気になるようになった。そばにいた兄も同じことを言った。
「おばあちゃんの本当はの、本当の基準は何か」
そういわれて祖母は黙ってしまった。「本当は」と言う言葉には、自分の基準のみが正しいと言う前提が見え隠れするのだ。祖母の立場から見れば、随分と価値観の、あるいは判断基準の違う、世界に生きていたのだろう。「本当は」はささやかな抵抗であったのだと、今になって思う。
祖母の「本当は」がおかしいと気づいたにもかかわらず、その前の16年間の無意識の積み重ねで、私の中に祖母の「本当は」はいつの間にか価値基準となって定着しているのだと最近気づいた。
些細なことなのだが。たとえば、去年のお正月51年前に亡くなった父の趣味の友人が、突然家に来られた。
お土産などいらないのに、「Bさんこれどうぞ食べてください」と包みを出された。食べ物だ、一緒に食べましょう、と言われたのでふたを開けた。バームクーヘンなのだが、すでに三分の一なくなっている。食べ残しである。祖母の価値基準が「この人はおかしい、まともに相手にしてはいけない」と私に告げる。
祖母の言っていた「本当は」はつまり、祖母の常識と言うものなのだろう。マナーの場合もある。
スープの飲み方、ナイフの取り方、落としたフォークを自分で拾ってはいけないなど。口に物を入れてしゃべってはいけない、ぺちゃくちゃ音を立ててはいけない、など。
階級に根ざしたものもある。お中元にはたとえば塩昆布ならどこそこ、佃煮ならどこそこ、贈り物もたとえば百貨店なら少なくともどこそこ。もちろんレストランも大切な相手なら最低どこそこ、がある。これはしかし、懐具合の関係で、どうにも出来ない場合もある。私などスーパーのお中元を平気で利用している。分相応と言うものもあるのだ。ただ「本当は」もっと「ちゃんとした」ところから送らなければならないと、心ではしっかりと思っている。
言葉遣いもそうだ。私が目をかけている生徒に「がんばって私を踏み台にして未来に羽ばたいてね」と言ったら、その生徒は「先生こそ、私を踏み台にして羽ばたいてください」と返してきた。その言葉遣いはおかしいと、祖母の価値観が言う。考えていったわけではない、悪気などないのだ、と思うのだが「この子はおかしいぞ」と、頭の中で祖母の声が聞こえる。こういうおかしな言葉遣いは頻繁にある。だから私は頻繁に言葉のやり取りではゲンナリするのだ。祖母はTVやRadioのアナウンサーの言葉遣いにまで「本当は」の突込みをいれていた。たいてい祖母の方が正しいのだ。浪花千栄子の船場言葉のアクセントはいつも祖母に「本当は違う」と毎回突っ込まれていた。
呼び方もそうだ。私のことをいとこが「B」と呼び捨てにしたら、祖母は怒っていた。「本当は少なくともBさん、Bちゃんと呼ぶべきで呼び捨てなど勘違いも甚だしい」と言うわけだ。これも私の中で16年の間に定着していて「お前」とか「あんた」とか、名前を知っている人にそう呼ばれると「まともに相手にしてはいけない人」の範疇に放り込みたくなる。お互い尊重しあって付き合おうと思っている人なら、決して相手を「お前」とか「あんた」とかは当然呼ばないはずだ。
祖母の「本当は」の根底には茶道だあるのだと私は思う。そして和装の感性もある。所作に決まりがあったり、季節ごとにトータルな衣替えをしなければならない、コーオーディネイトの決まりもある。「本当は」の詰まった世界だ。だから所作やファッションに対しても知らず知らずに祖母の基準が私の中に染み付いていたりする。
服装に五月蝿くない知り合いがいて、彼女はいつもバザーで、2,3百円の服を買って着ている。それはそれでいいのだが、たまに「あなたにあげる」と言ってバザーで買った服を持ってくる。「本当はそんなことをしてはいけないよ」と言いたいのだが「本当は、の本当の基準はあなたと、私では違うのだ」と言われるような気がして、非常に戸惑う。

宗教と葬儀

父の葬儀のあとしばらく入院していた。退院して帰宅した次の日の朝だった。
母と祖母が言い合っている。父は一人息子で父には、祖母と祖母の甥の従兄弟ひとりを除いて、兄弟も親族もいない。
祖母はこう言ったようだ。クリスチャンとして旅立って欲しかったと。
母は,自分はキリスト教を知らないし,やって来た親族は母の肉親ばかり、手伝いも力になったもの、お花を出してくれたのも皆キリスト教を知らない私の身内ではないかと。(父が子供の頃、隣の教会に住んでいた父の幼馴染の男性二人が(牧師の息子達)来ていたが)
母の口調が少し激しい。葬儀は若死にしたので気の毒に思ったのか、父の会社が例外的に社葬をしてくれた。立派な葬儀だった。社葬ならばキリスト教でと頼めば、会社がしてくれたのではないかと、祖母。

「お父さんが悲しむから二人とも止めて」と私は心の中で悲鳴をあげた。2,3時間もたたないうちに激しい発作に襲われ、一日帰っただけで、その日のうちに市大病院に逆戻りした。
父がいた頃は、クリスマスには本物の木が家に運ばれ毎年飾り付けをし近所の子供達を呼んでお菓子やプレゼントを配り、自宅でパーティーをそれなりにではあるが、盛大にした。ああいう家庭は父とともにもうなくなってしまうのだと、思った。

父は自分が癌だとわかった時、母に聞いたらしい。
父「おばあちゃんと一緒に、これからの生活やっていけるか。広島の兄貴(祖母のたった一人の甥)に、面倒見てもらうように頼もうか」
母「どこまでいけるかわからないけど、とことんまでおばあちゃんとやっていく」
父「そうか。おばあちゃんにも聞いたら、お前も俺がいなくても大事にしてくれるし、孫達とも離れたくない、このまま、できる限り今の家で一緒に暮らしたい、と言ってた」
祖母からも母からも同じ話を聞いた。そして祖母は「可哀想に、死ぬときまで、私のことを案じてくれた」と言って泣いた。

父の会社には未亡人を雇用する制度があって、2週間も経たないうちに母は会社に出勤するようになった。今まで何もしなかった70歳の祖母は、市場に買い物に行ったり,料理をしたり洗濯をしたりするようになった。

10数年前に父の大学の成績表等と共に、父が文部省の留学生試験をこっそり受けていた書類が見つかった。
自分には妻も母も子供もいる。条件的に無理かもしれないが、神学を学び、クリスチャンとして生きていきたい、と応募英作文に書いていた。大昔に祖父が友達3人と教会を建てたこと、自分の家がクリスチャンの文化を受け入れて来た事、父とは子供の頃毎週一緒に教会に通った事、そして父がアメリカから持ち帰った本物のアメリカ民主主義を自分もこの混乱の日本に持ち帰りたいと、応募動機に書いていた。

40年前祖母が亡くなったとき、祖母に来る年賀状を頼りに、私は面識のない人たちに連絡をしてみた。
祖母から名前だけ聞いていた遠縁のご婦人たちが2,3人出席された。
「あれっ、クリスチャンだった筈ですが」と。
「母がキリスト教を知らないものですから」
「お孫さんが、お爺様からの遺伝?でか、やっぱり酷い喘息で、学校に行けないって、心配なさってました」
「そうですか。そうでしたか。その孫が、私です。」
霊前に進み出てその方たちは一礼、そして十字を切られた。
私が生まれる以前は、祖母は(そして父も)クリスチャンの家庭でクリスチャンのお友達とクリスチャンとして暮らしていた事がよく分かった。

とり残される不安

学校から帰ると珍しく祖母が玄関から飛び出してきた。
「どうしたの?」
「あー、よかった。帰ってきた。」
「帰ってくるって、当たり前なのに、どうしたの?」
「誰も家に帰ってこなかったらどうしようと、不安になって」
「他に行くところがないから、みんな帰ってくるに決まってるのに」
「一人で家にいると、このままひとりで、とり残されたらどうしようと」
私は病弱でほとんど学校に行かない。従って祖母も一人で家に残されることもめったにない。珍しく私が5日も続けて学校に行ったものだから、祖母は次第に不安になってきたのだろう。それにしてもあの時の祖母は本当に不安そうな顔をしていた。

もっと小さい時の夏休み、父と母と兄と私と、祖母を残して4人で母の実家に行って何泊かしたことがあった。あの時祖母は、一人で家に残されて、やはりそのような不安を感じていたのだろうか。
・・・・・

子供が家を建てたりマンションを買ったりして一家で出て行き、団地にひとりとり残される老人が多いと聞く。昔流行したニュータウンの団地は、今や、独居老人の集合住宅と化しているとも聞く。大邸宅に一人とり残された老人も多いだろう。

・・・・・
私の祖母が精神的不安を訴えたのは、あの時が最初で最後だ。昔の老人は生活手段を持たない。同居と言う暗黙のルールを盲信して生きていた。しかし息子に死なれた母の場合、嫁に再婚相手が出来た場合、一般的にはどうなっていたのだろう。息子に死なれた老いた父の場合、嫁に再婚相手が出来た場合、一般的にどうなっていたのだろうか。「世間の非難」という見えざる手があって、こんな場合嫁が再婚する可能性は前提として、摘み取られていたのかも知れない。世間の非難や賞賛の眼が、福祉の役割を果たしていたのかもしれない。

祖母は世俗にまみれることもなく、迎合することもなく、精神的に堕落することもなく、掃き溜めの鶴のようにいつも毅然と生きていた。孤立に耐えられたのは、豊穣な体験と知識に加え、読み書きが完璧に出来たからだろう。

祖母が亡くなった翌年、祖母の部屋の棚の奥に一冊の手帳を見つけた。何年も前の手帳で、パラパラとめくってみたが何も書かれていない。それより未使用のまま古くなってペイジがくっついている。それを剥がしていくとその中の一頁の一行に、読み取れないような弱弱しいかすかな字で、何か文字が書いてある。一冊にたった一行。虫眼鏡が必要なくらいの字で、祖母の字なのだろうか、こう書かれていた。?淋しい生ー

美しさと哀しみと(2)

前ペイジに書いた冬物コート事件の類が、その昔母の口から拡散されたせいかどうか、母の田舎では祖母の死後40年たった今でも、祖母は「血も涙も無い嫁いびりばあさん」と言うことになっている。田舎の人は血族意識が強く、味方にすると心強いが、敵に回ると一度固定されたイメージは再考され覆されることはない。

父には兄弟はいないが、母は8人兄弟だ。母の二番目の姉は、母が死んで15年たった今でも「Bちゃんのお母さんは綺麗だった」と繰り返して言う。
まだ学生の頃から、田舎では指折りの大金持ちの家から、母にぜひにと申し出が何度かあったらしい。つまり、ひくてあまたで、田舎でなら苦労せずとも、使用人を使う身分で暮らせたのに、というわけだ。母自身は田舎が大嫌いで、一日も早く家を出て都会に行こうと願っていたらしい。しかし母にも意地やプライドはある。「こんな家も、財産も何も無くておまけに気位だけが高い姑付きの結婚をして一生の不覚だった」と何度も怒って嘆いてみせた。

母の二番目の姉は村一番の資産家の家に嫁いでいた。母と同じで早くに夫を亡くしたが、経済的には裕福そうだった。
その家の当主のA氏が、まだ元気で生きていた頃、母は言葉をしゃべるかしゃべらないかくらいの年齢の兄を連れて、遊びに行ったことがあるらしい。2,3時間してその家に慣れた頃、兄はA氏を手招きして「おじさん、こちらにいらっしゃい」とまだ覚束ない口で、突然しゃべったのだそうだ。普段「おっさん、こっち来いよ」としか言われたことの無い資産家の当主は、腰を抜かさんばかりに驚いた。都会では幼児までがこんなしゃべり方をするのか、という驚嘆である。母から聞いた話だ。
私にイエス・キリストを教え込もうとしたように、祖母は、田舎に行こうとする幼い兄が、田舎で最初に言葉を覚える事が無いようにと、自分のカルチャーの言葉遣いで何日間か必死で話しかけていたのだろう。

祖母と母が一緒に住むようになって、初めて一緒に銭湯に出かけた時の話だ。この辺の田舎の子供らが(この辺を田舎の人達は都会と呼ぶが)ドロにまみれてハナを垂らしたままワァーと一斉に入ってきた時、祖母は「キャッ」と悲鳴をあげて、身を仰け反らせ顔をゆがめそして身を震わせたのだそうだ。母はその話をする時「そこまで上品ぶるのは、失礼というものだ」と言ったが、祖母のその反応は極めて自然なものだったと私は思う。
祖母は60歳から20年間結局この、祖母にとっては受け入れ難い異文化の中で(といってもそれがごく一般的な日本なのだけれど)暮らすことになる。祖母の柔らかい心は孤立し硬化し、さらに文化の衝突によって、20年間日々粉々に砕け散っていたに違いない。

(追記)最近、途中で何度も声を出して笑えるコメディー?「逃げ道」(フランソワーズ・サガン著)という小説を読んだ。私にはドンピシャのハマリだったが、他の人達はどんな視点で、この小説を読むのだろうか。とても興味がある。

美しさと哀しみと

「自分用の冬物のコートを買うんだよ」とその朝父が母に言ったのをそばで聞いていた。
空襲で丸焼けになった父は、母とゼロからのスタートをした。貧しい貧しい日本の戦後である。近所に「何でも屋」のような衣料品店があった。母は私の手をひいて、とても嬉しそうな顔をしている。父の渡したお金に比して、その店は品物がはるかに安かったのだろう。母は一着分のお金で、おばあちゃんの分のコートも買った。
「おばあちゃんも焼け出されて、何もないから」そう言う母の顔はさらに喜びで輝いていた。
「これが私のコート。そしてこれがおばあちゃんのコート。」
母は座っておばあちゃんの前に二着のコートを並べた。
着てみて喜ぶと思ったのは大きな勘違いで、祖母はコートを手にとって少しながめて「こんなコートは着られない!」と自分の文化圏の言葉で吐き捨てるように言うと、そのコートを母に向かって投げつけた。
私はまだ物事を判断できる年齢ではなかったが、「なんだ、このクソばばぁ」と祖母に憎悪を感じたのは憶えている。それは私の一生の最初の憎しみの感情だったかもしれない。それまで私の知っている祖母と、そのような行為をする祖母と、どう考えても繋がらないのだ。祖母は所作の美しい人で、人に向かって物を「投げつける」ような人種では決してない。憎しみは時とともに忘れたが、謎は深まるばかりだった。

祖母が死んでさらに20年近くたった時だ。医者をしていた祖母の自慢の、たった一人の甥が、定年後に自叙伝を書いて、送ってきた。母がお礼の電話をしてした。電話を切ってから母が、吃驚したように私に言った。
「Bruxelles、お姉さんは厳しいが、その妹のうちのおばあちゃんは、優しいと評判の人だったらしい。自動車に乗って夫と二人で実家に帰ると、女優さんが来た、と近所の人が大勢集まってくるくらいの美人だったんだって。いつも夫婦御揃いのファッションを決めて、しかもおじいちゃんは徹底したレディー・ファーストで、車を降りる時も、ドアを開け手をさしのべて、常におばあちゃんをエスコートして。洋服の布はイギリスから取り寄せて、最新流行の特別仕立て・・・。○○先生は『なんでおばさんのところは、あんなに金持ちで、自分のところは貧乏なんだろうといつも思っていた』んだって」

明治・大正時代、ファッションと生活様式において、祖父と祖母は時代の先端を走っていたのだろう。祖母にとって、私達家族と暮らす現実は悉く受け入れ辛かったかもしれない。祖母は決して自分のことを「おばあちゃんはね、」とは言わなかった。常に「私」である。その後半生は、祖母にとっては、置かれた環境のすべてが祖母に疎外感のみを与える過酷なものだったのではないかと思う。

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