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Rwandan Genocide

情報・読み物 Rwandan Genocide 2005/01/29
アフリカの終わりなき後遺症

1994年4月6日、ルワンダ大統領Habyarimanaとブルンジ大統領Cyprien Ntaryamiraを乗せた飛行機がルワンダの首都Kigaliに着陸しようとアプローチした時、何者かに狙撃された。コントロールを失った飛行機は墜落、二人の大統領は即死した。狙撃の銃声があたかも合図であるかのように、手当たりしだい、ツチ族及びツチ・フツ関係なしの政治的穏健派を、兵隊・民兵が一斉に殺戮し始めた。多数の反対派の政治家も殺された。ルワンダ在住のすべての外国人は母国からの勧告でルワンダを脱出、各国はその大使館のドアを閉鎖した。

首相と彼女の10人のベルギー人ボディーガードが最初の被害者になった。殺戮はKigaliから、ルワンダ全域に瞬く間に広がった。4月6日から7月のはじめまでの期間に、この前例を見ない殺人スピードは93万7千人のツチ族及び穏健派のフツ族をアフリカの大地に切り捨てた。Interahamweと呼ばれる、組織だった軍事的殺戮集団の仕業だった。地元の役所や、国営ラジオに召集された一般の人々も、隣人をできるだけ殺せと命令された。大統領の政党MRND(1975年Habyarimana大統領が組織した団体でMRNDはthe Mouvement Republicain Nationale pour la Democratie et le Developpement=民主化と発展のための共和国運動体の略)が多くの面でこの大虐殺の組織化に関与していた。

この後の2週間の間、ルワンダに駐留していた国連軍は妙な動きを見せた。ベルギーと国連軍はルワンダ人を見捨ててほとんどすべての戦闘要員を引き上げた。国連軍の最高司令官カナダ人のRomeo Dallaireの抗議にもかかわらず、国連安全保障理事会はフランス、ベルギーが音頭を取って満場一致で撤退を決議した。1994年5月17日になってようやく、国連はこの大虐殺の事実を、しぶしぶの態度で認めた。赤十字の発表によると少なくとも10万人がこの時点で過激派のフツ族の手によって殺害されている。死者の大多数は少数派のツチ族である。

Arusha条約によってKigaliに駐留していたRPF(Rwandan Patriotic Frontの略で、内乱を逃れて30年間にわたり国外に亡命していたツチ族集団)の大軍は大統領機墜落の後、直ちに襲撃を受けた。この軍団は応戦しKigaliを脱出、ルワンダ北部に駐留する別のRPFと合流することができた。大殺戮が始まったと知ったRPFはすぐにルワンダのフツ族支配の政治に対し、市民戦争を再開した。RPF最高司令官Paul Kagameはウガンダやタンザニア等の隣国に駐留しているRPFの軍隊に、ルワンダに侵攻し、フツ族の軍隊と、そして殺戮の当事者であるInterahamwe軍と戦うことを命じた。軍と軍との内戦と、ルワンダ人民の虐殺は2ヶ月間、怒り狂った嵐のように、級数的にその凄惨さをエスカレートさせたのだった。(つづく)

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