PLANETEに戻る

Latest Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「遠近法の書」(または昨日の追記)


「遠近法の書」(または昨日の追記) 2004年9月29日 (Wed) 18:20:56

・以前原田さんは私に「東京でと同様大阪でも周りの人を煙にまいているだろうBruxelles」と言ったことがあるが、原田さんの煙にくらぶれば私の煙など、遊園地の忍者アトラクション程度のご愛嬌である。原田さんの煙はすでに彼女自身を足元からすくっているように思えるときがある。・・(略)・・
もしかして人間存在とは火葬するときに吐く煙の色に過ぎないのでは、と思うときがある。少なくとも存在とは、そういった比喩の連続ではないだろうか。
ー思潮社刊「遠近法の書」(原田かえで著)詩集評より抜粋ー
...................................................
「海とユリ」の合評会が終わって帰る途中、イスの片付けをしてこなかったと気づいて、急遽早稲田に引き返した。すっかり片付いて照明を落とした店で、ママさんと原田さんがしみじみと語り合っている。「私の美しい背中を見てくれ」といつも背中しか見せない原田さんが、ほとんど無防備な姿で、ママさんに若き日の結婚の失敗を語っていた。「失敗」という言葉から1番遠いところに居る筈の原田さんが。場違いなので黙って帰ろうとした私に気づいてママさんが声をかけた。
「今日昼間,早稲田の学生たちが、Bruxellesさん、あなたのことをここで話してたわよ」
私の知らない原田さんが振り向いた。
ママさんは”失敗”の相手も知っているらしかった。フレーベル館で見る颯爽とした原田さんではなく、まるでフラレ女のように繰言を並べる原田さんが居た。場所と相手によって人は豹変するものかもしれない。

しばらくして原田さんから、彼女が以前思潮社から出した詩集「野猿伝説」が送られてきた。私よりも親友の姫神さんがファンになった。どこがいいのと聞いたら「自分をハイエナに擬するその視点の決意に感じ入る」と言った。確かにその頃原田さんは「詩学」に「マッカナソラトビー」と言う素晴らしい作品を発表していた。

4年後彼女の翻訳本「エルフランドの王女」(原作ロード・ダンセイニ。月刊ペン社妖精文庫)が送られてきた。ゲーと言うほど文字で一杯の本だ。翻訳家デビューしたことになる。さらに2年後「影の谷年代記」(原作ロード・ダンセイニ。月刊ペン社妖精文庫)が出版された。そしてそれはさらに12年後「影の谷物語」(ちくま文庫)として筑摩書房から再販された。

これらの翻訳の後、原田さんは突如文武両道を志し合気道で全国制覇を達成。私生活ではかなり若い後輩と再婚した。出版社をやめフリーの編集者になってもいた。その後が原田さんらしい。1年もたたないうちに港区高輪になんと、整体治療院を開業、仲間達をアッと言わせる変身を遂げたのだった。

/////////////////////////////////////
「Marinella」 par Tino Rossi


スポンサーサイト

sweet kiss

sweet kiss 2004年9月28日 (Tue) 17:31:40

会場ぎっしり人が集まった。私が着席した目の前が原田さんだ。相変わらず色っぽい。目で語ってくる。どうしてこの人の前の席になったんだろう。今日はGribouilleの出版記念会(詩学社刊 詩集「耳」)だから、とりあえずホステスとして立ち振る舞おうと決めていた。でもこれだけ見つめられたら、立てない。私も視線を外さないでおこう。・・

他の人達は会場で配られた私の「耳」論をパラパラと読んでいる。詩学社の大西さんに印刷してもらって、とりあえずは私からのGribouilleへの出版記念プレゼントだ。彼女の言語機能は「闇夜の白ステッキだ」と論じたこの文章、38枚書いて彼女に見せたら、いろいろ抗議が来て、二人で相談しながら、糊とハサミを使って原稿を切りチャンチャコ、特に前半の部分は大幅にカットされた。出来上がってみると、かなりよくなっている。
「Bruxellesって素直ね。これだけカットしても怒らないのね」
「確かに過剰な部分もあったから」
Gribouilleが満足してくれたら、それでいい。私もこんな作業がこれだけ楽しいとは思わなかった。原稿はクールで完璧に仕上がった。これを書いて、Gribouilleから少しづつ遠のいていこうと思っていた。

キンダーブックの女性編集長の原田さんは一度離婚している。Gribouilleよりさらに少し年上。手帳のスケジュールはいつもギッシリ。文学を語るにはビジネスライク過ぎる、いい意味でも悪い意味でも大人だと言う、噂の人だ。

う?ん。この眼は誘っている。う?ん、なんとなくお互い了解。OK? OK。小さなテイブルを挟んで5?ほど近づく。5+5で10?。さらに5?近づく。5+5で合計20?。さらに5?。お互い10?まで近づくと、もう目を見詰め合うことに耐えられなくなる。前頭葉のテレパシーが全開する。相手の顔だけが世界のすべてになり、距離を縮めること以外何も考えられない。7?くらいで周囲のざわついた空気をシャットアウトする意味でも目を閉じるしかない。首を伸ばす。5?位か?相手の息が鼻や口にかかる。その体温さえわかる。あと2??しっかり目を閉じると距離が見える。あと1??息を止める。ここで首を突き出すなどという、野暮なまねはしたくない。苦しくてお互い少し息をする。息が過敏になっている唇に降りかかる。さらに3?。息と息で触れ合っている。思いっきり情念を込めて相手の息を吸い込む。呼吸が速まる。触れていない唇の存在を感じる。意識をholdに向ける。何秒間か。行く、しかない。でもその直前にお互いの意志力で(?)同時に思いっきり身を引く。ゆっくりと目を開けて、お互いを見つめかすかに微笑む。それからそっと相手を称えるウインクを交わした。

////////////////////////////////////
「Ma jeunesse fout l'camp」  par Francoise Hardy


バケツの水が頭から


バケツの水が頭から 2004年9月8日 (Wed) 18:51:54

サイトからプリントアウトした一人の人の写真をもう一時間以上もじっと見つめている。ー

カウンター付近に小さな人だかりがある。近づいて行くと「あっ、外人だ」と言う声がする。まさか、私のこと? 成り行き上成りすますことにする。英語で手続きの申し込みをする。係りの人は国籍日本のユースホステルカードを見せているのだから、判っている筈なのに、口を合わせて、おまけに私を外人用の部屋に振り分けた。私が部屋に行こうとすると、その人だかりが全員ゾロゾロついて来る。いくらサングラスで目を隠しているとは言え日本人かどうか判らないのだろうか?仮に外人だとして、そんなに珍しいのだろうか?

先着者に挨拶して荷を解く。うっかり忘れて、私を見物に来た人達に言った。「今日は暑いね」・・。「日本語しゃべれるの?」吃驚している。そんなに吃驚しなくても。「だって日本人だもの。ほら」サングラスを取る。「なーんだ、日本人か」口々に言って、さっさと部屋から出て行った。

自動販売機でコーラを二本買って、一本を一番近いベッドの子に渡した。「いくら?」「要らない」

「何国人?」から話が始まった。・・
「あと4日で国に帰れる、家族に会える。とっても嬉しい」「家族に会うのがそんなに嬉しいの? よっぽどいい家族なのね」「そう」
「お金を使いすぎて、もうこれだけしかないの。そしてついにユースに来たの。明日もここよ」「私も明日もここ」
「パリからイスタンブール、カトマンズ、そこから東京まで飛行機で」「オリエント急行とアジアハイウェーね。じゃ長い旅なのね」」旅行は男友達と一緒にスタートしたのだと言う。
「カトマンズって、素晴らしかったわ。最高に感動したわ。教授資格試験に合格した記念旅行なの」「教授資格試験って、あのサルトルやボーボワールと同じ資格の?」・・
聞けば、論文はマラルメ研究。私も手に持っていた新聞を見せた。「日本語だけど、ここに私の作品(小説)の批評が出てる。読んでみるから聞いてね」日本語の新聞を英訳しながら音読した。「タイトルがカッコいいでしょう。Retournons Mes Anges d'amourってところかな」

次の日。「今日は昨日知り合った日本のサラリーマンが仕事を休んで一日東京案内をしてくれた。おかげで何とかお金がもちそう」「私は今日は文芸評論家(小川和佑氏)の出版記念会で、ヒルトップホテルに行って来た」・・
その夜、夕食のあとだった。彼女が一気に旅のこと、胸の内を打ち明けたのは。

彼のこと信頼していたし愛していた。私も彼が初めてで彼も私が初めてだった。(えぇェ、そんなフランス人がいるの?)2人とも勉強ばかりしていたの。ある日彼が突然打ち明けたの。昨夜,他の女と寝たって。そんな話が彼の口から出るなんて夢にも思わなかった。バケツの冷たい水を頭からかけられた思いがしたわ。(気づかなかったの?)全然。相手は中国女。一日に何度も服やアクセサリーを付け替えるチャラチャラした女よ。男を四六時中物色している女。彼は女性経験があまりないからクラクラきたのね。ショックだった。何故そんなことができるのか私にはわからない。(話し合ったの?)彼がしたいと思うのならすればいいのよ。一人の中から一人として選ばれるより、多くの女を知って、その上で選んでくれるほうがいい。(彼はどう言ったの?)僕が間違ったことをした。だからこのまま一緒に旅を続けるかどうか、君が決めてくれって。一度芽生えた不信、どうしようもなかった。一緒にいたいけど、一緒にはいられない。それで途中で別れた。それから一人。(パリに戻ってからどうするつもり?)わからない。お互いまだ好き同士なんだけど、前のようには戻れない。自分の気持ちをどう整理するか。(一時の気の迷いでしょ。そんなことで別れたら、後悔すると思う。やり直したら)出来たらそうしたいけど、出来るかどうか。?

半月後に手紙が来た。「仲直りできました」
さらに半月後「今ずっと年上の作家と同棲しています」

翌年Parisに行った時は、彼女はストラスブールに行っていた。さらに2年後の時は、私がすぐに盗難にあい、連絡を取るのが遅れた。日本の友達が緊急援助金を送ってくれ、とりあえず一息ついた時点で連絡した。

彼女はSylvainという青年とパリ郊外の手作りの家に、もう一組のカップルと4人で小さなコミューンのような暮らしをしていた。私はそこへ出かけた。SylvainはLenormanに似た感じのいい青年で私にもいろいろ気を配ってくれた。ただSabineが「Bruelles、実は私、あの時の彼のことをまだ愛しているの」と目で合図した。私が近視なのを思い出して、近寄って「昨日、今アメリカにいる彼から手紙がきたの」と耳打ちした。嬉しそうだった。私もいづれアメリカの大学で教えることになると思う、そしてそう言った。その夜はコミューンで寝た。一度Sabineの16区の家に正式ディナーに招待されたが、Sabineとはそれきり会っていない。

ABDIのことを日記に書いた日、Sabineが話した中国女のことをふと思い出した。叶姉妹のような中国女だったのだろうか。Sabineが話していたフランスの教育制度について、調べたくなってインターネットであたってみた。知りたいことが出てこない。いっそのことSabine Raffyと入れてみようと、ふと思った。すぐに沢山HITして吃驚した。BostonのWellesley Collegeでフランス文学を教えていた。Aix-en-Provenceでも教鞭をとっている。Nathalie Sarraute(ナタリー・サロート)の第一級の研究者になっていた。予測出来たこととは言え、かなり驚いた。
Chambre d'echosという出版社から「Le Tapis de memoire 」という物語を一冊出版していた。Sabine,すごいじゃない。さらに検索を進めた。・・

http://www.wellesley.edu/PublicAffairs/
WellesleyWeek/Archive/2000/ww100900、をクリックして、今度はバケツの冷水が私の頭にぶちまけられた。

Professor of French Literature and Cultural Studies,died on September 27,2000 in France.(略)She was a very popular professor and will be missed by both her students and her colleagues.(略)

http://www.chambrechos.freesurf.fr/raffy-echos.html
にLe tapis de memoireの紹介が出ている。Sabineの写真があった。面影しかないが、面影がある。ずぶ濡れの気持ちが乾くまで、まだ何時間もこの写真を見続けるだろう。

///////////////////////////////////
Gerard Lenorman 「ON A VOLE LA ROSE」


ホメイニ万歳!

ホメイニ万歳! 2004年9月4日 (Sat) 18:51:39

ABDIは現在行方不明の友達だ。正式の名をABDOL・HUSSEIN・FARROKH(アブドル・フセイン・ファロッホ)という。

初めてパリに行った時東京の代々木のユースで知り合ったSabine Raffyの家に、フラリと行ってみた。Sabineはストラスブールのセカンドハウスに行っていて、お母さんは手術で入院中。お手伝いさんが16区の重い扉を開けてくれた。お手伝いさんが病院に電話する。受話器の向こうにお母さんの声。
「サビーヌがあなたのお国で楽しい思い出を沢山持って帰りました。あなたのご親切は娘から聞いております。あなたとあなたのお国に感謝申し上げます」そこまで言われるとまるで外交官になった気分。「私は入院中で失礼いたします。ABDIにあなたのお相手をさせましょう」・・
誰もいないと思ったのにABDIという青年がガウンを羽織って現れた。色が白く目が大きく顔も大きく王子様の雰囲気がある。Sabineはイラン系フランス人。ABDIはまんまイラン人。親同士が友達でABDIがSabine宅に下宿?していた。
ABDIの部屋に入ると音楽が好きらしくレコードが沢山ある。ミレイユ・マチューのファンで、一緒にLPを聞いた。
「Acropolis Adieu」なかなかいい曲だ。ABDIと聞くとPersepolis Adieuに感じる。壁にはイランの細密画が掛かっている。ABDIの親戚の高名な画家が描いたものらしい。他にも元、元帥の叔父さんがいると言った。イスラムのカレンダーも見える。イスラムのカレンダーはキリスト式からマイナス622した年号になっている。ヘジラ(マホメッドがメッカからメディナへ逃亡した年)がイスラム元年に当たる。
アケメネス朝やササン朝の話をしようと思ったが、フランス語でどう言えばいいかわからず、日本語でそのままササン朝と言ったら通じたので吃驚した。聞き手の配慮があれば言葉は通じる。調子に乗ってダリウスやシリウスの話題を出したら、とても喜んでくれた。あとでSabineに聞いたらABDIは熱狂的愛国者なのだそうだ。「フランスに居るのにイランのことばかり話す」・・確かに。2度目に来た時はABDIと何度も会ったがいつもイランの話をした。テヘラン、イスファハン、シラーズ、タブリーズ、ハマダーン、地理に弱い私まで、イランの地理に強くなるほど。「イスファハンは世界の半分」パーレビのことは、シャーハンシャー,王の中の王、だと言った。
ホテルまで送ってくれた。「ワインをどうぞ」と言ったが、宗教上アルコールは飲まないと言う返事が来た。
フィーリングでいえば、親兄弟よりもずっと近くに,きわめて近くに感じられ、それでいて誰よりもくつろげる青年だった。?

2度目の時はシャンゼリゼ、モンマルトル、モンパルナス、ヴァンセンヌ、ブローニュ,あちこちに一緒に出かけた。沖至が出演した小劇場にもABDIと行った。私の部屋にも何度も来た。一人息子を一人にしておけないと(?)その時既に両親も兄弟も全員Parisに移り住んでいた。家にも招待してくれた。
「どうして家族でParisに移り住んだのですか?」
「ABDIの教育のためです」ええェ!!吃驚した。お父さんもお母さんも薬剤師としてParisで働いていた。薬学や化学は昔からイスラムの方が進んでいた。伝統があるのだろう。?

写真を見せて、これがテヘランの家だと言った。今はアメリカの軍人に貸している。「その人はアメリカ人らしく3度も離婚したんだよ」「僕は将来ジャーナリストになりたいんだ」と言った。アメリカには一目も置いていない。「Bruxellesはどうして原爆を落とされたのに、そんなに親米でいられるのか」と、やはり聞かれた。音楽好きなABDIはよくテイプやレコードを送ってくれた。全部イランの曲。あるテイプの中の1曲には、イラン人女性歌手が歌うバルバラの「いつ帰ってくるの」もあった。

1978年、イランのことがいきなり新聞のトップに躍り出た。誰も予想しなかったイスラム革命が勃発したのだ。心配になって久々に連絡を取った。自分の名義で家を買ってもらったと言う連絡が来ていた。13区のLa Tour Tokio(東京タワー)という建物に住んでいる筈だ。返事が来た。
お父さんが病死したことが書かれていた。イスラム教では死は天国への旅立ちで少しも悲しむべきことではない。祖国のために自分も今、身を捨てて役立ちたい、とあった。帰国するつもりか?
元、元帥の親戚がいたことが気になった。アメリカ軍人に家を貸していることも。つまりは旧体制派に違いない。ひっくり返れば殺されるかも知れない。
「身の危険を感じたら、日本に来るように」と書いて出した。
返事が来た。一番最後に、私の意表をついて「ホメイニ万歳!」とあった。年配の友人に相談すると「検閲があるから、無理に書かされているに違いない」という意見だった。どちらの側なのか?シーア派イスラム教徒のABDI、ジハードという言葉の前に、祖国のためなら、いつでも命を捨てるだろう。

1979年3月ホメイニ師の新政権はイスラム共和国宣言を発し、12月イスラム共和国憲法を制定した。イランは一気に過激になる。
11月アメリカ大使館占拠、1980年9月から8年間にわたるイラ・イラ戦争に突入。いつの間にか革命の輸出国と呼ばれるようになる。アメリカに敵対しただけでなく、イスラム世界においても孤立してしまう。1988年イランは力尽きて国連の停戦決議を受諾。ひりひりした歴史の先端から身を沈めた。

ABDIから返事は来ない。La Tour Tokioの電話は未知の人に繋がる。ABDI,ou es-tu? qu'est-ce que tu fais maintenant?

//////////////////////////////////

Joe Dassin 「L'ete indien」
痺れるほどに素晴らしい曲。Joe Dassinの魅力満開

Sandinistas・オルテガ


Sandinistas・オルテガ 2004年9月2日 (Thu) 17:00:08

The Clashというバンドに「Sandinista」というタイトルのアルバムがあるらしい。どんなコンセプトのアルバムなのだろうか?
また私のメモによると「Contra」というビデオゲイムがコナミから発売されている。どういう解釈の元で作られたゲイムなのか?

中東戦争をイスラエル側から見るか、パレスチナ側から見るか、と少し似ている。双方命を懸けて正義の側で戦っていた。簡単に言うと、反米か親米か?マスコミの論調は一般的に反米側なので7分3分でコントラとイスラエルが悪者扱いされているのではないだろうか。

Alexisが戦ったSandinistaとは?
悪名高きSomoza独裁政権を倒し1979年から1990年まで権力の座についた組織で、その間アメリカが支援するコントラと内戦状態にあった。

1990年「The Japan Times」を読んでいて信じられない記事を見つけた。1990年2月25日平和に行われた民主主義的な選挙でニカラグアの政権が変わった。それも血みどろの戦いではなくオルテガとチャモロ未亡人が仲良く握手しているではないか。ええェ!!あのドロドロはいずこへ?さらに感動的なのは、翌26日、オルテガがした政権譲渡演説。
「我々は勝利して去る。血と汗を流してきたのは政権にしがみつくためではなく、1821年の独立以来、拒否されてきた何ものかをニカラグアにもたらすためだったのだから。(略)ニカラグアとラテンアメリカにいくばくかの威厳と民主主義と社会的公正をもたらしてきたことを我々は誇りにおもう」・・
FSLNつまりSandinistaは野党になった。よく読むと元々打倒ソモサでオルテガとチャモロは共に戦っていた。その後、身内同士もふた手に分かれて、ニカラグアの政治人は複雑怪奇な争いの渦に巻き込まれていたようだ。?
Sandinistaの大統領オルテガの引きの見事さが強く印象に残った。

ところが、ダニエル・オルテガが革命の英雄かと思ったのも束の間、革命史とは別枠で、とんでもない記事に遭遇してしまった。

1998年30歳の養女ソイラメリ・ナルバエス・ムリロが、11歳の時から12年間に渡って性的暴行を受けていたと告発したのだ。
彼のように多忙な人間には性的な解放が必要なのだ。犠牲になることで彼女はサンディニスタの大義を助けているのだーと言い聞かせていたらしい。かつてサンディニスタ派だったエル・ヌエボ・ディアリオ紙は40ペイジに渡る告発の全文を掲載した。

オルテガは10代の頃から結成されて間もないFSLNに参加し、都市ゲリラや革命のための銀行強盗をやったりした。1967年にはソモサの国家警察に捕らえられ7年間を牢獄で暮らした。彼がニカラグアの大統領になったのは1984年、出獄後10年目である。

ソイラメリの夫アルハンドロ・ベンダーニアは何年もの間オルテガが彼の若い妻に暴行する前で、何も出来ずに脅えていた恥ずかしさを告白した。ラテンアメリカでは養女に対する性的暴行は長い間大目に見られてきた。オルテガの暴行を知っているサンディニスタの古参兵も、オルテガの政敵でさえもが、口を閉ざしてきたし、今も口を閉ざしている。権力を持つ男性の特権に従順な風土も忘れてはならない。

オルテガの性的暴行から、Sandinista革命の正否を問うつもりはない。さらに’風土’を持ち出せば、人格を問うことさへ出来ない。ただ「サンディニスタの大義のために」養女が性的暴行を受ける必然性、関連性が、全く見当たらない。
もうひとつ、コントラとの戦いがもたらした経済的損失を考慮しても、オルテガが大統領時の30000%のインフレ率を考えるだけで、Sandinistaの統治能力がわかる。明白であるのに余り認識されていないこと。武装革命組織が突然政権を持つとどうなるかということは、想像して余りある。Alexisが武器をとったのもわかるというものだ。革命力と統治力は全く逆ベクトルなのだから。政権譲渡こそが必然だったのだろう。そして何も知らないものだけが、「演説」などに感動する。


///////////////////////////////////

Boris Vian 「Le deserteur(脱走兵)」

Alexis Arguello (4)

Alexis Arguello (4) 2004年8月30日 (Mon) 17:48:52

武器を捨て米国に戻りカンバックした後どんな人生を送ったのだろうか。85年、86年、94年それぞれ1試合のみ、それぞれ1勝。最後の試合は95年無名選手Scott Walkerに判定負け。さらにザッと資料をあさってみた。

今年の3月29日garnespot.com/ps/sports/knockoutkings2001/に意外な記事。Alexis,Electronic ArtsとSonyとNintendoを訴えるという見出し。The knockout Kings2001というゲームソフトがあるらしい。登場するのは重量級ファイター、Muhammad Ali,Oscar de la Hoya,Evender Holyfield,Lennox Lewis,Naseem Hamed等。3年前の2001年ファンがそのゲイムソフトにサインをしてほしいと差し出すまでまさか中量級の自分がゲームのキャラクターに使用されているとは夢思わなかったらしい。Los Angeles Timesによると裁判は現在進行中。

もうひとつ。2002年2月25日、latinosportslegends.com/2002/によるとあくまでもこの時点の話だけれども、Alexisの伝記映画、制作予定とのニュース。Ron HammadのFor Ever Filmという会社が名乗りを上げた。Arguello役の俳優にはAntonio Banderasの名が上がっている。1974年Ruben Olivaresを下しWBAフェザー級チャンピオンに。その後ジュニア・ライト級とライト級の世界チャンピオン。ジュニア・ウエルター級のタイトルをかけたAaron Pryorとの2戦は以前に書いた。あれを思い出すだけでも確かに充分映画になりえる。

そして2000年、espn.go.com/boxing/columns/にTim Grahamの書いた記事、Arguello:I wanted to dieを発見、釘付けになる。wantedだからこの記事の時点では、立ち直っているわけだ。記事の中で、繰り返された自殺の試みが語られている。

BoxerとしてAlexisが残したイメージは高貴で勇敢、礼儀正しくハンサム、カリスマ性のある成功者、望むものすべてを手中にしていた。あまりの英雄ぶりにSandinistaはこれ以上人気が出ないよう、放送や印刷物に彼の名を出すことを禁止した。

しかし実際には彼は、酒と麻薬に溺れてゆく。

原因のひとつはもはや戦えない年齢の苦痛。スポットライトと人々の賞賛の喪失から来る苦痛。16歳からプロの世界に入り、ボクシング以外、何のなす術も持たない苦痛。ニカラグアの英雄という人々の期待に応えなければということと、現実とのギャップの苦痛。M-16ライフルを手に戦ったあげく手にした社会の不正に対する絶望。米国がNicaragua支援の為に差し出した援助金を個人的にネコババする現政権の役人を目撃して傷つき、自傷行為(自殺)による復讐を考えるようになる。

99年Maraguaの新聞”La Noticia"に「今一番望むのは誰かが私を永遠に眠らせる注射をしてくれないかということ」とスペイン語で語った彼。Pedro Fernandezのラジオ番組”Ring Talk"でも「私は死にたい」と漏らす。FernandezはCaliforniaのBetty Ford Centerで治療を受けるようわざわざManaguaまで説得に赴くが,全く耳を貸さない。「もうどうしようもない」と当時28歳のAlexisの長男が言う。「財産すべてを売り払うところまできていた」?

2000年1月Managuaのインターコンチネンタルホテルでスコッチとワイン、コカインをのんで荒れ果てたAlexis。すでに彼との間に2人の子供を生んでいるガールフレンドのAliciaが、家に帰ろうと言うと、抑制のきかないAlexis、彼女を突き飛ばす。逆上して反撃しようとする女の首を絞め殺しにかかる。自分の行為にうんざりして2週間落ち込むAlexis。Aliciaはプレスにぶちまける。ついに自らHoderaリハビリセンターに入所、そこで2ヶ月過ごした。ー

それからアルコールや薬物は手にしていない。悪習は3度目の妻から受け継いだMarlborosの煙草だけ。リハビリ中、女中毒も克服した。Alexisジュニアが語る。「あの状態の人間で、最も重要なことは『助かりたい、人生をやり直したい』、と本人が思うこと。自分でそう思ってくれて僕も嬉しい」?

「朝起きて、昨日何があったか、思い出せるのは素晴らしい」とAlexis。「それに気づけるのは、すごい」と、Alexisジュニア。

ボクサー時代のAlexisからは全く想像も出来ない日々が、引退後の彼に待っていたようだ。現在彼の印刷会社は順調な筈。元世界チャンピオンのプライドで公私共に復活してほしい。

////////////////////////////////////
「Dans le meme wagon(そよ風に乗って)」Marjorie Noel

BoxingというSport


BoxingというSport 2004年8月26日 (Thu) 12:18:20

いつ誰と誰のタイトルマッチかもう忘れたが、SKと府立体育館に試合を見に行った。あっという間のレフリーストップで日本人側が負けた。「早いんじゃないの」観客がほとんどいなくなった後2、30人が残りリングサイドに詰め寄っていた。別に抗議しているわけではないけれど、ハイハイと帰る気になれない。ちょっとした満員電車状態。首を横に振ると、そこにジョー・小泉氏の姿。
「ちょっと早いんじゃないですか」思わず言った。
「いや、選手に必要以上のダメージを与えないという観点から、最近は特に、あれ位で止めて、問題ないんですよ」思わず答えてくださった。その頃ビデオで毎週見ていたので、つい友達のようにカン違いしてしまう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「川上さん来はったよ」
近所の人と表で話していた祖母が玄関に駆け込んできた。えぇ?家の前に靴音が近づいてくる。新婚旅行中の川上選手の突然の来宅。「どうぞどうぞ、お上がりください。して奥様はいずこに?」「ホテルで買い物してるよ」

一番最初は私とchaperonの母を中ノ島のロイヤルホテルのフランス料理のフルコースに招待して下さった。兄には英国製缶入りビスケットのお土産。帰りはタクシーまで手配していただいた。部屋には一緒に休暇中の読売巨人軍柴田勲選手のバットがあった。
2度目は中学の修学旅行で行った東京の学生会館にフィアンセ同伴で会いに来て下さった。
「記念にBruxellesちゃんに何か買ってあげましょうよ」と二人で相談して赤とゴールドのオルゴールを買ってもらった。
英語の教師が走って来て「あれ、川上や、君、親戚か?」と興奮して言ったのを思い出す。
試合でも何度か会った。でもやり取りは手紙が中心。「喘息は転地療法がいいらしい。Bruxellesちゃんさえよければ、今度のフィリピン遠征、連れて行ってあげるよ。気候が変われば、よくなるかも知れない」・・こんな親切なことを言ってもらった人は他にはいない。思えば子供の頃、大沢さんといい、川上選手といい、思いがけない人達に大きな愛を頂いている。病気で生きた心地のしなかった子供時代、精神的には充分以上に人々に支えていただいた。

練習しているおもちゃのグローブを見せた。
「ボクシング教えてあげるよ」と、言ってもらった。
私には沢山のボクシングファンから手紙が来ていた。2年前ボクシング雑誌に書いた記事への囂囂たる反響だ。全部本人に見せた。彼は一通一通真剣に読んだ。

川上はボクシングファンほとんどの人の期待を受けて明大ボクシング部からプロに転向したハードパンチャーだった。’62年7月22日、日大大講堂で行われたサマート・ソンデン戦で9回試合を放棄した(右手骨折で)という理由でボクシング・コミッションから2ヶ月の出場停止処分を受けた。挫折を知らない川上の初めての屈辱。

ボクシングは殴り合いでも、殺し合いでもない、スポーツだ。玉砕が正しいわけではない。次へ向けての身体能力の保持、選手生命の管理、家族のためだけではない、プロとして、限界を見極め敗北を選び取る勇気も必要だと思う。
「試合に勝ちを望むのはボクシング界でもファンでもない。まず川上自身だ。(中略)一番悔しかったのは川上であろう。彼は自ら勝負を捨てた。卑怯者に見えるだろうか?私には勇気のある立派なボクサーに見える。また彼はそうであると、私は思っている(後略)」(プロレス&ボクシング、’62年10月号に中学1年のBruxellesが載せた拙文からの引用)

リング上で死人が出るたびに、世界のあちこちでボクシング廃止論が浮上する。殴り合いなど野蛮だと。しかしそれは見ている心が野蛮なのだろう。奴隷を死ぬまで戦わせる暴君ネロの心境がどこかにあるからだ。スポーツとしてルールを考え、選手の身体機能の保持を考え育成を考え、人生を鍛える格闘技としての「道」を考えれば、そして安全指導を徹底さえすれば、廃止などとんでもないことがわかるだろう。
ボクシングがあるからこそ、這い上がってこれる人、這い上がろうと努力する人、世界のあちこちにごまんといる。

涙を流して余力を残して立ち上がらなかった、ネバダ州ラスベガスのAlexisの姿。今から思えば、そこに、家族に対する男の責任や、美学を見て感動したのではない。ボクシングというスポーツに対する愛と、非難に耐える覚悟と、恥を選び取る勇気を見たのだと思う。

//////////////////////////////////////
「ハムレット」全曲  Johnny Hallyday
to be or not to be のあたりを、よく詩の朗読のバックに使った。

Alexis Arguello (3)

Alexis Arguello (3) 2004年8月25日 (Wed) 23:35:44

AlexisもPryorもその後何度かカンバックした。

Aaron Pryorは1955年10月20日生まれ。Cincinnati,Ohio出身。ニックネイムはThe Hawk。1976年のMontrealオリンピックに出場している。プロデビューは1976年11月11日。1982年Alexisとの試合より前に、来日、亀田昭雄とタイトルマッチを行い6回KO勝ちしている(Pryor一回にダウンをうばわれているが勝利は一方的)
生涯成績は39勝1敗(35KO)。1996年ボクシング殿堂入り。
1990年代に入りBorn Again、ダーティーなイメージを払拭。クリスチャンになりCincinnatiで教会の牧師をする傍ら、ジムを開き青少年の教育、育成に力を入れている。(ワァ、すごい!!)

Alexis Arguelloは1952年4月19日生まれ。NicaraguaのManagua出身。16歳のデビュー戦で1回KO負けしている。3階級制覇はHenry Armstrong以来の当時41年目の世界タイ記録。
生涯成績は80勝8敗(64KO)。1992年ボクシング殿堂入り。
引退後はPryorとは逆に麻薬常習者となり、法的トラブルを起こし、離婚もした。(人生いろいろ)


1979年Sandinistaが長い反抗の末政権を取ったとき、Alexisは旧政権側の人間だったためか、所有財産及び銀行口座を没収されている。内戦で兄弟を一人Sandinistaに殺されている。(武器を取ってコントラのゲリラとなったのは、そのためか)1980年マイアミに転居、亡命者となる。カストロに怯えるマイアミに居るキューバ人達の間でAlexisはコミュニズムと戦う英雄に違いない。
Alexisでなくても革命は、どんな革命でも、望まない人にとっては、降ってわいた災難以外の何物でもない。フランス革命の時のフランス人、ロシア革命の時のロシア人、中国文化大革命の時の中国人・・。しかし、それ以前の社会が、あまりにも理不尽で、あまりにも残虐な独裁であれば・・・。

/////////////////////////////////////
  Chouans,en avant!(Juin 1793)(ふくろう党よ、前進せよ)
   par Jean-Francois MICHAEL

全文を表示 »

Alexis Arguello (2)

Alexis Arguello (2) 2004年8月24日 (Tue) 18:39:18

私の感動は頂点に達した。亡命してアメリカで身体ひとつで巨富を手に入れた男。アメリカンドリームを手中にした男。KOの山を築き3階級を軽々と制覇し、しかも防衛し続けた男。そして最後、家族のために涙を流し敢えて屈辱を選んだ男。その男があろうことか今度は祖国のために、富を捨て、身を捨て家族を省みず銃を取って戦っている!!聞く人が「まあ落ち着いて」と言うほど感動してまた誰彼と無く話した。
ただこの時点で彼がsandinistaの側なのかcontraの側なのかそんなことは考えなかった。祖国の内乱でギリシャから亡命したクセナキスやメリナ・メルクーリ等とイメージの中で同一線上にいた。

少し冷静になる。彼は何故負けたのだろうか?

まず'82年11月12日の試合。フロリダ州マイアミ、オレンジ・ボール。プロモーターBob Arumは「The Battle Of The Champions」と名づけた。Alexisは妻と家族を愛するクリーンなイメージの貴公子。新しい政権に身の危険を感じ米国に亡命したニカラグア人。一方Pryorは離婚訴訟中、薬物依存症、破綻した生活、ダーティなイメージ。Alexisのボクシング史上初の4階級制覇がかかったこの試合、人気も知名度もひとえにAlexisに負っている。
ただチャンピオン31勝0敗(29KO)、その中に26連続KO記録も含まれる。

ここでまた古い日活映画の様なことが起こる。Alexisを殺害するためにSandinistaが試合前に刺客を放ったのだ。どういうわけかチャレンジャー控え室に護衛の警官がいなかった。銃を持った男がAlexisに近づく。取り巻きが気づいて男を止める。Alexisはシャワールームに逃れる。男は逮捕され、調査の結果Sandinistaの企てが暴露されることとなる。

1,2,3,4回Pryorが優勢、観客は驚く。5回Alexisが応酬、6回は乱打戦となる。7,8,9回は激しい打ち合いのイーブン。この時点でPryorやや優勢。11回Alexisダウン寸前。12回Alexis挽回、有効打を放つ。コーナーに戻ったPryorダウン寸前。この時点で雑誌「Ring」によるとjudgeは124?124の完全イーブン。この直後怪しい出来事が起こる。
PryorのトレーナーPanama Lewisが助手のArtie Curleyが渡したビンを受け取らず「別のヤツ、調合したヤツ」と言い、別のいわくありげなビンをPryorに差し出す。(このトレーナー、後、別の試合で自分のboxerのグローブから緩衝材の詰め物を取り出し相手のboxerを死に至らしめ、有罪判決を受けた)Pryorは吐き出さず、それを飲み込む。
そのビンが実は試合中に外部からPryorのコーナーに持ち込まれたものだとある人が気づき、疑惑が表面化する。数ヶ月に渡った論争となる。WBAはこれを考慮し1983年9月15日の再試合をPryor側に要求することとなった。
ビンの中に何が入っていたのかは、未だミステリー。ただPryorは13回元気回復、全方向からAlexisにパンチを放つ。Alexis、明らかに後退、ダウン寸前。しかしここで耐える。14回必死に挽回をはかる。がPryorがロープにAlexisを追い詰める。そして強力パンチを19発(資料によっては23発)連続的中させる。Alexisの口が開き黒色のマウスピースが見え、顔全体がHalloweenのJack-o'-lanternに見える不気味さだ。眼は眼窩を飛び出たまま宙を舞う。防戦一方、立っているだけのAlexis。RefereeのStanley Christodoulou(南アフリカ)がストップをかけ、テクニカル・ノックアウト。
Alexisが覚醒するまでの4分間、23000の観衆は静まり返ったそうだ。Alexis、試合後入院。雑誌「RING」がPryorを「Fighter of the Year」に、この試合を「Fight of the Year」に、そして後に「Fight of the Decade」に認定、ボクシング史上、最高の試合のひとつとなった。

10ヶ月後ネバダ州ラスベガスで再試合が行われた。10ラウンド、AlexisのKO負け。Alexis,Pryor両者とも、試合後引退を表明した。Pryorは試合後離婚している。
{参考資料:「The Battle of the Champions」?Wikipedia,the free encyclopedia &「Alexis Arguello」?nationalmaster.com,encyclopedia & 「Pryor-Arguello」?antekprizering.com,pryorargeullposter}

いやはや、とんでもない試合だったようだ。Pryorが飲み物の力を借りなければAlexisが負ける筈がない。2度目の試合など、本人はしたくなかったような気がする。

ここでもう一度冷静になる。銃を取って戦っている反政府ゲリラの写真が、どうして雑誌に掲載されるのか。これはひょっとしてpropagandaではないか。
Alexisは1年もたたないうちに引退を撤回、米国に戻り再びリングに立った。

//////////////////////////////////

Juliette Greco 「Mon fils chante(歌う少年)」

Alexis Arguello (1)

Alexis Arguello (1) 2004年8月23日 (Mon) 18:20:20

私が今まで見たBoxingの試合で一番印象に残っているのは、川上と赤井の試合を除けば、青木勝利対エデル・ジョフレ戦。レバー一発のワンパンチKOだった。青木はファイティング・原田ほど知名度はないが、海老原と三人で三羽烏と言われていた。三人の中で一番甘いルックス、そしてハードパンチャー。エデル・ジョフレは、ガードが完璧で顔に傷はまったく無い。顔面にパンチを受けたことの無いBoxerかも知れない(ありえない!)。このエデル・ジョフレと同じものをAlexis Arguelloに感じた。

Alexisは当時史上初の4階級制覇、ジュニア・ウエルターのタイトルを狙っていた。フェザー級で4度、スーパーフェザー級で6度、ライト級で4度防衛していた。ジュニア・ウエルター級にくればいずれ赤井と対戦することになる。注目していた。
私がアメリカで見たのは1982年7月31日ニュージャージーのAtlantic Cityで行われた対Kevin Rooney戦。そういえばリング上でドナルド・トランプの顔も見たような気がする。第2ラウンドKO勝ち、このあっさり塩味勝利は前に書いた。

記録を見るとWBA Junior Welter級タイトルマッチをAaron Pryorと2度している。1982年11月12日(Miami,FL)と1983年9月9日(Las Vegas,NV)。私が雑誌で見たのは、おそらく後ろの方か?Alexisが負けていた。立とうと思えば立ち上がれるのに、余力を残して涙を流して屈辱を選んだように書かれていた。それはそれでチャンピオンの生き方として美しい。アメリカンドリームも充分手にしている。家族のことを思い次なる社会人としての人生を思えば、必要以上のダメージを、人間として機能しなくなるようなダメージを、あえて受けることは無い。屈辱と不名誉を選ぶのも、背負った荷の重さ、男の責任かもしれない。不様にリングに倒れているAlexisにとても心が痛んだ。そしてこの感動を誰彼と無く話したように思う。

しかし翌年何月号か忘れたが再びBoxing雑誌を見て、驚愕した。どうなってるんだろう?AlexisはNicaraguaに戻り、反政府ゲリラの一兵士として、銃を取って戦っていた。銃と爆撃の前に身を晒していた。

//////////////////////////////////

「Va mon ami va」    Nana Mouskouri


熱冷まシート 

熱冷まシート 巨人&米国 2004年8月22日 (Sun) 18:35:46

ちっちゃくて少し元気なころ私は野球幼女だった。上半身ハダカ、下は確かパンツだけ。靴は履いていた。ゴムマリのワンバン野球。ワンバンとはワン・バウンドのこと。狭い場所でも遊べるように、パーの手のひらでゴムマリを下に打ちつける。家の前で遊ぶので、ベイスも2塁までしかない、いわゆる三角野球。近所の子供の中では一番小さかったのでたいしたプレーはできない。雑誌は「幼年ブック」を読んでいたから、幼稚園前。好きな野球選手は川上哲治(古る?い)。好きなチームは読売巨人軍。近所では一番早くTVを買ってもらった。
父母「TV買おうか」
父「金はあるか」 母「ある」
母は預金を根こそぎ出してきたのだと思う。
だから私は4番FIRST川上、背番号16、を知っている。それから何年か後、紅白ゲームかなにかでジャイアント馬場が、巨人軍のユニフォームを着て投げているのを見た記憶もある。(お前は何歳だ、と言われそうな話だけれど)。馬場投手が1球投げる毎に観客が笑う。コメディーじゃないのだから、これじゃ馬場さん、野球に集中出来ない、・・幼児心にそう思った。それから何年も巨人ファンだった。西鉄の稲尾、南海の杉浦がどうしても打てずに、日本シリーズではいつも負けていた。ああ悔しい。それも悔しい情け無い負け方。川上の後、とりたてて好きな選手はいなかったけれど、ずっと巨人ファンだった。鏡里の後好きな相撲取りはいなかったけれどずっと時津風部屋のファンだったのと似ている。そんな私がいつからか巨人ファンでも野球ファンでもなくなった。原因は江川だ。あの政治家が絡んだペテンのような移籍劇・・熱い想いがジワジワと冷めていった。

ボクシングではその昔、毒入りオレンジ事件というのがあった。相手の選手の方が強そうなので、オレンジに下剤を注射して、相手のホテルの部屋に届ける。知らずにそれを食べた相手が下痢になる。すぐに下痢止めを飲んだところで、どんな強打者もボディ一発で崩れ落ちる。これには笑った。なんて人を笑わせる可愛い発想なんだろう。金平会長、昔の日活映画に出てくるような悪人顔の人だ。とんでもない不正なのだけれど、なんだか人間味さえ感じるいじらしさだ。正義感から許されることではないし、ボクシングに対する冒涜なのだけれど。

どこが違うのだろう。

昔アメリカ大使館人質事件というのがあった。カーターはヘリで人質奪還作戦をとったが失敗。レーガン側は国交断絶中の敵対状態のイランと着々と水面下で交渉。人質はレーガン大統領就任式に合わせて解放された。一日も早く解放しようという気持ちなどさらさらなかったのだ。・・
「TIME」でこれを読んだあたりから私の米国に対する信頼はジワジワと揺らいでいった。さらにその先にイラン・コントラという大事件が発覚する。
アメリカ政府は敵国であるイランに秘密裏に武器を売り、その代金をニカラグアの武装組織「コントラ」に渡して、反政府活動を煽っていたと言う違法事件だ。アメリカの政治、アメリカの民主主義の基盤のひびが見えた気がした。

///////////////////////////////////

「 La Californie」  Julien Clerc

あの馬鹿

あの馬鹿 2004年8月19日 (Thu) 19:10:42

将来のある若者をおもちゃにした(本当かどうかは不明)という罪で、もう何年も前に石井苗子が芸能界から姿を消した。彼女の小説に「女族」がある。死に至る病に倒れた友の命を一人で肩に背負う、感動の物語だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

退院してからCCの家に行くのは3度目だ。入院中10?も太ると、つまり自分の精神状態が変わると、何度行っても以前と違って感じる。隣にカナダ人の女性が二人、住んでいることも知らなかった。
CCが私を紹介する。「Enchantee」何を思ったか握手をしながらそう言った。相手はパッと笑みを浮かべ「あら、嬉しいわ、私ね、カナダのケベックなの。私がケベック人ってわかった?」感じのいい人達だ。・・
二人はDV(ドメスティック・バイオレンス)の活動をしている。「夫の暴力に耐え切れず、着の身着のままで裸足で皆飛び出してくるのよ」二人は日本人女性の救済ボランティアをしている。日本の企業内女性の地位向上のための組合活動もしているんだよ、CCが言う。CCもエイズのボランティア活動をしている。定期的に寄付もしている。日本人の友達でそんな活動をしている人は、私を含め誰もいない。見上げた人達だ。
二人はこんな映画上映があるわよと、切抜きの紙切れを持ってきた。「Je suis ne a Venise」あっ、ベジャールの映画だ。同時上映は「月の瞳」見に行こうと、その時思った。

思いもかけずバルバラが画面いっぱいに現れたので驚いた。歌を歌い、ピアノを弾き、台詞を言う。宝くじに当たった心境。場所は十三。これは自主上映の小さな映画会。ポスターを見て確認する。主催、ゲイとレスビアンの会。制作から10年後バルバラとベジャールの映画、こういう形でやっと日本人の目に届いた、ということだろうか。

前回つまり退院して2度目にCCの家に行ったときはハロルドがいた。デンマークのコペンハーゲンから。CCの仕事中ハロルドは一歩も外出しない。そこで私が話し相手に呼ばれた格好だった。リハビリ中伸びた私の髪の毛をカットしてくれた。なんだか心が反射しあう。「DJになりたいんだ」と言った。

人をお招きするような家ではないからとずっと断ってきたのだけれど、何度も泊めてもらって自分は永遠にお断りするわけにもいかなくなった。OKを出すと、CCはハロルドを連れてやってきた。
ハロルドはCCよりも今日は機嫌がよくて床がボコボコの台所でデンマーク料理を作ってくれた。
その後私のベッドに乗ってレンタルしてきた「三島由紀夫」というビデオを3人で見た。映画館のように部屋を暗くして。このときもハロルドの心の状態が反射してきた。動かないただ、静まって平常なのだけれど、その平常が一致する。京都にいる間、そしてコペンハーゲンに帰ってからも何度か手紙をくれた。CCと破局してからも。長い手紙を何度か私にくれた。

1年くらいしてからか、CCのヨーロッパバカンス中にCCの妹が来日した。妹キャロルの観光案内を私がすることになった。1ヶ月ほどしてキャロルは米国へ。CCは日本へ帰ってきた。四ツ橋のPALMであった。「ディスコでボーイジョージに会って少し話したよ」と言うお土産話からスタート。最後の最後、席を立つ直前にCCがついでのように言った。「偶然ハロルドに会ったんだ。連絡なんかしてない、偶然」ハロルドの顔が浮かぶ。心が反射する。
「・・・DJになってた?」
CCが無念と悔しさと怒りの表情を露にした。

「あの馬鹿HIV POSITIVEに。・・・なったって打ち明けた。サウナに行くなって、あんなに言っといたのに」

///////////////////////////////////

Sid'amour a mort BARBARA


装具&涙と笑い

装具&涙と笑い 2004年8月17日 (Tue) 18:56:13

3ヶ月目に装具が出来てきた。左側を母が右側をTTが支えてくれた。ベッドを降りて歩く練習を始める。脚を全く動かせない。ただ支えられているだけ。装具は鉄とプラスチック、皮とゴム、マジックテイプ等で出来ている。一見義足に見える。バランスをとって立つことさえ出来ない。踏ん張ってみても。踏ん張ってみても。気がついたら身も世もなく号泣していた。「歩けない、歩けない」と叫びながら。
院長である主治医が廊下を通りかかる。「悲しませるために作ったのではない。立ち上がって、喜ぶだろうと、作ったのに」

装具をつけて物につかまって、直立する練習から始めた。3ヶ月の絶対安静で元からたいしてない筋肉が萎え切っている。翌日から松葉杖をレンタルすることになった。

松葉杖は脇で支えると思っている人がいるかもしれない。腕でコントロールする。脇の下からボール一個分離れていなくてはならない。最初は2本、慣れてくると1本。意外なことに、左足が悪い場合はその1本は右側に持つ。

手術立会い看護婦が言った。「膝は完全に砕けていました。院長先生がピンセットで飛び散った欠片を、一生懸命拾い集めて何とか形を作られました」
膝の皿は本来動くものらしい。ボルトで固定してあるので皿が動くどころか、膝はピンと突っ張ったままほんの少しも曲げることは出来ない。ギプスは何度作り変えただろうか。

古いギプスは、脚につけたまま電動ノコギリで切り裂く。脚まで切られないかといつもハラハラした。
初めてギプスを巻いた日CCがカラーマジックペンを沢山持参してきて思いっきり落書きをした。「アメリカではこうするのだよ」
医者も看護婦も何も言わなかったが、内心ギクリとしていたに違いない。この行為で顰蹙を買わなかったのは、ひとえに若く美しかったからだ。最初の3ヶ月ほとんど毎日のように来て、夜遅くまでそばにいてくれた。そしてその真摯な態度にジワジワと病院の人気者になっていった。

最初の日、脚に錘をつけて、ベッドに釘付けにされている私を見てCCは、イスを引き寄せハラハラと涙を流した。慌ててティシュを摘み出し涙を拭いていた。「Let me kiss you,Bruxelles」そしてkissして「I love you,Bruxelles」と言った。?

もう手術出来ないほどパンパンに腫れ上がった大腿、血まみれの髪の毛と顔、最初訪れた友は皆一様に言葉を失くした。ただ一人だけ嬉しさを抑え切れなくて心からケラケラと笑った人がいた。
「Bruxellesちゃん、世の中に神様って本当にいるんだね。今日それを確信できたよ。」
そしてまた肩を揺すって笑った。?狂っているのか。そんなにも苦しかったのなら、その笑いで、・・その笑いで正気を取り戻せるなら、思いっきり笑うといい。

思えばこの時もう15年、本人の言葉を借りれば「奴隷のように」尽くして尽くして生きてきたのだと言う。これで振り向くだろう、これでどうだと、まるで意地のように誠意と善意の大盤振舞い。いつかのBさんのように「可哀相に。どうするつもり」と人は言うだろう。でも、人の想いに対して、「可哀相に」等という同情は「失礼」以外の何物でもないと、私は今も思う。

TTはまだ笑っている。
「僕にもようやく運が向いてきた」心の中でなく、声に出してそう言った。

//////////////////////////////////
Mylene Farmer 「Alice」

七曜会


七曜会 2004年8月15日 (Sun) 14:37:01

学科入試発表の後、体力テストが丸一日あった。そこで新しい友達ができた。全部一緒に回った。すべての体力、運動能力、彼女が上だった。「スティーブ・マクィーンが大好き」な彼女。お父さんはこの大学の物理学の主任教授(後に学長)で、以前客員教授で渡米した際、彼女もついて行って、在米ハイスクール生活経験があると言った。
「私の祖父もハイスクールから大学に進んで12年間米国で学び、ロサンゼルス大学のバチェラー・オブ・リテラチャー&マスター・オブ・ローだった」という私としては取って置きの自慢話を披露した。が、彼女は何の反応も示さない。彼女の祖父が、元内閣総理大臣若槻礼二郎だという事は、もうずっと後になってから知った。

五月の連休前になると新入生はみんなクラブが決まり始める。「茨高三人娘(若槻さんも含む)」は全員混声コーラス部に入会していた。若槻さんと席が隣になった。
「私もクラブを決めた。同好会なんだけど。七曜会って言うの」
「へえ。それBruellesさんにぴったりなクラブね」
「えェッ、なんで?」「だって、七妖怪でしょう」
「クックックックッ、ちょっと待ってよ。じゃ私、一つ目小僧なの、唐傘ばばあなの?」
「そう具体的じゃなくって、変幻自在という意味で」
「クックックックックッ、同じじゃないの」

めったに行かなかった予備校でも4人の女友達と2人の男友達がいた。その中の一人が姫神さん。男友達の一人は女の子達が密かにジュリーと呼ぶ石本君。神大に行った石本君から4月に手紙が来た。

「昨日総合クラブの部室に行ったら先輩たちが大騒ぎしてた。関西全部合わせても初めての女性部員申し込みが来たって。しかし、この下手な字、この変な名前、これはきっと男の悪戯だろうって。で、その葉書を見せてもらったら、君からの入部申し込みだった。僕、この人知ってる。これは悪戯じゃないって証明しておいたよ。それにしてもこんな再会が出来るなんて本当に驚いた。」私も驚いた。

各大学の横の繋がりがあって、組織として人材はあるけれど、学内では会員も少なく、肩身の狭いクラブだ。部室もない。クラブとして認知されてもいない。時流から言うと、認知されると身が危ない。まるで秘密結社だ。活動は一切しない。全員息を潜めている。先哲を仰ぐ読書会のみ。けれど大学教授が自費で講演を引き受けてくれる。全国規模の機関紙も出ている。この機関紙の内容と文章力を見て大きな衝撃を受け入部を決意した。

一度京阪電車乗車中の会田雄二氏を見た。専門は西洋美学美術史の筈。このビルマ戦線体験者のアンチヒューマニズム論は凄かった。阪大の市村先生、市大の高坂先生、神谷不二先生、村松剛先生(村松英子のお兄さん)、林健太郎先生、東大土曜会関連の三島由紀夫先生、etc.,etc.,
石本ジュリーは土曜会の合宿にも参加していた。
彼が森田必勝にならずにすんで、本当によかった。

/////////////////////////////////////

「パリ8月15日」Barbara
この曲は終戦とも、聖母被昇天祭とも何の関係もない。
家族とバカンスに出かけた愛人のことを思った歌だ。日本ならさしずめ、お正月、お盆、誕生日、クリスマスなどに愛人関係の危機は訪れる。



パリ 8月15日

パリ 8月15日 2004年8月13日 (Fri) 17:18:38

バルバラの綺麗な歌に「パリ8月15日」がある。「バルバラ私自身のシャンソン」A面3曲目。

食料を買おうと外に出たら、お店が全部閉まっている。何なんだこれは。日曜日でもないのに。お腹がすいた。ウロウロした挙句人に聞いてみる。
「今日はAssomption聖母被昇天の祭日だよ」
「何それ。今日は日本の敗戦記念日よ」「何の」
「大東亜戦争よ」「第二次世界大戦、そんなものは5月に終わってるよ」・・

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
八尾の産業航空のクラブハウスに行ってみると「今から飛ぶんだ」とベテラン達が言っている。「私に、それやらせて」
毎年恒例で8月15日には花束を六甲山中のゼロ戦に投下すると言う。OKが出て乗り込んだ。私は投下するだけだから後部座席。グッと高度を下げる。「本当だ、ゼロ戦が」日本が誇る、世界が恐れたZEROが、日の丸をつけて山中に見える。どの辺で落とせばZEROの付近に落下できるのか、タイミングの見当もつかない。
七曜会の先輩の福井さんにこの話をすると、全く信用しない。「六甲山中にゼロ戦なんかないよ」

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
感動もので帰ってきて、航法計算盤の使い方の練習等をしていると、パイロットの制服のようなものを着た、見知らぬ人がやってきた。

「海外で取ろうと思ってるんですか?」・・いつかの選挙の時の選挙屋に似ている。エネルギッシュな青年だ。話を聞くと、300万円で米国ライセンス取得を斡旋するという。休みが取れないとか何とか言って断ると、最後はとんでもない話になった。
「筆記が難しければ、答えを教えます。順番さえ覚えればいいんです。」さらに「極端な話、行かなくても300万円でライセンス発行します。ただしコミュニケーション制限が付きますが」
・・・・・・この人は何を言ってるんだろう。声も出ない。ライセンスの紙切れを300万円で売りつけようとしているのか。どこから紛れ込んで来たのだろう、この人。

飛行機の勉強はここへ来る5年前からしている。最近はAVIATION LANGUAGE ACADEMYからテイプ16本+テクスト+解説書の独習教材も買った。さらに米国のACME SCHOOLからPRIVETE PILOT用のFAA EXAM教材を取り寄せ、もう法規と気象と航空工学に関しては「どこからでもかかってきなさい」と言うくらい勉強している。?
やっとの思いで怒りを抑えて日本流にお断りした。「考えておきます」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本はなんて国になってしまったんだろう。
と、靖国神社で考える。初めて八尾に行った時、今から思えば、私はあの9.11のテロリストと同じ気持ちだった。
飛行機にあこがれる気持ちなど、最初から微塵もない。
時代錯誤も甚だしいが、国家有事の際、KAMIKAZEとして命をふかす、下準備のつもりだった。シャンソンファンだからといって決して亡国者ではない。

//////////////////////////////////

Marcel Mouloudji 「Comme un p'tit coqu'licot 小さなひなげしのように」



若者と夢

若者と夢 2004年8月10日 (Tue) 17:24:49

その子は自己紹介の紙に将来の夢、ヘリのパイロットと書いていた。職業は元板前。「夢の実現に向けて何かしているの?」と聞いてみた。「お金を貯めている」「どのように?」
「昼はトラックの運転助手。夜はファミレスの調理場」
「いくら位かかるか知ってるの?ヘリは飛行機の倍はかかる」
その子は若い山男。山で暮らすために大学もやめ実際小屋で働いていた。離婚暦のある6歳年上の彼女がいたらしい。ある日山に物資を運ぶヘリを見て「パイロットになりたい!」と思いつき彼女に打ち明けた。「6,7年待って」と。

結局彼女はハンディーがありすぎた。彼は若くてハンサムだった。若い頃の沢田研二を奥手にし素朴にした感じ。話し合って別れた。彼女は別の若い建設会社の二代目社長と再婚した。彼も山を降りた。そしてまず英語をと、とりあえず英会話学校に来て、生徒として私と出会った。
私はその頃八尾のクラブに入会していたが、彼は初めから訓練費用の安い、アメリカで、と考えていた。私もお金が続かない。ライセンスの取得は虹の彼方、山のアナアナ・・

彼は昼間の仕事を変えた。そして取引先の社長、中山さん所有のボナンザ・ビーチクラフトに試乗させてもらえることになったと電話してきた。「私もついでに」
中山さんのビーチ・クラフトに乗り彼が操縦桿を握らせてもらう。舌を巻いた。センスがいい。中山さんも認めた。

お互い時間の合うときは、近隣の山に行ったり、中山さんの飛行機に乗ったり、福本和也の飛行機小説を回し読みしたり、その他はたいてい将棋をしていた。いろんな事を話し合いながら。だから折りたたみの将棋板の裏には今も雅勇、Bruxellesの勝敗記録が正の字で残されている。

私は飛行クラブの航空雑誌の広告を見て全米で一番安い学校に行くことに決めた。当時日本での取得は陸上単発で400万と言われていた。私は渡航費、滞在費、訓練費全部で120万に抑えたかった。操縦センスのわるい私は、何とかギリギリでむしり取ってきた。彼は中山さんの紹介で中村錦之助の弟が経営するカルフォルニアのBAKERSFIELDにある日本人向けの学校に行って、それこそトップの成績で、250万で取得してきた。

職業にしようと思うとここからが長い。昼となく夜となく働いていた。「向こうでスシバーで板前をしてはどうか」二人が同時に出したアイデア。お金を貯めるだけに何年もかけて、その後で訓練では、もう遅い。一人息子なので、家族は猛反対、私一人が背中を押した。まずNew Yorkへ。そこの日本人村は驚くほど麻薬に侵されていて、素朴で潔癖症の彼は悲鳴を上げた。次はサンフランシスコ。板前の腕を買われて一年で店を出してあげようというスポンサーも現れた。料理人になるために行ったのではない。それでは本末転倒と断った。訓練をしながら寿司を握って彼は頑張った。計器飛行、教官免許、双発ライセンス・・新しいライセンスを取るたびにコピーして送ってきた。彼の家族は相変わらず彼を道楽者と決め付けている。が努力は報われ、彼はやがて教官になり、飛行時間をうんと稼いだ。

10年目くらいに全米航空業界の不況が来た。「日本の飛行学校で教官の仕事がしたい。探してほしい」と言ってきた。結婚もしていた。焦りがあったのだろう。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・

在米20年。彼は今BAKERSFIELDにいる。どこまでが境界かわからないような一軒家、アメリカンハウスを購入した。キャデラックもある。ゴルフもする。何より保険年金も入手、老後の社会保障まで手に入れた。現地採用。制服、全日空の社員証、休暇。もう以前のように時間極めで飛ぶパートタイマーではない。山小屋でヘリを見ていたアウトサイダーの青年が、20年かけて全日空のパイロット訓練部門のナンバーワンに、航空業界の中心部にいる社会人になった。余暇には楽しんで自分の飛行機を飛ばせている。

//////////////////////////////////////////

「Holidays」  Michel POLNAREFF

HA・世界タイトルマッチ

HA・世界タイトルマッチ 2004年8月4日 (Wed) 17:34:45

おそらく20年まえの7月7日、七夕。場所はHAの母校近畿大学体育館。東洋チャンピオンのまま引退した川上も手にできなかった世界タイトルへの挑戦。HAは早々と、しかしついに手にした。KOしたら西城正三以来の、否白井義男以来の大ニュースになるだろう。スター誕生、誰もが期待していた。

その頃、東京で演劇の勉強をしていた直ちゃんは、とっくに大阪に戻り、子供を生み、離婚し、本町で「エミグレ」という喫茶店をしていた。店を閉めた後はさらに11時まで近くの居酒屋でアルバイトをしている。市大病院の「喘息教室」北助松の養護学校、どこに行っても先にいた。今は元気だ。どうして薬の循環地獄を断ち切ったのか。「苦しいとき薬を飲まずに、ロウソクのロウを手の甲に垂らし、その熱さで、苦しさを乗り越えてきた」そう言った。私とは根性が違う。私はその頃、そこの常連で、終わりまでいて直ちゃんと一緒に天王寺まで帰った。お客さんの大半はサラリーマンで、友達にもなった。私がミズーリー州のケネットのHal Aviationで飛行訓練を受けているとき、店から皆が国際電話をかけてきて励ましてくれた。タイミングは最悪だったけれど。

というのは私はちょうどサロンでアレクシス・アルゲリオの試合を見ていたから。HAもいつかアルゲリオと試合をするかも知れない。アルゲリオはニカラグアからの亡命者。ニカラグアの政治は複雑怪奇。亡命者のアルゲリオは反体制右派。本来は強烈な愛国者なのだ。
日本からの国際電話にハイハイと出ている間に試合は終わってしまった。アルゲリオは汗ひとつかかず涼しい顔でKO勝ちして、すでにリングを去ってしまっていた。画面にはアメリカンドリームのアルゲリオの豪邸が映し出されている。

本町の店でサラリーマンと何をしていたのかといえば、ずっと将棋をしていたのだ。マスターも料理を作りながら将棋をさす。
そのサラリーマンの一人から、タイトルマッチのチケットを2枚、格安で譲り受けたのだった。誰と行こう。HAの晴れ舞台、誰と行こうか??


「オ、なかなか精悍な顔してる」
「しかし、ちょっと、入れ込みすぎかなあ」
「脚が細いなあ」
緑風さんが隣で呟いている。世界タイトルマッチを見るのは初めてのようだ。私にはHAのパンチだけが目に入る。かなり炸裂している。あと一発、あと一発、・・。

「脚にきてる。危ない」緑風さんが言う。
「一発あたれば決着が、・・」私は喜びの瞬間を、他でもないこの緑風さんと見るためにここに来たのだ。膝が有効に使われていない。HAの常なのだが、ガードががら空き。信じられない。7月7日7ラウンド、なんとしたことか、HAが、HAが、KOされてしまった。!!

帰りは駐車場までトボトボ歩いた。「しかし悔しいなあ」誰かの声が聞こえる。・・・
緑風さんのベンツでミナミに出る。定番の蟹道楽。緑風さんが隣にいなければ、松葉蟹の姿焼き、特に大好きなカニミソも、涙で単なるドロ水になっていただろう。

//////////////////////////////////////////

「Les p'tits papiers」(小さな紙切れ)ゲンスブールがレジーヌに書いた曲。今日は石井好子さんの82歳のお誕生日。それで日本人としては初めての登場。chantee par YOSHIKO ISHII
石井好子さん、エミール・ステルンに連れられて、レジーヌのパーティーに出席、そこでアラン・ドロンの恋人ロミー・シュナイダーに会われた。その辺は皆ユダヤ繋がり。それでバルバラとレジーヌも繋がっていく。レジーヌはバルバラ作詞・作曲「夜の顔  Gueule de nuit」をレコーディングしている。
まるで自分もパーティーに行ったみたいな書き方じゃないかって???!!

万博前の日本の若者達の叙情11選

万博前の日本の若者達の叙情11選 2004年8月2日 (Mon) 18:19:51

///////////////////////////////////////

一人去り二人去り 静かに鏡の割れゆく夕べ (道上大作)

////////////////////////////////////////

だってパパ そこからひどく傾斜した海    (吹田まどか)

////////////////////////////////////////

処女(ヴァージン)の墓の柵を 意識でよこぎる蝶
                      (本間美千子)
////////////////////////////////////////

半島の先端で愛吐くわが髪の伸縮       (森 竹男)

////////////////////////////////////////

死んでも良かったかなァ 小さなへこみに 煙草一本分の灰
                       (渚 ゆう)
///////////////////////////////////////

やがて川となり裸体を流れる黒髪       (後藤すみ子)

///////////////////////////////////////

落日さぁん何処だ何処だとビルは夏の墓     (三枝宏子)

/////////////////////////////////////////

ふりおろす鞭の そこに馬はいない      (貝塚千加夫)

/////////////////////////////////////////

八月十五日の空は皆それぞれの上に垂れ     (森さやか)

//////////////////////////////////////////

春の剣持ち変えて許す気のない俺にする    (若生敬一郎)

//////////////////////////////////////////
Bruxelles特選
燃えろアミーバーの海 墜落する挙手に 集中する夕映え
                      (石原明)
//////////////////////////////////////////


Parlez-moi d'amour par Lucienne Boyer


隠れサッフォーの店

隠れサッフォーの店 2004年7月30日 (Fri) 19:00:12

’70年の日本は青年だった。万博があり大阪城では反博もあった。その1月に祖母が死んだ。前年人類が月に立つのを祖母は見た。アポロ11号。私が生き抜いて大学生になるのも見た。山村祐が主幹の第4の短詩系運動誌「短詩」のエッセイの部で年度賞を受賞しその賞品の書類箱を祖母にプレゼントできた。けれど祖母が愛した大阪の実験的未来都市、大阪万博を祖母は見ることが出来なかった。
なんだか馬鹿のように万博ばかりに行った。現代音楽と現代アートの実験場だったからでもある。

短詩は「一行の詩 地に塔のごとし」というキャッチコピーを持って、短歌でも俳句でも川柳でもない、新しい短詩系文学を目指していた。年配者には前衛川柳出身者が多くその頃無名だった時実新子も出入りしていて、娘の吹田まどかは生き生きとした作品を発表していた。私も1行詩にのめり込んだ。
若者は競ってエッセイを書き理論武装に励んだ。若いエネルギーがその組織をあっという間に自爆させてしまった。日本の短詩系運動史に、何らかの痕跡を残すことが出来たのだろうか?
何人かが独自の個人誌を発行し始めた。神戸のマッサージ師平田さんもその一人。「短詩峡」を発行した。

1度誘われて平田さんと一緒に万博に行った。平田さんは身障者手帳を持って真っ黒なあんまメガネをかけている。私は例によって黒のサングラス。するとどうだ。スーイスイスイ。全然並ばずに入れる。1日でほとんどを見ることが出来た。居酒屋に行って、それから平田さんの文学仲間のスナックに行く。そこが隠れサッフォーの店だと言うことを、平田さんは知らなかったようだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ビオレット・ルデュックの「私生児」に話が及んですぐにわかった。オーナーの薫さんは20数年来のパートナーと店を切り盛りしていた。

その昔、防空壕の中で同僚の教師に震える思いで恋を打ち明けたらしい。明日死ぬかもしれない。二人の若い気持ちがメラメラと火花を散らして・・。やがて生徒の知るところとなる。この辺はまさに「噂の二人」。校長に呼ばれる。「不徳のいたすところです」その言葉を残して、二人、故郷を出奔。薫さんは神戸のキャバレーの従業員になる。ポマードこてこてのチンピラアンちゃんに突然顎でこき使われる。やがて進駐軍が登場、接収、御用達のレストランになる。愛しき人は現実に慄いてすぐに帰郷。薫さんの肉体労働に明け暮れる孤独で過酷な人生が始まる。
(カミングアウトの書「あるエトランゼの日記」1999年ビレッジプレス刊にそのあたりの詳しい記述がある)
(手塚治虫が「アドルフに告ぐ」で同じく神戸の戦後をリアルに書いていたような気がする)

この店は隠れだけあって、サラリーマンがカウンターにずらりと並ぶ日もあれば、サッフォー達が集まる日もある。また薫さんは文学に情熱を燃やしていたので神戸の様々な文学仲間の塹壕にもなっていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「この抽象的なるものの中で」の会期中、私は一度コンサルタントに相談してみた。
B「私は、Bさんのこと、本とに好きなのかなあ」
姫「Bさんがね、Bさんがね、ってBruxellesちゃんしょっちゅう言ってるから、きっと好きなんじゃないの」
B「ふ?ん」「じゃBさんはどお?」
姫「聞いてみたら?」
B「クックックッ。そんなバカな。Bさんの気持ちよりも、第3者が見て、どういう関係に見えるのかなと思って」

言っている途中で思いついた。明日、三宮のあの店にBさんを案内して、薫さんに紹介してみよう。自分のアイデアがすごく楽しいものに思えて、一人で笑い出してしまった。

////////////////////////////////////////

[Tous les bateaux tous les oiseaux」
       par MICHEL POLNAREFF

キッドアイラック・ホール


キッドアイラック・ホール 2004年7月29日 (Thu) 15:53:11

上京の度に会うのはGribouilleやフレーベル館の原田さん以外にもう一人いた。その人はアオイ工務店の跡取りで工学部の学生、本田さん。葵プロダクションを併設していて漫画家のつのだじろうが歌手のつのだひろよりも有名だった当事の、つのだひろ、のマネージャー兼トランペッターの沖至のマネージャー。沖至が詩の朗読とのコラボレーションをしていたので多分その辺の関係で出会ったのだろう。私と同じで60年代のアメリカンヒットポップスを殆ど全部知っている。いつもそんなことを話していたように思う。
「明日、キッドアイラック・ホールで三島由紀夫のイベントがあって、そのあと出演者たちが沖さんのヨーロッパ壮行会に流れていきます。Bruxellesさんも出席しませんか?」
「キッドアイラック・ホールって、音がきれいですね」
「これね、喜怒哀楽から来ている日本語なんですよ」
「面白い。大阪にOS劇場がありますが、これは応援のオーエス、オーエスという掛け声から来てるんですって」
「それも面白い」・・・・・・・

ミュージシャンと詩人の集まりだった。さすがにノリがいい。知らないもの同士とは思うのだが最後は輪になって、前の人の肩に左手を乗せて右手を高く上げて、ぐるぐる回って踊った。楽しくて笑いっぱなし。

吉原さんがいる。挨拶に行こう。
B「unique ballet theaterの『昼顔』見ましたよ。最後に山田奈々子さんが全裸になられたあの演出、衝撃的でした」
吉「私theaterのthを、あなたのように正確に発音する日本人に初めて会ったわ」
B「シアターとは、いくらなんでも言えないでしょう。・・私ね、吉原さんの息子さんに似てるって友達のGribouilleに言われるんです」
吉「ちょっとそのサングラス外してみて。・・あなたは私の若い頃にむしろ似てるわ」
吉原さんは三陽レインコートの創業者令嬢で、東大仏文卒、元女優、『昼顔』で高見順賞を受賞されたばかり・・・そんな人本人から似てると言われて思わず顔がにやけてしまう。

山田奈々子さんを眼で探したら、すぐに眼が会った。グラスをグイッっと上げてこちらを見て、微笑とウインク。ヒュー。カッコイイ。ダンサーの山田奈々子さんは山田真二のお姉さんだ。山田真二はその昔『哀愁の町に霧が降る』を大ヒットさせた初代超二枚目俳優だった。私もグラスを上げて、離れたままで乾杯!!

沖さんは半年前『詩と思想』の音楽評の取材でインタビューしている。ツーショットの写真も掲載した。もうヨーロッパに移住してしまうのか。今日は沖さんのpartyだからミュージシャンも多い。暗いところで住所氏名を交換する。緑川さん、深町さん、副島隆彦さん、・・タージマハール旅行団の小杉武久さんともこの時会ったような気がする。とにかく皆カッコイイ。擬似失語症経験のある私は小杉さんの音楽が一番身近い。

この日、思いもしなかったけれど、ヨーロッパに渡った沖さんと2年後にパリの小劇場で再会する。沖さんは山下洋輔トリオの坂田さんのようにavant gardeなplayをされた。管楽器一つを持ってParisで暮らしている沖さんは永遠のチャレンジャーだ。沖さんは今後何処へ至るのか。

そしてこの夜グデングデンに酔っ払った吉原さんの運転で送ってもらった。「お命預かります」そう言われた。その吉原さん、10年にわたるパーキンソン氏病との戦いの後、2年前に亡くなられた。大きな大きなショックだった。

///////////////////////////////////

「Mon Amour Mon Ami」   Marie Laforet
ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」にどこか通じる幼い哀愁を感じる曲。


My Name Is Wednesday

My Name Is Wednesday 2004年7月28日 (Wed) 16:15:28

(21)人間は自らに主体を持って主張するのだろうか。主張が人を通過して主張するのではないだろうか。

空が見事な色彩に輝くとき、色付く主体は間違いなく夕陽(空)であるにもかかわらず、決して夕陽(空)が主体を持って色付こうとするのではないように。?・・・?・・・?


Ma petite Mieを肩車したり、追いかけっこしたり、飛行機といって振り回したりして遊んでいると、電話が鳴った。
「もう1時間半、頭にハンカチ乗せて待ってるんですけど」「あらッ。ごめんなさあい。すっかり忘れてた!」

先週の日曜日「現代詩手帖の年鑑で住所を見たんです。僕も詩を書いているので、見てほしいんですけど」と電話がかかって来た。「目印にハンカチを頭に乗せて」と確かに言った。場所はミナミのヤカタ。「すみません」話してみると会社が近くだった。「日時を改めて」

「弟が堺で喫茶店してるんです」
「じゃ、そこでお会いしましょう」
SKは童顔で真ん丸い縫ぐるみのような顔をしている。私は全然記憶にないが初めの頃は「ドッジボールに見える」と言っては両手で挟んで突き飛ばしていたらしい。「君は女らしい人ですね」SKは多分事実を無視してマニュアルの指示に従って言っているに違いない。

SKの家はオンボロアパートの大家さん。絵も描くと言うので2階に行った。作品に立体感がない。何なんだこの子は。青色をべた塗りすればマグリットの空になる、とでも思っているのだろうか。芝居のシナリオを書いて上演したこともある、と言った。ストーリーを聞くと、結構面白い。音楽の話になった。そしてその日2枚のLPを貸してくれた。1枚は野坂昭如の「黒の舟歌」もう1枚は丸山明宏の「ミロール」が入ったシャンソン集。「Bruxellesさんはミロールなんか歌えるんじゃない、きっと」「ほらほら、笑って、笑って、ほらほら」ハハッッッッッハハハ

ある日鉄道ストがあった。暇な人が電話をかけてきて、バスで集まれる人だけ家に来た。遠縁のトキちゃん、SK、WW法律事務所の石淵さんそして私。「最近書いた放送劇があるからそれで遊ぼ」

その結果サウンドコラージュテイプ「My Name Is Wednesday」が出来上がった。それは日常の場面をランダムに切り取って、音でつないでいく放送劇だ。
私はその頃国産第一号のシンセサイザー(ローランド)を買っていろんな創作音で遊びたくて仕方がなかった。「君の家はどういったらいいの?」「××あたりまで来て。そこでシンセサイザーの音が聞こえたら、そこがあたしの家だから。窓を開けてautoで演奏しとくから」
  ・・・・? ? ?・・・

ところで文頭の(21)は「My Name Is Wednesday」の第21場面である。たまたまここだけ、日常会話ではないが『文学部唯野教授』からの引用ではない。20数年古い。

////////////////////////////////////

Brigitte Fontaine 「Comme a la radio」
曽根崎の角に「モガ」と言う骨董喫茶があった。そこでBrigitteに出会った。

VERTIGO

VERTIGO 2004年7月24日 (Sat) 18:09:37

パイロットの陥る症状のひとつにVERTIGO、眩暈がある。高度を上げていつの間にか空気が薄くなる。無意識に呼吸を速めて、結果過呼吸になる。生命の危機に遭遇した場合もドキドキして過呼吸になる。テクストが手元にないので22年前のあいまいな記憶で書いている。多分因果関係は合っていると思う。対策はビニール袋を口に当て自分の吐いた二酸化炭素をもう一度吸って酸素の量を減らす。治療に副作用も何もない。病気というより現象だと思えば言い。

眩暈は頭痛とセットになる場合もあり判断を狂わせる原因にもなる。それは大事故に繋がる。現象だと言えども、甘く見てはいけない。

夕陽は夕陽と言う名詞をあてがわれた存在のように見えるが、夕陽とは現象だ。存在ではない。

病気もガンのように存在する病気と、喘息のように、気管支が縮まり空気の流れが妨げられる現象の病気がある。

今一番恐れられている脳梗塞はどうだろう。血の流れが澱むというはじめは現象なのだが、繰り返されて血栓が存在するようになれば、除去対象ともなりえる固体存在だともいえる。

喘息も近年痰と言う存在に気道を塞がれ死に至る場合も多くなっている。?

夕陽もいつか存在になるのだろうか?

夕陽が泣いたり笑ったりする文学的世界と、あくまでも現象である物理的世界と、カテゴリー別に、名詞の機能分類、機能分析をする必要がある。

あなたは自分の生きてきた人生そのものが、果たして現象なのか、存在なのか、フと判らなくなったことが無いだろうか?

/////////////////////////////////

Damia   「L'angelus de la mer」


Avec Gribouille

Avec Gribouille 2004年7月20日 (Tue) 17:32:33

「こんにちは」と一階のお母さんに大きな声で挨拶して、さっさと二階に行く。ドアをノックする。「どうぞ」
あれっ、Gibouilleが部屋の中で帽子を被っている。近寄っていって後ろから帽子を取る。丸坊主だ!!「どうしたの?」!

「空手は呼吸の溜め。呼吸をどうコントロールするかのアートなの。そして時間を溜めて、間を待つ。」ハッハッ、ハッ、ハッ、といって型をしてみせる。それにしてもいきなり丸坊主とは。「似合っている」、似合っていればいい。
Gribouilleは朝の5時に起き、6時に近所のお寺の早朝空手練習に通っているらしい。すごい意思力。

「そういえば原田さん、あの人合気道で全国優勝したらしいね。文武両道とかいって、ついこの間始めたばっかりなのに」
原田さんはGribouilleと私の共通の知り合い。神田フレーベル館のキンダーブックの女性編集長。早稲田の仏文を出ている。カッコいいので上京する毎に会っていた。文武両道に加えかなり色っぽい。言ってみれば烏丸せつ子、の色気。それでいて人を寛がせない鋭さがある。この人はブラジャーの下に知性のナイフを隠し持って、本当は怖いものなど何も無いのに、いつもドモリの九官鳥のふりをしている。複雑な人だ。この一筋縄ではいかない所が大好きだ。

Gribouilleが言う。「ものを書く人間は、時々とんでもない発想をしたり、それを言ったり書いたりする。でもそこまで。うちの父は実業家だから、本当に実際とんでもないことをする。」
「何をしたの?」「2千万円(当時のお金で)で女性求むって広告を新聞に出したの」「それで誰か応募してきたの?」
「2,3人に既に会ったみたい」へえェー。

Gribouilleとはある人を介して知り合い、文通をはじめ、万博の時に彼女が大阪にやって来て会った。いきなり「いままで自殺したことあるか」などという話題になった。前月号の「みずゑ」に彼女は新人美術家として4ペイジにわたって写真紹介されていた。その写真を見てすぐにグッと惹かれるものがあった。私は発作が出ていて腕に自分で注射を何本もして気合を入れて、彼女に会うために梅田に行った。お互い不安定な時期だった。私は祖母をなくしていたし、Gribouilleは過食症気味だった。Gribouilleとは、はじめから同じ語彙で話が出来た。ー

Gribouilleの紹介で「詩と思想」の座談会に出る事になっていた。Gribouilleは帽子を被って会場まで付き添ってくれた。

「今、詩に何が出来るか?」というテーマだった。
司会「今、こういう状況の中で、詩がいかに無力かと悩んだことはありませんか」
B「全然ありません」
もう一人の出席者男性A氏は、失恋して数年土方をした体験を語った。肉体の酷使によって精神が空洞化し、それがいかに人生の救いになるか・・・つまりは大衆又は信者構成論だ。もう一人の男性A'氏は閉塞情況と精神的無力感、そして友人の自殺など。
司会「お二人の話を聞いてどう思いますか?」
B「どうも思いません。失恋や自殺は今時ゴロゴロしている。つまり悲惨を悲惨と表現しているから悲惨なだけで、いかに現実を言語で掬い取りそれを再構成するか、詩とはそこを語るべきであり、そのためにもっと言語そのものの機能分析をすべきだと思います。災害地のTVレポートではないです」
反論をするつもりは無かったが、思わぬ方向に展開した。
A「あなたは内容を無視して、表現にのみこだわる。詩は現実の中に生まれ、そこで生きる、ひとつの政治的現実なのだ」
A’「あなたは相撲の土俵のように、狭い空間を切り取り、そこでコピーライターのように言葉の遊びをしているだけだ」
Gribouille「Bruxellesさんは、マラルメのような立場の言語論を言っているので、そこを理解しないと平行線になってしまう」見かねてGribouilleが横から口を挟んだ。勿論速記者は記録しない。雑誌掲載のため一人一人にカメラマンがフラッシュをたく。

「狭い空間?」A’は私がもともと第4の短詩系文学、一種の定型詩の全国的結社で、言語機能論ばかりを書いていたことを知っているのだろうか?1行詩を書くことは必然として言語機能を探求することになる。現実告発の政治手段として、言葉を、武器として無制限に用いることとはまるで違う。・・
//////////////////////////////////

Gribouille   「A TA SANTE MADAME」


(7) 繊細孤児


(7) 繊細孤児 2004年7月18日 (Sun) 0:09:22

「写真、持って来てくれた?」
「こんなのでいい?どうするの?」
「これを胸のポケットに入れて、てへへ」
本当に嬉しそうな顔をしてTTは笑った。

ずっと前Ryookoと一緒にバイトした。多分Ryookoのお父さんの知り合いの人で、弁護士にして政治家の事務所。そこで年賀状書きのアルバイト。6人で毎日朝から晩まで、何日続いたろうか。次から次と名簿が出てくる。選挙とはそういうものなのだろう。

そういえば、さらにその前、実際選挙運動のバイトもした。車に乗って白い手袋をして手を振るあれ。あれはイベントとして結構楽しい。友達の親戚の人の初立候補。大きな団地の自治会長。死ぬまでに一度陽の当たる場に出てみたい、というそんな人だった。組織票もない。選挙も素人。政治知識もない。選挙屋のやり手青年が仕切っていた。アルバイトは指示に従えばいいだけだから楽。大事に扱ってくれる。・・・後で結果を友達に聞いた。最下位、200何票しか入らなかった。素人は立候補を考えてはいけない。

年賀状書きのバイトで三田さんと知り合った。三田さんに連れられてインタープレイ8に行った。そこにTTがいた。TTは三田さんの先輩。寿司屋に案内してくれた。バーにも連れて行ってくれた。見るからに善良そうな人。いつもニコニコしている。思えばその頃すでに社会人だったのはTT一人だった。

TTも二階に行ってBさんと話して帰った。「よくしゃべる、楽しい人ね」Bさんが言う。そのあと「何にも分からんくせに」と小さな声ではき捨てた。確かにTTはArtに関してあれやこれやしゃべるのだけど制作者じゃないので、どこかずれている。
TTは自分も含め気のあう友達を”繊細孤児”と呼んでいた。三田さんもRyookoも健二も私も。そしてTT自身も”繊細孤児”。すごくピッタリなネイミングだと思う。みんな社会からも家族からも要するに一般から”繊細なるが故に”はみ出てしまっている。

BさんはTTが私を連れてニュースに行ったことを知っている。TTはニュースの常連で、Cさんともママさんとも知り合いだ。Bさんは多分そのあたりが嫌だったのだと思う。TTにしても私がBさんに愛想を尽かすように仕向けるために、ニュースに連れて行ったのだから。

「Bruxellesさん、あの人いつもニュースでBruxellesさんのことばっかりグチャグチャ言ってるらしいよ」
「お酒がないと自己解放出来ないタイプ」
「どうするつもり?」
「別にどうにも」
「ニュースからも電話してくるでしょう」
「長いから受話器肩にかけて、TV見てる」
「あの人、帰るまでに道に倒れて、そのまま寝るような、壮絶な飲み方してるらしいよ。特に最近」
「あの人ね、昔チャーリーって言うアウトローの友達がいたんだって。その人がビルから飛び降りたらしい。もう何年か前だけど。ここら辺りでは有名な話らしいよ」
「違うでしょ。Bruxellesさんのせいでしょ。可哀想に」
「そういう同情はあの人にとても失礼だと思う。」
「Bruxellesさん、今夜、呑みに行く?」「賛成!!」

/////////////////////////////////

Nicolas PEYRAC 「So far away from L.A.」


コンテンポラリーアート


コンテンポラリーアート 2004年7月17日 (Sat) 18:20:49

詩画展の頃好きだったのは、ジョン・ケイジ(現代音楽)クセナキス(現代音楽)ジャックソン・ポロック(現代美術)ロバート・ラウシェンバーグ(現代美術)アルビン・エイリー(コンテンポラリー・ダンス)モーリス・ベジャール(コンテンポラリー・ダンス)そしてジョージ・シーガル(現代美術)。私に石膏制作の技術があれば詩画展にシーガルの一体のようなものを展示したかった。Conceptualでなく具象が欲しかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

音楽は抽象的だ。その分言葉に勝てるような気がする。詩は究極のところ音楽を目指したいのだ。伝達性から解放された抽象詩。音楽は抽象的である分、数学的でかつ哲学的でもありうる。クセナキスの音楽などイコール数学であり物理だ。そしてギリシャ哲学かもしれない。

詩画展の頃、西梅田の確かサンケイビルにアメリカ文化センターがあった。そこの視聴覚コーナーに行っては、コンテンポラリー・ミュージックとコンテンポラリー・ダンスのフィルムを見ていた。そこは宝庫だった。東京の現代音楽際にもよく通った。ワクワク楽しいのだが、直後が危険だ。”間(マ)”に打ちのめされて頭も心も原始に帰ってしまう。言葉や意味を剥奪されてしまう。
肉体への意識を覚醒させたくてコンテンポラリーダンスを見るのだが、あまりにも観念的だった私は、いつも惨めに自分の肉体存在を見失ってしまう。価値を見出せなくなり、しまいには息の根を止められてしまう。考えてみれば、そのパワーこそコンテンポラリーダンスの魅力だ。パワーに圧倒され自己否定と自虐に駆られて、また見たくなる。タナトスの誘惑。それが一巡して、時にエロスの喚起となる。

問題は一体何が”一巡”の原動力になっているのか、だ。

言葉や意味を剥奪され、原始に帰る、その過程の”危険”こそが、原動力のような気がする。この危険に充分拮抗出来るのは”魂の生命力”しかない。ゆえに”魂の生命力”が衰えれば、危険に拮抗出来なくなり、原動力も失墜する。一巡が不能となり、遅かれ早かれ、やがてはタナトスの手中に落ちる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コンテンポラリー・アーティストは、大胆にも神に催眠術をかけようとするスーパーマジシャンだ。人々はその透きに一瞬の至福を盗もうとする盗人だ。その透きに運命のDNAを書き換えてしまえ。
///////////////////////////////
「Cet enfant que je t'avait fait」
Brigitte Fontaine & Jacques Higelin
残念ながら決して日本人には、発想さへ出来ない曲。

6)父の日記

(6)父の日記 2004年7月15日 (Thu) 13:36:27

小さい頃毎朝早起きしては隣の家に出かけて、家族全員の前で歌を歌うのが日課だった。歌は兄が前日幼稚園で習ってきた歌。なんて近所迷惑な子供だったのか。
幼稚園の時は1度ラジオの子供番組に出た。T薬品の提供番組で予選フリー、いきなり本番だった。父が放送局に連れて行ってくれた。ラジオが悪かったのか、声が悪かったのか放送日、ラジオからはゼーゼーという音しか聞こえてこなかった。歌ったのは「土曜日の夜」

養護学校の誕生会でもいつもソロで歌っていた。「恋の片道切符」「オオ、キャロル」「カラーに口紅」「悲しき街角」etc,.

高校の時は予餞会。2年連続アカペラで独唱した。1年目はアル・ジョンソンの「スワニー」2年目は雪村いずみの「約束」。それに加え高1の時、労音の新人歌手コンテストにまで出場した。会場がすでに大ホールだった。課題曲は「夜明けの歌」伴奏を無視して自分の旋律で歌った。思いがけず拍手が来た。歌った後スカウトが来た、と思った。今考えたら、単なる歌謡学校の生徒勧誘だったのかも知れない。2次選考があると聞かされた。自由曲と言うことだったので「スワニー」と書いた。・・病気で出場できなかった。

音楽教師は宮川泰と同期と言うのが自慢の人。この教師に「君のような歌い方をするのは、天才か気違いだ」と言われた。自信が砕けて落ち込んでいたら、友達が「天才か気違いだったら、天才と思えばいい」と励ましてくれた。「そういう考えもあり、か」と思った私は本格的に音楽院で個人レッスンを受けることになった。卒倒するようなレッスン料だ。まずは発声練習から。裏声を使えと言われた。裏返せば上はいくらでも出る。抵抗を感じた。地声で歌いたい。しかし地声なら幅は狭い。
I left my heart in San Francisco??「思い出のサンフランシスコ」などを練習した。・・しばらくたった頃、いよいよナイトクラブで歌ってみないか、と言うことになった。体力的にも無理だったしその上母が大反対した。歌手になる夢は、そのとき消えた。?

そもそもそのレッスン料は、どうしたのかと言うことだ。大沢さんに払ってもらっていた。大沢さんの月収のおよそ30%を私の道楽が食い潰していた事になる。本当に申し訳ない。

大沢さんがABC画廊にみえた。「あっ、これは○○○○さんの字だ」と叫ばれた。「Bruxellesさん、これお父様の字体ね」・・・
父の日記は英文で、タイプで打ってある。ミスタイプを直した部分が2ヶ所、文字にして5文字しか手書きの部分は無い。・・・・
私はひとつの物凄い愛の渦の中に、自分がいたのだと感じた。
「彼の人の子」・・Bruxellesではない、Bruxellesの父の子、それが私だ。祖母の孫でもある。それ以外は自分個人が人との関わりの中でつくり上げていく。その時点の自己認識が、突然明快になった。

父の日記は3月13日の大阪空襲。祖母が真っ先に逃げる。父が最小限必要なものを手に取る。逃げようとすると、犬のポチが泣き叫ぶ。父は迷う。引き返せばとても危険だ。クリスチャンの父は炎の中を引き返す。鎖を解く。犬はしばらくキョトンとして、何を思ったか、家の中に逃げ込んでいった。・・通りには戦争ヒステリーの人もいる。畳を持って逃げている。子供を防空壕に押し込もうとする人。爆風で自転車が電線に、焼け爛れて引っ掛かっている。とにかく熱い。川に飛び込む人もいる。人々は北へ北へと逃げたらしい。持って逃げようとしたものを、次々と道に落としながら。阿鼻叫喚。・・・・唯一の鉄筋のビル、心斎橋の石原ビルに人々が集まる。覆い重なるような多数の人々の一番奥に、着の身着のままで逃げた祖母を発見する。大きな安堵。滅びの家系、祖母には父、父には祖母しか、(同姓の)家族も親族もいない。

この心斎橋の石原ビル、「東京資本の大阪進出」という大々的ニュースと共に、西武資本に買い取られ、心斎橋パルコになったのは、詩画展の4年前のことだった。
//////////////////////////////////

Georges Brassens 「La chanson pour l'Auvergnat」

(5)船会社のイヴ・モンタン

(5)船会社のイヴ・モンタン 2004年7月13日 (Tue) 16:16:37

近鉄百貨店で見たBさんとCさんのマネをしてMSと画廊の二階で、誰も見ていない時に、手を取り背中を合わせて少し踊ってみた。
彼は身長180cm近くあり、ルックスはイヴ・モンタンの若き日に似ている。来年早々ロンドンに発つ。1週間かけて少しづつ生い立ちや、夢や希望を話してくれたのは、会ってまだ2週間目くらいのことだった。

東京から帰ってきて淀屋橋の東京海上ビルの9階に、親友の姫神さんを訪ねた。
「姫神さん、あの人だれ?」
「やっぱりね。Bruxellesちゃん,好みでしょう」
MSは遠くのほうで靴の紐を直していた。その仕草がとても美しい。勿論顔は見えない。
「実はね、あの人が、貿易会社の人に頼まれて、人を探しているのよ。一度話しを聞いてみない?ちょうどタイミングがいいわ」
「紹介してくれるの?」

次の日、MSに連れられて初めて大江ビルに入った。1階の喫茶店で中村さんと面接する。
「いい会社に行ってたのにどうしてやめたんですか」
「制服着せられるのがイヤだったんです」
前の会社は大会社の子会社で昔からよく知っている亡き父の元上司が社長をしていた。形式上選抜試験はあったが、とっくに内定していた。東京に本社があり、新しく大阪に営業所を出すために人材を集めていた。事務用品の購入から、銀行口座の開設、とにかくイロハのイからのスタートだった。昼食は大会社の食堂でする。営業所は大会社の前の古いビルの1階で、やはり子会社で医学専門書を出版している(株)西日本臨床の部屋の一角を、仕切って間借りしていた。営業所所長が本社から一人来て、他に引き抜いた営業マンの新人と私の、3人構成の会社だった。社員食堂の食事はおいしく、しかもタダだったが、大のエリートの大人が食券を持って,並ぶという行為にまずショックを受けた。

中村さんは、前の会社では決して見かけない、ビジネスマンというより、浪速商人という感じがした。
タバコを出す。透かさずMSがマッチをする。中村さんは何を焦ったのか、なかなかタバコを口に持っていけない。MSはじっと待っている。火に近づこうとしてはタバコを落とす。MSの指が焼けてしまう。MSは動じない。平然と待っている。火が指の皮に燃え移る直前になって、ようやく一息で消した。やり直し。また同じ。中村さんがもたもたして、ああ、MSの指が燃えてしまう。ギリギリのところで火がついた。アッチッチ。そう感じたのは見ている私で、MSは平然としていた。

MSや姫神さんの会社は、ユダヤ系の船会社で、MSは営業マンとして中村さんと以前から顔見知りだ。即決。給料も1.6倍。前の会社は道修町で淀屋橋の南側。今度は一番北側で降りる。いずれにせよ商都大阪の中心地だ。地下鉄を上がるとまず角に、父の代まで唯一の親戚として残った石原のビルが見える。土佐堀川を西に2,3百メートル行った、今の住友本社ビルの辺りが、本籍地の筈。大江橋から振り返ってみる御堂筋が私の一番好きな大阪。外国にいても思い出す故郷は、自分の家でも自分の部屋でもなく、いつも御堂筋だった。祖母にそうインプットされてしまっている。

MSは初めてアルファベットを見たときからアルファベットに恋した男。高校のときリンガフォンを買って欲しいとねだり,拒否されたことが悲しい思い出として心に残っている、ピュアーな少年。親の反対を押し切り、山口県から京都に単身上洛。働きながら2部で学び京都外大を卒業。身のこなしが美しいのは、生活時間の大半を、ホテルマンとして働き,世界のVIPや一流芸能人と接して、自然に身につけたものに違いない。

「今の仕事は、今までやりたいと思っていた仕事に近い。でも、もっと語学をやりたいんだ」日当たりの悪いボロアパートに住んで留学用にお金を貯めていた。壁という壁には様々なスピーチコンテストの表彰状が掛かっている。
「タイプも、ほら、自分で覚えたんだぜ」練習用紙が30cm程の厚さになっている。
「故郷を捨てた。親を捨てた。俺にはもう後がない。突き進むしかない」
スカラシップ留学生や親掛りの私費留学生しか見てこなかったので、彼のこの決意の構成過程に最初のうちは少し戸惑った。
どんな女と、どんな恋をしてきたのだろう。その中に、エディット・ピアフは、いなかったのだろうか?

/////////////////////////////////

「Les Momes de la Cloche」  Edith PIAF

First Solo


First Solo 2004年7月11日 (Sun) 16:47:06

今日は選挙。ミズーリ州の飛行学校にいる頃、ちょうどFirst Soloの日が、選挙の日に重なった。どの州も多分同じと思うが、その州では、選挙期間中アルコールの販売が全面禁止になる。夜になるまでお祝いのビールを買えなかったのを思い出した。

パタシューの店ではアトラクションにお客のネクタイを切り取って壁に貼り付けていたらしい。First Soloの時も記念に着ているシャツをハサミで切り取って、飛行学校の壁に貼る。
New Yorkのツインタワーに激突したアラブ人テロリスト達。彼らのFirst Soloの時のシャツも、アメリカのどこかの飛行学校の壁に、今も残っているはずだ。
//////////////////////////////////

「San Francisco」  Maxime Leforestier
「花のサンフランシスコ」って、ご存知ですか?
フラワーチルドレンという、ヒッピーの分派のような、平和を愛するアメリカの団塊の世代の人たちがいた。その時代を懐かしんだシャンソンがこれ。「San Francisco」時代と共にある名曲のひとつ。若者たちが国を超えて共感する心を持っていた時代。
ついでに「花のサンフランシスコ」も思い出していただけたら嬉しいです。どちらの曲もやさしさに満ちている。


(4) Bruxelles仕事をする

(4) Bruxelles仕事をする 2004年7月10日 (Sat) 16:21:50

黙っていたら外に遊びに行くので、中村さんは私に貸借対照表作りを命じた。イヤダイヤダと思いながら数字を記入していく。静かだ。と突然中村さんが中腰で立ち上がり「パカパカパカパカ」と口で言いながら、どうやら馬に乗っているつもりの動作を始めた。ギクッ。「ちょっとちょっと中村さあん、大丈夫ですか?」と、叫ぶと、中村さんの表情がパッと変化して覚醒。「えェ、ワシ、どうしてんやろ?ここは何処、ワシは誰?」・・見事な演技である。
「昨日馬券当たったんですね」
「そやがな、そやがな」
中村さんはノートに馬券記録をつけている。
「では、行ってまいります」「気をつけて行くのですよ」
勝ち馬券を換金に行くだけで10%貰える。

西天満にある大阪で2番目に古い現存のビル。正面に右から左へ大江ビルヂングと書いてある。雰囲気は大正時代。裁判所に近いので4分の3は弁護士事務所。そこの3階。仕事をしているのは中村さんと、中村さんの弟さんと私の3人。戦前からの会社で社長は死亡。しかしいまだに社長の自宅に毎月給料を届けている。

中村さんは頭のいい人で、仕事に無駄がない。本当は部長とか呼べばいいのだけれど「中村さんでいい」ということだった。帝人、福助、ユニチカ、東レ、トーメン、日商岩井、伊藤忠、丸紅、イトマン、三井物産、神戸通関、船会社、銀行・・結構外出が多い。重要書類も多いのでタクシーもよく使わせてもらった。キタを歩くと知り合いにあう。喫茶店でお茶を飲んで・・また知り合いに会う・・すっかり仕事を忘れて2時間遊んで帰って1度ひどく叱られた。仕事はいつも上の空。用事のないときは、何をしてもいいということだったので、初めのころは簡単な洋書を毎日1冊読破して語学力を鍛えた。

「中村さん、言われたように書きますけど、為替が動いたからといって、1度決まった価格の値上げのお願いは言いにくいです。契約という概念が日本より厳しく守られるべきだと考えられていますし・・訴えられますよ」「訴えられたらBruxellesさんが被告としてオランダのハーグに行ってください」「(なんでやねん!)」
隣の法律事務所、今、金大中事件が来てるみたいですよ」「また調書読みにいくのでしょう。それ書いてからにして下さい」
「あそこ暴力団ばっかり来るのに、皆菓子折り持って、緊張しまくって、神妙でその上腰が低い」「Bruxellesさんは、いつもあそこでその暴力団のお菓子を上田さんと食べてるんでしょう」「それだけじゃなくて新年会にも出席してます」

中村さんは英文がしっかり読めるが、書けない。私はタイプが打てない。中村さんのビジネスの内容を私が英文にして、中村さんが人差し指2本を使って物凄いスピードでタイプしていく。急ぎの通信は帰りに電報局に立ち寄ったり、早朝電話で「ロンドンL、メキシコM・・」などと電報を受け取ったりした。

中村さんの弟さんはもっぱら営業。趣味人でドイツ語と絵画とバイオリンが得意。京響で演奏していたことがあるらしい。1度、ムンクの思春期の複製が欲しいと何気なく言ったら、本当に模写しプレゼントしてくださった。元特攻隊員。中国で捕虜になって脱走した話は、スリルがあって1度聞いただけで、忘れない。東レの森本さん(ロシアが崩壊するころ、ロシア通の国際評論家としてよくTVに出演された森本忠夫氏)と一緒に脱走された。一方中村さんは実際体力もないのだけれど、明日出撃という時、病気のふりをして倒れ、命拾いしたとか。賢弟愚兄、中村さん自ら認めている。

この大江ビルヂングはABC画廊から歩いて7分。中村賢弟も、絵画作品を見るために何度かみえた。
「あのひとは、どこかのバーのカウンターでトランプを手に自分の運命のカードを切っている、そんなイメージが似合うね」中村賢弟のBさん評である。

////////////////////////////////

「Ca plane pour moi」 Plastic Bertrand
大人気だったのに、何処にいちゃったのか、もうサイトもない。



人間ーこの抽象的なるものの中で(3)

人間ーこの抽象的なるものの中で(3) 2004年7月8日 (Thu) 15:07:42

Ryookoがどこからかたこ焼きを買ってきた。「Bruxellesも食べる?」近づいていって口を開ける。「ハーイ」Ryookoが口に入れてくれる。2階からBさんが降りてくる。
「Ryookoさん、お茶でも飲みにいきませんか?」
主催者のBさんが誘う。Ryookoは背を向けたまま振り向きもせず「私、今、Bruxellesとたこ焼き食べてますから」・・!!
「たこ焼き食べてますから」などという理由で、Bさんのお誘いを断る?なんて人なんだ、Ryookoは。Ryookoも出品している。

Ryookoと初めて会ったのは島之内教会でのイベント。支路遺さんの演出の下、その場でセリフ別けして、ひとつの作品(Ryookoの)を二人で朗読した。来たばかりで私はなんのことかわからない。
(R)白い砂波が押し寄せ 
(B)音もなく崩れていった
(R)ひとつひとつの砂丘の列が
(B)再び形をいだき 地上に現れたのは
(R&B)果たして
(R)何を見るためであったのか。
女友達の名前を呼び捨てにする趣味は私にはない。しかしRyookoのたっての望みでそうしている。例外。アンダーグラウンドの匂いがした。はじめて見るタイプ。次に支路遺さんの家でRyookoの詩集の試し刷りを見た。そして「あっ」と衝撃を受けた。「なんなんだ、これは!」かぁー!こ、こんな!・・「果ててよ果てて」というタイトルの詩。クックックックックックックッ・・果ててよ果てて、などという詩のタイトルって、あり?後に私はこのRyookoと大阪、神戸、京都、東京のジャズ喫茶行脚をすることになるのだが、、最初の印象は、危険、何でもありの人、ドキドキそしてやっぱりアンダーグラウンド。インタープレイ8に行けば、たいていそこに居る。お父さんは京大出の弁護士。本人はエスカレーターの帝塚山お嬢様。ショートホウプのすい方も実はこの人に習った。

「Bruxelles,Bさんと付き合うの、やめた方がいいよ」
アングラお嬢様はBさんが嫌いのようだ。

親友の姫神さんが来た。Bさんに紹介する。
「Bさん、こちら私のコンサルタントの姫神さん」
「お噂はかねがね、Bruxellesさんからお聞きしています」等とお互い言い合っている。「あの人に子供が居るなんてピンとこない」後でBさんの印象を姫神さんはそう言った。

3日目に母も来た。初めてBさんを紹介する。
母はBさんを「プレーガール」の沢たまきに似てるという。似てるのはアルコールで潰れた声だけだと思う。Bさんをわかりやすく言えば京マチ子の美貌と嵯峨美智子の妖艶さを足して現代風にした感じだと私は思う。(たとえが古くて申し訳ない)

Ryookoが次々に口に入れてくれるたこ焼きをパクパク食べながら「私は一体Bさんが好きなんだろうか。好きだとしたら、どのように好きなんだろう。そしてそれは何故なんだろう」と、ふと思った。
//////////////////////////////////

Mireille MATHIEU 「Acropolis Adieu」

«  | HOME |  »

2005-04

  • «
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

Bruxelles

Bruxelles

FC2ブログへようこそ!

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。