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昨夜書くはずだった日記 : 御堂筋walk

天然ラジウム温泉を昨日は数時間早く切り上げた。イルミネーションが始まって、いつもの時間の送迎バスが無くなったからだ。電車を乗り継いで梅田についてから、いつものように地下鉄にもぐらないで、群集にくっついて適当に歩いていたら西梅田の阪神百貨店まで流されていた。そこまで来ると、さすがに方向感覚が蘇って、昔「人間この抽象的なるものの中で」というグループ展を開いた画廊のあたりにたどり着いて、そこからようやく御堂筋を南下することが出来た。あんな田舎のイルミネーションを見るくらいなら、御堂筋を歩きたいと思ったのだが、イルミネーションにはまだ時期が早すぎた。大江橋を渡る時は、なんだか胸が一杯になった。40年ほど前、毎日このあたりを、船荷証券などを手に持って、うろうろ歩いていたのを思い出したからだ。夜でも昔の私のような若いひとたちが沢山歩いていた。当時上司だった中村さんは、多分もう亡くなられただろう。そういえば、息子さんが大阪市大医学部の学生さんだったっけ。中村さんの弟さんは後に社長になられて、そのあと数年で大腸がんで亡くなられた。その方は生き残りの特攻隊員だったけれど、中村さんは、出陣の日に仮病を使って、戦場にいくのを逃げた、そしてその後は、通信兵だった、などという話を思い出しながら歩いた。そしてもし病気でなくても、私はもう人生の末期にたどり着いているのだと、実感した。病気を取り払っても、末期は末期なのだと、しみじみとはじめて実感した。淀屋橋に来た。1月4日着物を着てここを歩いていたら、NHKのカメラにつかまって、その午後の全国ニュースで私の顔が流れたこともあった。何人かの人が電話で教えてくれた。今も1月4日は女性は着物を着て半日出社するのだろうか?

石原時計店のショウウィンドウを覘いた。むかし家に残っていた、おじいちゃんやおばあちゃんの持ち物に似た時計が並んでいた。御堂筋の南下は今日はここまでにして、ビルの地下のMJBcafeに初めて入ることにした。本当は石原時計店に入っていきたかったのだが、買う予定も無いのに入りそびれた。since 1946という文字が見えた。このビルが敗戦後に建てられたのか、MJBcafeがその年に入居したのかよくわからない。祖母が亡くなった時、祖母のただひとりの身内である、高名な医師だったかたが、私に「あんたとこの店は、淀屋橋のミズノと尚美堂の間にあった」と確かにおっしゃった。とすると石原ビル、ここしかないのだ。表にはスペイン風Cafeと書いてあったが、地下に入るとJazzが流れていた。7色コーヒーが売りらしくて、月曜日はアラビアン、それでアラビアンCafeを注文した。「スペイン風かと思ったら、Jazzが流れているのですね」といったら「スペイン風は室内装飾です」という返事が返ってきた。最近chansonばかり聞いているので、久しぶりに聞くJazzは非常に心地よく、Jazzばかり聞いていた若き日の私の日常が、ふと蘇ってきた。豊穣な時間だ。ケーキ類も何種類もあったが、糖分はがん細胞の餌にしかならないのでやめた。コーヒーについてきた二つの角砂糖も、使わなかった。

父の日記を思い出した。1945年3月13日、B29の空襲で、祖母と父はバラバラになって逃げた、が石原ビルの地下で、二人は再会する。群集は北へ北へと逃げたと書いてあったが、皆がたどり着いた石原ビルは、当時は心斎橋にあったのだ。後に西武百貨店のPARCOになったあの場所だ。もちろん今はそのPARCOも無くなっている。私が今いるこの地下は、祖母が着の身着のままで逃げてきた、(心斎橋の)石原ビルではない、ということなのか。しかしこの広さなら、あの日記の石原ビル(心斎橋)の地下をイメージできる。御堂筋を北へ北へ、ならば、淀屋橋の石原ビルだった可能性も打ち消せない。私は空間と時間の概念が完全に未発達なので、これ以上考えるのをやめた。

ふとテーブルの右を見ると柱があって、そこにインディアンの顔や頭の羽根を、スプーンやフォークでかたちどった、パネルがあった。保存状態は良好なのだが、物凄く古いものであることがわかる。スプーンには持ち手のところにアメリカの州の名前が装飾されていて、額の上部には「アメリカの思い出」と英語で書かれている。メッキかどうかまではわからないが、スプーンもフォークも金製に見える。これはおじいちゃんがアメリカから持ち帰った「お土産」ではないか?ここにこうしてこういう形で残っているのではないか?ふとそう思った。アメリカの州の数を数えてみた。スプーンやフォークは全部で30、この数は当時のアメリカの州の数ではないか?私は時間と空間の把握に弱いので、はっきりしたことはいえないが、祖父は12年間アメリカで学業に励んだ。そして卒業証書を二つ持って帰国したと聞いている。のちに祖母と結婚。後年しかも大型倒産をしているらしい。このパネルは明らかにまだアメリカの州が30だった頃のアメリカ土産に間違いない。何しろIndianの顔がモチーフの時代のアメリカ土産なのだから。フォークもスプーンもやはりおそらく金製だからゆえに、何人か人の手を経て、こうしてこの場所に残ってるのだろう。倒産の時に祖父が吐き出した、思い出の品なのかもしれない。これ以上のことを調べる時間が私にはもう無いし、調べる術もない。父にも祖父(日露戦争で弟が死んだ)にも兄弟がいなかったから、そして父は若死にしたから、過去のことは実際何もわからない。祖母のたった一人の甥であった前述の高名な医師から、話を聞くまで、祖父が親戚から借金をするほどの大型倒産をしていたことさえ、何も知らなかった。わからないものはわからないままでいい。ただ、もう一回あのスプーンやフォークのIndianの顔に会いに行こう。そして淀屋橋止まりにならないように、クリスマスまでに一回くらいは、梅田から心斎橋まで、夜のイルミナーション煌く御堂筋walkにチャレンジしたいと思っている。

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昨夜書くはずだった日記  悲しそうな人

地下鉄であれ、京阪であれ、阪急であれ、近鉄であれ、最近「どうぞ」と座席を譲ってもらえるようになった。驚いている。昨日は若い男の子が「どうぞ座ってください」と駅と駅との途中で立ち上がってくれた。何故なんだろう。そんなによれよれで、死にそうな顔をしているのだろうか。目を開けて戸惑っている私に、その子はさらに「座っていいです。座っていいよ」と付け足した。???
治療場では、同じ患者仲間に「あなたはとてもお元気そう」だと、いわれることが多い。自分でもその気になってそのように外では振舞っているつもりなのだが。
つり革にぶら下がって、目を閉じて立っていた。どんな顔をしていたんだろう?どう見ても再発末期がん患者に見えるような顔をしていたのだろうか?
家に帰って鏡を取り出し、目を閉じて、それから薄目を開けて、鏡の中を覘いて見た。真っ先に出てきた形容詞は「悲しそうな」顔、だった。自分では全く自覚が無かったが、妊婦のように大きなお腹をかかえて近所の内科医院の門をたたいたあの日から、去年の3月末のあの日から、私はずっとずっと、とても悲しかった、そしていまもずっと「とても悲しい」のかもしれない。初めてそのことを自覚した。こんな病気になってしまったこと、そのほか、もろもろ、すべてに対して。
「あなたはとてもお元気そう」だと、治療場の人たちから声をかけて励ましてもらえるのも、逆に言えば、あまりにも「悲しそうな顔」が、私に張り付いてしまっているから、かも知れない。自分の心に充満している「悲しみの」感情を、自覚する余裕さえ持てなかった、だけかもしれない。一日を生き延びるために、あまりにも毎日が多忙だ。

ホスピスという希望 佐藤健 著

がん治療を専門としている医師は、抗がん剤の治療で癌が治るものではないことを知っています。抗がん剤は効果があれば腫瘍が小さくなると言うことで、それによって延命に繋がることもあれば、たとえ効いても延命に繋がらないこともあります。画像上わからなくなるほど効いたと言うことは稀にあっても、がん細胞がゼロになったと言えることは皆無なのです。
(「ホスピスと言う希望」 P.112 佐藤健 著)
これに関しては、何度か書いてきた。私の執刀医も「癌がひろがりすぎていて、ほとんど取り除くことが出来ませんでした」「これからは抗がん剤治療にはいります」「抗がん剤で、病気が治ることはありません。常に死を頭の隅に置いて考えてください」「抗がん剤はやっている時しか効きません。(副作用に耐えられなくて、やめたら再発するということ)」「抗がん剤が効いても、治ることはありません」「抗がん剤をすれば、数ヶ月の延命の可能性は出てきます」「効いた場合は延命の可能性がでてくる場合もある、と言うことです」言葉も意味もわかるのだが、やはり「嘘だろう」という漠然とした気持ちがあったように思う。昨夜久しぶりに三番街の紀伊国屋に立ち寄って、この本を買って、ここまで読んで、ここで立ち止まり、今ようやくダイレクトに主治医の言葉が、差し迫ってきた次第である。すでに頭では充分理解していたが、また理解していたがゆえに、抗がん剤治療を途中で打ち切らせていただいたのではあるが、今回このP.112を読むまでは、そこを深く考えることをしなかったように思う。それこそが、がん患者にとってホスピスが必要なその理由である、こともわかった。
初めから「ホスピス、ホスピス」と言っていたわりには、ホスピスに関する知識もほとんど無かった。出来るだけ苦痛を軽減してあの世に旅立たせてくれる施設、のように認識していた。
今回この本を読んで、ホスピスの3つの入院(P.43~P.58)があることを知った。
1.最初の病症コントロールのための入院
2.休息の入院 レスパイトケアの入院
3.お別れの時が来るまでの入院 見取りの時
つまり、3の「見取りのための入院」しか知らなかったことがわかった。

まだ3分の1も読んでいない。読んでから続きを書いていくつもりである。
「ホスピスという希望」と言うタイトルの意味も少しわかりかけてきたが、その希望は裏返せば「癌医療の絶望」との対になっていることがわかってきた。ひとは皆いずれ死ぬのであるから、「希望」という対の存在はありがたい。単に心理的な宗教的な心のケアーだけではなく、苦痛緩和、という役割の重みに期待し、安らかな旅立ちを「希望」したい。
ただしこの本に出てくるホスピスは「国立病院機構豊橋医療センター」のことであり、執筆者はそこの緩和ケアー部長である佐藤健氏である。すべてのホスピスがここまで理想を追求できているか否かは、勿論断定できない。

追記:2015年7月24日
後半はこの医師のこれまで、そして国立病院機構豊橋医療センターの誕生過程などに、内容が移っていく。どのような医療理念のもとにホスピスの存在があるのかがよくわかる。ただ前半ほどには患者がみえない。それにみんながみんなこのような先端理念のホスピスにたどり着けるわけではない。団塊の世代は、死ぬ時も「おしくらまんじゅう」なのが現状なのだろう。
一番心に残ったのはP.354のこの一行だ。
「ホスピスは患者さん自身の人生の自己決定を支えるところです。」
そんなホスピスに出会えたら、今まで生きてきたすべてに対して最高のご褒美になるだろう。患者が最後に望むことは、まさにその「支え」だと思う。自己決定を尊重してもらい、しかもそれを支えてもらえる、患者にとってはそれはすでに天国への入り口のように見えるはずだ。感謝と希望を持ってこの世を去ることが出来れば、患者は最高の「さよなら」ができる。どうか、ありえることであって欲しい。

去年の昨日

いつか昨年を振り返って、初めから記述したいと思いながら、全く進まない。探す気がないからか、メモも見つからない。昨日ふと考えたら、去年の昨日が手術日だった。2014年6月10日。朝一番の手術で、どういうわけか歩いてエレベーターに乗り込んだ。ここでは手術患者は皆そうする。ドアが閉まるまで敬礼していた。この世に対して、自分の人生に対して。
朝の6時に公衆電話から同志F氏とO氏に電話した。「いまから手術に参ります」何故かこのまま死ぬような気がしたからだ。
手術前説明で医者からさんざん言われた。「手術中に死ぬこともあります」繰り返し言われるので、サインを躊躇していると医者が言った。「死ぬ死ぬと言っても、そんなに手術中にポコポコと死ぬわけではありません」ポコポコだったらたまらない。誰でもしない方を選び取るだろう。麻酔は全身麻酔で、手術中は一旦自発呼吸は止められて人工呼吸となる。口を大きく開けて酸素の管を気管支の中まで押し込んだようだ。記憶はないのだが、手術をした人は皆、長引く咳に苦しむ。人工呼吸の管を挿入する際に気管支に傷がつくかららしい。麻酔に関する危険、そして輸血に関する危険の説明も詳しくあった。それでかなりビビッてしまったことも確かだ。説明を聞いた感想としては、ポコポコのひとりになる可能性がかなり強かった。なにより、覚悟を決めなければならなかったのは「手術をしても全部は取れない。大部分が残る。手術をして生体検査をして(それが手術の目的)組織系が判別したら、そのあとその組織系に対応できる抗がん剤が決まる。そこから抗がん剤治療が始まる。しかし抗がん剤では完治はできません。いくばくかの延命に賭けるのみです。いくばくは数年ではなく、数ヶ月の延命。しかもうまくいけばの話。癌が怖いと認識されるのはそのためなのだろう。末期癌はほとんどの場合治らないのが現実のようだ。
入院のしおり、をみると、入院する前に「歯科にいくように」と指示が出ていて、私も歯科に行ったが「中途半端にいじって、そのまま入院となるより、治療するなら退院してからのほうが良い」と言われた。事実、入院前に歯の治療をしてくる患者は滅多にいないようだった。その目的はと聞いてみると、酸素吸入をする時に太い固いものを口にくわえるので、歯が折れたりぐらついたりする場合があり、折れて喉に転がり込むと危険だからだそうだ。管を引き抜くときも歯に強く当たるので、折れたりぐらぐらしたりするらしい。私はあらかじめ、強い衝撃を歯にかけないように(セメントでくっつけているだけの折れた歯があるので)お願いした。「わかりました、気をつけます」と言っていただいた。今、一部小さなメモが見つかった。「治らない可能性がある。死んでしまう可能性がある」と走り書きしているが、これは医者が言った言葉、そのままだ。ひとり暮らしなので、隠さないでありのままに全部伝えて欲しいと申し出ていたので、ありのままに伝えられたわけだ。「常に死を頭の中に入れておいてください」とも言われた。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ、という噴水の中にいたので、他のことは一切考えられないような状態だった。
今6月9日の日記のようなものが見つかった。「4錠の下剤で黒いウンコが出ると、おなかがへこんで腹水が溜まっていないように見えるくらいになった。」(月曜日が体重測定の日だった)「体重39.25Kg、この体重の減少は何なんだろう。(普段は56Kgだった)」
「衰弱感と一致するのだろうか?では衰弱感はどこから?」-腹水が溜まると栄養が全部ソコに取られてしまう。それで腹水を抜くと、著しく衰弱する。この体重の減少もそのためだろう。40Kgを切るなどということは、子供の時以来だ。もし30Kgを切る時が来たら間違いなく死ぬだろう、とその時に思った。癌で死ぬ人は顔に癌相が表れる、と聞いたことがある。がりがりに痩せるのだ。エイズと同じ。隣のベッドで医者が患者に「生きる死ぬは体重が決め手」といっているのを聞いたこともある。確かにそうだと思う。食べられない、あるいは食べても消化できない、となると痩せるしかない。そう、癌死はある種の餓死だと聞いたこともある。
6月7日の文章には、腹水が溜まり始めた、と書いている。だから6月9日の腹水云々の記述はかなりいい加減だと思ったほうがいい。ここで確認しておきたいのは、私は手術前に腹水を7000cc以上抜いていて、その後はらはらすることは幾度もあるが、一度も抜いていない。また上に衰弱感云々と書いているが、ここに記入した衰弱感はその後何ヶ月も何ヶ月もつきまとった。衰弱感というのは、よろよろ感だ。他の患者さんに比べてやはり「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ」状態だったのだろう。

手術前にどういう説明をうけたのか、抗がん剤投与前にどういう説明を受けたのか、そして腹水を抜く前にはどういう状態だったのか、これらはまた特別に日を改めて書いてみたい。

再発・転移 情け容赦の無さ

明日から4月、去年の4月5月頃からのことを、振り返って話をしようとずっと思ってきたが、筆が進まない。あまりにも辛く、不愉快なことがことの始まりから勃発していたからだ。とにかく死と直面して、怒涛のように押し寄せてくる死をはらんだ日々に、ただ流されるだけで反応も反撃もそして「気づき」もさらに「記憶」も出来なかった。辛い、残忍で不愉快だと感じる余裕がうまれたのも11月を過ぎてからだ。振り返っても目が過去を見ようとしない、手が過去を書こうとしない。滝にうたれる心境で、今はすべてを「記憶」から洗い流そうという気持ちが強い。いつか個人を離れ、普遍的な重要テーマとして、書き残せる日が来るかもしれない。ずばり「ひとが死ぬということ」というテーマに直結するやや思索的な内容になるだろう。当分は書かない。だから今は振り返って書くとしても、病気と治療及びそれに関することに限定して書いていこうと思っている。

心配しないでいいですよ、再発・転移 卵巣癌、瀧澤憲著を今手にしている。いきなり2015年3月31日の現在から話を始める。前回11、前々回13だった腫瘍マーカー値が、3月20日、41に上昇してしまった。閉経後の女性の基準値は15以内だから、すでにマーカー的には再発・転移の入り口に入ってしまった。ひと安心できた期間は僅か4ヶ月、たった4ヶ月でがん患者、末期がん患者に逆戻りだ。数値的にも体調的にも末期がん患者ではないが、初発の際の判定が第三期のCであった患者は、その後もずっと第三期のCの患者として扱われるらしい。つまりそのひとの癌の性質が、第三期のCということなのだろう。問題は次回のマーカー値だ。上昇が続くと、再発の可能性が急激に上がる。せめて1,2年はもつだろうと楽観していたが、僅か4ヶ月での上昇。この期間が短いことは、あとあと、悪い結果に繋がるらしい。そして第三期の患者は、再発・転移の可能性も極めて高い、再発は決して珍しいことではないとかいてある。人が癌をおそれるのは、特に末期の癌を恐れるのは、癌は決してくじけず、最終的にはかならず人を死に至らしめるからだろう。最後に「やっぱり癌は勝つ」、この本を読んでそんな感想を持った。
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P.153:限局性の再発で治療が成功する条件
1.孤立性の再発であること
2.化学療法に反応すること
3.再発まで時間が長いこと
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P.155:セカンドラインの化学療法が無効のときは、治療を中断します。と書いてある。中断してどうするかというと、緩和ケアーに徹する、と。この意味がお分かりだろうか?
P.158:新しい患者さんを受け入れるために、再発した患者さんは意識的に排除していくような施設もあるかもしれません。そこから癌難民が生まれるというわけだ。とくに私のように、抗がん剤の副作用が強すぎて自ら望んで抗がん剤治療を止めた患者は、そういう扱いになる。そのことに不満はない。病院の現実を見ていると、次々と新しい手術を必要とする患者さんが来るので、抗がん剤治療をしないとか、効かなくなった患者さんをどこかで切り捨てなければ、機能麻痺になってしまう。癌体験者にしかわからないと思うが、癌難民は「いつかは自分」の現実なのだ。自由診療の病院も沢山あるので、そこへ流れると思うのだが、最終的には何割がどこで最後を迎えるかは、わたしにはまだ想像できない。
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P.159:初回治療をしてくれた病院から安易に離れることは、最後のターミナルケアーの場所を探す時に大変不利な状況になるということを知っておいたほうがいいと思います。
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P.159:再発治療の手段がないと他院で判断された場合は、その期待に(癌研有明病院が治療を引き受けること)応えることが出来ないことが多いのが現状です。
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P.163全身状態が悪化するとはどういうことか? つまりどういう状態になって死に近づくのか?
1.痛みによるもの(麻薬の使用及びその副作用)
2.癌性腹膜炎(腹水・腸閉塞によるもの)
手術後の腸閉塞で死に至る場合もあり、手術を繰り返す場合もある。術後10年を経た後で、腸閉塞に苦しめられる場合もあり、10年たったからといって安心できるものではない。便秘を緩和するからといって食物繊維を多くとるのも、腸閉塞を起こす原因となる。薬草系の便秘薬で腸に刺激を与えるのもよくない、健康体では無いのだから、鍛えて筋肉をつけようとする行為も、つねに危険性を孕む、ということを忘れてはならない。食べ物と同じで、これがいい、あれがいけない、という単純な意見や判断に、安易に寄りかかってはいけない。膨大な資料を集めて命を懸けて自分で判断する必要がある。従って患者の頭や持ち時間はつねに病気治療に関することで埋め尽くされている状態となる
3.癌性胸膜炎(呼吸不全、呼吸の悪化によるもの)
ほかに感染症、合併症によるものもあるだろう。治療中や手術中の事故も。
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P.168:ターミナルの患者さんに一時的な延命を考えて、気管挿管をして人工呼吸器をつけるということは厳に慎むべきであるというのが私たちの考え方です。
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P.癌の末期などで心停止ないし呼吸停止した際に心肺蘇生を行わないという特別な指示(DNAR)がある場合、(病院は)心肺蘇生を省略することが出来る。
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心配しないでいいですよ、というタイトルの割には、読後心配で真っ青になって不眠に陥る内容であった。しかし、治療に関しては非常に詳しく、これとこれをこうするああする、ここまでしか出来ません、とはっきり書いてあって、くどくど不安に陥って悩むことはない、懇切丁寧で明快な本であった。結論的感想としては再発した場合は、ホスピスに行くのが最善、「最後にやっぱり癌は勝つ」という現実を見せつけられた思いがした。今日二度読みして、自分の置かれた現実と、少し先の自分の未来が、くっきりと見えてきた。癌の怖さが良く見えたが、次に本当に知らなければならないのは、(必ず通らなければならない)死に至る過程の「情け容赦の無さ」、だろう。

短い訂正と追記 (1)

死にたくない思いが強くなってくるのに比例して、怯えや不安でガチガチになってきた。立ち上がって戦うしかない。けど、どうして、どのように? そのせいか最近狂ったように癌に関する本ばかり読んでいる。昨年も情報はかなり集めたが、まともに本を読む時間的精神的余裕が全く無かった。頭は常に「死への旅立ち」に関する想いで一杯で、書物を読んで全体を理解する隙間がなかったのだ。
昨日から「癌に関する本」から「卵巣癌に関する本」にようやく移行できた。医学書を読まないで、メモを頼りに素人が思い出しながら書いた、前回の記事の中の間違いに早速気づいたので訂正し、若干の情報を追加しておく。
組織系は組織型の生体検査は病理診断の間違いでした。訂正してお詫びします。
追加は第3期のCについて。
3期とは=腫瘍が骨盤を超えていたり、後腹膜や鼠径部のリンパ節に転移している。組織を調べたときに小腸や大網、肝臓にがん細胞がみられる。
3期のCとは=直径2センチを超える癌が腹腔に見つかるか、リンパ節に転移している。
ついでにそれより酷い4期とはどんなものかというと=腫瘍が遠隔転移している。となっている。

また前ペイジに、S病院の初診で、子宮体癌の細胞診をしたように書いているが、あれは婦人科一般の内診、即ち双合診と膣鏡診だと思えてきた。どの段階でか忘れたが、直腸診も受けたのを思い出した。これも訂正してお詫びします。

最後に誰にとっても重要だと思われるので「子宮・卵巣がんと告げられたとき」 (岩波書店)の小見出し「抗がん剤が効く、とは?」から2行ほど引用しておきたい。
○この抗がん剤の奏効率は20%です、というのは腫瘍の一時的な縮小効果であって、残念ながら「この抗がん剤で治療したときに癌が治る可能性が20%」ということではありません。腫瘍が小さくなることは、癌が治ることではないのです。
○繰り返しになりますが、「抗がん剤が効く」ということは「腫瘍を小さくする」効果があるということです。癌の完治や「生存期間を延長させる」ような効果を意味しているわけではないと言う点は押さえておく必要があるでしょう。

試験開腹術の不可欠

直前の記事、日付は12月4日となっているが、Blog TopをKeepするために更新してきたからだ。実際は2014年5月9日くらいに書いたものだ。今日は12月30日、8ヶ月弱経過している。その間、日記を続ける余裕は無かったし、正直今もまだ振り返ってこの8ヶ月を記述する精神的ゆとりは無い。しかし今書き残しておかねば、ひょっとしたら永遠に書けないかも知れない。怒涛のような日々だったので、順序だてた記憶がないのだ。だからメモなどを参照しながら無理にでも試みてみようと思う。
末期がん患者体験とは、それは強烈なもので、この体験を経た後と、経る前では別人にならざるを得ない、誰でも、と思う。

メモによるとS病院には4月に8日、10日、17日、24日、と4日間歩いて電車で通院している。
4月8日、S病院にひとりで来る。今日の検査。体温、血圧測定、子宮がん検査(異常なし)、採血6本、MRI、とあるが、どこのMRIを撮ったのかは書いていない。これが初診。4月4日くらいの時点で卵巣癌が発覚し、そのFilmを持参してきているのに、何故子宮がん検査をされたのか、意味がわからなかった。M医師と若手の研修医と二人が子宮の奥の方の細胞を掴み取ったような気がする。
ここに来る前に、初めて受診される方に、というパンフレットをさんざん見てきた。メモをとる。
診察申込用紙・保険証・紹介状→カルテと診察券をもって受診する科へ→カルテと診察券を提出して待つ→すぐに入院が必要かどうか相談
帰ってからは、入院の進め方というあたりを熟読する。入院については「入院受付」で尋ねよ、とあった。180日を越えると15%が保険の対象外となる、と書いてあるが、どれくらいの入院になるか見当もつかないので、この部分はすぐに忘れた。これはどこの病院でも同じだろう。4月に通っていた総合診断センターは一階だが、婦人腫瘍科になると13階、その外来は3階、レントゲン撮影などは地下一階、血液検査は2階など、方向音痴なので、まず病院内の地図を覚える。
・・・・・・・・・・・
詩を書いていた頃からの古い友人で産婦人科医であるS氏という心強い味方がいる。卵巣癌がわかった後でS病院に初診に来る前の段階でSOSを発信した。「相談に乗りましょう」と心強いお言葉を頂く。どれだけほっとしたかわからない。彼がまだ京大医学部の学生だった頃に知り合った。30数年前子宮筋腫とS病院で診断されたときも、彼に相談した。筋腫とは良性の瘤だから、多量出血とか痛みとか耐え難い不都合がなければ、急いで手術する必要は無い、と言ってもらった時、どんなに不安から解放され嬉しかったかよく覚えている。私は癌の初心者だ。癌の「が」もわからない。彼の存在は本当に心強い。まず彼に教えてもらったとても重要なこと。
卵巣癌の場合、まず開腹して取り除いた部分の生体検査をする。それによって組織系を判断し、それを基にして治療方針が決定する。それと腫瘍らしきものがあるのは画像からでも判断できるが、良性か悪性かは、生体検査のあとでしか、決定は出来ないらしい。従って開腹手術が不可欠だということがまずわかった。そのあと、放射線ではなく抗がん剤治療が始まることも。
一回目の入院診療報告書によると、(病名)骨盤内腫瘍、(症状)腹部膨満、(治療計画)試験開腹術を施行します、(推定される入院期間)約1ヵ月、となっていて、日付は6月6日、私自身もはや覚えていないが、こうして記録を見るとS病院への最初の入院は6月6日だということがわかる。4月8日に紹介状を持って初診にやってきて最初の入院が6月6日、それまで何をしてきたかと言うと4月はほとんど検査ばかり、5月から入院待ちリストに登録される予定だったが、5月の入院前検査中に、腹部膨満が異様になり、S病院からの紹介でO病院に入院し腹水を抜いたこと、その後肺炎が発覚して翌日またO病院に引き返し2週間ほどそこに入院したこと、などの顛末があった。直前の記事に、喘息発作で苦しいと書いていて、病院でもそのように扱われたが、実は肺炎であったことがO病院に入院した際のレントゲン撮影でわかった。S病院でも胸水がレントゲンで確認されていたが「おそらく喘息のためでしょう」と判断されていた。このように6月6日にS病院に入院する前に実はO病院に2回入院(5月14日~15日&5月16日~29日)していたことになる。このあたりが「苦しいからだ」と書いた直前の記事から数日後の展開だ。思いもかけない肺炎のために、がん治療が御預けをくらった。先が読めない日々に突入する。しかし確実に言える事は、もし14日の晩にO病院に緊急入院して腹水を抜かなければ、手術にたどり着く前に、とうの昔に死んでいただろうということだ。
これも記録を見るまで忘れていたが、試験開腹術の手術は6月10日、最初の抗がん剤投与は6月27日、抗がん剤治療に関する説明は前日6月26日の夜にあって、卵巣癌という病名を正式に医者から聞いたのはその時である。ステイジは第3期のC。回復は望めないが、うまくいけば数ヶ月のわずかな延命は期待できる可能性、なきにしもあらず。手術前説明よりも、抗がん剤治療説明を先に書くのは順序は逆だが、抗がん剤はパクリタキセルとカルボプラチン、そして分子標的薬アバスチンを治療に加える計画だということだった。

手術に辿り着けない

4月初めから始まった様々な検査はひととおり終わった。5月1日ようやく執刀医とお目にかかった。「厳しい手術になる」と言われた。5月7日手術前検査。5月9日、入院手術待機者名簿に登録。そこまできていたのだが。
5月8日の朝から喘息の発作が出た。パンパンで苦しい上、胸水まである、その上に喘息の発作だ。苦しくて仕方がない。休み休み、普段の4倍くらいスローにしか歩けない。15分かかるところなら一時間だ。歩けたらまだましで、タクシーに頼るしかない。頭の中にあるのは思考の領域でなく苦痛の苦しみの領域のみだ。顔はつねにゆがんでいる。
入院前外来というのがあって、9日そこへ行ったのだが、「その状態では登録は無理。肺活量の測定ができない」と言われた。あと血栓症も手術前検査で引っかかっていたらしく「こちらもこのままでは全身麻酔の手術には耐えられない。死の危険が極めて高い」と。
「とにかくまずは喘息治療。近くの病院で治療してきてください」「ここの呼吸器内科で治療していただけませんか?」予約が取れない、ということだった。早急に苦しさを軽減しないことには、このままの状態ではいつになっても手術はできない。
家に帰り一番近い診療所に行く。断られた。その代わりそこの紹介で別の呼吸器内科へ、タクシーで行く。もう死にそうに苦しい。事情を話し点滴を受けお薬も出た。めでたしめでたしの筈なのだが、治療が合わないのか点滴も薬もほとんど効かない。従って喘息は止まらない。喘息のときはいつもそうだが、食事は全くできない。考えてみれば、喘息の発作が出る前からパンパンお腹や胸水で相当苦しかった。どうなるのだろう、私の手術。手術も事前に説明されたが治療のための手術でなく、組織系識別のため、どんな抗がん剤治療をするかを決定するための治療前手術だ。その全身麻酔に耐えられなくて死亡となれば、結局本当の手術までは辿り着けない。今でさえ食べられない出せないで、衰弱している。一回目の治療前手術まで、あるいはそのあとの抗がん剤治療まで持たないだろう。もたもたしていては治療がどんどん遠のいていく。お腹はどんどん膨れ上がっていく。そもそもこのお腹さえ現代医学ではへこませる事ができない。何度も言うが癌性腹膜炎恐るべし。「がん治療革命」の中でさえ、未来の最先端においてさえ「癌性腹膜炎は完治不能」とある。
それでも希望を捨てずあれこれ戦っていくつもりだけれど5月末6月の初めまで、自分が自分であり続けていれるかどうか、心もとない。余命3ヶ月から一年だが、その一年は地獄だろう。3ヶ月なら今月か来月だ。思考が混乱して、現実に負けているような気がする。とても苦しいからだ。

癌性腹膜炎

4月の初め町医者に行く決心をするまえから、今度は死ぬ、という予感があった。だから「死にたくない」「死にたくない」と何度か口から言葉が漏れた。町医者に放射線科の専門病院で腹部のCTをとってきてください、といわれた。「ここで検査していただきたいのですが」「ここではできません」
勧められたところは以前にいった経験があり、すごく印象が悪かった。二度といきたくないと思った記憶がある。そんなに遠いところではない。結局行けと言われれば、行かざるを得ない。
今度は印象がいい。順番も異様に長く待たなくてもいい。いたわって接してくれる。医者も若くてハンサムで信頼できそうだった。しかしfilmをみて何も言わない。私から質問した。
「先生、癌だとしたら、どこの癌ですか?」「卵巣の辺りに...」
初めて癌だと知ったこの日は4月4日、だったように記憶する。町医者が翌日休診。その日は家で休養をとることにした。さあ、どうしよう。あれやこれやいろんな場面を想定して準備しなければならない。目が覚めて放射線科の報告書を思い出した。中を開けてみてみよう。「癌性腹膜炎 卵巣癌第3期

癌性腹膜炎。初めて聞く。しばらくしてからネットで調べてみた。余命3ヶ月から1年。「長くはないから早くお見舞いに行ったほうがいい」「死が近い」イメージとしてはベッドに痩せて臥して今にも死にそうな患者。
「卵巣癌?取ったらいいんじゃないの」「腹水?抜けばいいんじゃないの」誰でもその程度の認識しかないので、余命云々といっても誰も信じない。私自身も。
最近、腹水が溜まれば癌も末期だ、という意味がようやくわかってきた。

九州のBARABARAさんが「がん治療革命ー未来への提言」という先進医療の本を送ってくださった。未来の治療はこうなるだろうという明るい見通しが提言されている。決してあきらめないで「生きること」しかし、その先進医療の希望の本の中でさえ、癌性腹膜炎は「難治癌治療の最後の難関」として取り上げられている。完治困難となっている。腹膜にがんが広がれば、腸管や胆管、尿管といった管の臓器が狭くなり、それぞれ、腸閉塞、封鎖性黄疸、水腎症という状態を引き起こし、患者さんの生活の質が落ち、ひいては生命の危機にもつながります、とある。あまり内容的には実感理解できなかった。「そうなの?」という感じである。

・・・・・・
5月1日に、今後の手術、抗がん剤治療がほぼ決定した。最初は検査のための手術。そのあとで、本格的手術があるはずなのだが、それに関して医者は何も言わなかった。すぐ前のエントリーにも書いたが、今の心配はパンパンに膨れ上がったお腹、手術の日までなんとか持たせることができるかどうか、一番悩んでいる。市大病院に行ってそこからまたさらにどこへ行くのかが、わからないので、そこで一泊手術といわれても、考えただけでへとへとだ。しかしあまり我慢しすぎると気絶したり倒れたりするらしい。実際排尿排便のあと紙で拭くのが困難になってきた。方向を変えて工夫しているが、相撲取りの状況だ。(付け人でもいたら拭いてもらいたい)それくらい膨らんできた。
尿が出にくい。試験管に1センチも一回にでない。膀胱が圧迫され尿管もつまりかけているのだろう。腎臓の機能もそのうち不全になる。心臓もすい臓も脾臓も肝臓も腎臓も圧迫されて、さらに肺にも水が溜まっているので、いずれ全機能不全になる。胃も圧迫されているので、食欲を完全に忘れている。管を通して尿を排泄という手もあるが、ベッドに縛り付けられたままになる。動作が遅いので、外出すると踏み切りで転倒する可能性もある。呼吸不全のために、酸欠で目を剥くかもしれない。腸が働かないと、栄養の吸収ができない。下剤をかければ、なんとか排水できるが、知らぬ間に脱水症になる可能性もある。一番最初の血液検査のときに、脱水症の症状を指摘された。それに体力をつけるためにがんばって食べても栄養分のほとんどは、腹水に取られてしまうらしい。腹水には養分が一杯だから、そもそも腹膜穿刺は、非常に体力を消耗するらしい。物の本によると、がん細胞をフィルターにかけて取り除き、また養分一杯の水はお腹の中に戻すのだそうだ。この辺の意味はまるでわからない。最新方法らしいが、これでは腹水の量は減らないではないか?腹水を取り除いてもすぐに元に戻るので、これはそもそも応急処置であって、治療とはいえない。それでも死ぬよりはましだから、何度も腹膜穿刺を繰り返す人もいるらしい。ここまで来ると単なる延命だ。そう、生きてはいるが日々衰弱するしかない。ありとあらゆる内臓の病気の症状が現れてくる。いまのところ体重は5キロしか減っていないが、10キロ減るのはこの調子だと時間の問題だ。そのころに手術だ。手術で卵巣癌の生体を取り出し、組織系の分類の作業に入るらしい。そこで、そのあとで抗がん剤投与が開始される。衰弱の上に手術、抗がん剤投与、生き残れるのはプロレスラーくらいしかいないだろう。要するに腹水のための衰弱、これがすべての原因だ。経験を通して、最近、腹水が溜まれば癌も末期だ、という意味がようやくわかってきた。「がん治療革命ー未来への提言」という先進医療の本にまで、癌性腹膜炎は「難治癌治療の最後の難関」と書かれている意味もわかってきた。物事には100%はないので、必ず死ぬとは限らないが、すでに死神の顔が見える。それは衰弱しきった自分自身の顔かもしれない。

悔いもなく怨みもなくて行く黄泉
(とりあえず)他人様の辞世の句をお借りして


アンダーバスト拡大10センチ

腹水が溜まりすぎて横隔膜を押し上げ胃を圧迫する。膨れ上がった胃のせいで、ブラジャーのアンダーバストが痛い。4センチほどの補助具をつけているのだが、全く足りない。8センチから10センチほどの補助具が必要だ。
「いずれ手術をすることになると思います。」
「手術はしたくありません」
「手術しないとそれこそ大変なことになりますよ。手術を強くお勧めします」
この大学病院に通い始めておよそ一ヶ月だが、婦人科にきたのは今日がはじめて。この人が執刀医になるのだろう。
医者が説明する。この手術は治療目的の手術ではなく、最終診断と今後の治療方針決定のために必要な手術だということ。それは知っているので聞き流す。その次に医者はそれでもその手術の危険性をさんざんに言う。「そんなにポコポコと手術中に死ぬわけではないけれど、手術には高い危険性があるのです」だから手術が決定すれば、その説明の際に同行者、立会人が必要だと。「もしものことがあるかもしれませんから」それも知っている。
「友達に頼んでいます」「友達じゃなくて肉親はいないのですか」「いません」「ご両親は?」なかなか食い下がる。「もうとっくに亡くなっています」「他には?」「いません」
町医者が最初堺市の労災病院に紹介状を書くといったので、どのへんか一度下見に行った。乗り換えもあり、歩きも遠い。しかもバスを使って。ちょうど日曜日で正面玄関が閉まっていた。中に入って様子を見る。なんだか暗い。なじめそうもない。うろうろしてると、患者用のパンフレットがあった。それぞれの疾患に関して、一冊ずつ。患者が勝手に絶望したり楽観的に考えすぎないように、病院側が作った患者教育用のパンフレットだ。「卵巣癌」のパンフレットを手に取る。じっくりと全部読んでみた。最初にPCで調べたとおりのことが書いてある。腹水がたまるのは、既に末期。余命3ヶ月から一年。最後に抗がん剤が体に合わなければ、ホスピス行きだ。ホスピスで死ぬのも悪くはない。あのパンフレットを読んだだけでも、労災病院に来た価値がある。しかしこの病院はやめよう。
早速月曜日に町医者のところに行って、紹介状のあて先の書き換えを伏してお願いした。駅から近い、なじみのある病院にしたかった。今かかっている大学病院は父が54年前に胃がんで死んだ病院だ。私が子供の頃そこの「喘息教室」に入院していたことのある病院だ。だから紹介状を持ってはじめてひとりで大きな大学病院を訪れても、気後れすることはなかった。しかし大学病院の仕組み、システムになれないので、最初は緊張の連続だった。あっちに行け、こっちに行け、と最初は連続検査だ。それから毎週検査、検査。手術をすれば死期が早まると考えていたので、毎週の検査の連続はあり難かった。なかには他の病院に出かけて、胃がんと大腸がんの検査を一日でして来なさい、というものもあって、これは非常にびびった。特に大腸がんの検査では2リットルの水を飲まなければならないとかで、腹水で既にパンパンの胃や腸に、どうして2リットルもの水を押し込むことができるのか、恐怖に近かった。近所のSさんが自分の体験談をかなり具体的にしてくださったので、なんとか恐怖心を押さえ込むことができた。それにしても入院もせずに一日で上下両方の検査は過激だ。「麻酔を1日に2度もするのですか」と聞いたら、病院のひとはなれたもので「一回の麻酔で、連続してするのです」と説明してくれた。やれやれ。
そんなこんなで、検査検査で手術を引き伸ばしていたが、腹水が溜まりすぎていよいよ限界が来たので、総合診療センターの担当医に苦痛を言ってしまった。膀胱と胃が圧迫されておしっこが出にくい、食欲が全くわいてこない、肺まで圧迫されて、夜になるとくらっとするほどの呼吸困難に陥ると、お薬が必要なくらいに呼吸が苦しいと。
今日ついに婦人科に回された。ここまできたら、手術の具体化しかない。
5月7日には手術前検査、これで丸一日。中を見て吃驚。エイズ検査まである。5月9日にその結果を聞きに婦人科へ。そこまでクリアーできたら、ようやく入院・手術待機者リストに登録されるとか。「それから実際の手術までは、どれくらいですか?」と聞けば「およそ一ヶ月、多分5月の末か6月の初めになるでしょう」
入院してから手術の説明の日がありますから、それと手術の当日は、必ずあなたの場合、お友達を連れてきてくださいと、再度念をおされた。手術のあとは抗がん剤だ。抗がん剤が合わなければ、ホスピスか?いずれにせよ、想定通りの運びなのだが、ひとつだけ大問題がある。
この腹水のパンパンだ。これで食欲もなく寝汗ばかりかいてどんどんやせている。中には息苦しくて気絶するひともいるらしい。いまはすでに自由には歩きにくいし、動作も緩慢で日常生活も普通には送れない。あと一ヶ月、一人暮らしが続けられるかどうか。医者が言った。
「もうひとつ大事なことを言いますが、もし腹水が溜まりすぎて、我慢できなくなったら、婦人科に電話してきてください」
電話すると、そこからまたよその病院に回されて、一泊で水を抜く手術を受けるのだそうだ。お腹のパンパンは癌性腹膜炎で、この水を抜くことは、できるだけ避けた方がいいらしい。なぜなら水を抜いてもまたすぐに溜まるから。しかもその水には栄養分が含まれているらしくて、抜いた水をろ過して、普通はまたお腹に入れ戻すのだそうだ。でないと極端に衰弱する。水抜きは当然避けた方がいい手術である。しかし、このままパンパンで、どんどんやせて、呼吸困難で気絶でもしたら、生命の危険を伴ってくる。医者が言う。
「あまりギリギリまで、我慢をしないで、限界の少し手前で、連絡してきてください」
水抜きの手術を繰り返すようになったら、ろくなことはない。できれば、避けなければならないと今は考えている。さてあと一ヶ月、この腹水の固く腫れ上がったパンパンをどうして耐えようかと、実は今悩んでいる。一人暮らしで気絶でもしたら、手術前に一巻の終わりだ。
水抜きの手術もしたくない。卵巣癌の手術もしたくない。抗がん剤も打ちたくない。だけど私は、死にたいわけでもない。いままでのように生き続けたい。


まじまじと穴の開くほど...

このところ、その祖母の姿をしきりに思い出していた。廊下の隅にしゃがんで、ガラス戸で体を支え、じっと庭を見つめていた。何かを深く考えている、子供にもそれがわかった。
「おばあちゃん、どうしたの?」
おばあちゃんのお小水が、今朝オレンジ色をしていた、と心配顔の返事が来た。
「ビタミンを飲んだり、粉末ジュースを飲むとおしっこに色がつくよ」、と私は言った。
おそらく祖母一人が死ぬほど心配し、私は気にも留めなかった。気にも留めなかったが母や兄にも「おばあちゃんのおしっこがオレンジ色なんだって」と伝えたと思う。母や兄には耳に届いたはずだが、もうひとつの耳からすぐに飛び出して消えてしまったようだった。
それから1,2ヶ月して祖母は寝込んだ。1ヶ月ほど寝込んで、たしか10月頃入院し、そして翌年の1月9日に肝臓がんという病名でなくなった。

放射線科で撮ったCT写真をもって、消化器内科に行くように言われた。内科医に写真の判定を仰ぐためだと思い込んでいた。なにか説明をきけるのだろうと。ところがいきなり「検査の予約はどうしますか?」と聞かれた。「何の検査ですか?先生に診断していただくためにここに来たのですが」「だから予約、するの?しないの?診断は検査してからでしょう。胃がんの検査と大腸がんの検査と。検査しますか?しませんか?}
まあそういう行き違いがあって、結局は検査予約をとってもらうことにした。胃がんと大腸がんの検査は、嫌でしかたがないが、診断してもらうために必要なら、どうこう言っている場合ではない。検査の判定は2週間先になるらしい。しかも近くの別の病院に回されての検査である。病院はいっぱいいっぱい込んでいるので、はやく予約を取りたければ、そこに出向いて検査を受けるしかない。
もとの総合診療センターの医師のところに戻ってきて、予約してきたことを告げた。検査から判定まで時間があるので、その真ん中の日に肺のCT検査も、入った。撮ったばかりの肺のレントゲンで、肺にまで水がたまっていたためだ。
「ところで先生、わたしさっき、勘違いしてぬか喜び(卵巣癌より胃がんの方が治る可能性が大きい?)していましたが、ひょっとして、肺がんで、胃がんで、大腸がんで卵巣癌、つまり全部である可能性もあるのですね?」
医者は私のほうを振り向いてじっと見た。まじまじと無言で数秒間穴の開くほどじっと視線を私の顔に固定した。何を意味するのかわからないが、何か吃驚するようなことを私が言ったのだろうか?空気を戻すために、医者が答えられる質問をしなければ。
「先生、もし万一その場合は、いろんな科の先生が一緒に手術をして下さるのですか、それとも、手術は別々になるのですか}
医者の視線の固定がようやく外れた。「おそらく先生たちがスケジュールを相談されて、打ち合わせをされて、なるべく一回になると思いますよ」

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