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Rwandan Genocideの検証(3)

情報・読み物 Rwandan Genocideの検証(3) 2005/02/12
罪滅ぼしの国際支援とその行方

数世代階級差別が続くだけで、教養や体格、人脈、敏捷性等において否定できない差が出現する。4月末頃にはすでにツチ族のRPFの反撃にあい、25万人のフツ族がタンザニアとの国境に難民として流れ込んだ。6月には150万人がザイールに。大量かつ短期間という意味では史上空前のexodusである。TV画面には国を追われた難民と、国境付近にある国連難民支援キャンプが映し出される。そこにもう殺戮はない。人道支援がこれ以上ふさわしい場所はない。Genocideがあり、難民が押し寄せている。それを見て人々の心は痛む。世界中から大量の援助物資が、身を張ってgenocideを阻止しなかったことへの罪滅ぼしのように、届く。国連支援の難民キャンプ。実はそこにフツ族のGenocide国家の残党たちの社会がそっくりそのまま複製されていた。フツ族であっても、ツチ族を殺さないでは殺される立場にあったフツ族の人民、民兵、兵士、生き残ってここに逃げ込んだ人々の手は、そのほとんどが皮膚を裂き骨を砕いてきた血塗られた手だったのだ。
神は誰を救い誰を罰せよとおっしゃるのか。
神はそれほど悪戯がお好きなのか。
genocite現場は、心優しき第三者を立ち去らせ、難民キャンプは心優しき第三者の援助を引き寄せる。そこに何の不思議もない。

まだ記憶にあるクリントンとモニカのハーモニカ事件。大々的に公開報道して逆にアメリカ国家の健全性を見せつけた。
Madeline Albrightは97年初め国務長官としてアフリカを訪問した際アメリカ人らしい健全さで謝罪した。
Rwandan genocideに対し適切に対応できなかったこと、阻止しようとさえしなかったことへのお詫び。Genocideという言葉を意図的に使用しなかったことのお詫び。そしてGenocideの当事者たちを保護し、人道的サポートをする難民救済キャンプ活動に力を入れたことへのお詫び。
そしてKigaliに立ち寄った。数ヵ月後クリントンもそこに足を運び率直な謝罪を述べた。いまだ未形成なRwandaの歴史を考えるとき、今後の政治、軍事介入を考えるとき、この謝罪は大きな価値を持つ。GenocideをGenocideと認定するだけで、視点が固定され、状況判断も行動判断もいやでも可能になる。

ただWe、とかthe UNとかを主語とした謝罪で「Never Again」の願望が果たして実るのか?
そもそも人道的”恥”を知るプライドが、政治的判断の是非を決めるわけではない。小さな声でしか言えない。けれど、たとえば、ほとんどのアメリカ国民は、genocideを武力阻止しなかった政策を”大成功”だと思っている。Genocide協定から、人道的阻止の条項を取り除けば、謝罪の必要すらなくなる。そして下記の資料によると、もうすでにそうなっているのだ。
 


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Rwandan Genocideの検証(2)

情報・読み物 Rwandan Genocideの検証(2) 2005/02/12
GenocideとWar

「We Wish To Inform You That Tomorrow We Will Be Killed With Our Families」の著者であるPhilip Gourevitchは「Civil WarとGenocideの違いは?」という問いに対して次のように答えている。
「時には市民も巻き込んで二つまたはそれ以上のサイドが戦うのがCivil War。Genocideは政治的意図はなく、血脈を絶つまで殺し続ける、という目的がある」と。子供や赤ん坊はむしろ標的になる。「Rwandaにおいては子宮の中の胎児でさえ、徹底した殺害対象となった」
お互いに戦いあうのが戦争だ。今回フツの軍隊(および一般市民)は、ツチの軍隊と戦うことよりも、その家に行って子供や老人を殺すことの方こそ、その目的とした理由はそこにある。
前にも書いたが、フツ族とツチ族に人種的、文化的、宗教的違いがさほどあるわけではない。ただ植民地支配を容易くするために、優等人ツチ、劣等人フツの、身分証明書を持たされ、仕分けされてきた。長年奴隷的身分に置かれていたツチ族の側から言えば、周辺国に亡命している多くのツチ族の集団的逆襲が、いつが時代を逆行させるのではないかという、どうしても拭い切れない積年の恐怖心があった。それが集団狂気の核となった。目的はフツ族のユートピア、すなわちツチ族の絶滅。これをGenocideという。
飛行機撃墜の後、政府軍が大量殺戮を開始、それに対しRPF軍が反撃に出た。これは確かに繰り返されたパターンの内戦であった。つまりRwandaではWarとGenocideが平行して行われたのだ。

有名な1月11日のfaxがある。WarとGenocideを開始した側の兵士の一人から、国連に実は3ヶ月前に計画の詳細が漏れ知らされていたのだ。どのようにすべてのフツ族をそべてのツチ族の殺害に駆り立てるかという計画。Genosideはすでに示唆されていた。だからDallaireは当然の反応をしようとしたのだ。国連側がこの情報で反応したのはGenocideの部分ではなく、平和維持軍に対するあからさまな攻撃、その部分に反応した。Faxの示唆の通りベルギー人たちが殺害されたとき考えたこと。「逃げよう」「逃げよう」「逃げよう」

100日で80万人。1日8000人。24時間フルに計算に入れて毎分5人以上の殺人である。ほとんどはオノやナイフでの惨殺である。平和維持軍及び各国の政府関係者が祖国の救援機に飛び乗って逃げた後は、Rwandaは殺人の野と化した。

Genocide協定というものがある。Genocideという言葉を容認すれば、逃げ出すわけにはいかなくなる。内戦だ、無政府状態だ、混乱だ、民族紛争だ・・、そう名づけている間に自国民の安全確保を優先できる。
戦争は人間がするおろかな行為のひとつだ。しかしGenocideは人間が人間である以上本来不可能な行為である筈だ。Rwandaに於いてGenocideを感知していたのはDallaireだけではない。実は誰もが感知していた。しかしGenocideという言葉は5月17日まで国連及び関係各国が意図的に回避し続けた言葉だった。
たかが言葉と言うなかれ。歴史を検証するに当たって、私達もWarとGenocideをあいまいに、同列に論じる愚を犯してはならない。


Rwandan Genocide の検証(1)

情報・読み物 Rwandan Genocide の検証(1) 2005/02/08
General Dallaireの悪夢

ケベックの公園で先月末泥酔して意識を失くし、ベンチの下に転がっている男がいた。1994年Rwanda大虐殺の折、国連平和維持軍を指揮したDallaire将軍である。彼の脳裏には今でも虐殺の現場と腐敗してゆく死体の山々がフラッシュバックする。人間として強いダメージを受け彼は現在精神科医の治療を受けている。評価を受けていた軍人の面影はなく、口を開いて語る姿を見ても、そこに見えるのは精神的廃人の姿だ。怒り、苦痛、孤独、絶望それらの集合の感情に押しつぶされている。彼の中の気高さが、ルワンダで見てきたもの、体験したことを全身で拒否しているのだ。

長い間Dallaire将軍はタンザニアの国際法廷で彼がルワンダで体験したことを証言することを国連によって阻まれてきた。そしてついに証言台に立った時でさえ、その証言は公開されることはなかった。
ルワンダ人民80万人の殺戮を防ぐことが出来なかった自分の無能さを責めるあまり何度も自殺を考えた。最新の精神療法をもってしても、この深いトラウマから彼を救い出し、勇気ある軍人に戻すことはもはや不可能だろう。精神障害のゆえに、カナダの軍隊も4月に除隊した。

この大虐殺はルワンダのフツ族の政権を、結果としてツチ軍が転覆させたのみならずルワンダとウガンダの支持を得た反乱軍によってザイールのモブツ大統領も後に失脚させた。
Dallaire将軍は本当に無能だったのだろうか?
実は3ヶ月も前から,彼はgenocideの危機を国連上層部に報告している。のみならず、真に大惨事を防ぐために軍隊の増強を申し出ている。諸事情でことごとく却下された。
平和もないところに平和維持軍を置いても意味がない。迫りくる大虐殺を阻止するに充分な軍隊が必要だった。機能すべき機関が機能しさえすれば、大虐殺が防げただろうことをDallaire将軍は一番よく知っている。
仮に軍事介入が却下されるにしても各国の協力協調さえあれば、外交的、経済的圧力という方法がなくもない。当時国連安全保障理事会のメンバーだったルワンダの犯罪者政府を、国際社会からボイコットしてしまうという手もあった。ジェノサイドの間中この犯罪者政府は国連安保理事会の正式メンバーであり続けた。

フツ族政府軍に視点を移そう。彼らの目には国連軍その他の軍隊はどのような存在に見えたのだろう。穏健派の首相と、その護衛をしているベルギー人のブルーヘルメットを殺してしまえば、まずベルギー軍が戦意を喪失すると読んでいた。1993年末ソマリアの首都Mogadishuで18人のアメリカ軍兵士が殺害され路上に遺体がこれ見よがしに捨てられ、映像化された時、クリントン政府は平和維持軍の使命を即刻忘却した。この大虐殺は非常に計画的なもので、ベルギー軍の、アメリカ軍の、国連軍の対応など、彼ら独自の心理学と視力で完全に先読みしていたのだ。まるで後催眠にでもかかったように、当時アメリカの国連大使だったMadeline Albrightは「みんな一緒に足並みそろえてルワンダから去りましょう。この国の人たちの運命は、その運命に任せましょう」と決意した。

平和のための軍事介入など、それを大義名分とした,欲に目が眩んだ軍事侵略でない限り有り得ないのだ。自国民を守るために、他国民が血を流して戦ってくれるなど、私達も、ゆめ思わないほうがいい。


Rwandan Genocide (2)

情報・読み物 Rwandan Genocide (2) 2005/01/30
アフリカの終わりなき後遺症

1994年7月大虐殺はようやく終わった。結果、ツチ族の反乱軍がフツ族の政府軍を打ち破った。殺戮に手を染めた、そしてツチ族の報復を恐れた約200万人のフツ族が難民となって、ブルンジ、タンザニア、ウガンダ、ザイール等の近隣国に逃げた。この中の数千人は、難民キャンプを襲ったコレラや下痢のために命を落とした。
ルワンダの大虐殺、及びその結果としての大量難民の流入滞在のため、隣国ザイールが政情不安定になり、無秩序状態から1998年には内戦が勃発、国土の荒廃を引き起こし多数の死者も出した。

大虐殺終了後、かつてないほどの救援の手が、国際社会からさしのべられた。アメリカ合衆国が最大の支援提供国となった。国連平和維持軍、別名UNAMIRは、内戦中は遁走したが、RPFの勝利が決定した後は支援及び平和維持のために?戻ってきた。そしてUNAMIRはルワンダの地に1996年3月8日まで駐留した。

1996年10月ザイール東部でツチ族が騒動を起こした。その結果60万人を超える大量の難民が1996年11月後半の2週間の間にルワンダに帰国した。続いて1996年12月の終わりには、タンザニアから50万人の難民が、これは自然発生的にルワンダに戻った。この時点でなを10万弱のルワンダ人民が難民として国外にとどまっていた。彼らは、大虐殺の当事者の敗れた政府軍の、民兵たちの軍隊Interahamweの、及び1996年以前に難民キャンプでスカウトされ内戦に加勢した即席兵士の、残党たちだった。

1997年1月18日ルワンダ北西部でフツ族の民兵が支援に来ていた3人のスペイン人と、3人の兵士を殺し、さらに一人に重症を負わせる事件がおきた。そういう事件はあったが、隣国から帰国することに二の足を踏んでいた難民も、今はほとんどが祖国に戻り、その大地の上で生活しているのが現状である。
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[参考:Rwandan Genocideに至るまで]
ルワンダの地に元からいたTwa族はピグミー族である。人口構成はこれに加えてフツ族とツチ族からなるのは以前に書いた。

1895年にルワンダはドイツの植民地になる。ドイツ側は以前にもましてツチ族フツ族に存在の優劣をつけ差別化政策を採った。第一次世界大戦でドイツが敗れ取って代わってベルギーが宗主国となる。ベルギーはさらにこのツチ族の優性、フツ族の劣性の差を拡大し成文化した。

第二次世界大戦後は国連が統治をベルギーに委任した。さまざまな改革や政変もあった。1959年には国王Charlesが暗殺されたしツチ族の最後の君主Kigeli5世はウガンダに遁走した。フツ族が次第に力をつけ始め1962年、ルワンダの独立に際しては、逆転してフツ族が支配者側に立った。(民主主義を導入すると他の要素よりも何よりも多数の側が常に勝利する)

1990年、実はこのあたりからRwandan Genocideの芽はすでに見て取れる。ツチ族からなるRPFが、基地を置いているウガンダから、ルワンダにこの年侵攻した。これに対しHabyarimana軍事政権は今回と同じくツチ族の皆殺しを意図した大反撃に出た。RPFは、昔のようにツチ族が支配する国を、フツ族の再奴隷化を目論んでいると、それは絶対に阻止しなければとの思いからの、徹底した反撃であった。この戦いは1992年まで2年間続いた。そして最終的にはタンザニアのArushaにおいて、Arusha条約と呼ばれる停戦合意が政府とRPF両サイドによって調印されたのだった。が、、、。
1994年4月6日、あの大統領搭乗機撃墜事件が起こった。
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「The New Yorker」の記者、Philip Gourevitchが大虐殺後のルワンダを訪れ、インタビューや情報収集など綿密な取材を通してノンフィクションブック「We Wish to Inform You That Tomorrow We Will Be Killed With Our Families」を1998年に出版した。この本は同年全国書籍批評家賞、ロサンゼルス・タイムス・ブック賞、George K.Polk海外ドキュメンタリー賞など、数々の賞を獲得した。「ジェノサイドの丘」(上)(下)としてWAVE出版から翻訳本も出ている。amazon.co.jpでこの本のカスタマーレヴューを数件読むことができる。


Rwandan Genocide

情報・読み物 Rwandan Genocide 2005/01/29
アフリカの終わりなき後遺症

1994年4月6日、ルワンダ大統領Habyarimanaとブルンジ大統領Cyprien Ntaryamiraを乗せた飛行機がルワンダの首都Kigaliに着陸しようとアプローチした時、何者かに狙撃された。コントロールを失った飛行機は墜落、二人の大統領は即死した。狙撃の銃声があたかも合図であるかのように、手当たりしだい、ツチ族及びツチ・フツ関係なしの政治的穏健派を、兵隊・民兵が一斉に殺戮し始めた。多数の反対派の政治家も殺された。ルワンダ在住のすべての外国人は母国からの勧告でルワンダを脱出、各国はその大使館のドアを閉鎖した。

首相と彼女の10人のベルギー人ボディーガードが最初の被害者になった。殺戮はKigaliから、ルワンダ全域に瞬く間に広がった。4月6日から7月のはじめまでの期間に、この前例を見ない殺人スピードは93万7千人のツチ族及び穏健派のフツ族をアフリカの大地に切り捨てた。Interahamweと呼ばれる、組織だった軍事的殺戮集団の仕業だった。地元の役所や、国営ラジオに召集された一般の人々も、隣人をできるだけ殺せと命令された。大統領の政党MRND(1975年Habyarimana大統領が組織した団体でMRNDはthe Mouvement Republicain Nationale pour la Democratie et le Developpement=民主化と発展のための共和国運動体の略)が多くの面でこの大虐殺の組織化に関与していた。

この後の2週間の間、ルワンダに駐留していた国連軍は妙な動きを見せた。ベルギーと国連軍はルワンダ人を見捨ててほとんどすべての戦闘要員を引き上げた。国連軍の最高司令官カナダ人のRomeo Dallaireの抗議にもかかわらず、国連安全保障理事会はフランス、ベルギーが音頭を取って満場一致で撤退を決議した。1994年5月17日になってようやく、国連はこの大虐殺の事実を、しぶしぶの態度で認めた。赤十字の発表によると少なくとも10万人がこの時点で過激派のフツ族の手によって殺害されている。死者の大多数は少数派のツチ族である。

Arusha条約によってKigaliに駐留していたRPF(Rwandan Patriotic Frontの略で、内乱を逃れて30年間にわたり国外に亡命していたツチ族集団)の大軍は大統領機墜落の後、直ちに襲撃を受けた。この軍団は応戦しKigaliを脱出、ルワンダ北部に駐留する別のRPFと合流することができた。大殺戮が始まったと知ったRPFはすぐにルワンダのフツ族支配の政治に対し、市民戦争を再開した。RPF最高司令官Paul Kagameはウガンダやタンザニア等の隣国に駐留しているRPFの軍隊に、ルワンダに侵攻し、フツ族の軍隊と、そして殺戮の当事者であるInterahamwe軍と戦うことを命じた。軍と軍との内戦と、ルワンダ人民の虐殺は2ヶ月間、怒り狂った嵐のように、級数的にその凄惨さをエスカレートさせたのだった。(つづく)

強調文

死者の焼香

死者の焼香 2004年6月30日 (Wed) 18:10:23

久々に直ちゃんから電話があった。広田さんが死んだという。広田さんは病弱ではない。偏食矯正という名目で養護学校に来ていた。誰からの連絡?広田さんの彼氏からの連絡。死因は?彼氏が泣いて、よくわからないと言う。×日×時×寺で。どうしよう。直ちゃんは名簿を頼りに全員に招集をかけたという。広田さんのお父さんは結核で入院中。お母さんは、いない。自殺?

お寺には30人あまり集合した。寮母の先生たちの姿も見える。吉野の桜から1年半ぶり。直ちゃんは徹夜して書いたという分厚い手紙を持参していた。お棺に入れたい。誰もまだ20歳になっていない。子供だけれど全員喪服を着ている。いよいよお葬式スタート。長い読経の後お焼香だ。大きなお寺の一番後ろから「喪主、広田美智子殿・・」という声と共に、な、なんと広田さん本人が現れた。「あっ」「あっ」「あっ」30人が全員唖然。ポカンと口を開けたまま。広田さんがお焼香している後姿を見て、誰かが笑った。笑いは感染してその30人の一画全員に波及。時ならぬ笑い声が、お寺に波打ってしまった。

久しぶりにF先生と会う。F先生は郷里の同窓生と結婚されていた。私が養護学校で不眠症になった時、自分の部屋に布団を敷いて私を呼んでいろんな話をしてくださった。ラグビー校の話。イギリスの教育制度。F先生は心臓病のため、目的校への進学を断念されたらしい。それでも、今も勉強もするし教育、特に進学に熱心。「主人が、阪大に教えに行ってるの。Bruxellesさんも阪大に来なさいよ。心理学を教えてるの。ぶらぶら遊んでないでそうしなさい」
・・もう10月だった。阪大クラスなら、判定はDだ。5ヶ月弱でDからAに持っていけるだろうか。祖母の世代は旧帝大に弱い。祖母も納得するはず。しかし。小、中、高、まともに通学していない。高校なんか、卒業してから、日数が足りないと、補習に来いと苦情が来た。オームの記号をQと書く人間が阪大に進学できる?団塊の世代は何事にも競争が激しい。時間が足りない。不可能を可能にする方法がないだろうか?帰りがけに阿倍野のユーゴ書店で「不可能を可能にする方法」という本を買った。

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TOI LE POETE par Ginette RENO
カナダ、ケベック州のシャンソン歌手


ミュンヒェンの駅で

ミュンヒェンの駅で 2004年6月29日 (Tue) 15:59:57

「この部屋完全六角形ね。面白い」
「ミュンヒェンオリンピックの選手宿舎だったの」「なるほど。結構モダンね」「あなたはパリで優雅な一人暮らしをしてるの?」「全然。屋根裏部屋だし」「アンネの日記みたいで、それもまた素敵じゃないの」「自炊だけど毎回フルコース食べてるから、食費がすごくかかる。Parisに居ると、どうしてもフルコースになる」「大阪人だからもともと食い道楽なのよ」「あなたのようにゆとりが無いから」「Bruxellesさん、毎日いい物食べてるように見える」
「自分で働いたお金で来たから。もう長くも居れない」「そうそう、そのお金送ってくれたって人、どんな人?男?女?」「何の関係も無いんだけど、結婚申し込まれてる、もう、30?40回ぐらい」「好きなの?好きじゃなかったら面倒なことになるわよ」「好きでも嫌いでもない。誰から聞いたか知らないけど、貯金の無い人だったから、どうしてかき集めたのかわからないけど、あの人にしては全財産を送ってくれた」
「じゃあ、結婚すべきね。あなたが盗難にあった挙句、異国で娼婦に転落したら大変だと思って、その人必死に頑張ったのよ」
「あはは。フランス行くから、さようならって言ったら、僕の青春返してくれ、って言われた。そんなもの、貰ってないんだから返しようが無い。いや、だからさっき言ったように、何の関係も無い」
「あなた、××って子知ってる?私の友達で、元同僚で詩集出してる子」「知らない」「『悲しみは中くらい』って言う詩集なの」「ああ『箪笥、長持どの子が欲しい』と言う作品があるあれね。あれは支路遺さんの『他人の街』から出たんじゃないかな。多分その人、一度会ってると思う。確かSS病院の看護婦さん」「そうそう。びっくり。今夜二人で彼女に手紙書かない?」「縁は異なもの味なもの」

そこへ没落貴族だと言うドイツ人の彼氏が来た。「Bruxelles,私食事作るから彼と話といてね。彼は何語でもOKよ。日本語以外は」・・・私が居たためか、食事の後彼は帰った。

「Bruxelles,私と一緒に寝る?」
「一緒に寝なくったって、お話できるじゃない」
「まあそうだけど。実は私ね・・・・」

彼女UKは、ある市会議員の愛人をしていた。存在が奥さんに発覚、修羅場があって一度切れた。復活、また修羅場があって、選挙のこともあって、結局手切れ金をたんまり貰ってドイツに来ていた。愛の巣?はまだそのままらしい。父が死に母が再婚し義理の弟が居る。鹿児島県出身の、考えようによれば一人で生きている子だった。「Bruxelles、私ね、いつか将来ね、会社経営したいと思ってるの。あなた、一緒にやらない?」

UKに引き止められて一日余分に使った。その日Parisの東銀でMSと会う連絡をしていた。スッポかしたことになる。もう遅い。
「帰りは列車で直接帰る」「私が駅まで見送るわ。列車の時刻も調べるわ」そろそろプラットフォームに入ろうと「さよなら」を言おうとした。そこで彼女は吃驚するような告白をした。
「私、妊娠してるの」!!!

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Frida BOCCARA 「Un jour,un enfant」
(エディ・マルネ作詞、エミール・ステルン作曲)


雪上転落上から下まで

雪上転落上から下まで 2004年6月27日 (Sun) 17:09:16

その人は野菜を買い込んでいた。東京行きの新幹線の中。
「あらごめんなさい。大阪で買うほうが安いから。あなた一人旅?何処まで?北海道?はは?ん。北へ向かって失恋の旅ね。違う?違うの?・・私のこと知ってる?ちょっと顔見てよ。必殺に出てるの。・・思い出せないの?・・私もあなたくらいの時ある別れがあったわ。結婚を迫られたの。私は演劇をとった。そしたら、屋上に靴を揃えて、その人飛び降りようとしたの。お互い必死だったのよ。飛び降りたかって?止めたわよ。男の純情って、手を焼くわ。今?平凡な結婚して子供もいる。生活臭プンプンしてるでしょう。撮影のたびに大阪で買い物して帰るの」

冬季割引切符を持って、東京からは鈍行で、その後青函連絡船に乗って北海道の大和留寿都スキー場に向かっていた。ケイティ・ピータースが「仕事ばっかりしないでスキーにおいでよ」と誘ってくれた。雪国は初めてだった。ケイティは3分の2は日本にいる。3分の1働いて3分の1は日本を旅行する。一昨年は一人で、去年は友達を連れて、おんぼろ我が家へ泊まりにも来た。堺の、高槻の、貝塚の友人宅にも頼んで泊めてもらった。ケイティとは市谷のユースホステルで出会った。「ジャニス・ジョップリンに似てるね」私のほうが声をかけた。身長1メートル78cm。大きな身体をして人形を抱いてベッドの上でうずくまっていた。
日本のすべてが珍しく楽しいらしい。母と一緒に四天王寺にお参りしたときも、すごくご機嫌だった。

スキーは連れられて以前に2度。シューと耳に聞こえる風を切る音が苦手だ。今日は晴れ、さあどうしよう。ケイティは着物を着て仲居のお仕事中。とにかくミニスキーを借りた。長い物よりコントロールしやすいだろうと間抜けの浅知恵が働いた。リフトはとにかく上まで、上級コースに乗った。無知とは恐ろしい。結局一度も立ち上がることが出来ず、山の一番上から、下まで転がり続けた。雪山転落死!辛うじて気絶しなかったのが幸いして、死は免れた。

ケイティの友達の車にのっけてもらい留寿都を後にした。登別温泉に入浴。札幌で知人に会い、雪祭りも見た。その間に200回以上転倒した。倒れ方が普通でない。すでに全身打撲。寝台車で東京に辿り着いたころには関節の痛み、発熱、悪寒で、駅の医務室に駆け込んだ。
あまり震えるので寒いのかと思いワンカップ大関を買って、痛みに耐えた。新大阪に到着した時は全部の骨がバラバラガクガクの感じ。当時親友がいて親友の姫神(仮名)さんと母が救助に来てくれた。両側から支えられバラバラの感覚で帰宅。熱は40度に達していた。

行きの新幹線で隣席だった今や老女優TI(70歳?)の記事を最近新聞で見た。今度プロの歌手と組んで歌手デビューするらしい。もしヒットすれば、芸能史上大ニュースになるに違いない。

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「GENTIL DAUPHIN」Gerard LENORMAN
ひょっとしたら、男性フランス人歌手ではLENORMANが一番のお気に入りだったかもしれない。

アウトバーン(2)


アウトバーン(2) 2004年6月25日 (Fri) 18:36:06

オクトーバーフェスティバル編

ミュンヒェンに着いたらオクトーバーフェスティバルの真っ最中だった。日本人大歓迎。あちこちで盛り上がりっぱなし。大親友が次々とできる。「今度戦争したら、イタリアを外してやろう。日本とドイツだけで・・・」テンション上がりっぱなし。ナオミもマンドリンを取り出して「悲しき天使」を歌った。私に20歳のとき、生きる決意をさせてくれた曲だった。ナオミとだって気が合うんだ。私も大声で「悲しき天使」を歌った。生きていてよかった。!!

その夜ホテルに戻ったらナオミが態度を一変させた。「Bruxellesあんた、私が一体何人だと思ってる?先の戦争でどんな目にあったと思ってる?」・・・ガビーン。頭にバケツが2,3個当たった気分。すっかり忘れてた。「ごめんなさい。申し訳ない。馬鹿だから許して」もう一晩中平謝りに謝り続けた。

ナオミの厚かましい要求にオドオド応じるドイツ人。ドイツ人に共感し同情する日本人。しかもこの日本人バルバラファンだからチトややこしい。コーランも旧約も読んだ。中東問題に関しては少しユダヤ贔屓の少数派だ。ドイツにおける、日本人とユダヤ人なんて薄いインクでパスポートを発行し続けた大使と同じで最後の判断はヒューマニズムに拠るしかない。だから全人類を代表したかのようにひたすら謝る。ナオミもユダヤ人を代表して抗議している。アッパレ。ナオミでなくあのアメリカ人と一緒に来ていたら、どういう展開になったんだろう。
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アウトバーン編

ザルツブルクに向かっているのだけれど、どうもコースから外れている。このまま降ろされたら次の車が拾えない。ナオミの様子も少しおかしい。人の話に返事しない。ガイドブックを取り出してあっち行けこっち行けと言い出した。ナオミが発言するたびに道の幅が狭くなる。「ナオミ、いい加減大きな道に戻ろうよ」「Bruxelles,ここで降りよう」「降りようって、こんなところで降りたら、次の車が・・」ナオミは私を無視して「止めて!!」と大声を出した。二人のおとなしそうなアラブ人は吃驚仰天して急ブレーキを踏んだ。有無を言わさないナオミが現れた。私を蹴飛ばしたり、押したり、引っ張ったりする。バランスを崩して二人で転がり出た。ドアが閉まり、車が去る。怒りが頭のてっぺんを突き抜けた。「なんで?。第一失礼じゃないの。お礼も言わないで。どうするつもり?どうして戻れる?ここは何処?」!!!私の目の中の怒りを見て魔法使いが急にシクシク泣き出した。「あのね、泣いてすむもんじゃない。」「・・。Bruxellesは、・・何も知らない・・私はアラブ語が少しわかる」「どうしよう、これから。もう別行動にしよう」「待って。まってBruxelles聞いて。・・・あの二人、・・は私達をモーテルに連れ込む相談をしていた」「ええェ!!・・な、な、な、な・・」「・・」「ナオミごめん。あなたがアラブ語を習ってくれててよかった。有難う。怒ってごめんなさい。あなたのおかげで助かった。あはは、あなたのおかげで・・イスラエル万歳、万歳!」
あの素敵なアメリカ人と一緒だったら、どんな展開になっていたことか。
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ミュンヒェン再び編

「Bruxelles」「Bruxelles」私の姿が見えないとトイレまで探しに来る。「あのね、アウトバーンは二人でも、せめてユースは別行動にしよう。ほかの人とも話したいし、追い回さないで!!」
開放されてミュンヒェンの夜は久々に楽しいユースナイトだった。次の朝出発の準備をして外に出た。ナオミがガラス戸の内側に立っている。「早くおいで」とジェスチャーした。首を振って自分はここに残るとジェスチャーする。私の目をじっと見つめて淋しそうに手を振る。えええェッ・・そ、そんなあ!!ちょっと調子に乗りすぎた。予定は全部任せていたから、今日の行動は空白。ナオミに手を振られて、もう一人で歩き出すしかない。・・

大きなデパートにたどり着いた。寒くなったのでコートでも買おう。エスカレーターに乗っていると私の顔をジロジロ見ながら歩いて追い越した人がいる。一番上で立ち止まり、じっと私を待っている。とても嬉しそうな晴れやかな顔をしている。まるで私がマリア様かなにかのように、私の到着を待っている。「日本人ですか?一人ですか?」「はいそうです」「私ミュンヒェンに住んでいます。よかったら私の家に来ませんか」「はい、今友達に捨てられ、途方にくれていました」「お昼は煮込みうどんにしましょう。いかが?」「けっこ毛だらけ、猫灰だらけ、でんがな。行きまひょ」
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ADAMO 「Inch'Allah」
アダモとマシアスが日本を席巻した時代があった。 


アウトバーン(1)

アウトバーン(1) 2004年6月24日 (Thu) 18:37:19

ドイツ人の顔を見ていると何故か信頼できると感じてしまう。フランスで盗難という目にあったせいか。それだけではない筈。日独伊三国同盟の松岡洋祐の気持ちもわかる、と全く気持ちも分からないで考える。夕食後、日本人の中に不気味なおばあさんが居ることに気づいた。「どうしたらそんなに英語が上手に話せるんですか」日本人が魔法使いに聞いている。

フィーリングがピッタリくるアメリカ人と知り合いになれて気分良好「♪パロマブランカ?♪」と歌いながら部屋に入っていくと、寝ていた誰かが言う。「今歌いながら入ってきたのは誰?」「私ですよ?」荷物を片付けながら答える。その人は起き上がり私の方に近づいて来る。あっ、さっきの魔法使いだ。「気に入ったあ。私と一緒に旅行しよう」あまり不気味で声も出ない。「私と一緒に旅行しなさい。ヒッチハイクでミュンヒェンに行く。どうだ?」私は逃げ場をなくして壁に張りついた。首を横に振る。「よし!決まった!」・・決まったって、あんた、有無を言わさず勝手に決められた。ヒッチハイク?一人ではできない。この化け物だったら何でも知っていそうだ。一緒に行くのも悪くないか。フランクフルトはいい町だった。ゲーテ博物館にも行った。ドイツ人に町を案内してもらった。あのアメリカ人の女の人はどうするんだろう。

魔法使いはベテランだった。地図もよく読みこんでいて、右から左に横に読むイスラエル語のガイドブックも持っている。二人で立って手を上げた。さすがアウトバーン、物凄いスピードだ。ビュンビュンビュンビュン。200キロが普通だ。やっと止まってくれた。初めてのヒッチハイク。ブレーキを踏んでもすぐには止まらない。数百メートル先で待ってくれている。少し前ヘドバ&ダビテの「ナオミの夢」というイスラエルの曲が日本でヒットした。この化け物も名前をナオミと言う。「ナオミ、咳するときは、こっち向くのをやめてくれない?」「コニャックがあれば治るんだよ」・・何度か車を乗り継いだ。「ナオミ、話しかけてもいいけど、向こう向いてくれない」「どうして?」「気持ち悪い」「そういう言い方は礼儀に反する。あんたがテルアビブに来たら、向こう向けって言ってやるよ。」「どうぞ」「あんたは人間として正しいことを言っていない」「正しいかどうかじゃなくて、好きか嫌いかの問題だと思うけど」・・・私ってなんてことを言うヤツなんだ。もう!
要所要所で町の見物もする。ナオミはしっかりもので道順も聞いてくれる。「ナオミ、あなたはいつもダンケシェーンを言うとき背を向けてから言っている。ダンケシェーンは相手の目を見て言わなくちゃ」ドイツ人は日本人に好意的で私は祖国に居る気分になってくる。気分は半分ドイツ人。「ナオミ、ユースで日本人がナオミの英語褒めてたけどあなたの英語むちゃくちゃね。ちょっとはましな英語を話してよ」「以前テルアビブに居たころはもっと上手な英語を・・」ナオミは音楽の教師らしい。大きなマンドリンを抱えている。隣に居るのがナオミでなくあの気の合うアメリカ人だったら。・・それにしてもなぜこんなにいやなんだろう。   (続く)
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「Chanson Pour Pierrot」 RENAUD

巌虎一貫の半生

巌虎一貫の半生 2004年6月23日 (Wed) 17:32:00

20の時、修道院で貰っていた葉っぱのお薬が栽培禁止になり急に入手不能になった。また発作が止まらない。市民病院に入院した。退院した頃、学校封鎖。その頃東京へ遊びにおいでと言って、新幹線の切符を送ってくれた人がいた。東京駅で家族総出で出迎えてもらった。そのまま車で東京見物。その人は社会人チャンピオンを目指し実業家の道を歩んでいた元東洋Jミドル級チャンピオン、川上林成。何年ぶりの再会だろうか。

相手はケオワン・ヨントラキット。海津文雄をKOし、そのパンチ力で日本の重量級ボクシングファンの度肝を抜いている。一方川上もアマチュアで69連勝、彗星のごとくプロデビューした期待のボクサー。しかもその後世界チャンピオンになった、フィリピンのロベルト・クルスを数年前現地でKOしている。実力は保障済み。いつものように学校は休んでいた。両腕に特効薬と強心剤の注射を打ち花束を持ってタクシーに乗って、後見人としての母に付き添われて、会場に行った。入り口で立っていると、お供を数人従え正面から現れた。「やあ、Bruxellesちゃん来てくれたんだね。中に入って。オーイ。リングサイドに席をふたつ用意しろ」・・特別席、それも放送席の真横に座席を用意してもらった。4回戦や6回戦の子は、殴られると泣いていて、涙と汗と血がもろに顔にかかる。・・・
第一ラウンド終了間際、強力パンチをあびて川上ダウン。アチャー。目を覆って指の間から見た。何もこんな相手とやらなくても。海外の試合を別にしてケオワン・ヨントラキット程の重量パンチは見たことがない。腕の太さも足の太さも違う。しかし不安に思うまもなく第二ラウンド。川上のパンチが当たった。相手が崩れ落ちる。「逆転KOかあ??」アナウンサーが叫んでいる。会場全体が総立ち。これ程ドラマチックなKOシーンがあるだろうか。ちっちゃな私はイスに立ち上がってバンザイをした。・・

あれから連続8度防衛、チャンピオンのまま引退した。日本ボクシング史上に名を留める名選手だ。
彼の家族のほかに出入りの友人数名を紹介してくれた。その中に巌虎一貫という同年齢くらいの相撲取りがいた。「巌虎さんはね、今度十両になる期待のお相撲さんよ」奥さんが私に紹介する。・・・
数年後貿易会社で働いていた時、春日野部屋の宿舎の近くを通った。ついでだからのぞいて見ようと思って入っていった。陸揚げされたマグロ状態で、大部屋一杯に相撲取りが横たわっている。巌虎さんもいた。十両よりも少し下。・・・
それから何年かして巌虎さんを週刊誌で見た。廃業して八百屋さんで働く元春日野部屋の力士、として写真入の報道だった。・・
何年かしてまた新聞のすみに巌虎さんの記事を見た。一度廃業した力士の再入幕と言うことで話題になっていた。・・
さらに何年かして力士の絵を描くアメリカ人女性画家が、時の人として登場した。力士の恋人がいてその人の名は巌虎一貫だった。・・
何年かして同じ女性がまたマスコミに登場した。元夫として巌虎一貫の名があった。確かすでに子供もいたような気がする。・・

案内されて控え室に行った。待っているとチャンピオンベルトと、宇宙を飛んだ世界のカメラ、あのガガーリン少佐が青い地球を写したという、ミノルタハイマチックを手にした川上選手が現れた。まっすぐこちらに来る。「Bruxellesちゃん、これあげるよ」もともと気前のいい人だが、ノックアウト賞で貰ったばかりのハイマチックをくれた。ハイマチックが手に乗る何分の一秒かの瞬間を縫って報道陣のフラッシュが一斉にたかれた。「この子、今日学校行ってませんので・・」母が小声で言う。「えぇ!どういうご関係ですか?」今度はペンとメモを手にしたスポーツ記者に取り囲まれた。

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Sylvie Vartin 「ジョルジュのタンゴ」
この人の曲の中で一番好きな歌。Sylvieバルタン星人、いい年のとり方をしたなって思います。

オームの法則

オームの法則 2004年6月22日 (Tue) 15:50:36

半月ほど休んで久々に学校に行ったら理科の授業の前にいきなり小テストがあった。「何のテスト?」後ろの子に聞いた。その子は理科の教科書をひろげ「とにかくこの式を覚えて。Vが電圧、Aが電流、オームは抵抗、その計算当てはめるだけでいい」その子が指し示す式を頭に入れた。答案を集めた後、その子と解答の確認をした。全部同じ。OK。

お昼ごはんのとき、後ろで声がした。「お前なんで弁当隠して食べてんねん。見せろよ」後ろに体力のありそうな男子生徒が来て木本君(仮名)のお弁当を取り上げて見せびらかした。初めて見る日の丸弁当。本当にあるんだ。「お前おかずないやんけ。こんなん食ってんのか」私は黙ってその男子からお弁当を取り戻した。その子は病弱な私が振り向いて手を出したものだから、吃驚して去っていった。「何なの、あの子。失礼な。乱暴な。狼藉者。ひどい?。いつもああなの?」・・「僕は気にしない」「それにしても、あんなことされたら、クラス全体が嫌になる」「僕は平気。僕は何されても君さえその席に座っててくれたら、どんな事でも耐えていけるねん」(あらら)「君が休んだら心配だけど学校へ来てくれたら、薔薇色やねん」「・・・」自分の登校が自分以外の人に意味を持つということを、そのとき初めて知った。

木本君は本当に細い。カカシが学生服を着ているよう。それに度の強いメガネ。ケンカ弱そう。その上学年で一番。数学の担任のお気に入り。普段、虐められているのかもしれない。話をしたのはその時一回きり。その後木本君は天王寺高校、阪大と一流コースを歩んだ。

予備校に籍を置いてプータローしている時、その木本君に道でバッタリ会った。「どこ狙ってるの?」実は辻料理学校に行こうと思っていた。どこ?と言われても。どこと言えばみんな納得してくれるのかなあ。「木本君と同じところ」口からでまかせを言った。「そう。じゃあ僕、待ってるからね」・・・私の高校からそんなところへ進んだ人は一人もいない。・・・

私が琵琶湖方面にボウガンの練習に行って帰って来たら「今日、木本と言う人が来た」と母が言った。「Bruxellesさんに会いたいって」居ませんと言ったら、じゃ、お兄さんとお話がしたいといって、家に上がって話していったよ。「何の話?」兄はT薬品の奨学金で専門書は買い放題、だから本棚は満杯。「大学院へ行くらしいよ。アドバイスお願いしたいって。本を見ていろいろ質問していったよ」・・・
木本君は私とだってまともに話したのは前記の2度だけ。非社交的な兄と、初対面でいったい何を話したんだろう。兄はまた例のセリフを言うに決まっている。兄が阪大に合格したとき、私のクラスメートのY君から祝電が来た。喜ぶどころか憮然として兄が言った。「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ。オレは馬か!!」

例のオームの法則のテスト。木本君は満点で、私は0点でかえってきた。「何で何で。答え一緒なのに。おかしい」木本君も首をひねっていたが、やっと気がついた。「君は教科書をチラッと見ただけだからオームのマークを知らなかったんだね。君はほら、全部Qになってるよ」・・・・
木本君は院を卒業して三菱石油に入社、いきなり海外赴任したと噂に聞いた。

・・・・追記:2012年1月26日・・・・
今日突然気づいた。全問正解だったのに、オームのマークが間違っていたためにゼロ点にした、理科の教師。おかしな人だと思っていた。今日気づいた。彼は多分私がカンニングしたと思ったのだろう。テストの後、木本君と答え合わせしていたし、数字だけ全く同じ、マークが全部違う。常識で考えてもそうだ。1か月ほど休んで、全く知らないところの不意打ちテストで、正解なんか出せる筈がないと。じゃあ木本君も共犯にされたわけだ。失礼な教師だ。

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Serge Gainsbourg 「La Chanson De PREVERT」
才能のある人は、真剣に生きられない。この人を見てそう思う。


ダンス!ダンス!ダンス!

ダンス!ダンス!ダンス! 2004年6月20日 (Sun) 17:11:01

「ということは、今日は私はなんて名前?」
結婚式場主催のparty。急に彼女に用事ができて、ピンチヒッターに来てほしいとSKから電話があった。「支払った高い会費が無駄になる」フランス料理のフルコースに釣られて行った。ディスコパーティーが用意されていた。SKも私もノリはいいほうだが、踊りは駄目。楽しめばいいと、ステップを踏んだ。自然とシャドーボクシングになる。SKもそれに合わせた。蜂のように刺し蝶のように舞う、モハメット・アリではなくカシウス・クレイのスタイルが自然と出てくる。二階からホール全体を照明が舐めて走る。なになに、優勝したらダイヤの指輪が貰えるんだって?

私は一度だけダンスで脚光を浴びた思い出がある。京都の日仏のクリスマスパーティー。BFのJ達が全部企画したものだ。まだトラボルタも存在せずディスコという言葉もない。ゴーゴーと言っていた気がする。Jは踊りを一通りマスターしていた。リードに任せればいいだけ。partyがスタートした。みんなノリノリ。息もぴったり。無我の境地で踊る。ハッと気づくと、回りのみんなが踊りを止めて、私たち二人を何重にも取り囲み、ただじっと見ている。あらら。次に拍手が起こった。二人に向けられた暖かい拍手。京大医学部の小笠原さんが私の耳元に近づき大声で「Formidable!」と叫ぶ。Jを見て笑った。Jも笑っている。皆が自然と動いて、ステイジに上がる花道を空けてくれた。Jと私は激しく踊りながらステイジに上る。後は今から思えば、サタデーナイトの二人トラボルタ状態。「Joyeux Noel」「Bravo!」「Merveilleux!」「Fantastique!」「Magnifique!」・・・そしてまた会場全体から拍手が来た。

敗戦直後社交ダンスが大流行した時期があったらしい。たいていの人がダンスシューズを持っていたとか。父も父に教えられた母もダンスが踊れる。その後しばらくしてRock'n Rollがアメリカに登場。手回しの蓄音機に鉄の針,78回転のRock Around The Clockをかけて、若い父が5,6歳の私をぐるぐる回す。今思えばジルバだ。プレスリーより少し前のロック。

父はある日こんなことを言った。「死ぬ時ツンツロリンのカックン,と言って,そのまま死ぬ人がいたら、すごいなあ」「よし、ワシはそう言って死ぬぞ!!」・・・
だから本当にバカな私は、父の臨終の場で、いつ父がそれを言うのかと、ずっと待っていた。何も言わない。ただのど仏がコトンと音を立てるかのように落ちた、のを見た。頭の上に誰かの涙が2,3滴落ちてきた。その後若くして死んだ母の妹が「Bチャンの病気、一緒にあの世へ持って行ってあげて!!」と、まだ暖かい父に言った。子供なりに不謹慎だと思った。一番不謹慎なのは、自分だと、今ならわかる。・・

参加者全員の頭上を動き回っていたライトがSKと私のところで止まった。ファンファーレが鳴る。ディスコ・クイーンだ、優勝だ!二人して司会者の横に行きボクサーのように両手を高々と上げた。ダイヤの指輪は、当日欠席したSKの彼女にプレゼントしたのは言うまでもない。

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Michel Sardou 「J'accuse」「告発」日本にサルドゥーのサイトがないのはどうして?

幽体離脱

幽体離脱 2004年6月19日 (Sat) 16:57:57

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少し話が逸れるが、私はひとつの、面白い体験を持っている。
7年ほど前養護学校の静養室でひどい発作(喘息)に苦しんでいた真夜中のことである。その時の発作は十数年来を振り返っても最も強烈な苦しさで、立て続けにむかついて、咳き込むたびに顔を突っ込みそうになる洗面器からは汚物が溢れ始めていたし、苦しさといったら死んでいるのにまだ追っかけられているような感じで、私は何だか必死で助けを求めて叫び続けた。が、そんなことは一切無駄で、同病の同室の子は2時間ほど前から、バタバタと死ぬように疲れ果てて寝入っていたし、夕方3度ほど汚物を捨ててくれた寮母さんや看護婦さんも、いつの間にか別の棟に消えてしまっている様子で、今の自分の苦しみを助けてくれる希望は全くないことだけはっきり分かっていた。私は何とか息を吸おう吸おうともがいていたが、、一瞬パット苦しさから逃れる方法を考え付き、エーイと実行した。自己分離をしたのだ。今でも覚えている。あれは、私の魂が、苦しんでいる肉体の右前方約38度、高さは目の位置から上約60度、距離は約3メートル程の空中に飛び出して、苦しんでいる私を、同情しながら見たのである。そして私は、まんまと苦しさから解放されたのである。 
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1969年4月15日発行、詩劇通信「ぐるっぺ」に書いた日登敬子詩集「正しく泣けない」についての、拙文からの一部引用である。
まだ幽体離脱などという言葉は無かった。書いたのは69年だけれど、実際の体験は62年辺りか。その後、幽体離脱という言葉が登場し、広くマスコミで取り上げられるようになって、一番興味を持ったのは、幽体が本体を見つめる位置である。すべての証言が奇妙に一致している。私は苦しさから逃れるために、この時、意識的に、自分を分離させている。その点が他の証言とほんの少し異なる。

実は私は、もう一度この体験がある。1986年、例の交通事故で大量の血液を流失した2日目の夜。横たえていた身体が、横たわったままの状態で、ゆっくりと1M程上昇、宙に浮いた。病室全体が俯瞰で見えた。ベッドの配置、同室の人の寝顔、その人のタオルや湯呑みの色。何の力が働いて宙に浮いているのだろうか?すると今度は、足の方向から頭の方向に向かって力が働いた。窓ガラスに頭がぶつかってしまう。不安を感じたとき、すでに私の頭部から肩にかけて、窓ガラスを突き抜けていた。さらに足元から外に押し出す力が働く。横たわったままの状態で今度は夜空に浮いた。ゴーゴーという風の音が聞こえる。何処へ行くんだろう。不安と恐怖で一杯になった。すると、またゆっくり今度は頭部から足元に向けてベクトルが働いた。ガラスをつきぬけ病室に戻ってきた。深い安堵。ただ宙に浮いているので、何処に放り出されるのかという不安は残った。しかし、ふわりふわりと、ゆっくりと、横たわったままの姿勢でベッドの上に、着地した。帰ってきた、と思った。肉体に帰ってきた、と思った。・・・・・

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La Boheme par Charles AZNAVOUR
「悲しき天使」に通じるものがある。青春は、悲惨で滑稽であればあるほど、振り返ってみて、愛しい。


病弱という井戸の中で

病弱という井戸の中で 2004年6月18日 (Fri) 15:13:10

養護学校にいる時、夕食後いつも海を見ていた。夜の海は波音と潮の匂いと気配として存在するだけで真っ暗な闇そのものになり視覚的には消えて見えない。そんな海を飽きもせずに見た。一度母が亡き父の元上司と二人で面会に来たとき、私が居ないということで大騒ぎになった。「どこで何をしていたのか」と聞かれ「ベランダから海を見ていた」と答えた。「海といったって、こんな時間に、何が見えるの?」と、問い詰められた。・・帰省日に祖母が「Bちゃん、夜の海見ていたんだってね。その話を聞いて胸が締め付けられた」と言った。「何で?」「家に帰りたいの?」「別に」・・その時はまだ体調がよかった。それから何ヶ月かして発作が止まらなくなった。苦しくて仕方がない。皆が夏校庭でキャンプファイヤーをしてフォークダンスを踊っているのを、二階の静養室の廊下から見た。持っているトランジスターラジオから「ライオンは寝ている」が流れていた。
小学校5年生の南君の発作は私よりも数段きつい。さっきから「苦しいー」と叫んでいる。座って前後に揺れていたが、あまり苦しいのか、ベッドの柵を越えて、床にドターンと落ちた。びっくりして見ていると、そのまま両手足を使って這って、静養室を出た。廊下を渡って医務室にいく。ドアは南君が体当たりすると簡単に開いた。それから”薬”の入っている医薬品のケイスのガラス戸を、素手でガチャンと叩き割った。彼は血まみれの手で薬をつかんだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このままずっと発作が止まらなかったら、ここに居ても意味がない。寮母のF先生はいつも言っている。「こんなところに長く居ると高校進学もできない。世間から取り残されてしまう」・・どうやら世間では中学生と言うのは勉強しているらしい。私には関係ない。私はただ少しでも楽に呼吸がしたい。どうせ死ぬなら薬を使って楽に死にたい。
次の帰省日、帰ったまま、もう、戻らなかった。

一般の中学校に戻ってからも体調は最悪だった。が薬を使って時には学校に行けた。復帰一回目のテストは500人中380番程度。二度目のテストはいきなり27番。三度目の実力テストはどうしたことか学年で2番になって自分で吃驚した。真っ先に祖母に伝えた。祖母はまた悲しそうな顔をした。「Bチャン、情けない子やね。何で一番になられへんの?」「・・・!!」祖母は続けた。
「比べると言う行為は意味がない。一流校の一番なら価値はあるけど、二流校の二番なんて、喜ぶだけで視野の狭さを立証しているに過ぎない。井の中の蛙大海を知らず、にだけはなってほしくない。玉磨かざれば光なし。もっと磨いて磨いて・・磨くことに専心しないと、本当の自分は見えてこない。喜んだり悲しんだりするのは、その後でいい。価値観は人によって、地域によって、国によって、時代によって違う。価値判断基準そのものを、自分で作り上げていってほしい。受験屋が決めた点数や席次などと言う価値基準、よく考えてごらんBチャン,おへそが茶沸かす代物。出題自体の出来不出来もある。Bチャンは隔世遺伝でおじいちゃんの病気を貰った。とにかくその病気に打ち勝ってほしい。学校や進学と言う枠にはまって人生を考える必要は全くない。健康じゃないと。何より健康。すべてはそれから」・・

この祖母は私に一体何を望んでいるのだろう?健康!!努力によって得られるものなのか。磨けば健康になるのだろうか?意思でどうにか出来るものなのだろうか?

私よりも三年長くいた直ちゃんは養護学校の中等部を卒業した。その時同窓会の名簿を作り、バスをチャーターして吉野山へ桜見物の同窓会を開いた。記念文集「まつぼっくり」も作った。その中に南君、悦ちゃん、木内君、荻野君、植田君たちが,私と同じ病気で衰弱しきって,この世を去っていく最後の日の状況が、取材され細かくレポートされていた。体力を使い果たし、精も根も尽き果てて、呼吸する力そのものを失くして、一人一人、無念の井戸に沈んでいった。
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REGINE「Pourquoi un pyjama」 Serge Gainsbourg 作
シャンソンのこの突き抜けぶりが好き!


女って、そんなもんか?

女って、そんなもんか? 2004年6月14日 (Mon) 17:45:02

人は誰かに語らずにはおれないこと、又はそんな時が有るのかも知れない。いつまでたっても整理できない状況に嵌まり込んでしまった時とか。

あの時何年ぶりに会ったのだろうか。個展案内が来た。珍しくもない。ただ今回は会場がミナミの大きなジャズラウンジだった。本人も待っているとの事。2ヶ月前にもZの個展に行った。その時画廊の主が、Z先生の素晴らしさを目を輝かせて語るので、多少面食らった。私の知っているZはそんなにも人から賞賛を受ける、カッコいい人物ではない。
とにかくカウンターに座った。ここでもいきなりマスターがZの人間性を褒め称えた。自分がZと知り合いであることがどんなに光栄か。Zが右隣に座った。昔と同じ冴えないおじさんのZがいる。大きなラウンジの壁面のほとんどにZの油絵がある。この会場を使うのは誰の企画?と聞いた。Zは自分の右隣の女性を指さした。女性が会釈する。この仕事は自分にとって大きな喜びです、と口に出さなくても、その会釈が物語っている。

ちょっと席を替わろう。Zが言って、カウンターからかなり離れたテイブル席に移った。そしてZには珍しく一気に語り始めた。
「8年間付き合った人がいたんだ。一緒に住んでた。俺の娘もよくなついてた。プロポーズした。記念旅行のつもりで娘と3人でハワイにも行った。8年間順調にやって来たと、俺は思ってた。俺はそのままでも良かったんだけれど、彼女のためにケジメをつけようと思ったんだ。彼女も喜んでた。式の案内状も出して。ところが結婚式の3日前に、ドタキャンだよ。理由は自信がない。あなたのことが本当に好きかどうか、本当に好きでここまで来たのかどうか分からないって言うんだ。俺と付き合う前に、彼女男に失恋したんだ。それで、闇雲に俺に縋り付いて生きてきた。そうそう、前の男を忘れるために俺と一緒にいたって言うんだよ。俺としては俺の信じた8年間を完全否定されたわけだ。Bruxellesよ、女ってそんなもんか。俺は一体何だったんだ。当然そんなこと言い出して、そのまま一緒にいるわけにもいかない。出て行ったよ。泣きながら。こっちが泣きたいよ。何がなんだか分からなくなった。頭の中がぐしゃぐしゃ。さっきの女性?あの人は彼女の友達。彼女が居なくなったら、入れ替わりみたいに向こうからやってきた。その後?自分から去って行ったくせに、俺のこと気になって、時々ウロウロ覗きに来るんだよ。わけわからん」

彼女の言った事は、彼女の正直な気持ちなんだろう。失恋がつらかった。8年間ひたすらその悲しみから逃れるために走ってきた。8年間、目の前の男の存在は実は見えていなかったのかも知れない。ドタキャンは彼女の誠意なのだろう。しかし、こんな女に当たった男は、堪らない。
もっともっと若い頃,Zの仲間たちとミナミの情報誌を作ろうと、千日前の絨毯バーに集まったことがある。映画の中の登場人物でしか見かけないような、実に多様な人達があのバーに集まっていた。そういえば元警官だというあそこのマスターもZを心底信頼しているZの友達だった。以前ZXおじいさんが言っていた。「Zとスカイタワーのレストランに行ったら、なんだかボーイの態度が違う。多分あいつは有名な映画監督か何かに見えるんだろうな」 知らない人が見れば、映画監督や芸能関係者に見えるのかも知れない。

「俺が地獄の苦しみを味わってるときに、彼女の別の友達がやってきたんだ。絶対迷惑かけないから、未婚の母にならせてほしいって言うんだよ。認知だけはしてほしい。責任は全くない。義務もない。設定も全部自分がする。費用も一切自分が出す。お願いだから協力してくださいって。Bruxellesよ、女の頭の中はどうなっているんだい?シンガポールに行ったんだ。きっちりオギノ式で計算して。俺?俺はその時もうグチャグチャで、人格も何もないよ。その女は預金通帳を見せて、これだけあるから、金銭的に迷惑をかけることは無いって。すごい金額だったよ。俺に惚れてたのかって?種馬かも知れないし。選ばれた?選ばれたくないよ。人生の皮肉だね。それが3日間の旅行で、生まれたんだよ。勿論一度も会ってない」

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「Madame Arthur」 par Yvette Guilbert
Barbaraはこの曲や、「Le fiacre」等、Guilbertものを昔歌っていた。この曲を聴くと今は亡き小円遊や、柳亭痴楽の艶っぽい小話をいつも思い出す。



クスリ

クスリ 2004年6月10日 (Thu) 0:20:22

雑談編:
G:「Bruxellesはね、りりしくないから多分女にもてない」
B:「女にもてようなんて、思ってないもの」
KK:「Bruxellesちゃん、僕に初めて会った時さ、Playboyの、女をくどく方法、なんて本くれるんだもの。英文の。ホモの僕にさ」
B:「ええっ!クックックッ、そんな事ありました?全然覚えてない。大変失礼いたしました。クックックッ。新橋の歌舞練場で初めて会ったのは覚えてるけど」
KK:「演舞場、新橋の」
G:「Bruxellesって笑うときクックックって笑うのね、いつも」
B:「あのね、これは息を節約してるの。ハッハッハッと笑えば、酸欠になるから」
KK:「時々、フッフッフッとも笑う」
B:「それでよく、人を馬鹿にした笑いだと言われる時もある。フッフッフッと笑うのは酸素をリサイクルしてる」
G:「大変ね。KK、この人ね、クスリをご飯のように主食にしてるの」
KK:「何のクスリ?僕メキシコで、新ちゃんと薬使ってセックスしたら物凄くて、そのたんびに、使ってたことある」
B:「医薬品で心臓充分やられてるから私はクスリは出来ない。前に友達の部屋で7人でLSDやったことあるけど、自分ひとりだけやらなかった」
G:「私はハッシッシやったけどあんなの効かないね」
B:「あれは吸い方があって、正しくやらないとダメみたいよ。充分吸わないと全然効かない」
KK:「それに純度というのが重要」
B:「三角地帯のより南米の方が良いのがあるかもね」
G:「LSDってどんなの?」
B:「紙に沁みこませてあって。その紙を舌の上に乗せる。そしてジワジワ溶かせる」
G:「で、どうなるの?」
B:「KNさんが最近LSD使って詩を書いてるみたいよ。もともと精神病患者の薬で。Tripしてる人を観察してると、ジーとして全く動かない。『そんなに退屈?』って聞くと『心の中で物凄い事が起こっている。退屈と全く反対』って言ってた。錯覚とか幻覚の大群が押し寄せてくるんじゃないの?」
G:「あー、つまり、アヘン患者のように、じっとしてるけど心は現実の裏側状態でhappyなのね。で、そういう国民にしてしまえば、武器で戦わずに占領支配できちゃうわけだ」
KK:「戦意のない国民をつくれば何も戦争する必然性もない」
B:「戦争直後のヒロポンって流行ったみたいね。その年代の人に聞くと、ほとんどの人が体験してる」
G:「ああ、なんか、勉強するなら物凄く集中して出来るんだってね」
KK:「あれも、じゃ一種の占領政策だったのかなあ」
B:「一億玉砕気分は、少なくとも吹っ飛んだでしょうね」

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伊丹空港編:
香港からインド、アフガニスタン、イランを通ってトルコまでいくアジアハイウェイというルートがあるそうな。俊夫(仮名)は買ったゴリラかモンキーをペットにポンコツ車でそのあたりをウロウロしていた。前の年はヨーロッパと北欧、その前の年は北米、この数年でどんどんアウトローになっていく。空港まで出迎えに来てほしいと言う電報が来て伊丹に来たんだけれども、全然出てこない。もう最終便も到着して最後の乗客も帰った。この便に乗らなかったのか?乗客名簿を見せてもらおうか。もう少し待ってみよう。・・パイロットやスチュワーデスも出てきた。もう誰もいない。もう少し待ってみよう。あッ、電気も消された。このままでは帰りのタクシーも無くなる。それに暗い。今ここにいるのは私ひとりか?おかしい。逮捕されたのだろうか?麻薬不法所持。バカみたい。毎日絵入りで届くエアーメイルはTripとマスタベイションのことばっかり。タイで12歳の女の子が部屋に身体の押し売りに来たという話もあったけれど、何を考えているのやら。いくらなんでももう帰ろう。いや、もう少し待ってみよう。もう帰ろう・・。そこへ俊夫が満面の笑みを浮かべて、ゆっくりとこちらへ向かって手を振りながら歩いてきた。
「何かあったの?」「調べられてた」「やっぱり。それで?それにしても時間かかりすぎでしょう」「徹底的にやられた」「というと?」「つまり肛門の中まで調べられて、最後に浣腸までかけられ・・」「そこまでされて、よく笑ってられるね」「出迎えに来てくれて有難う」「見つかった?」「大丈夫。こっちの頭の方が一枚上手だ」「あほらし」

大きな手作りの何かの原石のネックレスをくれた。それから次にセロファンに包んだ墨の塊のようなものを取り出した。」「何処に隠してたの?」「メンソレータムの中」「これをどうするの?」「これを削る」鰹節のように削って、それから粉々にする。タバコを解く。タバコを巻く紙を取り出しそこにタバコの葉と粉々にした××を混ぜ合わせ、紙で巻く。・・(以下省略)

約10年後、New Yorkで、ミュージシャン修行をしている元生徒に会ったときも、その子も俊夫と全く同じ循環生活に入っていた。同じ作業工程で同じ様に吸う。音の聞こえ方が全然違うといった。レイモン・チャンドラーファンで、ニックネイムはチャンドラー。少し小太りだ。チャンドラと言えば、中国から超日王と言われたグプタ朝のチャンドラ・グプタ2世が私には筆頭に思い浮かぶ。「あなたは小太りのチャンドラだから、チャンドラ・グプタでなく、チャンドラ・プク太、と言う名前にしましょう」彼はその提案をいたく気に入ってくれた。あれから何年、New Yorkにとどまったのだろう。一時ミュージシャンとして活躍していると言う噂を聞いたが、その後の消息は杳として聞かない。

1ヵ月後梅田の地下街を歩いている時、私はジーザスクライスト・スーパースターに会った。その国籍不明の本格派ヒッピーは黒い布を地面に広げてアクセサリーを売っていた。「Bruxelles!」声をかけられて、初めて気づいた。俊夫だった。_________

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「Un accident」 par Michel Sadou 迫力のある歌です。


Shining Path

Shining Path 2004年6月3日 (Thu) 17:54:40

久しぶりに降って湧いたように適当な話し相手が現れたものだから、イランコントラからホワイトゲート、クメール・ルージュやらハイチ、ニカラグア、ブルンジそして、毛沢東思想がアフリカや南米まで飛んで、不幸を撒き散らしている話をした。南米のテロも毛沢東思想に駆られた、ほらあの、輝ける道とかなんとか・・ここで歳のせいか血液の流れが、鈍る。「センデロ・ルミノソのことをおっしゃってるんですか?」「そうそう、それそれ」「それから最近逮捕された大学教授のテロリストの・・」「グスマンですか」「そうそう」(原子力研究の理系なのに、さすが京大生よく知っている)

明日香歴史walkに行こうか、尖閣諸島上陸のビデオ上映会に行こうか迷っていた。すると「SAPIO」の投稿欄に、日本の将来を共に語ろう、と呼びかけている同市内(つまり近所)の青年を発見。「私は共に行動できないけれど頑張ってください。ところで今度の日曜日駅前のUビルで西村真悟議員の講演会があるので、よければ代わりに行っていただけませんか」とハガキを出した。そしてその日曜日、歴史walkに出かけたのだけれど、平地walkに気分が乗らず、思い切って途中で引き返しそのままUビルに直行。悪天候の中ボートで尖閣諸島に上陸をする姿を見て感動し、講演を終えた西村議員に(拉致問題もまだ表面化しておらず今ほど有名ではなかった。それどころか、このあとSPAでの放言で確か一度辞任に追い込まれている)握手を求め(グラサンをしている私を見て一瞬刺客かと、少しギクッとされたが)家に帰って食事の支度をしていた。そこへこの子が(といって24歳の大学院生なのだが)突然私のハガキを手にヒラヒラさせ、玄関に現れた。

それから1年位したころ、騒音問題解決に向けて友達に紹介された市会議員が家に来る事になっていた日、あわてて掃除している真最中に、誰かが来た。「どなたですか?」「××です。×××できました」「今忙しいです」「少しでいいんです」「時間無いです」…戸も開けなかった。・・さらに10ヶ月ほどしたある日、不意に、あの時来たのは、あの子だ!と気づいた。何かをいいに来た筈だ。少し迷ったが電話してみた。
「お正月一度帰ってきました。仲間の人と一緒で、親とは話もしません」「一人息子さんなのにね」「もう、いないものと諦めました」「辞める意思は無いようですか?辞める意思があって、こられたのではないかと思いまして。電話しました」
彼は北京大学に留学していた。「さよなら」をいいに来たのだ。あの時。北京大学という選択は自分の意思だったのだろうか。(原子力の研究・・・?)

彼がそれを言い出すまで3度ほど電話がかかってきた。2度目からは家でなくUビルで会って時事問題やらお互いの日常生活の話を90分ほどした。4度目も彼は切り出せなかった。話が進まず私が3分ほどで帰ろうと立ち上がった時、彼は意を決してその言葉を口にした。否口にしたのではなく、いきなりパンフを見せた。・・
「お金全部吸い上げられて、どうして生活してるの」
「生存ギリギリです。信仰心がないとおかしくなります」
「そのお金、どこへ行ってどう使われてるのか、しってるの?」
「・・・」
「例の抽選みたいな結婚式もしてるの?」「はい」「奥さんはどこにいるの」「いまニューヨークです」「どうして一緒にいないの?」「信仰上の結婚ですから。僕も以前ニューヨークで活動していました」「奥さんと一緒に?」「いいえ、お父様と一緒に」
まじまじと顔を見た。悪くない。狂信者の目でもない。むしろ澄み切っている。前途も明るい筈なのに。
「せめて、これだけでも目を通してください」
「教義ぐらい、一から自分で考えなくっちゃ。信仰はready-made思考。貴方ほどの人が他人に考えてもらうようじゃ、いくらお父様にでも・・」
「あっ、それもよくお父様に言われます。自分で考えろって」
私はケンモホロロを演じた。彼は迫った。私は日ごろ練習しているNO!を日本人としては苦手なNOを、明白なNOを態度で示した。それでも彼は取り縋った。両手で私の腕を取り押さえて、行かないでくれと。私はそこに彼の孤独を見た。迷っているのではないか。心にもう親も無く、結婚はしても触れ合いもせず、けれども組織の中心部にどんどん吸い寄せられていく自分に、不安を感じているのではないだろうか。逆洗脳。足抜き。一瞬頭を過ぎった。しかし彼の人生、彼の判断と選択を尊重しなければ。暖かい他者の無言の肯定の眼差しが、どうしても欲しいだけだろう。それにこの青年と存在を賭け、心の強さの綱引きをしたら、おそらく私が負けるだろう。信仰とは何度も逆揺れしては、その都度強化されるものだから。
約1年後扉の向こう側で、彼が名を名乗った時、全く思い出せなかったのは、T教会の青年としてのイメージがこの時固定し、彼個人の名前が消えてしまったからだった。

北京からこの先、何処へ続くのだろう。彼だけのShining Path(輝ける道)彼だけのセンデロ・ルミノソ。願わくば、なんとか国のかんとか開発に知らずに関与させられることのないように。仕掛けのある城を造った後の大工のようなdead endに行き着く道でないことを、切に祈っている。さようなら、原子力の頭脳を持った志ある日本の青年。

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「可愛いトンキン娘 La petite Tonkinoise」 par
Josephine Baker. 私が東銀や、ドイチェバンクやソシエテ・ジェネラルと下手なフランス語で交渉している頃、ParisにはまだJosephine Bakerの死の報道の余韻が色濃く残っていた。


PLANETE BARBARA

PLANETE BARBARA 2004年5月30日 (Sun) 18:27:50

ローケイションは抜群だった。正面は青空。眼下は瀬戸内海の青。その上にコロンブスのサンタ・マリア号を模した帆船がゆっくりと航海している。この人は私が手渡した’90年のプログラム冊子を両手で受け取り胸に引き寄せた。そして話している間中ずっと大事に抱きかかえていた。

私は私を廃人寸前に追いやった騒音地獄の真っ只中にいた。家の半分は二等船室さながら、音楽を楽しむどころか疲れ果て、セルフコントロールも効かずダメージは耳のみならず心臓にも及んでいた。そんな時、名前に記憶のない一通のエアーメイルが届いた。仕事でサントリー・ミュージアムに行く。よければ会いたい。資料が欲しいということだった。収集癖のない私は、直近のパンフ以外全く何もなかった。後先も考えず、服も着替えず、ただ電車と地下鉄を乗り換えて大阪港に着き、そこから歩いて天保山ホテルに向かった。

それより8年前。フェスティバルホール1F最前列中央にその人がいて、私は5席分ほど右寄りのやはり最前列にいた。暗闇の中で何度かその人はこちらを見た。私もその人の気配の方に何度か視線を投げた。近視で何も見えなかったけれど、多分何かを確認しあっていたのだろう。アンコールが終わるとまるで長年の友達のようにこちらに歩いてきて、私の花束を指し「楽屋に持っていくのがいいわね」「でも、楽屋って何処にあるの?」・・と会話がスタートした。この人、Dany Morisse はバルバラのワールドツアーを全部追っかけ、日本の公演も最前列中央ですべてを繰り返し見たという頭の下がるバルバラ狂だ。1年の休暇を取っている。私は電話をかけまくって今日のホテルをロイヤルと突き止めていた。「ロイヤルで待とう」と提案したが、フランスでは楽屋出口で待つのだと言った。雨が降ろうが風が吹こうが100人近くが何時間も何時間も平気で待つのだと言った。熱狂の度が違う。その夜は母が突発性難聴で入院して2日目だったので、私には心理的に時間の余裕が全く無かった。結局二人でロイヤルのフロントに行った。フロント係りが「バルバラさんがお出になりました」と受話器を渡そうとしたら「Non,non,non]と、突然Dany が焦りまくった。「どうしたの?」「とにかく切って」・・偉大なバルバラを前に狼狽したのか?ワールドツアーを追っかけているこの人が?謎のまま花束をフロントに預けて、母の待つ病院に急いだ。・・(バルバラがファンに要求するdiscretion.そしてDanyのこの過度なまでの遠慮と気配り。謎を解くにはSandra Thomas の1980年刊の「La barbaresque」、その存在と内容を知るまで13年間の歳月を要した)
私が歌うということを知ってDanyは後に80曲分程の楽譜を贈ってくれた。収集癖の無い私は自分が歌いたい曲が無いからと、きれいさっぱり、全部紛失してしまっている。バルバラファンの間だけに出回る60年代のラジオ出演の際の録音テイプ等も送ってくれた。ダビングにダビングを重ねた大昔のテイプなのでピーピーガーガーゼーゼー、ほとんど雑音なのだけれどフランスのバルバラファンの熱意が伝わってくる。・・
受け取ったエアーメイルの中に、8年前大阪で貴方にあったDanyからあなたの事を聞いたという一行があった。

「あの人が亡くなってむしろ余計に身近に感じられるようになった」と彼女は言った。「こんな曲知ってる?こんな曲は?」私は次々と好みの曲を小さな声でハミングした。当然のことながら彼女はすべての曲をフランス語で記憶していた。あと数ヶ月したら死によって中断した自筆の伝記が出版される。そしたら、それをお礼に送ると約束してくれた。孤独なファンとしては、ここぞと質問の矢を放ったが、肝心の死因と子供に関しては、うまくかわされた。それがJeanne Sudourとの出会いだった。その年の秋自伝「Il etait un piano noir」が航空便で届けられた。Chorusの特集号も送ってくれた。

そして2年後、つまりバルバラの死後3年目にJeanne とDany は偶発的な仲間10人程と結集して、Les Amis de Barbara を誕生させた。Les Amis de BarbaraとPassion-barbara Netに触発されたこのPLANETE BARBARA。サイトの発芽はひょっとしたら14年前のFestival Hallの暗闇にまで遡るかも知れない。

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Le chanteur malheureux par Claude Francois
このタイトルのとおり,感電死という死に方で、本当に不幸な歌手になってしまったクロクロ。

日仏学館創立50周年記念Party

日仏学館創立50周年記念Party 2004年5月19日 (Wed) 14:59:52

動いているつもりだった。おかしい。進んでいない。手を突き出してフロントガラスに触れる。無い。砕けて何もかも無い。顔にぬめりを感じた。手をやる。血だ。バックミラーで確かめる。血まみれだ。頭が切れているのか、割れているのか。事故?証拠写真を撮ろう。カメラに手をやる。血まみれの自分を撮るのか?そこを他人に見られたら。やはり異様だろう。止める。先を見る。バンパーが少し浮き上がって、そこから煙が出ている。逃げなければ。ドアに手をやる。足がピクリとも動かない。血が滲んだ膝の骨が突き出て皿が三角形になっている。急に肋骨全体が痛み出した。息ができないほど痛い。折れたのか。血が吹き出て、目があけておれなくなる。・・・

今日はアメリカ人CCが企画したPartyの日。二人で全部やってきた。ワインにチーズ等の軽食。レコードにPAシステム、ミラーボールのレンタル、アルコールの発注。ポスターの制作。パーティー券300枚の完売。アルバイトの配置、室内のデコレーション,フレンチガーデンの小イベント。何日もかけて、多くの人に会い一つ一つ整えていった。会場は京都の日仏学館館長と交渉して、タイトルも創立50周年記念Partyとした。今日、総合司会を英仏日語でやる。シルバーグリーンのドレス。シルバーのハイヒール。そして何枚かの愛聴盤を車に積んである。綺麗に洗浄して、包帯を巻いて添え木をして松葉杖をついて、遅れていくか。CCに連絡しなければ。それより早く脱出しなければ。

CCと会ったのはCCが日本に来た翌日。雨にぬれて道に迷って20分遅れて教室にやってきた。リスニングの授業のアシスタントティーチャーだ。CCは日本に到着したその足で面接に行き、翌日、つまりこの授業が最初の仕事だった。まだホテルに泊まっていた。週末に家を探すと言っていた。・・いつも帰りに和風パブで語り合うようになった。何より持病が同じだ。吸入器を見せ合って笑った。・・CCに日本語を教えるようになり、毎回父の英文日記を1冊貸し、平行して敗戦直後の日本を教えた。CCは日本に順応するのが驚くほど速かった。私よりも15若い。一ヵ月後にはクラブに所属するファッションモデルになった。当然語学学校(ECC)でも人気絶大だ。とても柔軟な性格でその上謙虚だ。ただCCは語学の教師やモデルより将来的には別の何かをやりたがっていた。このPartyは、とりあえずのワン・ステップだった。

結局私は膝の皿と大たい骨の複雑骨折その他で、レントゲンを見ながらの観血手術、3ヶ月の絶対安静、六ヶ月の入院、一年のリハビリ・・という、とんでもない悲劇のドラマをこの先体験することになるのだが、当初は何とかPartyに行けると思っていた。休日の筈だった院長が出てきて、私の膝にドリルで金属の棒をゴリゴリゴリゴリ回転させて貫き通した。膝の骨が出会い頭に、癒着しないためだ。さらに足の先に錘を付けて引っ張る。院長は滑車の原理で説明した。すでに頭は7針ほど縫った。服も顔も髪の毛もシーツもマットレスも何もかも血まみれでベトベトだ。

その頃日仏学館の会場には、私の友達も多く詰め掛けていた。花束を持って。渡す相手が見当たらないのでウロウロしていた。CCが急遽オープニングの挨拶を代理で始めた。訳がわからず不安で声が震えている。
       「 SPECIAL THANKS TO MY FRIEND BRUXELLES.」

18年前の今日の出来事だ。
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Il pleut sur Bruxelles. par DALIDA

オーディション

オーディション 2004年5月18日 (Tue) 16:30:49

リハーサルの後休憩。ここで衣装をつける人もいた。私はこのまま仕事に行くので、普段着のまま。
「ナントを歌った人、ドラマチックでしたねえ」
「ドラマチックな歌だからといって、激情的に歌えばいいというものでもない」
「確かに」 席をかわる。ナントの人の隣に座る。「バルバラお好きですか?」「もう3年も前から歌ってるわ」「私もバルバラ歌うんです。」「あなた、先生誰?」「えぇ??」「誰に師事してるのよ」 誰にって言われても。勝手に歌ってるだけなんだけど。そうだ、楽譜を採譜してもらった方がいる。ああ、もう13年前にもなるのかあ。でも伴奏もしてもらったし、歌ってたのだから、あの人を先生にしようっと。「あの、村田先生です」「MURATA、知らないわね、そんな人」・・この人シャンソン界のすべての先生をご存知なのか?・・「あなたは?」「××先生」
・・聞いたこともない。「音大の声楽科出てるの、私」「そうですか」 席をかわろうっと。

「声楽科卒の人とか、プロの人が多いですね。」
「私もロイヤルで歌ってるの」
「弾き語り?」「そう」「シャンソンですか?」「シャンソンはめったにない」・・・聞いた人全部が声楽科卒で、どこかで歌っている、と答えた。
一人若い子がアダモが好きで歌いたいと紛れ込んでいた。
「去年も神戸にアダモが来て、・・。あなた両方とも原語で歌ってカッコよかったですよ」「有難う。リハーサルも一番先に歌わせてもらったんだけど。ライトのところに立たなかったのと、先に帰りたいといったので、マダムの機嫌を損ねてしまいました」

ここは曽根崎新地のシャンソニエ。今日の最終オーディションで、一人だけプロデビューできる。東芝EMIの人も本番の審査に何人か加わる。どのピアニストで歌ってもそうだけれどL'aigle Noirは、終わり方が大変らしくピアニストはいつも焦り、かなり延々と弾く。オーディションでは、フェイドアウトできない。

さあ、本番だ!
♪ Un beau jour・・・♪
2曲歌うことになっている。アダモの「明日月の上で」
♪ A demain sur la lune・・・♪
審査中、他の人は全員店の外に出て、ひたすら順番を待つ。おや、マダムはカウンターに座って最後まで私に背を向けたままだ。きつい拒絶。
生の伴奏で歌うのは久しぶりだ。気持ちいい。最高!

外に出た。次の人とバトンタッチ。
「ねえ、私の声、聞こえてました?」
「聞こえてた」
「うまく歌ってました?」「・・・」バカな質問をした。
オーディションとは厳しいものだ。人生をかけている人もいる。仕事に行く途中に立ち寄ってヒャラヒャラ歌うのは、やはり不味かったかなあ。

「黒いわしを歌って、どうこう言えるわけでもないけど、選曲みんな、ほとんど同じね」
「楽譜が無いからよ。それに先生が持っていらっしゃる歌を教えていただくの」「私は昔、レコードから、採譜してもらいましたよ。セルジュ・ラマとかアンヌ・シルベストルとかも」
「そんなこと、頼めないわ」
「じゃ、ご自分でなされば?」「できないわよ、そんなこと」
採譜できなければ、取り寄せればいいのに。つまり、師事というのは、師匠の持ち歌を伝授していただく事なのか。××氏に師事がないと、モグリということなのか?

よし、今度万一、オーディションに出ることがあれば、桂米朝に師事、と書こう。



今日のお勧めは、アダモの「Mes mains sur tes hanches」(夢の中に君がいる)にしておきましょう。やっぱりC'est ma vie.にします。やっぱり「Chat gris chagrin」にします。


天満屋和三郎の妻

天満屋和三郎の妻 2004年5月15日 (Sat) 12:49:08

「Bちゃん、この本分厚いのに安いねえ」
「これね、週刊だし、ほら、触ってみて、紙の質が悪いから」
「それにしても、この大きさで30円なんて」
今日は少し息が楽だ。「少年サンデー」を買ってきてもらって、スポーツマン金太郎を読む。ピッチャーが金太郎でキャッチャーが熊。熊と野球が出来るなんてとても楽しい。

「Bちゃん。漫画読めるんだったら、今お天気もいいし、外に出てみない?・・噂によると職員会議で揉めてるらしいよ」
「今まで、何とか、ほら、ごまかして進級できたから」
「来年もう一回やりますっていってきたけど、今3年だから。来年無いもの」
「じゃ、3年をもう一回する」
「私がカバン持ってあげるから、ちょっと学校へ顔出してみない?」
70歳を過ぎた祖母にカバンを持ってもらい制服を着た。意を決して家を出たものの苦しい。5Mも歩けない。
「ちょっと一服」「うん。そうしましょう」
結局5M歩いては3分ほど休み、5M歩いては5分ほど休み。これじゃなかなか進めない。
「肩で息してるね。ゼーゼー始めたね。どうする。止める?」
「ちょっと休もう」・・呼吸を整える。なんだか果てしなく遠い。記憶の中では学校へ行く道さえ、はっきりわからない。それほど行っていない。

PTAに行った時「これはこれは、Bさんのおばあさまですか。お宅のお孫さんは成績優秀で・・」と、あまり評判のよくない英語の教師によいしょされて、上機嫌で帰ってきた祖母。担任の教師に「君のおばあさん、なんか貫禄あって話すと威圧感を感じる」と言われ「ああ、昔、船場の御寮さんやってたので、人を見るとみんな番頭や丁稚に見えるらしくて。すみません。それにやけにpedanticで困ってます」と私が謝っている事など知らない祖母。ハーハーゼーゼーいって立ち止まってはその祖母と顔を見合わせる。

あれは5歳のときだった。友達と遊んでグッドバイと言って別れ、家の玄関を開けた。祖母が仁王立ちしている。「Bちゃん、今なんて言いましたか?」「何にも」「お友達と別れるとき何て言いましたか」「??・・あっ、グッド・バイ!」・・祖母は悲しい顔をした。「こんな情けない子は私の孫ではない」「・・・」「よその家に帰りなさい」「何怒ってるの?何も言ってないよ」「Bちゃん、Dは口の中に留め置き、大きな音を出さない。DはDOとは違う。Good-bye。言って御覧なさい」「幼稚園でグッド・バイ、グッド・バイ、バーイバイ、ってお歌習ったよ」
  ・・・ ・・・
そう言えば子守唄代わりに一番最初に覚えた歌は全部賛美歌だった。あいうえおの前にABCを教えられた。現住所の前に本籍地を教えられた。「あんたはイトはん。船場のトーハン」B29で何もかも灰になったのに、プライドだけで生きている。?武士はくわねど高楊枝。?Bちゃんは意志薄弱、Bちゃんは傍若無人、Bちゃんは井の中の蛙、Bちゃんは盲蛇に怖じず、Bちゃんは天衣無縫、Bちゃんは、美人薄命かどうかはまだわからないけど。?「はいはい、おばあちゃんには、足元にも及びません」平身低頭。?手ごわい祖母が私にはいた。発音とイントネイションの厳しいチェック。外出時は、服装と表情と姿勢のチェック。長い間完全管理下にいた。?「はい、はひとつでよろしい」

「もう帰ろうか」祖母が言った。今まで来た道を帰るだけの気力が無かった。・・ようやく中学校に到着。階段がうらめしかった。「教室は何階?」「多分3階の左側」登りはさらに苦しい。3段で一休み。ゼーゼー息をして、もう声も出ない。また3段。踊り場で15分ほど休んで・・・。ようやく教室の前に来た。「やっぱりもう帰るか?」祖母の目に哀れみが見えた。私は全力をかき集めた。ここまで来たんだから、今から授業を受ける。それでもドアを開ける前に決心するのに5分程かかった。情けない表情と情けない姿勢でドアを開けるわけにはいかない。元気よく、元気よく。大きく息を吸って、ガラガラガラガラ・・・大きな音で全開した。生徒が皆驚いた顔で一斉にこちらを見る。集中砲火だ。いや集中眼火。気力を込めて一歩踏み込もうとしたら、・・コンキンカンキン、コンキンカンキン・・本日の全授業終了の鐘が鳴った。

卒倒したいところだった。もう、なりふり構わずヨタヨタと教壇に倒れこんで、言った。
「シュ、シュ、シュッシェキ、ゼーゼー、ハーハー、イチニチブン、ゼーゼーハーハー、・・グダジャイーーー!」


今日のお勧めはSerge Lama のJe suis malade.「灰色の途」Dalida がこの歌を歌っているのを見たとき、そこに神経衰弱の女
の顔を見た。あれだけ成功してあれだけ魅力的な女性が、何をそんなに苦しみ、なぜ命を絶ったのか。こんな歌を歌わせて、まるで自殺を教唆するようなものだ。


学園ドラマ

学園ドラマ 2004年5月13日 (Thu) 16:26:49

「あの子のバンドで歌いたい」友達の生徒会長に打ち明けた。夕方向かいのT坊が「Bruxelles,音あわせしよう」と直接家にやって来た。「涙の太陽、と500マイル、でどお?」「プレスリーのHound Dog をやりたい」・・・・・
進学校ではない。校門を入って左右を見渡すと2,3のカップルがすぐに目に付く、青春学園ドラマを地で行くお気楽高校だった。T坊のバンドは鈴木やすしの勝ち抜きエレキ合戦に登場。アニマルズの「朝日のあたる家」をやった学内最高のバンドだ。
Take me take me take my heart and all I was born to be yours・・・テケテケテケテケ・・・

高校へ行くつもりはなかった。通信教育を主張したのだがYOさんが「それでは友達ができない。6年でも7年でもゆっくり通学すればいい。私立でもいい。学費は出させてもらいたい」と言って下さった。お嬢様でもないのにお嬢様校へいける筈がない。身体に負担がかからない様に公立の一番近い学校にしよう。どうなるかわからないけど。

受験の日まで丸2週間吐き続けて、食事は出来なかった。往診してもらいブドウ糖の注射をしていた。久々に立ち上がったがフラフラだった。毛布に包まれタクシーに押し込まれそれでも受験に行った。当時は全教科テストだった。美術のテストで、手で力強く握りこぶしをつくり、デッサンせよ、という問題があった。握り拳をつくってみたが、食べた後のチキンのようだった。気力が失せた。これ以上セキをして迷惑をかけるわけにもいかない。Give Upだ。手を上げ退出した。近くの医者に駆けつけてもらった。当人はこのまま逃げ帰ろうと思っていたが、医者に証明をもらって、午後からも続けて保健室で受験することになった。どんな注射をしたのかわからないが、やけに眠かった。家庭科の教師が鉛筆を落とした私の手に無理やりそれを握らせた。ウツラウツラすると「起きなさい。目を開けて」と、保健の教師が何度も何度も身体を揺すった。ヨダレを拭いて再度問題に目をやった。500人中450番くらいで、どうにかひっかかった。

これが楽しい学校だった。特に1年生のクラス。体育祭の後のキャンプファイヤー。クリスマスのクラスパーティー。トロイドナヒューの「恋のパームスプリングス」でツイストを踊りまくった。1年生で行く修学旅行の霧ヶ峰には行けなかったけれどクラス全員で白樺に木彫をしてお土産をくれた。同じ班の人達は夜空を見上げて現地で私の作った「おやすみなさい」を皆で歌って私をバーチャル参加させてくれた。

文化祭の1週間前からまた病気で動けなくなった。当日も強い薬のために眠っていた。するとクラスメートの(えむ)さんが花束を持ってお見舞いに来てくれた。「友情は楽しさを2倍にし、悲しみを半減する」というメッセイジが付いていた。びっくりしていると次に(えぬ)さんが心配顔でお見舞いに来た。入れ替わるように(あい)さんが、この人はお弁当持参で現れた。「文化祭見なくていいの?」「あんなん行くよりBruxellesさんと話してるほうがいい」と言ってくれた。気遣ってくれているのだ。(あい)さんが帰った後、自分でも何を思ったのか、エフェドリンを水で流し込み気管支を急いで拡張させた。起き上がって服を着て家を出た。一度も行った事のない四天王寺会館へ迷わず行けた。そろりとドアを開けた。ブラスバンド部の「鉄腕アトム」が聞こえてきた。私はひょろひょろと2階の一番奥の隅に座った。

「Close your eyes]のところで真っ暗だった舞台にスポットが当たった。T坊だ。And I love her.・・・ビートルズナンバーを歌っている。わたしの代役の子が現れた。「学生時代」を歌った。その頃、一人が私の存在に気づいた。次に一人。次に一人。何人かが暗闇で私の心を支えてくれた。「何よ、あの子。BruxellesさんのHound Dog聞きたかったわ」「でも良かった」「何言ってるのよ。身体大丈夫なの?私達が家に送ってあげるわ」「これからズッとあのバンドあの子でいくのかしら」「いいことも、きっとあるわ。元気出してね。こんなことで、へこたれないでよ」

やっと事情が呑みこめた。私は病気でボーイフレンドとボーカルの座を奪われた、学園ドラマの悲劇のヒロインになっていたのだ。

ALL MY LOVINGを聞く : And I Love Herを聞く

六本木のMM

六本木のMM 2004年5月9日 (Sun) 16:43:29

「あなた、池玲子に似てるね」
「えぇ、池玲子って、日活ロマンポルノの?」
「そう。」
「まさか?。そんなこと言われたことない。養護学校にいる時は小百合お姉様って言われてたんだから」
「小百合って、吉永?まさか?」今度はMMがズッコケた。
「少なくとも清純派でしょう」
「私のこと何か聞いてる?」
「何も。Gribouilleが今夜は六本木のMMの所に泊めて貰えって。でお店に連れて行かれた。」
「貴方さっきお店で私のこと徹底的に無視したでしょう。全然興味ない顔してた。ツーンって。」
「あっ。御免なさい。一人でラストまで待ってるって。うーん。どんな顔してたらいいか、分からなかったから。」
「私はねトランクひとつ下げて広島から東京へ出てきたの。これがホステスの契約書。」
「これが雇用契約書、あのお店との?」
「以来7年間、無遅刻,無欠席よ」
「へーえ。私なんか、有遅刻、無出席よ」
「学校行ってないの?」
「行ってない。第一今無いもの。封鎖中。」
「明日休みだから、今夜ゆっくり話そう」
・・・・・・・
これが六本木のホステスの一人暮らしのお部屋か、と思ってじっくり見回すと、人が一人いた。小さな存在感の無い茶髪の子で、黙って、ひっそり、マニキュアを塗っている。
「貴方いくつ?16位?」「17」「何してるの?」「ホステス」
「ねえ、あの子誰?」
「同居人」
「お手伝い?」・・・もう一度その子の方を見ると、その子は自分はこの人の恋人だと目で訴えた。

「ほら、そこに仏壇があるでしょう。私は毎日お花を上げてる。毎日手を合わせてる。物凄く好きな恋人がいたの。でも死なれた。首吊り」
「何歳ぐらいの時。相手は何歳、どんな人だったの?」
「私はまだ高校生だった。相手は40歳くらい。その人には私と4歳くらいしか違わない娘がいた。」
「どうして知り合ったの?」
「電気屋さんの奥さんだった。電気製品買いに行って」
「ええぇ!!それで?」
「一緒に暮らし始めた。娘も引き取って。」
「揉めなかった?」
「離婚するときは大騒ぎだった。」
「それじゃ、広島にいられないね。」
「これが、その恋人と交わした手紙の束。全部取ってある。読んでもいいよ。」
「・・・・・・なんだかやけに具体的ね。へーえ。ふーん。わーあ。すっごい。濃厚。回数まで具体的に。・・・これさあ、あのー、日活ロマンポルノみたいな、手紙ね」
「そんなこと言うんだったら、もう返して」
「御免なさい。そんなに、めくるめく、ものかと思って」
「私はね、高校やめて朝昼夜と働いたんだけど、結局、生活がおっつかなくて」
「追い詰められたのね。」
「ある夜ね、働いているとき突然、ドスーンという音が聞こえた。身体が硬直した。その時まで自殺は全く考えもつかなかったのにその音が聞こえた時、あっ、あの人が死んだんだって思った。」
「ええぇ・・・!」
「そしたら、その時刻にあの人が首をくくって死んでた。」
「・・・・・・・」


2年ほどして六本木のMMのドアをノックした。
パジャマ姿のMMがステテコ姿の新聞社の幹部と、銀座に店をオープンするプランを練っていた。
「オープンのお知らせ文の文案を考えてたとこ。Bruxellesも文案一緒に考えてみてよ」

こうして銀座のママが一人デビューする。


今日は,Barbara,Juliette Greco,Germaine Montero,Monique Morelli,Catherine Sauvage,Francesca Sollevilleらが歌っている「La chanson de Margaret](ピエール・マッコルラン作詞ヴィクトル・マルソー作曲)をお勧めします。バルバラの「Madame」はこれが下地ではないか、と思うような内容です。L'aigle noirの面影さえも後半には見える。私も好きなシャンソンの名曲です。


Bruxelles 卒倒する

Bruxelles 卒倒する 2004年5月8日 (Sat) 18:44:13

新宿3丁目の文字が見えた。次に気づいたら沢山の人の顔が輪になって上から私を眺めていた。地下鉄のドア付近で倒れたらしい。ああ恥ずかしい。すぐ起き上がった。大丈夫です大丈夫です。何人かの人が支えてくれた。駅員さんも走ってきた。乗客が去って駅員さんが両側に立っていた。「もう大丈夫です」と言ったつもりだったがまた倒れた。担架がやってきた。私は担架に乗せられ階段を上りながら「降ろしてください。今日中に大阪に帰らなくちゃ」と叫んだ。駅長室で担架を降りた。「どうされたんですか?」「今から大阪に帰るんです。有難うございました。」と言いながら、また倒れたらしい。医務室のベッドに横たわっていた。起き上がった。「友達に荷物預けてあって。連絡したいから電話貸して下さい」と言った。受話器を取ってダイヤルを回した。「もしもし直ちゃん、・・・」受話器を耳に押し当てたまま崩れ落ちた。・・・・・どれくらい経ったか、小田急のピッザ店でバイトしている直ちゃんと、店の人が駆けつけてくれて、やっとわれに返った。

次の朝Gribouilleに似た友達の家に行った。
「ゆうべは湿度が高かったからね。なに!ブランデー6杯飲んだって!夜行バスで帰るっていうから。10時半でしょう?時間あると思って。パーティーに行けって言った私も悪かったねえ。えぇ?便秘してたの?じゃここね。こうしてっと。」
Gribouilleのベッドの上で、全身マッサージをしてもらった。卒倒したのは生まれて初めてだったのでショックだった。KKや六本木のホステスのMM達のパーティーに出て、時間的に焦っていたので30分位しかいなかった。話す時間もなく、グラスに注いでもらったものを、考えもなく次々と飲んだ。吐き気も酔いも何も無かったのに。

なんだか精神的にもグッタリだった。あれれ。今度はお腹の調子がおかしい。ベッドから跳ね起きてトイレに走った。

「昨日Bruxelles倒れたんだって。そう。今、うちにいるよ。便秘だって言うから、マッサージして、××筋を刺激したら,○○筋が緩みすぎて今度は下痢してんの。ハッハッハッハッハッハッ」
「もしもしあのね、昨日Bruxellesがね・・・・・・ハッハッハッハッハッ」
Gribouilleはあちこちに同じ電話をしている。Gribouilleはとっても楽しそうだ。ベッドに横たわっている私は、まるで生物実験のカエルの心境に近い。飛び跳ねる無脳カエルだ。

「Bruxelles、今日は夜行バスでなく新幹線で帰るといい。」断る私に無理やりお金を貸してくれた。決して甘やかさせてくれないのに、時々優しいGribouille。

新幹線には二人見送りに来てくれた。KKと、後に、私と仮のペアーを組んで「アジアの少年の館」に行くことになるLLだ。ー
Gribouilleは、笑うために電話していたのではなかったのだ。


日曜昼のモンマルトル

日曜昼のモンマルトル 2004年5月6日 (Thu) 16:38:57

日曜昼のモンマルトルは、特にサクレクール辺りはちょっとしたラッシュアワーだ。KKをホテルまで迎えにいってここまでやってきた。さっきクレープを買って「ヘップバーンがローマの休日でソフトクリームを立ち食いするまで、ねえ、ブリュッセルちゃん、僕たちこういうのって抵抗あったよね」「今でも抵抗ある。でもあのジャガイモの揚げたのなんか、歩き食い用そのものだものね」などと言いながら階段を登った。

「ねえねえ、あの人と写真撮りたいんだけど、Bruxellesちゃん頼んでみて」
「OK」と引き受けたものの指差すほうを見て吃驚。白いコットンのジーンズに白の上着。ただ胸を丸出しにしている。その上その若い男は丸出しの胸と両腕一面に虎のイレズミがあるではないか。「止めようよ」と言おうとしたがKKが既に真剣モードに入っていてカメラの準備もしている。勇気を出してモンマルトルのやくざに声をかけるしかない。「もしもし、失礼します。私の友達がそのご立派なあなたの虎をば見て・・・」
ふと気づくと男の横に女がいて腕を組んでいる。はっと見て驚いた。まだ若い。けれど既に100%娼婦だ。顔の相にそれが出ている。痛々しい。田舎からパリに出てきたばかりなんだろう。ロングドレスだ。してみるとこの男はやくざではなくヒモか。私が察するにギクッとしたのは私だけではなくて、この男の方だったようだ。まさか観光客に一緒に写真を撮らせてほしいと頼まれようとは、夢思わなかっただろう。男は一瞬次の態度の判断に迷っていたようだ。その瞬間男と女の間にKKが滑り込み、そっと男の腰に手を回し晴れ晴れと微笑んだ。男は笑う方を選択し、女もつられて、ぎこちなく笑った。
「今度はBruxellesちゃんの番よ」
KKがカメラを取り上げ私をヒモと娼婦の間に押し込んだ。「はい、笑って」私はクレープを持って笑った。

KKがサンフランシスコに帰って数日して写真ができた。私が写したものはKKがまん中、男と女は両端。しかしKKが撮ったものは、男が中央、私が右端、男のスケは枠の外に消えていた。


追加:
今日はGermaine Montero かAristide Bruantの「A SAINT LAZARE」(サンラザールから、あんたに)をお勧めします。サンラザールは駅名の方でなく有名な牢屋の方です。生活の術のない「町の男」ヒモ(「Dans la rue」に出てくる男のような)になにかと思いをはせ、心を砕き不安を覚え牢屋から切々と書き送る娼婦の手紙がこの歌の内容です。
追加:
バルバラも昔々この歌をレパートリーに入れていました。バルバラの声質に合う歌だと思いますです。


アジアの少年たち

アジアの少年たち 2004年5月5日 (Wed) 16:52:49

小学生でジャズ喫茶、中学生でキャバレー、二十歳過ぎてディスコのDJブースのハイジャックまでの話は以前ここに書いた。それはすぐに飽きた。後、パブ、アルサロ、ナイトクラブ、ラウンジ、サロン、ゲイバー、レズバー、それぞれの隠れ版、ホストクラブ、バニーガールのいる会員制のプレイボーイクラブ、二十歳過ぎて色んな人に色んな所へ連れて行ってもらった。
パリにいる時は、クーポン券を2枚持ってジュネーブからやって来た友人のKKに「案内して」と頼まれ、モンマルトルで男性のストリップショーも見た。KK(男性)は垂涎ものの様子だけれど私は客席のほうにずっと興味があった。夜のモンマルトル「ノーキョー、ノーキョー、キテキテ」の呼び込みがあったのを覚えている。

だが所詮お金を出して遊ぶところなど、刺激や興奮は底が知れている。それよりもその前前年このKKがまだサンフランシスコにいる頃案内してくれた、アジアの少年の館の方がよほど深い興味が残った。それはアメリカ人の医師の多分自宅で、電気仕掛けのドアや鉄格子があって、この医師のコレクションが保存されていた。現代絵画がびっしりと壁を覆っている。そしてアジアの少年たちがまるで飼われた室内犬のように各部屋のあちこちに居た。古典的名作ポルノの世界が展開していた。ガラスのテーブルにはプレイボーイならぬプレイガールというグラビア誌があって男性ヌードで構成されている。ドリンクを飲みながらこの医師と何かゆっくりと会話を交わしたのを覚えている。内容はすっかり忘れた。ただ決して癒えない孤独感をまとったこの医師の哀愁と疲労に満ちた顔だけは、今でも心に強く刻まれている。


複葉機


複葉機 2004年5月2日 (Sun) 18:23:05

機体に乗って給油していたら、後ろから大きな怒鳴り声がした。まさか自分に怒りが向けられたとは露知らず、間抜けな顔で振り向いた。

リンドバーグファッション、スカーフまで巻いた男が怒り狂っていた。私の顔を見るとものを言う気も失せたのか、今度はイギリス人の教官ピーターに食ってかかった。
「お前こいつの教官か。何を指導してるんだ」
「彼女は何も間違っていない」
「オレはあやうく死ぬところだったじゃないか。ビュンビュンビュンビュン飛びやがって」
「彼女は場周経路できっちり報告してる。お前こそだいたいラジオ(無線のこと)も付いてない飛行機に乗ってきて、非常識じゃないか」
「ラジオがないと、この飛行場は着陸出来ないのか。違うだろう」
「無謀な飛び方をして、彼女を危険な目に合わせたのは、お前のほうだ。よく反省しろ」

リンドバーグの隣には、やはりビシッと飛行服を着込んでスカーフをなびかせた女性がいる。隣の男性の怒りには全然感染していなくて、物珍しそうにジロジロ私の方を観察している。まさか女、しかも東洋人の女が振り向くとは思ってもいなかったのだ。こんなミズーリ州の小都市(Kenette)で。好奇心丸出しの目だ。

そう言えば、わたしがインドのニューデリーでガイドの説明を一番外周で聞いていたら、大通りの向こうに、キュキュキューと大きな音がしてタクシーが急停車した。バタバタとドアが開いて中からインド人が5人、こちらを向いて大急ぎで走って来る。なんだなんだと思っていると無言で私を取り巻いて、一人が前に出てカメラを構えた。「ああ、写真?シャッター押しましょうか?」と言っているのに、一人が黙って首を振るだけ。後全員は完全無視だ。私を真ん中に押し込みパチパチパチ。そのまま無言で走り出しタクシーのドアをバタバタさせて,再びキューと急発進して去った。何なんだ。立場が逆。私はニューデリーの観光名所か、はたまた商品見本か?私がアガスティアの葉に見えたのか?

殺気もないし不快でもない。ただ人間扱いではなく、たとえば、大人のおもちゃを見つけて、あら、どう動くのかしら、と不思議がる目だ。・・・

男はピーターに言い負かされ、プリプリしながら帰っていく。女はその後を「あら、どう動くのかしら」と振り返りつつ帰っていく。
二人が乗ったのは前後一人づつ乗る二人乗りの複葉機だ。無条件にカッコイイ。ピーターと並んで飛び去るのをじっと見た。「華麗なる飛行機野郎」ちょっと時代がタイムスリップする。「紅の豚」ピーターの目にはそう映ったかもしれない。

Quand nous chanterons le temps des cerises,Et gai rossignol
et merle moqueur serons tous en fete・・・・・・・・・・・


Mayday Mayday Mayday

Mayday Mayday Mayday 2004年5月1日 (Sat) 17:28:06

私は昔Maydayというレコードを大事に持っていた。もはや死語となった血のメーデーのメーデーではない。ニッチもサッチも行かなくなったときパイロットが発する言葉である。そのレコードはメーデーが発せられた瞬間から始まり、ようやく無事着地して帰り着き「コーヒーでもどうだい?」とホット顔がほころぶ瞬間までを、何本かライブ録音したものだ。パイロットの声は逼迫しているが管制塔はあくまで冷静。冷静な声しか出さない。

Maydayのひとつ手前が,emergency.緊急事態発生である。他人事と思っていたが私も一度体験している。
突然白い雲が地面から湧き出て視界が利かなくなった。最終テスト前だったので、emergencyは言いたくなかったが、死ぬよりましだ。emergency 用に周波数を合わせてマイクを握る。ロストポジション。現在2時の方向へ××ノットで飛行中。できるだけ詳しい情報を伝えて、レーダー上で位置を確認してもらう。後は耳に聞こえる指示通りに従えばいい。見えるものを手当たり次第に言う。・・・

「はい、終わります。」まだはらはらしているのに交信を切られた。「wait、 wait.交信続けてー」「飛行場が見えただろう?」「飛行場なんか、見えない。どこにも、見えない。」「真上にいるんだけどね」・・・・

機体を傾けて真下を見たら、飛行場があった。ああ、やれやれ。


追加:
5月1日はフランスではスズランを人にあげる日。ところがこのスズラン、毒性が強くて、殺人に使用される。トリカブトといい勝負だそうだ。



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