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ホメイニ万歳!

ホメイニ万歳! 2004年9月4日 (Sat) 18:51:39

ABDIは現在行方不明の友達だ。正式の名をABDOL・HUSSEIN・FARROKH(アブドル・フセイン・ファロッホ)という。

初めてパリに行った時東京の代々木のユースで知り合ったSabine Raffyの家に、フラリと行ってみた。Sabineはストラスブールのセカンドハウスに行っていて、お母さんは手術で入院中。お手伝いさんが16区の重い扉を開けてくれた。お手伝いさんが病院に電話する。受話器の向こうにお母さんの声。
「サビーヌがあなたのお国で楽しい思い出を沢山持って帰りました。あなたのご親切は娘から聞いております。あなたとあなたのお国に感謝申し上げます」そこまで言われるとまるで外交官になった気分。「私は入院中で失礼いたします。ABDIにあなたのお相手をさせましょう」・・
誰もいないと思ったのにABDIという青年がガウンを羽織って現れた。色が白く目が大きく顔も大きく王子様の雰囲気がある。Sabineはイラン系フランス人。ABDIはまんまイラン人。親同士が友達でABDIがSabine宅に下宿?していた。
ABDIの部屋に入ると音楽が好きらしくレコードが沢山ある。ミレイユ・マチューのファンで、一緒にLPを聞いた。
「Acropolis Adieu」なかなかいい曲だ。ABDIと聞くとPersepolis Adieuに感じる。壁にはイランの細密画が掛かっている。ABDIの親戚の高名な画家が描いたものらしい。他にも元、元帥の叔父さんがいると言った。イスラムのカレンダーも見える。イスラムのカレンダーはキリスト式からマイナス622した年号になっている。ヘジラ(マホメッドがメッカからメディナへ逃亡した年)がイスラム元年に当たる。
アケメネス朝やササン朝の話をしようと思ったが、フランス語でどう言えばいいかわからず、日本語でそのままササン朝と言ったら通じたので吃驚した。聞き手の配慮があれば言葉は通じる。調子に乗ってダリウスやシリウスの話題を出したら、とても喜んでくれた。あとでSabineに聞いたらABDIは熱狂的愛国者なのだそうだ。「フランスに居るのにイランのことばかり話す」・・確かに。2度目に来た時はABDIと何度も会ったがいつもイランの話をした。テヘラン、イスファハン、シラーズ、タブリーズ、ハマダーン、地理に弱い私まで、イランの地理に強くなるほど。「イスファハンは世界の半分」パーレビのことは、シャーハンシャー,王の中の王、だと言った。
ホテルまで送ってくれた。「ワインをどうぞ」と言ったが、宗教上アルコールは飲まないと言う返事が来た。
フィーリングでいえば、親兄弟よりもずっと近くに,きわめて近くに感じられ、それでいて誰よりもくつろげる青年だった。?

2度目の時はシャンゼリゼ、モンマルトル、モンパルナス、ヴァンセンヌ、ブローニュ,あちこちに一緒に出かけた。沖至が出演した小劇場にもABDIと行った。私の部屋にも何度も来た。一人息子を一人にしておけないと(?)その時既に両親も兄弟も全員Parisに移り住んでいた。家にも招待してくれた。
「どうして家族でParisに移り住んだのですか?」
「ABDIの教育のためです」ええェ!!吃驚した。お父さんもお母さんも薬剤師としてParisで働いていた。薬学や化学は昔からイスラムの方が進んでいた。伝統があるのだろう。?

写真を見せて、これがテヘランの家だと言った。今はアメリカの軍人に貸している。「その人はアメリカ人らしく3度も離婚したんだよ」「僕は将来ジャーナリストになりたいんだ」と言った。アメリカには一目も置いていない。「Bruxellesはどうして原爆を落とされたのに、そんなに親米でいられるのか」と、やはり聞かれた。音楽好きなABDIはよくテイプやレコードを送ってくれた。全部イランの曲。あるテイプの中の1曲には、イラン人女性歌手が歌うバルバラの「いつ帰ってくるの」もあった。

1978年、イランのことがいきなり新聞のトップに躍り出た。誰も予想しなかったイスラム革命が勃発したのだ。心配になって久々に連絡を取った。自分の名義で家を買ってもらったと言う連絡が来ていた。13区のLa Tour Tokio(東京タワー)という建物に住んでいる筈だ。返事が来た。
お父さんが病死したことが書かれていた。イスラム教では死は天国への旅立ちで少しも悲しむべきことではない。祖国のために自分も今、身を捨てて役立ちたい、とあった。帰国するつもりか?
元、元帥の親戚がいたことが気になった。アメリカ軍人に家を貸していることも。つまりは旧体制派に違いない。ひっくり返れば殺されるかも知れない。
「身の危険を感じたら、日本に来るように」と書いて出した。
返事が来た。一番最後に、私の意表をついて「ホメイニ万歳!」とあった。年配の友人に相談すると「検閲があるから、無理に書かされているに違いない」という意見だった。どちらの側なのか?シーア派イスラム教徒のABDI、ジハードという言葉の前に、祖国のためなら、いつでも命を捨てるだろう。

1979年3月ホメイニ師の新政権はイスラム共和国宣言を発し、12月イスラム共和国憲法を制定した。イランは一気に過激になる。
11月アメリカ大使館占拠、1980年9月から8年間にわたるイラ・イラ戦争に突入。いつの間にか革命の輸出国と呼ばれるようになる。アメリカに敵対しただけでなく、イスラム世界においても孤立してしまう。1988年イランは力尽きて国連の停戦決議を受諾。ひりひりした歴史の先端から身を沈めた。

ABDIから返事は来ない。La Tour Tokioの電話は未知の人に繋がる。ABDI,ou es-tu? qu'est-ce que tu fais maintenant?

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Joe Dassin 「L'ete indien」
痺れるほどに素晴らしい曲。Joe Dassinの魅力満開

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Sandinistas・オルテガ


Sandinistas・オルテガ 2004年9月2日 (Thu) 17:00:08

The Clashというバンドに「Sandinista」というタイトルのアルバムがあるらしい。どんなコンセプトのアルバムなのだろうか?
また私のメモによると「Contra」というビデオゲイムがコナミから発売されている。どういう解釈の元で作られたゲイムなのか?

中東戦争をイスラエル側から見るか、パレスチナ側から見るか、と少し似ている。双方命を懸けて正義の側で戦っていた。簡単に言うと、反米か親米か?マスコミの論調は一般的に反米側なので7分3分でコントラとイスラエルが悪者扱いされているのではないだろうか。

Alexisが戦ったSandinistaとは?
悪名高きSomoza独裁政権を倒し1979年から1990年まで権力の座についた組織で、その間アメリカが支援するコントラと内戦状態にあった。

1990年「The Japan Times」を読んでいて信じられない記事を見つけた。1990年2月25日平和に行われた民主主義的な選挙でニカラグアの政権が変わった。それも血みどろの戦いではなくオルテガとチャモロ未亡人が仲良く握手しているではないか。ええェ!!あのドロドロはいずこへ?さらに感動的なのは、翌26日、オルテガがした政権譲渡演説。
「我々は勝利して去る。血と汗を流してきたのは政権にしがみつくためではなく、1821年の独立以来、拒否されてきた何ものかをニカラグアにもたらすためだったのだから。(略)ニカラグアとラテンアメリカにいくばくかの威厳と民主主義と社会的公正をもたらしてきたことを我々は誇りにおもう」・・
FSLNつまりSandinistaは野党になった。よく読むと元々打倒ソモサでオルテガとチャモロは共に戦っていた。その後、身内同士もふた手に分かれて、ニカラグアの政治人は複雑怪奇な争いの渦に巻き込まれていたようだ。?
Sandinistaの大統領オルテガの引きの見事さが強く印象に残った。

ところが、ダニエル・オルテガが革命の英雄かと思ったのも束の間、革命史とは別枠で、とんでもない記事に遭遇してしまった。

1998年30歳の養女ソイラメリ・ナルバエス・ムリロが、11歳の時から12年間に渡って性的暴行を受けていたと告発したのだ。
彼のように多忙な人間には性的な解放が必要なのだ。犠牲になることで彼女はサンディニスタの大義を助けているのだーと言い聞かせていたらしい。かつてサンディニスタ派だったエル・ヌエボ・ディアリオ紙は40ペイジに渡る告発の全文を掲載した。

オルテガは10代の頃から結成されて間もないFSLNに参加し、都市ゲリラや革命のための銀行強盗をやったりした。1967年にはソモサの国家警察に捕らえられ7年間を牢獄で暮らした。彼がニカラグアの大統領になったのは1984年、出獄後10年目である。

ソイラメリの夫アルハンドロ・ベンダーニアは何年もの間オルテガが彼の若い妻に暴行する前で、何も出来ずに脅えていた恥ずかしさを告白した。ラテンアメリカでは養女に対する性的暴行は長い間大目に見られてきた。オルテガの暴行を知っているサンディニスタの古参兵も、オルテガの政敵でさえもが、口を閉ざしてきたし、今も口を閉ざしている。権力を持つ男性の特権に従順な風土も忘れてはならない。

オルテガの性的暴行から、Sandinista革命の正否を問うつもりはない。さらに’風土’を持ち出せば、人格を問うことさへ出来ない。ただ「サンディニスタの大義のために」養女が性的暴行を受ける必然性、関連性が、全く見当たらない。
もうひとつ、コントラとの戦いがもたらした経済的損失を考慮しても、オルテガが大統領時の30000%のインフレ率を考えるだけで、Sandinistaの統治能力がわかる。明白であるのに余り認識されていないこと。武装革命組織が突然政権を持つとどうなるかということは、想像して余りある。Alexisが武器をとったのもわかるというものだ。革命力と統治力は全く逆ベクトルなのだから。政権譲渡こそが必然だったのだろう。そして何も知らないものだけが、「演説」などに感動する。


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Boris Vian 「Le deserteur(脱走兵)」

熱冷まシート 

熱冷まシート 巨人&米国 2004年8月22日 (Sun) 18:35:46

ちっちゃくて少し元気なころ私は野球幼女だった。上半身ハダカ、下は確かパンツだけ。靴は履いていた。ゴムマリのワンバン野球。ワンバンとはワン・バウンドのこと。狭い場所でも遊べるように、パーの手のひらでゴムマリを下に打ちつける。家の前で遊ぶので、ベイスも2塁までしかない、いわゆる三角野球。近所の子供の中では一番小さかったのでたいしたプレーはできない。雑誌は「幼年ブック」を読んでいたから、幼稚園前。好きな野球選手は川上哲治(古る?い)。好きなチームは読売巨人軍。近所では一番早くTVを買ってもらった。
父母「TV買おうか」
父「金はあるか」 母「ある」
母は預金を根こそぎ出してきたのだと思う。
だから私は4番FIRST川上、背番号16、を知っている。それから何年か後、紅白ゲームかなにかでジャイアント馬場が、巨人軍のユニフォームを着て投げているのを見た記憶もある。(お前は何歳だ、と言われそうな話だけれど)。馬場投手が1球投げる毎に観客が笑う。コメディーじゃないのだから、これじゃ馬場さん、野球に集中出来ない、・・幼児心にそう思った。それから何年も巨人ファンだった。西鉄の稲尾、南海の杉浦がどうしても打てずに、日本シリーズではいつも負けていた。ああ悔しい。それも悔しい情け無い負け方。川上の後、とりたてて好きな選手はいなかったけれど、ずっと巨人ファンだった。鏡里の後好きな相撲取りはいなかったけれどずっと時津風部屋のファンだったのと似ている。そんな私がいつからか巨人ファンでも野球ファンでもなくなった。原因は江川だ。あの政治家が絡んだペテンのような移籍劇・・熱い想いがジワジワと冷めていった。

ボクシングではその昔、毒入りオレンジ事件というのがあった。相手の選手の方が強そうなので、オレンジに下剤を注射して、相手のホテルの部屋に届ける。知らずにそれを食べた相手が下痢になる。すぐに下痢止めを飲んだところで、どんな強打者もボディ一発で崩れ落ちる。これには笑った。なんて人を笑わせる可愛い発想なんだろう。金平会長、昔の日活映画に出てくるような悪人顔の人だ。とんでもない不正なのだけれど、なんだか人間味さえ感じるいじらしさだ。正義感から許されることではないし、ボクシングに対する冒涜なのだけれど。

どこが違うのだろう。

昔アメリカ大使館人質事件というのがあった。カーターはヘリで人質奪還作戦をとったが失敗。レーガン側は国交断絶中の敵対状態のイランと着々と水面下で交渉。人質はレーガン大統領就任式に合わせて解放された。一日も早く解放しようという気持ちなどさらさらなかったのだ。・・
「TIME」でこれを読んだあたりから私の米国に対する信頼はジワジワと揺らいでいった。さらにその先にイラン・コントラという大事件が発覚する。
アメリカ政府は敵国であるイランに秘密裏に武器を売り、その代金をニカラグアの武装組織「コントラ」に渡して、反政府活動を煽っていたと言う違法事件だ。アメリカの政治、アメリカの民主主義の基盤のひびが見えた気がした。

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「 La Californie」  Julien Clerc

七曜会


七曜会 2004年8月15日 (Sun) 14:37:01

学科入試発表の後、体力テストが丸一日あった。そこで新しい友達ができた。全部一緒に回った。すべての体力、運動能力、彼女が上だった。「スティーブ・マクィーンが大好き」な彼女。お父さんはこの大学の物理学の主任教授(後に学長)で、以前客員教授で渡米した際、彼女もついて行って、在米ハイスクール生活経験があると言った。
「私の祖父もハイスクールから大学に進んで12年間米国で学び、ロサンゼルス大学のバチェラー・オブ・リテラチャー&マスター・オブ・ローだった」という私としては取って置きの自慢話を披露した。が、彼女は何の反応も示さない。彼女の祖父が、元内閣総理大臣若槻礼二郎だという事は、もうずっと後になってから知った。

五月の連休前になると新入生はみんなクラブが決まり始める。「茨高三人娘(若槻さんも含む)」は全員混声コーラス部に入会していた。若槻さんと席が隣になった。
「私もクラブを決めた。同好会なんだけど。七曜会って言うの」
「へえ。それBruellesさんにぴったりなクラブね」
「えェッ、なんで?」「だって、七妖怪でしょう」
「クックックックッ、ちょっと待ってよ。じゃ私、一つ目小僧なの、唐傘ばばあなの?」
「そう具体的じゃなくって、変幻自在という意味で」
「クックックックックッ、同じじゃないの」

めったに行かなかった予備校でも4人の女友達と2人の男友達がいた。その中の一人が姫神さん。男友達の一人は女の子達が密かにジュリーと呼ぶ石本君。神大に行った石本君から4月に手紙が来た。

「昨日総合クラブの部室に行ったら先輩たちが大騒ぎしてた。関西全部合わせても初めての女性部員申し込みが来たって。しかし、この下手な字、この変な名前、これはきっと男の悪戯だろうって。で、その葉書を見せてもらったら、君からの入部申し込みだった。僕、この人知ってる。これは悪戯じゃないって証明しておいたよ。それにしてもこんな再会が出来るなんて本当に驚いた。」私も驚いた。

各大学の横の繋がりがあって、組織として人材はあるけれど、学内では会員も少なく、肩身の狭いクラブだ。部室もない。クラブとして認知されてもいない。時流から言うと、認知されると身が危ない。まるで秘密結社だ。活動は一切しない。全員息を潜めている。先哲を仰ぐ読書会のみ。けれど大学教授が自費で講演を引き受けてくれる。全国規模の機関紙も出ている。この機関紙の内容と文章力を見て大きな衝撃を受け入部を決意した。

一度京阪電車乗車中の会田雄二氏を見た。専門は西洋美学美術史の筈。このビルマ戦線体験者のアンチヒューマニズム論は凄かった。阪大の市村先生、市大の高坂先生、神谷不二先生、村松剛先生(村松英子のお兄さん)、林健太郎先生、東大土曜会関連の三島由紀夫先生、etc.,etc.,
石本ジュリーは土曜会の合宿にも参加していた。
彼が森田必勝にならずにすんで、本当によかった。

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「パリ8月15日」Barbara
この曲は終戦とも、聖母被昇天祭とも何の関係もない。
家族とバカンスに出かけた愛人のことを思った歌だ。日本ならさしずめ、お正月、お盆、誕生日、クリスマスなどに愛人関係の危機は訪れる。



Rwandan Genocideの検証(3)

情報・読み物 Rwandan Genocideの検証(3) 2005/02/12
罪滅ぼしの国際支援とその行方

数世代階級差別が続くだけで、教養や体格、人脈、敏捷性等において否定できない差が出現する。4月末頃にはすでにツチ族のRPFの反撃にあい、25万人のフツ族がタンザニアとの国境に難民として流れ込んだ。6月には150万人がザイールに。大量かつ短期間という意味では史上空前のexodusである。TV画面には国を追われた難民と、国境付近にある国連難民支援キャンプが映し出される。そこにもう殺戮はない。人道支援がこれ以上ふさわしい場所はない。Genocideがあり、難民が押し寄せている。それを見て人々の心は痛む。世界中から大量の援助物資が、身を張ってgenocideを阻止しなかったことへの罪滅ぼしのように、届く。国連支援の難民キャンプ。実はそこにフツ族のGenocide国家の残党たちの社会がそっくりそのまま複製されていた。フツ族であっても、ツチ族を殺さないでは殺される立場にあったフツ族の人民、民兵、兵士、生き残ってここに逃げ込んだ人々の手は、そのほとんどが皮膚を裂き骨を砕いてきた血塗られた手だったのだ。
神は誰を救い誰を罰せよとおっしゃるのか。
神はそれほど悪戯がお好きなのか。
genocite現場は、心優しき第三者を立ち去らせ、難民キャンプは心優しき第三者の援助を引き寄せる。そこに何の不思議もない。

まだ記憶にあるクリントンとモニカのハーモニカ事件。大々的に公開報道して逆にアメリカ国家の健全性を見せつけた。
Madeline Albrightは97年初め国務長官としてアフリカを訪問した際アメリカ人らしい健全さで謝罪した。
Rwandan genocideに対し適切に対応できなかったこと、阻止しようとさえしなかったことへのお詫び。Genocideという言葉を意図的に使用しなかったことのお詫び。そしてGenocideの当事者たちを保護し、人道的サポートをする難民救済キャンプ活動に力を入れたことへのお詫び。
そしてKigaliに立ち寄った。数ヵ月後クリントンもそこに足を運び率直な謝罪を述べた。いまだ未形成なRwandaの歴史を考えるとき、今後の政治、軍事介入を考えるとき、この謝罪は大きな価値を持つ。GenocideをGenocideと認定するだけで、視点が固定され、状況判断も行動判断もいやでも可能になる。

ただWe、とかthe UNとかを主語とした謝罪で「Never Again」の願望が果たして実るのか?
そもそも人道的”恥”を知るプライドが、政治的判断の是非を決めるわけではない。小さな声でしか言えない。けれど、たとえば、ほとんどのアメリカ国民は、genocideを武力阻止しなかった政策を”大成功”だと思っている。Genocide協定から、人道的阻止の条項を取り除けば、謝罪の必要すらなくなる。そして下記の資料によると、もうすでにそうなっているのだ。
 


Rwandan Genocideの検証(2)

情報・読み物 Rwandan Genocideの検証(2) 2005/02/12
GenocideとWar

「We Wish To Inform You That Tomorrow We Will Be Killed With Our Families」の著者であるPhilip Gourevitchは「Civil WarとGenocideの違いは?」という問いに対して次のように答えている。
「時には市民も巻き込んで二つまたはそれ以上のサイドが戦うのがCivil War。Genocideは政治的意図はなく、血脈を絶つまで殺し続ける、という目的がある」と。子供や赤ん坊はむしろ標的になる。「Rwandaにおいては子宮の中の胎児でさえ、徹底した殺害対象となった」
お互いに戦いあうのが戦争だ。今回フツの軍隊(および一般市民)は、ツチの軍隊と戦うことよりも、その家に行って子供や老人を殺すことの方こそ、その目的とした理由はそこにある。
前にも書いたが、フツ族とツチ族に人種的、文化的、宗教的違いがさほどあるわけではない。ただ植民地支配を容易くするために、優等人ツチ、劣等人フツの、身分証明書を持たされ、仕分けされてきた。長年奴隷的身分に置かれていたツチ族の側から言えば、周辺国に亡命している多くのツチ族の集団的逆襲が、いつが時代を逆行させるのではないかという、どうしても拭い切れない積年の恐怖心があった。それが集団狂気の核となった。目的はフツ族のユートピア、すなわちツチ族の絶滅。これをGenocideという。
飛行機撃墜の後、政府軍が大量殺戮を開始、それに対しRPF軍が反撃に出た。これは確かに繰り返されたパターンの内戦であった。つまりRwandaではWarとGenocideが平行して行われたのだ。

有名な1月11日のfaxがある。WarとGenocideを開始した側の兵士の一人から、国連に実は3ヶ月前に計画の詳細が漏れ知らされていたのだ。どのようにすべてのフツ族をそべてのツチ族の殺害に駆り立てるかという計画。Genosideはすでに示唆されていた。だからDallaireは当然の反応をしようとしたのだ。国連側がこの情報で反応したのはGenocideの部分ではなく、平和維持軍に対するあからさまな攻撃、その部分に反応した。Faxの示唆の通りベルギー人たちが殺害されたとき考えたこと。「逃げよう」「逃げよう」「逃げよう」

100日で80万人。1日8000人。24時間フルに計算に入れて毎分5人以上の殺人である。ほとんどはオノやナイフでの惨殺である。平和維持軍及び各国の政府関係者が祖国の救援機に飛び乗って逃げた後は、Rwandaは殺人の野と化した。

Genocide協定というものがある。Genocideという言葉を容認すれば、逃げ出すわけにはいかなくなる。内戦だ、無政府状態だ、混乱だ、民族紛争だ・・、そう名づけている間に自国民の安全確保を優先できる。
戦争は人間がするおろかな行為のひとつだ。しかしGenocideは人間が人間である以上本来不可能な行為である筈だ。Rwandaに於いてGenocideを感知していたのはDallaireだけではない。実は誰もが感知していた。しかしGenocideという言葉は5月17日まで国連及び関係各国が意図的に回避し続けた言葉だった。
たかが言葉と言うなかれ。歴史を検証するに当たって、私達もWarとGenocideをあいまいに、同列に論じる愚を犯してはならない。


Rwandan Genocide の検証(1)

情報・読み物 Rwandan Genocide の検証(1) 2005/02/08
General Dallaireの悪夢

ケベックの公園で先月末泥酔して意識を失くし、ベンチの下に転がっている男がいた。1994年Rwanda大虐殺の折、国連平和維持軍を指揮したDallaire将軍である。彼の脳裏には今でも虐殺の現場と腐敗してゆく死体の山々がフラッシュバックする。人間として強いダメージを受け彼は現在精神科医の治療を受けている。評価を受けていた軍人の面影はなく、口を開いて語る姿を見ても、そこに見えるのは精神的廃人の姿だ。怒り、苦痛、孤独、絶望それらの集合の感情に押しつぶされている。彼の中の気高さが、ルワンダで見てきたもの、体験したことを全身で拒否しているのだ。

長い間Dallaire将軍はタンザニアの国際法廷で彼がルワンダで体験したことを証言することを国連によって阻まれてきた。そしてついに証言台に立った時でさえ、その証言は公開されることはなかった。
ルワンダ人民80万人の殺戮を防ぐことが出来なかった自分の無能さを責めるあまり何度も自殺を考えた。最新の精神療法をもってしても、この深いトラウマから彼を救い出し、勇気ある軍人に戻すことはもはや不可能だろう。精神障害のゆえに、カナダの軍隊も4月に除隊した。

この大虐殺はルワンダのフツ族の政権を、結果としてツチ軍が転覆させたのみならずルワンダとウガンダの支持を得た反乱軍によってザイールのモブツ大統領も後に失脚させた。
Dallaire将軍は本当に無能だったのだろうか?
実は3ヶ月も前から,彼はgenocideの危機を国連上層部に報告している。のみならず、真に大惨事を防ぐために軍隊の増強を申し出ている。諸事情でことごとく却下された。
平和もないところに平和維持軍を置いても意味がない。迫りくる大虐殺を阻止するに充分な軍隊が必要だった。機能すべき機関が機能しさえすれば、大虐殺が防げただろうことをDallaire将軍は一番よく知っている。
仮に軍事介入が却下されるにしても各国の協力協調さえあれば、外交的、経済的圧力という方法がなくもない。当時国連安全保障理事会のメンバーだったルワンダの犯罪者政府を、国際社会からボイコットしてしまうという手もあった。ジェノサイドの間中この犯罪者政府は国連安保理事会の正式メンバーであり続けた。

フツ族政府軍に視点を移そう。彼らの目には国連軍その他の軍隊はどのような存在に見えたのだろう。穏健派の首相と、その護衛をしているベルギー人のブルーヘルメットを殺してしまえば、まずベルギー軍が戦意を喪失すると読んでいた。1993年末ソマリアの首都Mogadishuで18人のアメリカ軍兵士が殺害され路上に遺体がこれ見よがしに捨てられ、映像化された時、クリントン政府は平和維持軍の使命を即刻忘却した。この大虐殺は非常に計画的なもので、ベルギー軍の、アメリカ軍の、国連軍の対応など、彼ら独自の心理学と視力で完全に先読みしていたのだ。まるで後催眠にでもかかったように、当時アメリカの国連大使だったMadeline Albrightは「みんな一緒に足並みそろえてルワンダから去りましょう。この国の人たちの運命は、その運命に任せましょう」と決意した。

平和のための軍事介入など、それを大義名分とした,欲に目が眩んだ軍事侵略でない限り有り得ないのだ。自国民を守るために、他国民が血を流して戦ってくれるなど、私達も、ゆめ思わないほうがいい。


Rwandan Genocide (2)

情報・読み物 Rwandan Genocide (2) 2005/01/30
アフリカの終わりなき後遺症

1994年7月大虐殺はようやく終わった。結果、ツチ族の反乱軍がフツ族の政府軍を打ち破った。殺戮に手を染めた、そしてツチ族の報復を恐れた約200万人のフツ族が難民となって、ブルンジ、タンザニア、ウガンダ、ザイール等の近隣国に逃げた。この中の数千人は、難民キャンプを襲ったコレラや下痢のために命を落とした。
ルワンダの大虐殺、及びその結果としての大量難民の流入滞在のため、隣国ザイールが政情不安定になり、無秩序状態から1998年には内戦が勃発、国土の荒廃を引き起こし多数の死者も出した。

大虐殺終了後、かつてないほどの救援の手が、国際社会からさしのべられた。アメリカ合衆国が最大の支援提供国となった。国連平和維持軍、別名UNAMIRは、内戦中は遁走したが、RPFの勝利が決定した後は支援及び平和維持のために?戻ってきた。そしてUNAMIRはルワンダの地に1996年3月8日まで駐留した。

1996年10月ザイール東部でツチ族が騒動を起こした。その結果60万人を超える大量の難民が1996年11月後半の2週間の間にルワンダに帰国した。続いて1996年12月の終わりには、タンザニアから50万人の難民が、これは自然発生的にルワンダに戻った。この時点でなを10万弱のルワンダ人民が難民として国外にとどまっていた。彼らは、大虐殺の当事者の敗れた政府軍の、民兵たちの軍隊Interahamweの、及び1996年以前に難民キャンプでスカウトされ内戦に加勢した即席兵士の、残党たちだった。

1997年1月18日ルワンダ北西部でフツ族の民兵が支援に来ていた3人のスペイン人と、3人の兵士を殺し、さらに一人に重症を負わせる事件がおきた。そういう事件はあったが、隣国から帰国することに二の足を踏んでいた難民も、今はほとんどが祖国に戻り、その大地の上で生活しているのが現状である。
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[参考:Rwandan Genocideに至るまで]
ルワンダの地に元からいたTwa族はピグミー族である。人口構成はこれに加えてフツ族とツチ族からなるのは以前に書いた。

1895年にルワンダはドイツの植民地になる。ドイツ側は以前にもましてツチ族フツ族に存在の優劣をつけ差別化政策を採った。第一次世界大戦でドイツが敗れ取って代わってベルギーが宗主国となる。ベルギーはさらにこのツチ族の優性、フツ族の劣性の差を拡大し成文化した。

第二次世界大戦後は国連が統治をベルギーに委任した。さまざまな改革や政変もあった。1959年には国王Charlesが暗殺されたしツチ族の最後の君主Kigeli5世はウガンダに遁走した。フツ族が次第に力をつけ始め1962年、ルワンダの独立に際しては、逆転してフツ族が支配者側に立った。(民主主義を導入すると他の要素よりも何よりも多数の側が常に勝利する)

1990年、実はこのあたりからRwandan Genocideの芽はすでに見て取れる。ツチ族からなるRPFが、基地を置いているウガンダから、ルワンダにこの年侵攻した。これに対しHabyarimana軍事政権は今回と同じくツチ族の皆殺しを意図した大反撃に出た。RPFは、昔のようにツチ族が支配する国を、フツ族の再奴隷化を目論んでいると、それは絶対に阻止しなければとの思いからの、徹底した反撃であった。この戦いは1992年まで2年間続いた。そして最終的にはタンザニアのArushaにおいて、Arusha条約と呼ばれる停戦合意が政府とRPF両サイドによって調印されたのだった。が、、、。
1994年4月6日、あの大統領搭乗機撃墜事件が起こった。
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「The New Yorker」の記者、Philip Gourevitchが大虐殺後のルワンダを訪れ、インタビューや情報収集など綿密な取材を通してノンフィクションブック「We Wish to Inform You That Tomorrow We Will Be Killed With Our Families」を1998年に出版した。この本は同年全国書籍批評家賞、ロサンゼルス・タイムス・ブック賞、George K.Polk海外ドキュメンタリー賞など、数々の賞を獲得した。「ジェノサイドの丘」(上)(下)としてWAVE出版から翻訳本も出ている。amazon.co.jpでこの本のカスタマーレヴューを数件読むことができる。


Rwandan Genocide

情報・読み物 Rwandan Genocide 2005/01/29
アフリカの終わりなき後遺症

1994年4月6日、ルワンダ大統領Habyarimanaとブルンジ大統領Cyprien Ntaryamiraを乗せた飛行機がルワンダの首都Kigaliに着陸しようとアプローチした時、何者かに狙撃された。コントロールを失った飛行機は墜落、二人の大統領は即死した。狙撃の銃声があたかも合図であるかのように、手当たりしだい、ツチ族及びツチ・フツ関係なしの政治的穏健派を、兵隊・民兵が一斉に殺戮し始めた。多数の反対派の政治家も殺された。ルワンダ在住のすべての外国人は母国からの勧告でルワンダを脱出、各国はその大使館のドアを閉鎖した。

首相と彼女の10人のベルギー人ボディーガードが最初の被害者になった。殺戮はKigaliから、ルワンダ全域に瞬く間に広がった。4月6日から7月のはじめまでの期間に、この前例を見ない殺人スピードは93万7千人のツチ族及び穏健派のフツ族をアフリカの大地に切り捨てた。Interahamweと呼ばれる、組織だった軍事的殺戮集団の仕業だった。地元の役所や、国営ラジオに召集された一般の人々も、隣人をできるだけ殺せと命令された。大統領の政党MRND(1975年Habyarimana大統領が組織した団体でMRNDはthe Mouvement Republicain Nationale pour la Democratie et le Developpement=民主化と発展のための共和国運動体の略)が多くの面でこの大虐殺の組織化に関与していた。

この後の2週間の間、ルワンダに駐留していた国連軍は妙な動きを見せた。ベルギーと国連軍はルワンダ人を見捨ててほとんどすべての戦闘要員を引き上げた。国連軍の最高司令官カナダ人のRomeo Dallaireの抗議にもかかわらず、国連安全保障理事会はフランス、ベルギーが音頭を取って満場一致で撤退を決議した。1994年5月17日になってようやく、国連はこの大虐殺の事実を、しぶしぶの態度で認めた。赤十字の発表によると少なくとも10万人がこの時点で過激派のフツ族の手によって殺害されている。死者の大多数は少数派のツチ族である。

Arusha条約によってKigaliに駐留していたRPF(Rwandan Patriotic Frontの略で、内乱を逃れて30年間にわたり国外に亡命していたツチ族集団)の大軍は大統領機墜落の後、直ちに襲撃を受けた。この軍団は応戦しKigaliを脱出、ルワンダ北部に駐留する別のRPFと合流することができた。大殺戮が始まったと知ったRPFはすぐにルワンダのフツ族支配の政治に対し、市民戦争を再開した。RPF最高司令官Paul Kagameはウガンダやタンザニア等の隣国に駐留しているRPFの軍隊に、ルワンダに侵攻し、フツ族の軍隊と、そして殺戮の当事者であるInterahamwe軍と戦うことを命じた。軍と軍との内戦と、ルワンダ人民の虐殺は2ヶ月間、怒り狂った嵐のように、級数的にその凄惨さをエスカレートさせたのだった。(つづく)

強調文

Shining Path

Shining Path 2004年6月3日 (Thu) 17:54:40

久しぶりに降って湧いたように適当な話し相手が現れたものだから、イランコントラからホワイトゲート、クメール・ルージュやらハイチ、ニカラグア、ブルンジそして、毛沢東思想がアフリカや南米まで飛んで、不幸を撒き散らしている話をした。南米のテロも毛沢東思想に駆られた、ほらあの、輝ける道とかなんとか・・ここで歳のせいか血液の流れが、鈍る。「センデロ・ルミノソのことをおっしゃってるんですか?」「そうそう、それそれ」「それから最近逮捕された大学教授のテロリストの・・」「グスマンですか」「そうそう」(原子力研究の理系なのに、さすが京大生よく知っている)

明日香歴史walkに行こうか、尖閣諸島上陸のビデオ上映会に行こうか迷っていた。すると「SAPIO」の投稿欄に、日本の将来を共に語ろう、と呼びかけている同市内(つまり近所)の青年を発見。「私は共に行動できないけれど頑張ってください。ところで今度の日曜日駅前のUビルで西村真悟議員の講演会があるので、よければ代わりに行っていただけませんか」とハガキを出した。そしてその日曜日、歴史walkに出かけたのだけれど、平地walkに気分が乗らず、思い切って途中で引き返しそのままUビルに直行。悪天候の中ボートで尖閣諸島に上陸をする姿を見て感動し、講演を終えた西村議員に(拉致問題もまだ表面化しておらず今ほど有名ではなかった。それどころか、このあとSPAでの放言で確か一度辞任に追い込まれている)握手を求め(グラサンをしている私を見て一瞬刺客かと、少しギクッとされたが)家に帰って食事の支度をしていた。そこへこの子が(といって24歳の大学院生なのだが)突然私のハガキを手にヒラヒラさせ、玄関に現れた。

それから1年位したころ、騒音問題解決に向けて友達に紹介された市会議員が家に来る事になっていた日、あわてて掃除している真最中に、誰かが来た。「どなたですか?」「××です。×××できました」「今忙しいです」「少しでいいんです」「時間無いです」…戸も開けなかった。・・さらに10ヶ月ほどしたある日、不意に、あの時来たのは、あの子だ!と気づいた。何かをいいに来た筈だ。少し迷ったが電話してみた。
「お正月一度帰ってきました。仲間の人と一緒で、親とは話もしません」「一人息子さんなのにね」「もう、いないものと諦めました」「辞める意思は無いようですか?辞める意思があって、こられたのではないかと思いまして。電話しました」
彼は北京大学に留学していた。「さよなら」をいいに来たのだ。あの時。北京大学という選択は自分の意思だったのだろうか。(原子力の研究・・・?)

彼がそれを言い出すまで3度ほど電話がかかってきた。2度目からは家でなくUビルで会って時事問題やらお互いの日常生活の話を90分ほどした。4度目も彼は切り出せなかった。話が進まず私が3分ほどで帰ろうと立ち上がった時、彼は意を決してその言葉を口にした。否口にしたのではなく、いきなりパンフを見せた。・・
「お金全部吸い上げられて、どうして生活してるの」
「生存ギリギリです。信仰心がないとおかしくなります」
「そのお金、どこへ行ってどう使われてるのか、しってるの?」
「・・・」
「例の抽選みたいな結婚式もしてるの?」「はい」「奥さんはどこにいるの」「いまニューヨークです」「どうして一緒にいないの?」「信仰上の結婚ですから。僕も以前ニューヨークで活動していました」「奥さんと一緒に?」「いいえ、お父様と一緒に」
まじまじと顔を見た。悪くない。狂信者の目でもない。むしろ澄み切っている。前途も明るい筈なのに。
「せめて、これだけでも目を通してください」
「教義ぐらい、一から自分で考えなくっちゃ。信仰はready-made思考。貴方ほどの人が他人に考えてもらうようじゃ、いくらお父様にでも・・」
「あっ、それもよくお父様に言われます。自分で考えろって」
私はケンモホロロを演じた。彼は迫った。私は日ごろ練習しているNO!を日本人としては苦手なNOを、明白なNOを態度で示した。それでも彼は取り縋った。両手で私の腕を取り押さえて、行かないでくれと。私はそこに彼の孤独を見た。迷っているのではないか。心にもう親も無く、結婚はしても触れ合いもせず、けれども組織の中心部にどんどん吸い寄せられていく自分に、不安を感じているのではないだろうか。逆洗脳。足抜き。一瞬頭を過ぎった。しかし彼の人生、彼の判断と選択を尊重しなければ。暖かい他者の無言の肯定の眼差しが、どうしても欲しいだけだろう。それにこの青年と存在を賭け、心の強さの綱引きをしたら、おそらく私が負けるだろう。信仰とは何度も逆揺れしては、その都度強化されるものだから。
約1年後扉の向こう側で、彼が名を名乗った時、全く思い出せなかったのは、T教会の青年としてのイメージがこの時固定し、彼個人の名前が消えてしまったからだった。

北京からこの先、何処へ続くのだろう。彼だけのShining Path(輝ける道)彼だけのセンデロ・ルミノソ。願わくば、なんとか国のかんとか開発に知らずに関与させられることのないように。仕掛けのある城を造った後の大工のようなdead endに行き着く道でないことを、切に祈っている。さようなら、原子力の頭脳を持った志ある日本の青年。

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「可愛いトンキン娘 La petite Tonkinoise」 par
Josephine Baker. 私が東銀や、ドイチェバンクやソシエテ・ジェネラルと下手なフランス語で交渉している頃、ParisにはまだJosephine Bakerの死の報道の余韻が色濃く残っていた。


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