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姫神さんへの手紙 (6)

○手紙有難う。文京の方、校正するの、そんなにイヤ?そんなに?実はブリュッセルの友達が貿易会社の仕事口見つけてくれそうなので、近日中にウイかノンを言わなくっちゃ。

○もしね、もし文京の四城シリーズ(これも単独でなく芦原修二とカップリングだと思うのです)が出て、潮流社の連載が決まったら、・・・その時は、私の青春のためにではなく、それにピリオドをうって、今度は職業としてストーリー・テラーになるつもり。そして自分自身のためには・・(略)。これからは、ジャーナリストとしての眼をもった作品を書きたい。

○小川氏の手紙転送有難う。やっと嬉しくなってきた。だって、この件でもガックリきてたんだから。でももうすぐね。出たら、知らせてね。一体どんな本なんでしょうか?

○あの本が出た夢を見た。出るな・・という気がしたけど、よけい無理に期待を殺してきた。

○とにもかくにもあと少しで(あの本)が出るんだから嬉しいです。文庫本に入るみたいね。あの社会思想社の現代教養文庫に入るなんて光栄。でも小説として出るのか、手記として出るのか、どっちだろうか?これに加えてもしあの四城シリーズが出たら、あとは何とか、なんとか頑張ったら、やり方次第で、なんとかなるかもね。

○W法律事務所の上田さんと言う人に、10月末出版予定の中の(1)が私の本だと、伝えて下さい。彼女に調べてもらったんだけど、タイトルは「1945年を軸としてー昭和史の記録?」(仮題)だそうです。出たら、すぐに知らせてね。

○新刊の単行本じゃなくて、少しがっかりだったけど、あなたの言うように単行本だったら、数ヶ月で書店から消える。でも文庫本だったら、何年も何年も書店に行けばそこで手にとることが出来る。これって、凄いよね。それに社会思想社の教養文庫なら、どこの書店にもある!

●出るのか出ないのか、出るとしたらどの出版社からか、またどういう形になるのか、全く分からなかった。著者不在で、結局あれよあれよと言う間に著者校正のないまま出版された。作品は四城シリーズの中から一編。しかも昭和史の記録として、つまり社会性のある記録作品として、全三冊のシリーズの一冊に収録されるという形になった。私としては純文学のつもりで、イデオロギー性は全くないと思っていたので、とても意外だった。私の作品のタイトルは「帰ろう愛の天使たち」サブタイトルは「または無音のシラブルの意思について」、サブタイトルからも分かるように、三分の一は言語に関する哲学的考察である。ストーリーのメインは堕天使たちの悲恋のお話。残りの三分の一は、昭和42年あたりから昭和46年辺りまでの時代背景。つまりあの’68の青春記録である。今読めば確かに確たる政治的視点がある。詩を書き、創作し文学仲間と交わりながらも、学生時代政治クラブに身を置いていた。姿勢は一貫して揺らぐことはなかったが、時代の流れや文学仲間達と完全に逆流していた。時代は私にとっては押し寄せてくる大波であった。実際匿名の者達から脅迫状や刃物を受け取ったこともある。大波を被り息も絶え絶えの政治的立場でありながら、確かに怯える時もあったが、政治的・思想的視点が揺らぐことはなかった。文学仲間においては黒羊である。黒羊は決して表立って登場できないマイナーな思想者であったが、それなりに時代を政治的・思想的に切りとる眼は持っていたのだ。編集の小川氏がそこに着眼され、あの作品を昭和史の証言のなかに、社会思想史の中に押し込んでくださったことを、今は実感を持って感謝している。昔の自分を思い出したように、私は今、ある政治サイトを運営している。昔と視点は決してぶれてはいない。人生の半ばをかなりすぎてから、自分の中の社会思想性に再び出合ったのだ。文学からは大きく遠ざかってしまった。政治的・思想的視点は、相変わらず大波を被り溺死寸前のマイナーな黒羊である。

●時にはマグリットの森のようにも見えるヴァンセンヌの森に面した豪邸の屋根裏部屋で、私は自書を手にした。姫神さんが送ってきてくれたのだった。嬉しくてParisの友達の陽子さんに見せたら「Bruxellesさん、これBruxellesさんが、誰かに書いてもらったんだ。絶対そう。あなたが書いたんじゃない。絶対」と言われた。どうしたわけか、私は詩や小説を書いたり、政治を語ったり、哲学したり、思索したりするような(タイプ)には(絶対)に見えない(タイプ)なのだ。それでむしろよかったと思っている。プロであろうとなかろうと、女性にとってそれはあくまでも内的趣味であり、外的評価には決してなりえないからだ。

●残念なことに、バブルがはじけて出版不況が来た頃に、社会思想社は倒産した。せっかくの現代教養文庫も今では書店で見ることもない、過去になってしまった。いずれその名も人々に忘れ去られてしまうだろう。

・・・・・追記:2010年6月6日・・・・・
●水彩画の裏を見ると、定期的に喘息の薬を姫神さんに送ってもらっている。エフェドリンが入った頓服用である。Parisの気候は、特に湿度の低さは、身体には快適で特に害にはならなかったのだが、食べすぎが一番呼吸困難を誘発したようだ。食べ過ぎて動けなくなるのだ。食道楽の大阪から来て、こう言うのも変な話だが、Parisは貧しいものにも、食の重要さを教える。貧しくてもコース料理を覚えてしまうのだ。ただ、今から考えると、毎回なんらかの食物アレルギーを起こしていたのかもしれないが。身体は太りはしないが西洋人風に「がっちりしてきた」と日記に記している。
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姫神さんへの手紙 (5)

手紙が手紙のままで今手元にあるものは、じつは1通のみ。後はParisで描いていた水彩画の裏に殴り書きしたもののなかから、姫神さん経由で私の手に渡り、さらにそのごく一部が30数年の年月を経て奇跡的に生き残った、もの。以下に記するのはさらにそこからの抜粋です。従って前後関係は不明です。

○今日はSafi(チュニジア人とドイツ人の混血)とLassade(ベネズエラ人)と三人で夜のドライブ。Parisのセーヌ河沿いの車道はとても美しい。

○ジーンズを穿くことに抵抗を感じなくなったら、私ももっとParisの生活に溶け込めるかも知れない。今の私の神経がジーンズの感覚を拒否している。

○オルリーからミリンダ(モロッコ人)とオートストップ(ヒッチハイク)した。ミリンダがただ電話をかけにオルリーに行くというので、一緒に行った。なんのことはない、夜の空港で航空会社の電話を無断使用するのだ。

○Parisの人たちのなんと多様な顔、顔、顔

○出発前バルバラを聞きすぎたのだろうか。バルバラを背負っていたのでは、Parisで生活できない。バルバラさんを脱ぎます。(Gribouilleを脱いだように)

○モロッコ人、チュニジア人、カンボジア人、アルジェリア人なんかにとって仏語はもうひとつの母国語だということが分かった。一部のインド人にとっての英語と同じ。

○サンジェルマン 正気で狂うエネルギー
 モンパルナス 正気で狂うエネルギー
 モンマルトル 正気で狂うエネルギー

○女の運転手をすでに5人見た。タクシー4人、バス1人。バルバラみたいな「しっかりした甘えのない」仏女性、時々見かける。

○ノンと言わなければならない人に、ノンと言わなければならない時に、ノンということの大変さ、多難さ。優しさはダメさに繋がる危険がある。

○その趣味の女性にメトロで声をかけられた。内気そうな人。おかしかった。

○チンギス汗の本、有難う。早速読みました。

○11:45 Youをオーステルリッツ駅に見送った。KondoとChristineも一緒。Youの友人の料理人Kondoにずっとラジカセを借りたままだ。(注:これでChanson Collectionをしていた。今になってとても役立っている。)

○Parisは胡散臭い低俗な街の面もあるけれど、そして親切を表す人も少ないけれど、個人そのものとしては、一般的にその尊厳は守られる街だと思う。

○今あなた(姫神さんのこと)がくれたセーターを着ています。有難う。赤から、オレンジ、グリーン、黄、茶、ラクダ色、黒、ブルー、ピンク、紫、その他いままでいろんな色を着たけれど、最近白が着たいと思うようになったところ、この白のセーター有難う。白を着たいというのは、私はバルバラから心理的にすでに遠ざかっているのかもしれない(おめでとう、ですね)Well done!

○サビーヌのおじさん(お父さんの兄弟)がイランの大画家であるように、アブディーのおじさん(お母さんの姉さんの夫)はイラン軍の元帥だったとか。

○ダリダの歌のせいか、Deutche Bankに昨日手紙を書いたせいか、ドイツに行っていて、友達がお見舞いに来てくれている夢を見た。一昨日は隣町の大マーケットが共産圏で、そこを脱出する夢を見た。

○今日はJeannineとJean Paulと三人でエッフェル塔に登った、3階まで12F。

○美容院へ行った。78F50. 希望とはちょっと違う。巻きが大きすぎる。もっと小さく小さく幾段にも巻くのがいい。サビーヌのhair styleが理想。

○Brigitte Fontaineの「Comme a la radio」の中で仕事を見つけたスペイン人が大喜びする、という歌詞があるけど、パリの実情を見て、よく分かりすぎる。

バルバラの「怒り」の最後Va-t'en, va-t'enで終わるけれど、その最後の言葉を女がいえる場合、女は強いと思う。

○夕方Rogerの家に招かれた。フランス料理のフルコース。Rogerはプロの料理人なのだ。Annieというイタリア系の金持ち女と暮らしていた。Annieが言うには、RogerやAnnieと言う名前は、古臭いのだそうだ。

○日本を客観的に見ることには少し成功した。

○ブローニュの森で森の電車に乗り、それから森の中で樹の根に座り、バルバラのLa Solitideを聞いた。ブローニュの森の小川のそばで一人聞くバルバラのなんというエレガンス。でも柔軟であるべき精神がどこかで凝固しているこの声を聞いて思った。来る前にバルバラを聞きすぎたためか、あるいは本質的にか、私の精神も決して柔軟ではなく、どこかで頑なに凝固している。不必要に凝固している私の魂、どこかで病んでいるのだろうか。あるいはこれがArtistの宿命なのだろうか。他人を絶対拒否する極度の孤独にこうしてしばしば直面する。(なにも今に始まったことではないけれど)

姫神さんへの手紙(4)

8月×日
今日「遊びたいとも、働きたいとも、勉強したいとも、恋をしたいとも思わない」なんて話していたら、ある日本の女の人から「あなた現実に疲れているみたいね」なんて言われた。ひょっとしてコレ当たっているかもしれない。Paris生活を楽しむ間もない時に、盗難にあって、その事後処理で実際に疲れているのかもしれない。よく食べてるけど、精神的疲労かもしれない。(遊びたい)と思わないのは致命的な気がする。ソルボンヌの集中講座も、いまさらバカらしくなって取り止め。何事にも意気消沈気味。たとえば最近サビーヌとも会いたいと思わず会っていないこと、これはやっぱり(現実に疲れている)んだと思う。TCの処理、最後は銀行を通さず個人とドイツBKの間で解決したんだけど、その2ヶ月間の精神疲労、今ひとつひとつの場面を思い出しても、私一人の精神力で耐えられる限界に近かったように思う。いきなり、こんな(現実)に立ち塞がれたものだから・・・調子は回復しそうで、しない。第一もしDeutche BKから返事が来なかったら(東銀の人は、個人に返事は来ないだろう、なんて言ってた)8月末に帰るハメになっていたと思う。そんな状態で何をする意欲を持ちえただろうか?しかも使用可能を知っていながら手持ちのTCを、使わなかったこと、これは私の良心なのか、小心なのか、理性なのか?精神的苦痛に加え、現実にお金が急速に減っていく、加えてrefundは宙に浮いたまま(Societe Generalのミス)。このマイナスをプラスの状態にもっていけること、それは忘れることとか、解決する(した)こととか、そんなことではなくて、これに勝るとも劣らない逆のこと、つまり(多大な喜び)以外にありえないと思う。解決した、なんてなまやさしいことで回復できる筈なんかない。今は家に帰る意欲さへない。それならむしろBruxellesに戻る。本がでないこと、これもガックリゲンナリ。O氏に会った時あの手紙(例の18枚に及ぶ、トリックと種明かしと、小説構造に関する疑問の手紙)手渡してきたけど、ひょっとしてそれが原因かもね。いつものようにあなたのアドヴァイス待っています、あなたの考えを、お願いします。

9月×日
TCの件で家にSOSを出せなかったし、出さなかったのは、当然のこと。家族のオーエンがあってその上で来たのならSOSが出せるけど、単身独行で来たのだし、SOSなんて出せなかった。でも結局、あのスッカラカンでSOSを出さなかったこと、家族の援助が無かったこと、それでもなんとか切り抜けたこと・・・よくやったと自分では思うけれど、それは結局、今振り返ってみると、大怪我をして病院に行けなかったような状態を生んだに等しい。その間の心細さと不安とショック、イラダチと困難と苦労を思うと、やっぱり自分が可哀想だと思う。自分が選んだ行為、自分で責任を取って当然なのだけれど。大怪我をして道端に放置され病院に行けなかったような日々、を体験したことを貴重な試練、だなんてそんな大嘘は言えない。ただ自分の人生を自分の意志で生きようとするとき、その病院は自分で建てるしかない、もう私には病院は無いのだ、家族と言う無条件な病院など、父を亡くした時すでに無いのだということ、肝に銘じなくてはならないと思う。

美しさと哀しみと(2)

前ペイジに書いた冬物コート事件の類が、その昔母の口から拡散されたせいかどうか、母の田舎では祖母の死後40年たった今でも、祖母は「血も涙も無い嫁いびりばあさん」と言うことになっている。田舎の人は血族意識が強く、味方にすると心強いが、敵に回ると一度固定されたイメージは再考され覆されることはない。

父には兄弟はいないが、母は8人兄弟だ。母の二番目の姉は、母が死んで15年たった今でも「Bちゃんのお母さんは綺麗だった」と繰り返して言う。
まだ学生の頃から、田舎では指折りの大金持ちの家から、母にぜひにと申し出が何度かあったらしい。つまり、ひくてあまたで、田舎でなら苦労せずとも、使用人を使う身分で暮らせたのに、というわけだ。母自身は田舎が大嫌いで、一日も早く家を出て都会に行こうと願っていたらしい。しかし母にも意地やプライドはある。「こんな家も、財産も何も無くておまけに気位だけが高い姑付きの結婚をして一生の不覚だった」と何度も怒って嘆いてみせた。

母の二番目の姉は村一番の資産家の家に嫁いでいた。母と同じで早くに夫を亡くしたが、経済的には裕福そうだった。
その家の当主のA氏が、まだ元気で生きていた頃、母は言葉をしゃべるかしゃべらないかくらいの年齢の兄を連れて、遊びに行ったことがあるらしい。2,3時間してその家に慣れた頃、兄はA氏を手招きして「おじさん、こちらにいらっしゃい」とまだ覚束ない口で、突然しゃべったのだそうだ。普段「おっさん、こっち来いよ」としか言われたことの無い資産家の当主は、腰を抜かさんばかりに驚いた。都会では幼児までがこんなしゃべり方をするのか、という驚嘆である。母から聞いた話だ。
私にイエス・キリストを教え込もうとしたように、祖母は、田舎に行こうとする幼い兄が、田舎で最初に言葉を覚える事が無いようにと、自分のカルチャーの言葉遣いで何日間か必死で話しかけていたのだろう。

祖母と母が一緒に住むようになって、初めて一緒に銭湯に出かけた時の話だ。この辺の田舎の子供らが(この辺を田舎の人達は都会と呼ぶが)ドロにまみれてハナを垂らしたままワァーと一斉に入ってきた時、祖母は「キャッ」と悲鳴をあげて、身を仰け反らせ顔をゆがめそして身を震わせたのだそうだ。母はその話をする時「そこまで上品ぶるのは、失礼というものだ」と言ったが、祖母のその反応は極めて自然なものだったと私は思う。
祖母は60歳から20年間結局この、祖母にとっては受け入れ難い異文化の中で(といってもそれがごく一般的な日本なのだけれど)暮らすことになる。祖母の柔らかい心は孤立し硬化し、さらに文化の衝突によって、20年間日々粉々に砕け散っていたに違いない。

(追記)最近、途中で何度も声を出して笑えるコメディー?「逃げ道」(フランソワーズ・サガン著)という小説を読んだ。私にはドンピシャのハマリだったが、他の人達はどんな視点で、この小説を読むのだろうか。とても興味がある。

美しさと哀しみと

「自分用の冬物のコートを買うんだよ」とその朝父が母に言ったのをそばで聞いていた。
空襲で丸焼けになった父は、母とゼロからのスタートをした。貧しい貧しい日本の戦後である。近所に「何でも屋」のような衣料品店があった。母は私の手をひいて、とても嬉しそうな顔をしている。父の渡したお金に比して、その店は品物がはるかに安かったのだろう。母は一着分のお金で、おばあちゃんの分のコートも買った。
「おばあちゃんも焼け出されて、何もないから」そう言う母の顔はさらに喜びで輝いていた。
「これが私のコート。そしてこれがおばあちゃんのコート。」
母は座っておばあちゃんの前に二着のコートを並べた。
着てみて喜ぶと思ったのは大きな勘違いで、祖母はコートを手にとって少しながめて「こんなコートは着られない!」と自分の文化圏の言葉で吐き捨てるように言うと、そのコートを母に向かって投げつけた。
私はまだ物事を判断できる年齢ではなかったが、「なんだ、このクソばばぁ」と祖母に憎悪を感じたのは憶えている。それは私の一生の最初の憎しみの感情だったかもしれない。それまで私の知っている祖母と、そのような行為をする祖母と、どう考えても繋がらないのだ。祖母は所作の美しい人で、人に向かって物を「投げつける」ような人種では決してない。憎しみは時とともに忘れたが、謎は深まるばかりだった。

祖母が死んでさらに20年近くたった時だ。医者をしていた祖母の自慢の、たった一人の甥が、定年後に自叙伝を書いて、送ってきた。母がお礼の電話をしてした。電話を切ってから母が、吃驚したように私に言った。
「Bruxelles、お姉さんは厳しいが、その妹のうちのおばあちゃんは、優しいと評判の人だったらしい。自動車に乗って夫と二人で実家に帰ると、女優さんが来た、と近所の人が大勢集まってくるくらいの美人だったんだって。いつも夫婦御揃いのファッションを決めて、しかもおじいちゃんは徹底したレディー・ファーストで、車を降りる時も、ドアを開け手をさしのべて、常におばあちゃんをエスコートして。洋服の布はイギリスから取り寄せて、最新流行の特別仕立て・・・。○○先生は『なんでおばさんのところは、あんなに金持ちで、自分のところは貧乏なんだろうといつも思っていた』んだって」

明治・大正時代、ファッションと生活様式において、祖父と祖母は時代の先端を走っていたのだろう。祖母にとって、私達家族と暮らす現実は悉く受け入れ辛かったかもしれない。祖母は決して自分のことを「おばあちゃんはね、」とは言わなかった。常に「私」である。その後半生は、祖母にとっては、置かれた環境のすべてが祖母に疎外感のみを与える過酷なものだったのではないかと思う。

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