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姫神さんへの手紙 (5)

手紙が手紙のままで今手元にあるものは、じつは1通のみ。後はParisで描いていた水彩画の裏に殴り書きしたもののなかから、姫神さん経由で私の手に渡り、さらにそのごく一部が30数年の年月を経て奇跡的に生き残った、もの。以下に記するのはさらにそこからの抜粋です。従って前後関係は不明です。

○今日はSafi(チュニジア人とドイツ人の混血)とLassade(ベネズエラ人)と三人で夜のドライブ。Parisのセーヌ河沿いの車道はとても美しい。

○ジーンズを穿くことに抵抗を感じなくなったら、私ももっとParisの生活に溶け込めるかも知れない。今の私の神経がジーンズの感覚を拒否している。

○オルリーからミリンダ(モロッコ人)とオートストップ(ヒッチハイク)した。ミリンダがただ電話をかけにオルリーに行くというので、一緒に行った。なんのことはない、夜の空港で航空会社の電話を無断使用するのだ。

○Parisの人たちのなんと多様な顔、顔、顔

○出発前バルバラを聞きすぎたのだろうか。バルバラを背負っていたのでは、Parisで生活できない。バルバラさんを脱ぎます。(Gribouilleを脱いだように)

○モロッコ人、チュニジア人、カンボジア人、アルジェリア人なんかにとって仏語はもうひとつの母国語だということが分かった。一部のインド人にとっての英語と同じ。

○サンジェルマン 正気で狂うエネルギー
 モンパルナス 正気で狂うエネルギー
 モンマルトル 正気で狂うエネルギー

○女の運転手をすでに5人見た。タクシー4人、バス1人。バルバラみたいな「しっかりした甘えのない」仏女性、時々見かける。

○ノンと言わなければならない人に、ノンと言わなければならない時に、ノンということの大変さ、多難さ。優しさはダメさに繋がる危険がある。

○その趣味の女性にメトロで声をかけられた。内気そうな人。おかしかった。

○チンギス汗の本、有難う。早速読みました。

○11:45 Youをオーステルリッツ駅に見送った。KondoとChristineも一緒。Youの友人の料理人Kondoにずっとラジカセを借りたままだ。(注:これでChanson Collectionをしていた。今になってとても役立っている。)

○Parisは胡散臭い低俗な街の面もあるけれど、そして親切を表す人も少ないけれど、個人そのものとしては、一般的にその尊厳は守られる街だと思う。

○今あなた(姫神さんのこと)がくれたセーターを着ています。有難う。赤から、オレンジ、グリーン、黄、茶、ラクダ色、黒、ブルー、ピンク、紫、その他いままでいろんな色を着たけれど、最近白が着たいと思うようになったところ、この白のセーター有難う。白を着たいというのは、私はバルバラから心理的にすでに遠ざかっているのかもしれない(おめでとう、ですね)Well done!

○サビーヌのおじさん(お父さんの兄弟)がイランの大画家であるように、アブディーのおじさん(お母さんの姉さんの夫)はイラン軍の元帥だったとか。

○ダリダの歌のせいか、Deutche Bankに昨日手紙を書いたせいか、ドイツに行っていて、友達がお見舞いに来てくれている夢を見た。一昨日は隣町の大マーケットが共産圏で、そこを脱出する夢を見た。

○今日はJeannineとJean Paulと三人でエッフェル塔に登った、3階まで12F。

○美容院へ行った。78F50. 希望とはちょっと違う。巻きが大きすぎる。もっと小さく小さく幾段にも巻くのがいい。サビーヌのhair styleが理想。

○Brigitte Fontaineの「Comme a la radio」の中で仕事を見つけたスペイン人が大喜びする、という歌詞があるけど、パリの実情を見て、よく分かりすぎる。

バルバラの「怒り」の最後Va-t'en, va-t'enで終わるけれど、その最後の言葉を女がいえる場合、女は強いと思う。

○夕方Rogerの家に招かれた。フランス料理のフルコース。Rogerはプロの料理人なのだ。Annieというイタリア系の金持ち女と暮らしていた。Annieが言うには、RogerやAnnieと言う名前は、古臭いのだそうだ。

○日本を客観的に見ることには少し成功した。

○ブローニュの森で森の電車に乗り、それから森の中で樹の根に座り、バルバラのLa Solitideを聞いた。ブローニュの森の小川のそばで一人聞くバルバラのなんというエレガンス。でも柔軟であるべき精神がどこかで凝固しているこの声を聞いて思った。来る前にバルバラを聞きすぎたためか、あるいは本質的にか、私の精神も決して柔軟ではなく、どこかで頑なに凝固している。不必要に凝固している私の魂、どこかで病んでいるのだろうか。あるいはこれがArtistの宿命なのだろうか。他人を絶対拒否する極度の孤独にこうしてしばしば直面する。(なにも今に始まったことではないけれど)

姫神さんへの手紙(4)

8月×日
今日「遊びたいとも、働きたいとも、勉強したいとも、恋をしたいとも思わない」なんて話していたら、ある日本の女の人から「あなた現実に疲れているみたいね」なんて言われた。ひょっとしてコレ当たっているかもしれない。Paris生活を楽しむ間もない時に、盗難にあって、その事後処理で実際に疲れているのかもしれない。よく食べてるけど、精神的疲労かもしれない。(遊びたい)と思わないのは致命的な気がする。ソルボンヌの集中講座も、いまさらバカらしくなって取り止め。何事にも意気消沈気味。たとえば最近サビーヌとも会いたいと思わず会っていないこと、これはやっぱり(現実に疲れている)んだと思う。TCの処理、最後は銀行を通さず個人とドイツBKの間で解決したんだけど、その2ヶ月間の精神疲労、今ひとつひとつの場面を思い出しても、私一人の精神力で耐えられる限界に近かったように思う。いきなり、こんな(現実)に立ち塞がれたものだから・・・調子は回復しそうで、しない。第一もしDeutche BKから返事が来なかったら(東銀の人は、個人に返事は来ないだろう、なんて言ってた)8月末に帰るハメになっていたと思う。そんな状態で何をする意欲を持ちえただろうか?しかも使用可能を知っていながら手持ちのTCを、使わなかったこと、これは私の良心なのか、小心なのか、理性なのか?精神的苦痛に加え、現実にお金が急速に減っていく、加えてrefundは宙に浮いたまま(Societe Generalのミス)。このマイナスをプラスの状態にもっていけること、それは忘れることとか、解決する(した)こととか、そんなことではなくて、これに勝るとも劣らない逆のこと、つまり(多大な喜び)以外にありえないと思う。解決した、なんてなまやさしいことで回復できる筈なんかない。今は家に帰る意欲さへない。それならむしろBruxellesに戻る。本がでないこと、これもガックリゲンナリ。O氏に会った時あの手紙(例の18枚に及ぶ、トリックと種明かしと、小説構造に関する疑問の手紙)手渡してきたけど、ひょっとしてそれが原因かもね。いつものようにあなたのアドヴァイス待っています、あなたの考えを、お願いします。

9月×日
TCの件で家にSOSを出せなかったし、出さなかったのは、当然のこと。家族のオーエンがあってその上で来たのならSOSが出せるけど、単身独行で来たのだし、SOSなんて出せなかった。でも結局、あのスッカラカンでSOSを出さなかったこと、家族の援助が無かったこと、それでもなんとか切り抜けたこと・・・よくやったと自分では思うけれど、それは結局、今振り返ってみると、大怪我をして病院に行けなかったような状態を生んだに等しい。その間の心細さと不安とショック、イラダチと困難と苦労を思うと、やっぱり自分が可哀想だと思う。自分が選んだ行為、自分で責任を取って当然なのだけれど。大怪我をして道端に放置され病院に行けなかったような日々、を体験したことを貴重な試練、だなんてそんな大嘘は言えない。ただ自分の人生を自分の意志で生きようとするとき、その病院は自分で建てるしかない、もう私には病院は無いのだ、家族と言う無条件な病院など、父を亡くした時すでに無いのだということ、肝に銘じなくてはならないと思う。

美しさと哀しみと(2)

前ペイジに書いた冬物コート事件の類が、その昔母の口から拡散されたせいかどうか、母の田舎では祖母の死後40年たった今でも、祖母は「血も涙も無い嫁いびりばあさん」と言うことになっている。田舎の人は血族意識が強く、味方にすると心強いが、敵に回ると一度固定されたイメージは再考され覆されることはない。

父には兄弟はいないが、母は8人兄弟だ。母の二番目の姉は、母が死んで15年たった今でも「Bちゃんのお母さんは綺麗だった」と繰り返して言う。
まだ学生の頃から、田舎では指折りの大金持ちの家から、母にぜひにと申し出が何度かあったらしい。つまり、ひくてあまたで、田舎でなら苦労せずとも、使用人を使う身分で暮らせたのに、というわけだ。母自身は田舎が大嫌いで、一日も早く家を出て都会に行こうと願っていたらしい。しかし母にも意地やプライドはある。「こんな家も、財産も何も無くておまけに気位だけが高い姑付きの結婚をして一生の不覚だった」と何度も怒って嘆いてみせた。

母の二番目の姉は村一番の資産家の家に嫁いでいた。母と同じで早くに夫を亡くしたが、経済的には裕福そうだった。
その家の当主のA氏が、まだ元気で生きていた頃、母は言葉をしゃべるかしゃべらないかくらいの年齢の兄を連れて、遊びに行ったことがあるらしい。2,3時間してその家に慣れた頃、兄はA氏を手招きして「おじさん、こちらにいらっしゃい」とまだ覚束ない口で、突然しゃべったのだそうだ。普段「おっさん、こっち来いよ」としか言われたことの無い資産家の当主は、腰を抜かさんばかりに驚いた。都会では幼児までがこんなしゃべり方をするのか、という驚嘆である。母から聞いた話だ。
私にイエス・キリストを教え込もうとしたように、祖母は、田舎に行こうとする幼い兄が、田舎で最初に言葉を覚える事が無いようにと、自分のカルチャーの言葉遣いで何日間か必死で話しかけていたのだろう。

祖母と母が一緒に住むようになって、初めて一緒に銭湯に出かけた時の話だ。この辺の田舎の子供らが(この辺を田舎の人達は都会と呼ぶが)ドロにまみれてハナを垂らしたままワァーと一斉に入ってきた時、祖母は「キャッ」と悲鳴をあげて、身を仰け反らせ顔をゆがめそして身を震わせたのだそうだ。母はその話をする時「そこまで上品ぶるのは、失礼というものだ」と言ったが、祖母のその反応は極めて自然なものだったと私は思う。
祖母は60歳から20年間結局この、祖母にとっては受け入れ難い異文化の中で(といってもそれがごく一般的な日本なのだけれど)暮らすことになる。祖母の柔らかい心は孤立し硬化し、さらに文化の衝突によって、20年間日々粉々に砕け散っていたに違いない。

(追記)最近、途中で何度も声を出して笑えるコメディー?「逃げ道」(フランソワーズ・サガン著)という小説を読んだ。私にはドンピシャのハマリだったが、他の人達はどんな視点で、この小説を読むのだろうか。とても興味がある。

美しさと哀しみと

「自分用の冬物のコートを買うんだよ」とその朝父が母に言ったのをそばで聞いていた。
空襲で丸焼けになった父は、母とゼロからのスタートをした。貧しい貧しい日本の戦後である。近所に「何でも屋」のような衣料品店があった。母は私の手をひいて、とても嬉しそうな顔をしている。父の渡したお金に比して、その店は品物がはるかに安かったのだろう。母は一着分のお金で、おばあちゃんの分のコートも買った。
「おばあちゃんも焼け出されて、何もないから」そう言う母の顔はさらに喜びで輝いていた。
「これが私のコート。そしてこれがおばあちゃんのコート。」
母は座っておばあちゃんの前に二着のコートを並べた。
着てみて喜ぶと思ったのは大きな勘違いで、祖母はコートを手にとって少しながめて「こんなコートは着られない!」と自分の文化圏の言葉で吐き捨てるように言うと、そのコートを母に向かって投げつけた。
私はまだ物事を判断できる年齢ではなかったが、「なんだ、このクソばばぁ」と祖母に憎悪を感じたのは憶えている。それは私の一生の最初の憎しみの感情だったかもしれない。それまで私の知っている祖母と、そのような行為をする祖母と、どう考えても繋がらないのだ。祖母は所作の美しい人で、人に向かって物を「投げつける」ような人種では決してない。憎しみは時とともに忘れたが、謎は深まるばかりだった。

祖母が死んでさらに20年近くたった時だ。医者をしていた祖母の自慢の、たった一人の甥が、定年後に自叙伝を書いて、送ってきた。母がお礼の電話をしてした。電話を切ってから母が、吃驚したように私に言った。
「Bruxelles、お姉さんは厳しいが、その妹のうちのおばあちゃんは、優しいと評判の人だったらしい。自動車に乗って夫と二人で実家に帰ると、女優さんが来た、と近所の人が大勢集まってくるくらいの美人だったんだって。いつも夫婦御揃いのファッションを決めて、しかもおじいちゃんは徹底したレディー・ファーストで、車を降りる時も、ドアを開け手をさしのべて、常におばあちゃんをエスコートして。洋服の布はイギリスから取り寄せて、最新流行の特別仕立て・・・。○○先生は『なんでおばさんのところは、あんなに金持ちで、自分のところは貧乏なんだろうといつも思っていた』んだって」

明治・大正時代、ファッションと生活様式において、祖父と祖母は時代の先端を走っていたのだろう。祖母にとって、私達家族と暮らす現実は悉く受け入れ辛かったかもしれない。祖母は決して自分のことを「おばあちゃんはね、」とは言わなかった。常に「私」である。その後半生は、祖母にとっては、置かれた環境のすべてが祖母に疎外感のみを与える過酷なものだったのではないかと思う。

民主主義

小学校1,2年の頃だったと思う。近所の悦ちゃんが「私のおばあちゃんは、男の兄さんと女の私を酷く差別して扱うので、悲しくて仕方が無い」と言うような作文を教室で発表した。具体的にこうだ、ああだ、と書かれていて、聞いた私は心底吃驚した。家に帰って自分の祖母に「悦ちゃんのおばあさんは、こんなんだって。おばあちゃんは全然そんなことないねぇ」と言った。
「この辺の田舎のおばあさんは、そんなものかもしれないねぇ。大人になって出て行く女の子は、どうでもよくて、跡取の男の子は大切にする。男女平等、つまりは民主主義をしらないのだと思う」と言った。民主主義?初めて聞く言葉だった。
兄が小学校に入学した時、祖母は母に「Bちゃんにも、鉛筆や筆箱やノートブック(祖母は帳面と言わずにノートブックと言った)を買ってあげて」と言ってくれた。母は買ってきて風呂敷につつんだそれをまず祖母に見せた。小学校に入学してもいないのに、小学生の兄と同じ物を買ってもらって、とても嬉しかったのを憶えている。まず鉛筆の持ち方、そして削り方を教わった。それから自分の名前、そして住所、さらに本籍地を学んだ。「世が世なら、Bちゃんは乳母日傘の船場のイトハンや」祖母はそう言った。本籍地を暗唱させられた。ノートにはABCを書いていったように思う。あいうえお、は幼稚園の前に、既に祖母に教わっていた。そう言えば、私の最初の絵本は「イエスキリストの生涯」。祖母が買ってくれて、同じ本を何度も読めと言われて、実際あきあきした。そのせいで私は長い間、読書嫌いだった。今度のABCはなんだか、楽しかった。ひらかなや漢字ではない文字が好奇心をかきたてたのだと思う。音も面白い。悦ちゃんの作文を聞いたとき、おそらく兄もまだ学んでいないABCを初めてノートブックに書いたこの時のことが頭に浮かんだ。
・・・・・・
私は日本の近現代史のBLOGを書いているが、最近再びHerbert Normanを取上げた。そこに都留重人の名前も登場するのだが、とても幼い頃既にその名を祖母の口から聞いていたことを思い出した。私がまだ東も西もわからない頃、祖母が口にしていた名前は数多く、今になって思うのだが一体祖母は何故そんなに多くのいわゆる知識人を知っていたのだろうか。まさかとは思うが、個人的接触もひょっとしてあったのだろうか。(祖母が若かった頃は、立派な洋風の家に住んでいて、人を集めて講演会や演説会などをする部屋もあったようなので、そこでそう言うことをしていたのかもしれない。)
私はからだが弱かったので、担任が見舞いにくることもよくあった。すると祖母は必ず教師に出身大学を聞き、教師が答えると、あそこだったら教授に誰と誰がいる、などと話し始めるのだ。どんな大学でも自由自在、著名な大学教授はまるで全部自分の知りあいのように話していた。また今思うと、賀川豊彦、新島襄、新渡戸稲造、内村 鑑三、などキリスト者の名前も当然よく口にしていた。
祖母にはどのような交流があり、どのような知識があったのだろうか、と今頃になって不思議に思う。
昔兄が一度だけ言ったことがある。それは60年代の初め兄と私がボクシング・ファンになっていろいろ話していると、祖母も噛んできて、白井義男やピストン堀口のことまで話し始めた時だ。「Bruxelles、考えて御覧、おばあちゃんのあの歳で、情報もそう多くない時代を生きて、白井義男やピストン堀口のことまで知ってるなんて、ちょっと考えられないよ。お茶やお花や、邦楽や、時事問題や、政治・経済の話でもない。ボクシングの話だよ。うちのおばあちゃん、ひょっとして物凄い知識の量をもっているのかもね!恐るべしだよ、全く」

Oh! My Papa

父が亡くなって今日で半世紀が過ぎた。私は幼すぎて、会話が成立するような年齢ではなかった。人として父を理解できていたとは言い難い。それでも、父が言ったことで、記憶に残っていることが4つある。
1?身に付けるものの色はできれば2色に押さえること。帽子とベルトと靴の色は同色にすること。?なるべく守るようにしている。
2?女性は大切に扱い、親切にすることーこれは兄に向かって言っていたのだが、そばで聞いていた私も、父の教えとして守っている。
3?「死ぬ時は、飛行機に乗って、ピストルで撃たれて死にたい」ーアメリカ中部で飛行機のライセンスを取り、ハワイで実弾を発射してきたのは、頭のどこかに父のこの言葉があったからだろう。
4?好きな人ができたら、食事を共にし、その男がペチャクチャ音をたてたら、交際の対象から外しなさいー父はテーブルマナーがどうのと言っているわけではなく、公衆の面前で女性に恥をかかせて平気な男性を避けなさい、と言ったのだと思っている。女性に車道側を歩かせたり、重たい荷物を持たせたり、数歩前を平気でスタスタ歩く男はすべてカット(男性と思わない)してきた。レストランでイスを引かない男、コートを着せてくれない男、ドアを開けてくれない男、実は全部興ざめしてしまう。困ったことだ。私の一生で興ざめしなかった男性は、厳密に言うと日本人では二人しかいない。
父はどちらかと言うと小柄で痩せていて、マッチョ好みの私としては決して理想の男性ではない。しかし、知的で所作がスマートでハンサムで、子供心にも、父のことを、私達他の家族とは住む世界が違う、かけ離れた存在のように感じていた。まず第一にあの父が私の父だと言うこと、あの父が母の夫だと言うことが、不思議でしかたなかった。父には父にふさわしい子供や妻が別にいるのではないかとうっすらと感じていた。
父の付近には分厚い軍艦の写真集やたくさんの洋書があり、机に座るとタイプライターで外国の友人達に手紙を打っていた。つまり父は、私には未知の世界を持っていたからだと思う。また、父が私を金髪女性が住む神戸の洋館に連れていってくれたこと、TV局を見学させてくれたこと(その時初めて自動ドアを体験した:50年以上前のことだ!)等も、私に父との距離を感じさせたのだと思う。
父との思い出は他に三つある。米軍が接収していた軍艦に乗せてくれたこと、会社の社内旅行に連れて行ってくれたこと、病気で入院する前に、思い出を残すためか、山登りに連れて行ってくれたこと。今から思えば、私が感じている距離感を察して、父はそれを埋めようとしたのかもしれない。
正直言って若くして亡くなった父との思い出が祖母との思い出ほど多くあるわけではない。ただ、39歳で亡くなった父の年齢をはるかに超えている今の私には、既に父は私と同化し私の中で生きているのだと感じることはできる。
いつか彼の世で父に会う時、父が我が娘として誇りに思って出迎えてくれるように、心して残りの人生を全うしたいと思っている。

To my dearest Papa : I love you forever

角栄のブレーン

神戸の文学会でその人に出会った。明日時間を空けてくれないかと言われ、OKした。もう名前も顔も憶えていない。2人で会ったのは一度きりだからだ。
食事をし、キャバレーで踊り、その後会員制クラブに案内された。名前を言い、カードを見せて、ようやくドアが開く。
「秘密クラブみたいね」
なんだか男は緊張していた。
「どうしてこう言う場所に出入り出来るのですか?」
「僕は角栄のブレーンの一人なんだ」
小さな声で男が言う。
「あなたは建築家なんでしょう? どうして政治と?」
男は全く何も答えない。
「君はいつからあの文学会に行ってるんだ?君は本当に何も知らないようだから言うけど、・・・これは秘密だよ。でも、あそこで文学を続けていくなら知っておいた方がいい。あそこの会長のM、何故、あんなに熱心に、慈善事業みたいな文学会を主宰してると思う?あのMはね、以前組合活動をしていたんだ。バリバリの労働運動のリーダーだった。だけど、ある時、仲間全部の名簿を当局に売り渡したんだよ」
「えェ!あの会長にそんな過去があるんですか」
「罪滅ぼしのつもりで文学会を運営してるんだよ。大金を手にして、今のあの広告代理店を起業したんだ」
赤狩りの頃の話なのだろう。それにしては男の年齢が若すぎる。会長Mのために、多くの人の生活や家庭がムチャクチャになったんだろうなと、ぼんやりと考える。
「君は、Mのような人間をどう思う?」
「時代背景がわからないから・・・。ただ、気の毒です」
「誰が?」
「M会長が。もう誰にも相手にされない、信用も何も無い。妻と娘を養って、過去を忘れるために、文学雑誌を発行して。なんだかあの人の暗さが分かりますよ」
「文学なんか止めて、腹をかき切って死ぬべきなんだよ、あのMは」
「あなたはどうしてそんな昔の他人の秘密を知ってるんですか?本人が苦し紛れにあなたにだけ話したのなら、秘密は守ってあげるべきではありませんか」
男は心底私の発言に失望したようだった。もう口を開こうともしない。
「それより、角栄のブレーンって、どんなことをするんですか?そっちの方がずっと興味があります」
なんだか気まずい空気が流れる。
「今から、用事があるから」と男が切り上げようとする。
「一応君に名刺だけ渡しておくよ。僕はもうあの文学会には行かない」

私はBFの俊夫にその話をした。「この住所に2人で行ってみない?普通は聞けない面白い話を自宅でなら話してくれるかもしれない」
地図を見ながら俊夫の運転でその名刺の住所を探すのだが、どんどん山奥に行く。山を切り開いたばかりの土地の上に建売住宅のようなものがズラリと並んでいる。「ここみたいよ」ようやく突き止めた。「○○さんのお宅ですか?○○さんいらっしゃいますか」と俊夫と2人でインターフォンに声を入れた。険しい顔の女が一人出てきた。
「建築家だか角栄のブレーンだか、そんなこと知らないけど、あの男もう何ヶ月も帰ってないし、連絡も無い。こっちが居所教えて欲しいくらいよ。あんたたちは、何時何処で、あの男と会ったの?」

3月:合格発表

3月中旬なのに大雪だった。道路脇に積み上げられた雪は50?60cm。兄は黙って緊張して歩いている。向こうから逆流して帰ってくるお兄さん達がいる。大半が押し黙って歩いてくる。笑っている人はほとんどいない。中には涙を流している人たちもいる。兄の顔を見る。不安で一杯に違いない。私に一緒に行こうと言った真意はわからない。喜びを見せるつもりなのか、厳しさを知らしめるつもりなのか。
泣いている人を見て兄は足を速めた。駅からなんて遠いのだろう。私のような女の子は一人もいない。校門をくぐって兄はさらに足を速めた。
発表までの長く感じられる日々を兄は「蛇の生殺しだ」と苦しんでいた。国立一期は三日間連続試験だった。うぬぼれてもいけないし、怯えてもいけない。三日間集中していなければならない。楽勝だと言われると、なおさらプレッシャーがあるだろう。
「もしも」があれば、地獄が口を開ける。
二期校は名古屋工大に願書を出していたが、勿論母子家庭だから下宿なんて余裕はない。私立なんて余裕もない。だから一発勝負なのだ。
妹を連れて発表を見に行こうと言うくらいだから自信はあるのだろう。自信はあってもなんの保証にもならない。

私は自分の発表を兄のそれほど、明確にはもう思い出せない。私は勉強をするよりも「心の力で夢を実現する」という実験に賭けていた。337という受験番号が合格掲示板に張り出されるイメージだけをしっかりと練習していた。大学の写真を見て、その中の教室で授業を受けている自分を強くイメージした。ホイラー訓やらマーフィーの法則に類するテクニックである。
合格発表掲示版に近づいたら、337と言う数字が何十倍にも拡大されて飛び出してきたのを憶えている。ひとりでひっそりと見に行ったのを思い出した。2流校でその上、病弱のため授業にもほとんど出ていない。どの教科書もほとんど新品のままだ。誰もまさか、合格するとは思っていない。10月の模擬試験はD判定だったのだから。
私は小、中、高としっかり勉強して合格したのではない。人に話しても誰も本気にしないような方法で合格した。だから3月の入試シーズンになると、いつも思い出すのは、兄と二人で歩いた大雪の大阪の道だけだ。
・・・・・・・・

私が実感の無いままふらふらと家に帰ると、そうだ、あの日玄関に日の丸の旗がはためいていた。
「よくやった」という兄からのメッセージだ。私は兄と同じ大学に滑り込んだのだった。

Hal Aviation : My Diary (1)

7月30日 朝
今日で11日目というのにまだsoloの気配は無い。
昨日の失敗。ここ2,3日天気が悪くてやっていなかったからもあるけど、stallの感じを忘れていた。自分でnoseを押して、さあstallと思ってrecoveryをやってしまった。本物のstallが来るまでelevatorをpullするのをすっかり忘れていた。(注:実は怖くてわざと忘れていたのだろう)
もうひとつ、"level off"と言われて、突然"level off"の仕方をど忘れしてしまった。あとで思い出したのはいいけれど、今度はpower reduceを先にやってnose downを続けた。nose downそしてspeed upをしてからpower reduce.
それから上昇の時も降下のときもtrimを使うからlevel offの時のtrimを忘れて、高度をぐらつかせてしまう。stallの時のheadingもかなりぐらつく。stallやslow flightの時のheadingへの注意を忘れないでいたい。noseをいつも良く見ている必要あり。
touch downが上手くいかない。line upしてから2、3m直前でいつも(日本にいた時もそう)狂う。rudderの使い方は少しはわかったけど。それから引きが不足。level offしてからの引きは多少強めにゆっくりとすること。level offしたところでpullを止めてしまう悪いクセあり。(注:おそらく腕の力がほとんど無いためだろう)。また風をよく理解する必要あり。
p-factorのことを理解したのだから上昇姿勢の時のrudderを忘れないようにすること。slow flightの時これを忘れるからheadingが大きく狂う。
聞いた話だけど、flap無しのpower off stallと言うのをこの先習うらしい。
flapの使い方aileronの使い方elevatorの使い方が、どうも深くわかっていないようだ。emergencyの時の高度も今ひとつわからない。それとradioで言うだけで精一杯で他のradioの会話を聞く余裕がない。それと方向。地図を今のところ使っていないから、はっきり言ってどの辺を飛んでいるのか、いつもわからない。
・・・・・・・・・・・・・・
KENETTE MEMORIAL AIRPORT
1701 East 5th Street
P.O.Box 351
KENETTE, MISSOURI 63857
Hal Aviation,INC.
の学校の便箋に殴り書きしたような日記。今これを読むと、あまりの操縦センスの無さに赤面してしまう。
誰でもはじめはこんなものなのだろうか。
渡米する前に日本で20時間ほど訓練を受けている。ここに来て操縦訓練は当然一からの再スタートだった。

姫神さんへの手紙 (3)

そのうちサビーヌの写真送れると思う。
昨日サビーヌの所に泊まって今日はサビーヌの実家で昼食までご馳走になった。ともかく凄く眠いのでひとまず帰ってきた。サビーヌと話すともうほとんど驚くほど上手く仏語が出来た。
ジャニスのレコードあったので、誰が買ったのかと聞いたらサビーヌと言う話。サビーヌもジャニスが好きらしい。サビーヌは固い感じが全然無くなっていて、かなりイカレた感じになっていて、それが魅力的で、まあ常人じゃないような感じが少しして、それで彼女次第に人間として本格的に優れていくように思う。
サビーヌのお母さんが朝の5時にBruxellesあてに、日本からtelがあったと言っていたけど、誰がしたのですか?時差は8時間日本が早い(日本の午後1時はParisの朝5時)ことを伝えてください。
・・・・・・
T.C.のことが、どうも気になって落ち着かない。(結局、リファンドされた1000DMを返却して、見つかったT.C.を使うか、見つかったT.C.を返却して、残りのリファンドを早めてもらうか、それだけのことなのだけれど。ドイチェバンクのpresidentと個人として直接対峙するのが一番早い。ドイツに行く余裕はないから、詳しいいきさつを手紙に書いて昨日出した。(貿易会社で毎日コレポン一人でやってたのだから、こう言うのは得意)・・・来週の終わりには、はっきりすると思う。これだけ手間暇かけて、なを結果として膨大な時間とcashを損失した。さらに精神的苦痛を考えると・・・なにか償いが無い限りParisを許すわけには行かない。(と言ってもParisは知らん顔、だけどね)
・・・・・・

今日はベルサイユに行った。とてもParisから近いので驚き。ベルサイユでニューヨークから来た人と出会ったけど、なんていうか英語を話そうと思っても、仏語が出てくる。でもまだ単語が不足で発音がきたない。
昨日初めてParisの夢を見た。サンミッシェルの風景だったけど。

・・・姫神さんは手紙を保管していてくれて、まとめて返却してくれた。
   今、そのよれよれの現物を見ながら、打ち込んでいます。・・・

(追記):整頓していたらDeutsche Bankからの2通の返事が見つかった。
○5th August, 1975(25th July,1975への返事)
 We thank you for your letter sent to us on 25th July,1975.
We are pleased to learn from your letter that the DM Travellers'Cheques which have been reported stolen are actually intact. We shall therefore be obliged if you will kindly let us have the DM Travellers'Cheques for which you already received an immediate refund of DM 1.000,--from Societe Generale, Paris. Please send us by registered mail-as soon as possible-the DM Travellers'Cheques of the equivalent of DM 1.000,--.
Regarding the remaining cheques you can retain these cheques and present them for encashment at any time.
With kind regards, we remain, Yours faithfully, Deutsche Bank AG その後直筆のサイン
(すっかり忘れていたが、結局戻ってきたTCから1000DM分を書留で返送せよとの指示だったのだ)
○22nd August,1975
Many thanks for your letter dated 14.8.1975.
We have received your DM Travellers'Cheques for DM500,--Nos. 90.730.111-112.
Hoping that this matter is settled at your convenience, we remain,
Yours faithfully, Deutsche Bank AG その後直筆サイン
(私の住所は25AvenueFoch 94-Vincennes/Frankreich となっている。この手紙が届いたのは8月28日というメモがある。執念で黒のバッグをやっと取り戻してからその後、ドイチェバンクとのやり取りだけで一ヶ月以上もかかったことがわかる。)

姫神さんへの手紙 (2)

結果が意外なこととなってthe end。
これからまた、手続きのやり直しをしなければならないので、全然嬉しくない。一体今まで・・・。
必要書類をそろえて大使館に行ったら(いつもと違う人が出てきて)ポリスに行けという。で、ポリスに行くとまた別のポリスに行けという。それで、探しに探して行ったら((あった!!))パスポート、イエローカード(注:予防注射の証明書)、T.Cheque等出てきた。ただし現金はフランも円も勿論無く、愛用の和紙のさいふも、「黒い鷲」の歌詞メモと一緒に消えていた。
運が向いてきたみたい。けど、すでに受け取った1000DMを返したり、ドイツにtelexしたりAir Siamにも再発行された切符を返したり、これからまた大変。それに古い出てきたDMが果たして今有効かどうか。手続きだけでも今まですでに随分費用をかけたと言うのに。もう一度逆の手続きを繰り返さなければならない。
(注:1区、地下鉄シテ島でひったくられた黒のバッグは現金を抜き取られ、お箸も1本抜き取られ?Paris20区のゴミ箱の上で、親切な人によって発見されたのだった。)

サビーヌに住所知らせたら、速達でたった今返事がきた。期待通り友情に溢れたletterが来た。明日会うだろう。週末、一緒に過ごすことになると思う。
今日はあいにくの雨模様。だけどNotre Dame(Paris)とも和解できた。私のParisがやっと始まる。そして明後日はParis祭!!
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Chequeのことで完全にこんがらがってきた。はっきり言って黙っていれば、stop payment impossibleのtelexが入っているから、私の場合完全に2300DM丸儲けできるのだけど、根が正直だから、見つかったことを届ける。そしたらこれがかなり複雑で、お金1000DMを返したり、refund要求取り消しの手続きをしたり、つまり骨折り損のくたびれもうけ。おまけにすごく気分も悪い。なくなったT.C.が出てくるなんて、まず無いとのことなのにネ。今頃出てきて、踏んだり蹴ったり。かえって面倒で、今までの努力、必死の努力も水の泡。もう寝込んでしまいたい。
月曜日に行くと、とりあえず銀行2箇所にtelを入れた。
さっきABDIが1通目の手紙を届けてくれた。(注:姫神さんからの手紙のことか?)
告別式・・・もあるけど、出会いと言う誕生も人生にはあると信じたい。・・・
もう9時、外はまだ明るい。

これから3,4日、またT.Chequeのことでイライラしながらフランス語を引っ掻き回さねばならない。全く、こんちくしょう!!今はまだ何もかもすっきりしない。大使館なんて12:00?15:00までシャッターおろすのだから、もう時間のlossが甚だしい。

バルバラの持っていた緊張感・・・Parisはそれを人に要求する。だからParisだけはいつも若い。

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(追記)Parisの東銀の支店には何度も足を運んだ。行員と親しくなって家に招待されたくらいだ。
東銀には警察から自分ですぐに電話して、T.C.のひかえていた番号を言って、使用停止手続きをしてもらうつもりだった。できると思ったがそれは出来ないらしい。(KKの恋人はスイスの銀行家だったので、後にそのことを聞いてみたが誰が何処で使うかわからないものを使用停止処置など出来ないということだった)そのためにT.C.には保険がかけてあるのだ。盗難にあった場合まずは、警察に行く。そこで盗難証明書を作成してもらう。そこからしか何も始まらない。(注:最寄の警察に辿り着くまでに、随分道に迷った。個室でまず事情聴取。アイナメという魚のような名前の黒人の英語を話せる警官が担当になった。帰り際にフランス語で「Soyez prudente」と言われた。盗難にあった者がParisで同情されることは無い。その不注意をむしろ咎められるのだ、すべては自己責任、それがParis風の発想だと識った。)その後すぐに銀行に行ったが、どこでT.C.を買いましたか、と質問された。淀屋橋の東銀だと言うと、まずその確認の電報を打つので、お金を支払えと言われた。吃驚。返事を待つために、明日もう一度来いと言われて。その確認が済むと今度はT.Cの番号確認のためにドイチェバンクに電報を打つと言われて、また電報代の支払い。何日も何回も東銀に足を運ばねばならないので、その間は東銀のまん前のホテルに宿泊していた。
盗難にあったTCが見つかった、どうすればいいかと相談に行ったら、普通はさっさと諦めるか、さっさと帰国するものなので、そんなに粘って(そう言えば毎日のように警察やら、拾得物管理所に顔を出して、まだ犯人は見つかりませんか、まだ黒のバッグは見つかりませんかと催促していた)、警察に届けられて本人に戻ったケイスは今まで無かったので、後はどうするかはドイツに行ってドイチェバンクと相談して決めてくださいと言われた。えぇっ!
東銀から連絡を受けたドイチェバンクはリファンドについては今後東銀ではなくParisのソシエテ・ジェネラルと交渉してくれと言ってきたので、ずっとソシエテ・ジェネラルと渡り合って来た。盗難にあったT.C.が見つかったとソシエテ・ジェネラルに相談に行くと、そこでもそれに関してはドイチェバンクと協議して欲しいと言われた。
再発行を済ませていたAir Siamに、盗難にあった帰りの航空券が見つかりましたと相談に行くと、再手続きはさらに面倒なので、古い見つかった方を破棄して欲しいと言われた。
パスポートはまだ再発行手続き中だったが、再発行のために暑い中6,70枚の書類にフーフー言いながら書き込んだのを覚えている。詳しい盗難状況を根掘り葉掘り、延々と書き込む。あれはなんだったのか。今となっては。

姫神さんへの手紙 (1)

 あなたに貰った国際返信用切手や「黒い鷲」の歌詞なども一緒に盗まれて、ぐやじい思いをしています。・・・
小切手(TC)の件はようやく何とかなりそうな気配。まだまだ安心できないけど。・・・この頃人を見るとみんな泥棒に見える。(注:多分盗難の後遺症) 書いた日記も一緒に盗まれたのも残念。

 サビーヌの一家はバカンスに出かけたらしく未だ彼女と連絡が取れていない。楽しみはお預け。・・・

 絵葉書でいいのでBruxellesで親切にして貰ったrosyに、あなたからも友人としてお礼の一筆を書いて出していただけませんか?(英語でいいと思います)以下が住所です(略)。

 部屋は念願の高級住宅街の一室(屋根裏部屋だけど)。犬を連れた老婦人がやたらと目に付く。壁にはABDIに貰ったイランのカレンダー、1353年なんて書いてある、とrosyに貰った温度計、今26度C。近くに目の覚めるような美しい公園と森(Vincennes)がある。

 Monsに2日いたけど(BruxellesとParisの途中)この時はユースに泊まったのでイギリスの小学生達と仲良くなり、彼女達の遠足に同行して、先生達とも仲良く、いい感じで過ごせた。イギリスの教育の自由さには驚いた。夜は眠くなれば眠る、いつでもいい。子供達が夕方カフェでビールを飲んで酔っ払って帰ってきたのには驚いた。この時の写真、フィルムを出す時に失敗してボツ!残念。

 オランピア劇場、ふと目にとまったけど、なんと小さな劇場だった(注:通りからはそう見える)。カトリーヌ・ララという歌手がいるけど、Barbaraと共作している女流作曲家は彼女だったっけ。今、ジョー・ダッサン(注:ミッシェル・サルドゥーの間違い)の「un accident」と言う曲、ニコール・クロワジールの「une femme avec toi」という曲が大ヒット。

 フランス語は、用はなんとか足せているけど、語彙は全然増えない(今のところ、勉強どころではないので)

 野ウサギのパテはくさくて不味かった。vin rougeには少し慣れた。今日は特選きのこカンズメがおいしかった。豚の頭の酢漬けも結構良かった。ほとんど自炊。ヨガの教えの項目に「知足」というのが有るけど、あれを読んでいて良かった。生活の工夫ということ。この何も無い部屋の中で。知足。
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 ヴァンセンヌの森の中ほどに野外競馬場があって天井の窓から首を出すと、夜間競馬の灯りが見える。・・・今日はABDIが遊びに来てくれた。Sabineとはまだ会っていなくて、そう言えばRogerともまだ。Sabineのお父さんがすごくBarbaraのファンなのだそうで、それを聞いて嬉しくなっちゃった。ABDIのイランの家の庭にはプールがあって、凄く大きな家。写真で見せてもらった。ABDIのお父さんもお母さんも、凄く気さくな感じの人。先日昼食に招待してくれた。ABDIはフランス語が凄く上手くなっていて、差が出来てしまった。

 飛行機に乗る前に、東京でO先生に会ったけど、出版は8月頃とのこと。それからlastの作品「あの風の墓地」、独特の味が出ているといって、誉めて貰った。救われた気持ちがした。(突然、昭和女子大なるところを訪問したのでした)

 大使館がAv.Hochにあり、大使館推薦の写真屋がAv.Wagranにある関係上、このところ毎日シャンゼリゼを歩いていて、もうあの辺には、金輪際行きたくない。(注:パスポートの再発行のために写真が必要となった)

・・・親友の姫神さんにParisから出した手紙から転載しました。・・・
(追記)Paris到着3日目、ホテル間の移動中に地下鉄の中でプロの犯罪者集団に黒いバッグをひったくられた。数週間後Youが住んでいた建物のコンシエルジュの善意で、この屋根裏部屋に辿り着いた。別のキャリーバッグの底に入れていた僅かな日本円のTCで暮らしていた頃だと思われる。文面から察するに1000ドイチェマルク(一部)のリファンドは完了していたかもしれない。パスポート、オープンの帰りの航空券、ドイチェマルクのTCの再発行のために孤軍奮闘していた頃に書いたものだと思われる。
(追記)比較的落ち着いた文面から察するに、TTが一人でかき集めて送ってくれた日本からの郵便為替のTTの援助金(20万円弱)も既に手にしていたように思われる。Vincennesの屋根裏部屋に辿り着いて2週間後に受け取ったような記憶がある。
TTにも母にも盗難の連絡はしなかった。がSKに出したハガキの内容が母を経由してTTに伝わったようだ。この時のTTの送金には今も心から感謝している。地獄に仏の思いがした。

え?い、じゃかましいー!

「本人が断りを入れてくれと言うので、電話していますが、Bruxellesさんをね、私がいただきますよ」
Bさんは落ちついてすんなりと、とんでもないことをGribouilleに伝えた。間抜けな私が言って欲しいと頼んだのだ。Bさんは、何も知らない。頼まれたから、電話しただけなのだ。まさかBさんが本当に電話するとは思っていなかった。
Bさん:「これでいい?」
B:「何か言ってた?」
Bさん:「動揺してたみたいよ」
私はBさんの豊中の自宅にいた。Bさんと知り合って毎晩飲み歩いていた頃だ。この勢いでBさんの力を借りて、もう東京に行く必要がなくなればいいと思っていた。

なのに何を思ったか、Bさんの詩誌でイラストを描いているH代ちゃんと、Bさんと私の三人で翌月上京することになった。
Bさんが昼メロの主演男優と別れた直後だった。Bさんの夫は、それを私の功績だと勘違いし、私の登場は大歓迎された。東京行きはご褒美だった。新橋の第一ホテル、Bさんと私はツインルームに泊まった。

私はいつものようにGに電話して会いたいと伝えた。今、自分の一番身近にいるBさんをGに紹介しようと思ったのだ。間抜けな私は電話のことをすっかり忘れていた。
Gは時間と場所を指定し、Kも一緒に行くと言った。

店に入るとGとKは先に来て待っていた。二人の顔をみて私は懐かしさで一杯になった。Bさんも上機嫌だった。
「先日はお電話で大変失礼いたしました」
Bさんは真っ先にそう言った。Bさんは覚えていたのだ。その前に
「大阪で詩誌Fを発行しているBと申します。近々に最新号をそちらに送らせていただきます」とも言った。
Bさんは詩人として詩人のGに会っているつもりなのだ。Bさんも電話の内容までは思い出せないでいたのだろう。
Gは違った。先日の電話の相手が、私を伴って目の前に現れたのだ。
一連の紹介が終わった直後に先制攻撃をかけて、こう言い放った。
「こんなところにいる場合じゃない。そろそろお店に出る時間じゃないですか」
「えぇ?」 Bさんと私は一瞬意味がわからず顔を見合わせた。
G:「○○に出勤する時間じゃないですか」
○○は有名なゲイバーの名前だった。
Bさんと私はもう一度顔を見合わせ凍りついた。前にも書いたがBさんは京マチ子と嵯峨美智子のいいところを掛け算したような美人なのだ。その上特別の色気がありすぎるので、時にオカマに見えてしまう。
予想外の先制パンチにBさんの顔がゆがむのが、はっきりと見えた。
B:「Bさん。着物を着てくればよかった。着物を着ていれば、こんなことを言われずにすんだのに」
私はBさんの両肩に手をかけて揺すりながら、思わずそう言った。
え?い、じゃかましいー!」
Bさんは大声でそう言うと、私の両手を振りほどいた。その勢いと激しさに私は一メートル以上吹き飛ばされ、倒れた。
Bさん:「着物を着てようが、何を着てようがあれこれ言われる筋合いは無い。何やのん、この人。あほくさい。帰ろ帰ろ、帰るよー」

B:「Bさん、Bさん、このまま帰ったらダメ」
そう言いながらも、私はBさんの後を追った。

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今、振り返って書くと、何度も笑ってしまう場面だ。しかしこの場面こそ、私が後に、仕事やら人間関係のすべてを整理して、日本を飛び出す最大の原因のひとつになった。最も大切な人達から得ていた愛や友情や信頼を、この場面で瞬時に喪失した。私は魂と身の置き場まで神様にとり上げられた。自業自得、因果応報。

小説 「帰ろう愛の天使たち」

Parisでの勉強が終わり、Joeがヨーロッパの旅を始めたので、私は返事の代わりにJoeのための専用日記を書くことにした。そんな時、アジアの旅から帰ってきた俊夫が、会いたいと言ってきた。俊夫と初めて出会ったとき、私の隣にはJoeがいた。Joeの目の前で俊夫と会う約束をした。3度目に会った時、地下鉄の階段を下りながら、俊夫が腰に手を回してきた。そして言った。
俊「最近眠れない。食欲も無い。君のせいで5キロも痩せた」・・・

俊夫は「2N世代」の出版記念会に来ていたから、そこにたくさんいた私の男友達の存在を知っていた。
B「Joeは今ヨーロッパよ」
俊「ずっとずっと後で、君の周りの男達が、もしみんな消えて、君が一人ぽっちになったら、その時は僕と結婚しようね」と言った。
Joeが私にとって何なのか、心の整理をしなければならないと思い始めていた。JoeはGの家で異様な振る舞いをした私を見ている。Joeが帰国するまでに、あの夜の私を自己把握するまでしっかりと分析しなければならない。
気がつけば、私に会いに来た俊夫に、Gとの出会いから今に到るまでの、楽しかったことや苦しかったことを全部打ち明けていた。私が予想もしないことを言うので、俊夫はきょとんとしていた。私は俊夫に話しながら、存在論的に私はGが大好きなのだと確信した。そしてその行く先は不毛で袋小路は目の前に見えた。内蔵を全部丸洗いしなければ、このまま死んでしまう、と思った。
俊夫はまるで何も聞かなかったかのようににっこり微笑んで帰っていった。

私はその夜、Gへの気持ちを作品の中に昇華できると感じた。Gと私を作品の中で殺してしまうのだ。私は神戸の「風群文学会」に所属し、既に小説を何編か発表していた。以前からGを心の中から追い出す努力をしていたのだ。
B「一緒に死のう」とGに言ったことがある。
G「Bruxellesちゃんとだったら、死んでもいいかなぁ」と確かにGは言った。
それを物語の中で実行させればいいだけだった。Gは東京でBは大阪で、場所と時間を少しずらして心中させる。多言語にまみれ、観念のあまりの大きさに、現実を見失ってしまった自分をそうして一か八か頓死させるのだ。Joeがヨーロッパを周遊している間に、小説として完成させよう。タイトルは・・・。ペンネイムは・・・。

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 もう何日も雨戸を閉ざして、そして今、22本のローソクの火の下で、ついに僕はこうしてペンをとっている。これを書き終えたとき、僕は「敗北者」の名を選び取り、ポケットに準備した愛すべき「くすり」を、故障しがちだった体内に流し込む。太陽は僕を冷えたまま地球の陰に置き去りにし、あなたたちの窓には、ゆっくりと角度を上げながら「おはよう」のあいさつを送り込んでいるだろう。もう僕にとっては、僕と、圧倒的に僕以外の「あなたたち」の世界は、ある時点に向かう僕の未来形の確実な速度と共に、はっきりと隔てられてしまっている。
?小説 「帰ろう愛の天使たち-または無音のシラブルの意思について-」 イントロ-
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Joe (3)

今日はJoeの3回目の命日だ。
人生の後半の20数年間、毎週3回の透析を受けていたとは、私には全く想像が出来ない。闘病にもめげず常に笑顔を絶やさなかった「人生の達人」だと書いている人がいた。学者として、健康な人以上に仕事をこなし、素晴らしい成果を残した。約束された王道を歩いた輝かしい人生であったと思える。妻を得、家庭を築き、子供を残した。透析、だけが彼の人生には本当に場違いだ。
「学問は業(なりわい)」だと常に言っていた。真摯な態度に心打たれた。
今日探し読んだ彼に関する文章の中に「日比谷高校の伝説的秀才」だったと書かれていた。そこまでは知らなかった。
Marie「Joe、その大きな頭の中には何があるの?」と聞いたら
Joe「Marie、に比べたら、みんなガラクタだよ」って言った。
場所は京大の「Good Samaritan Club」の部室だ。電気を消して二人でそこに潜んでいたのだった。そこは英語通訳ガイドサークルで、その頃まではまだ英語使いでもあったのだ。
10代後半から20代前半にかけてのJoeの口に上った(彼の好んだ)人達の名前を思い出すままに挙げてみると、生田耕作、澁澤龍彦、塚本邦雄、清水昶、頭脳警察、Herbie Mann、Miles Davis等、あぁ、少ししか思い出せない。Marcel Proustは彼の人生にまだ登場していない。喘息の話のついでにProustについては、むしろ私から話を振ったが、記憶に残る反応は無かったように思う。

彼の著作「プルーストと芥川龍之介」 : 日本文学に関する素養は父親譲りではないかと思える。「この前パパと滝口修造の家に行った」と言っていた記憶がある。私の記憶に間違いがなければ、福原麟太郎先生の家にもパパと行っている筈だ。彼の父が彼に期待と愛情を深くかけていたことが感じ取れた。
吉田城教授の資料
アルゼンチン館の夜はふけて:吉田城に触れた部分
blog 地声: 吉田城に関するペイジ:
blog:recitativo secco: 吉田城訃報
Kazuyoshi Yoshikawa氏とAlain Génetiot氏の吉田城追悼文
L'orbite metaphorique :吉田城への言及
Rockfield Diary : 吉田城への言及
日比谷高校と吉田城について内田樹教授のblog:
確かにJoeは他の男が簡単には真似の出来ないCity Boyの垢抜けた感性と所作を持っていた。
プルーストと身体 『失われた時を求めて』における病・性愛・飛翔 :

その日は京大西部講堂(否、円山公園野外音楽堂だったかもしれない)のRock Festivalに出かけたのだった。ブレイクする直前の井上陽水が東京からゲストとして飛び込み、大袈裟な紹介の後に登場して「傘がない」を歌った。
電気を消して鍵をかけているのに、気がつけばドンドンとドアをノックする人達がいる。見詰め合って身体を硬くした。数秒間の沈黙の後Joeが声を出した。「どなたですか?ご用件は何ですか?」
今ドアを開けるわけにはいかない!

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2007年の命日の記事 : Correspondances
PLANETE BARBARA 過去記事2004年:このとき彼は生きていた!
いつか見たマグリットの空の青:2005年6月 過去記事
Ou es tu, qu'est-ce que tu fais maintenant?
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Joe (2) Je suis tres heureux de vous voir

「Marie,僕と結婚してくれる?」
Joeは大きな声ではっきりと言った。キタの旭日屋書店の近くにある第一勧銀前の歩道の上でだった。どう返事をしたのか思い出せない。ただ
「えぇっ!Joe、今日は何日?今何時?」と言ったのを鮮明に覚えている。
自分の人生に於いて、とても重要な瞬間に思えた。二人して目の前の阪急百貨店の電光掲示板を仰ぎ見た。なのにそれがどんな時刻を表していたのか、全く覚えていない。
   ・・・・・・・・・
「今度の休みに帰ったら、両親にMarieのことを話すよ。すぐにOKは出ないと思うけど、最終的には絶対説得するから。期待して待ってて」
私はJoeといるだけでとても楽しかったので「結婚」という現実が二人に何をもたらすのか、ほとんど何も想像出来なかった。
立ち止まって考えてみたことがある。Joeは私と結婚して何を得ることが出来るのだろうか。私を得ることが出来る。少なくとも。でもそれだけだ。Joeはそれで充分だと言ってくれた。
「僕はね、他には、本当に何もいらないんだ」
交換日記には二人の未来の家庭のイラストを描いてくれた。
私はひとつだけ確信できることがあった。JoeとMarieは世界最高のカップルだと言うこと。
Joeの身体の中を駆け巡る熱い情熱と、沸騰している血液が、私に夢のような未来をもたらしてくれた。

東京のJoeから電話があった。
「ママがまだ早いって言うんだ。でも心配しないで。Marieは僕を信じてくれればいい。任しといてよ」
帰ってきたJoeに会った。
「ママがね、一緒に住むようになっても、入り口は別々にしますからねって、言うんだよ」
ーまだ学生なんだし、結婚なんて話、止めたほうがいいわー
「でも僕は、僕の気持ちを形にして確実なものにしておきたいんだよ」
ーわかったわ。結婚生活がどんなに辛くても、Joeがいてくれれば、私平気よー
「Marie、なんてことを言うんだ。僕はMarieに辛い思いをさせるつもりなんかないよ。二人で幸せになるために結婚するんだよ。僕はそう思うから、結婚を決めたんだよ」

翌年には、どうしても家族に会わせたいというので、二人で上京した。
「婚約するんだ」とJoeは言った。
ーJoe、私なんだか、マノンレスコーの気分だわ。一人息子を誑かした性悪女って見られたら、どうしようー
「僕が選んだ人を僕の両親がそんな目で見るわけなんかないよ。パパはいつも、日本人は金髪に染めても鼻が低いからダメだって言ってるから、Marieを見たら、パパびっくりするだろうなぁ」

私はJoeに連れられて、頭が空っぽのまま、千駄ヶ谷のJoeの家に行った。お母さんと、お姉さんが現れた。お母さんはとてもあがっていて、話もしどろもどろで、手に持っていた私の模様入りの黄色いBagを、しきりに誉めた。
「パパはね、今、千鳥ヶ淵のフェアモント・ホテルでお仕事中。パパに会ってらっしゃいよ。そしてお天気もいいので、ついでに千鳥ヶ淵でボートに乗ってらっしゃいよ」
私は頭を空っぽにして出かけたけれど、お母さんも、お姉さんも、お父さんも、まるで爆弾に会うような混乱した気持ちで、この日に臨んでおられるのだろう。
美術にも文学にも造詣が深くて、元NHK「百万人の英語」講師の、著作も一杯ある、英文学教授の、長身で美男でダンディーな、吉田正俊氏にこれから会うのだ。どんな感じの自分になればいいのか、私も少し戸惑ってきた。

三人でホテルの喫茶室に座って、Joeがまず私を紹介してくれた。日仏で共にフランス語を学ぶ人と言う一言があったせいか、Joeのパパはチラリと私を見た後、その口からは
「Je suis tres heureux de vous voir」とフランス語が飛び出した。
すると私の人格から、どういうわけか、いきなり本物のマノンレスコーが現れて、
「わぁ、カッコいい!」と言うや、蓮っ葉に無教養に、パチパチと手をたたいたのだった。

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現代詩手帖の最新号は昨年末に97歳で亡くなった作家Julien Gracqの特集号だ。後年Marcel Proustの世界的研究家になったJoeも、京都大学の卒論はたしかこのJulien Gracqだったと記憶している。
Julien Gracq まずはWikipediaから: Julien Gracq :
これは貴重なJulien Gracqのインタビュー : Julien Gracq Daily Motion :

追記:2008?07?08
現代詩手帖7月号には天沢退二郎氏夫人、マリ林(まりりん)氏がJulien Gracq姉弟との長年にわたる交遊録をJulien Gracq追悼文として書いておられた。それで、思い出した。
Joeがある日こう言ったことがある。
Joe「Marie、僕もね、ペンネイムを考えたんだ。梨木類(なしき・るい)、だよ」
聖杯物語で育ったJoeはJulien Gracqの本名をペンネイムにするほど、Gracq風の世界に傾倒していたのだ。
Joe「僕はMarieの騎士だよ」
Joeは完璧な騎士だった。この世に存在する最高の騎士だった。

JOE (1) Falling in love with Joe

Joeの留学の日が近づいてきた。東京でも会っていたが、もう一度京都で会っておきたいと電話があった。

Joeは京阪三条のプラットホームまで迎えに来てくれた。いつものようにJazz喫茶をはしごして、食事してそれから京都の街を歩いた。
「ここが僕の下宿だよ」と言って北白川のお米屋さんの2階を指さした。その時は部屋には上がらなかった。7時半ごろに御所のひとつの門の近くを歩いている時だった。Joeがはっきりとした声で言った。
Joe 「Marie、このあたりで、そろそろキスなど、いかがでしょうか」
Marie 「クックックックッ。何言ってるのよ、Joe、とてもそんな気分になれないわ」
Joeが沈黙した。
Marie 「Joeが変なこと言うから、どっと疲れてきた。もう帰る。タクシーで四条まで行くわ」
Joeがさっと車を止めてくれた
タクシーに乗って窓を、クルクル回して下げた。
Marie 「じゃ、Joe、元気でね」と言って手袋をしたままの手をさし出した。
ボーと突っ立っていたJoeがハッと我に返ったように近づいて来て、やはり手袋をしたままの手をさし出したかに思えたが、電光石火、左手でさっと手袋をはずして素手で私の手を包んだ。
その素早さに私は感動した。人の所作にこれほど感動したのは生まれて初めてだった。素手から伝わってくる想いは勿論感じたが、何より私はマナーに感動したのだ。この人は、こういう感動をこれからも私に与えてくれる唯一の人かもしれない。

最初の出会いで「もう一人の自分」だと感じたJoeに、特別の想いがあったことは事実だが、私より若くて、学問の世界で生きていくJoeを、私の毒気にさらして、将来を曇らせてはいけないと感じていた。
Joeといると楽しかったし、Joeといる時の自分が一番輝いていて好きだった。好きとはそういうことかもしれない。ただ、自分よりも年若い男性を恋人の範疇に入れる趣味も、つもりも私には全くなかった。

Joeが日本を去っても、私には男友達がたくさんいた。Joeがいなくなった分、男友達の数はずっと増えるだろうと思っていた。なのに、2週間も経たないうちに、私は不在が喚起する強い愛に目覚めたのだった。

一方Joeは、キスを拒絶され、逃げるようにタクシーでその場を去ってゆく私を見て、「これで完全に失恋した」と深く深く思い込んだのだった。

Rose Bruxelles et Moi

詩誌「ふらん」にBruxellesの思い出を書いたことがある。しかしもう原稿もないし、発表誌も入手不能。どんな内容だったかもはっきり思い出せない。諦めていた。
ところが今日、その原稿を自分で朗読しているテイプを偶然に見つけて吃驚した。録音自体を完全に忘れていたから。
Rose Bruxelles et Moi」、今日は日記を音声でお聞きください。
「Barbaraの子供云々」と言っているのは、当時Barbaraに関しては日本語の資料しか入手できず、その中に「Barbaraは結婚し子供も生まれたが、離婚してParisに戻った」という記事があったので、それを鵜呑みにしていたからだ。

こちらは 「La Grande Zoa」を歌っているRose。お聞きください。いい声をしているRose.

Roseはなんてやさしい声を出しているのだろう。この時私はカウンターの中に入ってRoseの横にいる。水道管のようなところからビールをジョッキに入れているところ。
Rose et Bruxelles
;音声日記をお聞きください。

朗読の中で「白馬車」と言っているのは「白馬」の間違いです。

Roseの店は普通の喫茶店の感覚の十倍くらいの大きな店で、店の奥には年配者がカードゲイムを楽しむ部屋、ビリヤード場、そしてピンボールなどを楽しむゲイム機のある部屋がさらに付加されていた。日本人はたいていゲイム機やビリヤードをしにくるらしい。
二階はホテルになっていて二度目の時はその中の一室に泊めてもらった。
「来年は店を閉めて小鳥屋さんをするつもり」と言っていたRose。あんなに繁盛している店なのに何故?売却するつもりなのだろうか?
RoseにはWillyというカメラマンの夫がいて、Willyという同じ名前の小さな息子もいた。
「たった二度よ、二度目で妊娠してしまったのよ」
Roseはわずか18歳で結婚し子供を産んでいる。それで身動きがとれなくなった自分を、いささか悔やんでいるようだった。人生はまだこれから始まるのに、18歳で固定されてしまうなんて。

Robert un Berge (後編)

実姉から送ってきた小切手を換金に大阪に行くから、とRobertから電話があった。
銀行員がモタモタしてなかなか換金しない。挙句に1週間後にもう一度来るようにと言われ、Robertが怒った。決まりだから。おかしい、そんな馬鹿な。
怒り続けるRobertのそばで、私は小さくならざるを得ない。日本人の感覚としてこれほど怒るRobertが、みっともない、と思う。銀行員は私に、早くその2メートルを連れ出していってくれ、という合図を送る。私にRobertを宥める術はない。Robertと一緒にいる時、こういうことが2,3度あった。みっともないと思ったRobertの怒りに正当性があり、怒るのはみっともない、怒ってもどうにもならないという敗北主義のような自分の感性の方にむしろ問題があるのだと次第に気づいていった。
不当だと思える扱いをされて、黙っていることしかできないことほど、子供じみて情けないことはない。この発見は、後に自分がParisで暮らすようになった時、どれほど役立ったことだろう。

Robertとはよく居酒屋に行った。マス酒やヒレ酒はRobertが飲むのを見て初めて知った。周りのおじさんたちが近づいてきて必ずこう言う。

おじさん「その女の子、大事にしないとダメだよ」
B「Robert聞いた?大事にしないとダメよ」
R「僕が君を大事にしなかったことが一度でもあるかい?」

Robertは私より6歳上で、名古屋の女子大と大阪の料理学校でフランス語を教えていたけれど、実は留学生で、実家から援助を受ける身で、一日も早く自立したいと、いつも言っていた。
一度Robertの部屋で靴下の繕いをしたことがある。電球を入れて、昔父に教えられたように針と糸を使って。そしたら、これもあれもと穴の開いた靴下をRobertがどっさり持ってきた。日本人の学生より、はるかに苦しい生活なのだろう。
Robertはパイプをくゆらせて、いい匂いがするのだけれど、その火で時々ポケットに穴を開けてしまうようなドジなところがある。そうした欠点も含めて、Robertと私は心の奥底の襞が、とても合うような気がした。
ー「素晴しいニッポンバレです」?
Robertが窓を開けながらそう言う。
・・・・・・

それは京都の、やはり居酒屋だった。時間が遅いせいか、客はRobertと私、そしてもうひとり報知新聞の記者、仮にSとしておこう。
いつの間にか”日本の戦争責任”のことが話題になっていて、RobertとSが意気投合「日本は侵略戦争で迷惑をかけた国々に謝罪をしなければならない」等と言っている。

B「ベルギー人のRobertに日本の過去についてトヤカク言われる筋合いはない」
S「否、反省すべきことは反省しないと。ドイツ人のように大人になって反省しないと」
B「おじさん、新聞記者なのに。ドイツが謝罪し反省しているのは、ユダヤ人の虐殺ですよ。ドイツはユダヤ人と戦争していたわけではない。証拠も証人も引っ込めようのない犯罪なんですよ。日本は同盟国でありながらそんな狂気に走った理由なき犯罪に加担していません。戦争行為は、やるかやられるか、あくまで戦争であって、勝つか負けるか、そしてその後は講和条約で決着でしょう」
R「Remember Pearl Harbor. 日本は卑怯な開戦をしたでしょう。卑怯な過去をいろいろ総括して清算しないと」
B「すでに暗号解読されていて、アメリカ側が開戦宣告をのらりくらりと受理しなかったんですよ。あんなのも米国のプロパガンダです。知性のあるアメリカ人はすでに認めている事実です」
S「そんな態度では、これからの国際社会で、日本も日本人も生きていけませんよ」

南京大虐殺も従軍慰安婦問題も、靖国神社参拝もA級戦犯も、政治カードになるとはまだ誰も思いもしない、30数年前の京都の一夜の一場面だ。

私は祖国のために無念に死んでいった英霊たちの名誉を守りたい。
それは過酷だったが、私はあの政治の季節を「右翼」のレッテルを貼られて生きてきた!怒りは収まらず涙をためた目でRobertを見た。
政治クラブ「七曜会」に属し、日本戦史や国際政治の学習もすでに数年前からスタートさせていた。
Robertを許せない哀しさに、私は心身の深い深い部分で身悶えした。

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2007年7月15日、発行されたばかりの本が今手元にある。
「平成攘夷論」小林よしのり著。日本人としてのAccountabilityがわかりやすく集約されている。ご一読をお勧めしたい。
Tel Quel Japon : Politique
こちらはささやかな一日本人のaccountabilityの任を負う、私のBlogである。一番最新の記事でも、試しにクリックしていただけたら幸せである。

兄「つぎあてだらけのGパン穿いて、頭くるくるパーマかけて幅太のベルトして手首にリストバンドしているイカレポンチみたいな奴と、今日阪急梅田駅の構内を手ぇつないで歩いてたやろ。なんやねんあいつは」
B「お言葉ですけど、あの子は優秀な将来性もある京大生ですよ。それにお父さんはNHK百万人の英語の講師もしていた有名英文学教授よ。イカレポンチとは失礼な!」
兄「チャラチャラした奴だ」
B「おしゃれなのよ。Gパンにはアップリケが付いてるのよ。ダサイ阪大生とは違うのよ」

私が男の子と手をつないで歩いているのを目撃して兄は衝撃を受けたに違いない。そして京大生だと知って、もっと吃驚した様子を見せた。?

私は喘息の発作が出た状態でタクシーに乗って高校受験会場に行った。母と兄が付き添ってきた。
兄は天王寺高校の制服を着ていたのだろう。私の別室受験の監視をしていた家庭科の教師が「天高生が何故こんなところにいるのだろう」と兄を見て思ったそうだ。帰って天高で教師をしている自分の夫にその話をしたらしい。無事高校生になってその家庭科の教師とばったり廊下で出会った。
教師「あの受験のとき、心配そうな顔で教室の外に立っていた天高生は、あなたのお兄さん?」
B[はい」
教師「それでわかった。お兄さんはお父さんがわりでもあるのね」
B「何がわかったんですか?」
教師「主人から話を聞いていた。楽々京大に行けるのにいくら勧めてもガンとして阪大受験しかしないという生徒がひとりいる話。職員室でも教員が皆不思議がってるって言ってた」
B「うちは母子家庭だから、下宿は無理。それにおばあちゃんも大阪人は阪大に行けばいいって」
もし父が生きていれば、兄は京大に行ったのだろうか。東大に行ったのだろうか。しかし人生に、もし、はない。
兄は使い放題に専門書を買える武田薬品の奨学金をもらって、家庭教師以外のアルバイトもせずに大学院も出た。
家庭科の教師から話を聞いたときは、なんだか少し兄を気の毒に思った。でも私たちにはお父さんがいないのだから。

Joeは京大生でJoeのお父さんは大学教授だと兄に言いながら、フトこのことを思い出した。兄はグゥと黙っている。

兄は「詩や小説など、他人のでっちあげたようなものを読んだり聞いたりする暇はない」と言って書かない、読まない。父にも祖父にも似ていない。突然変異はあっちだ。

次の年だったか。Joeが私の家にやってきて、私と二人でいる時に、兄が会社から帰ってきた。妹が男と二人っきりでいるところを初めて見て、ぎょっとする兄。
J「はじめまして。吉田と申します。お邪魔してます」
兄「・・・・・・・・・・・・・・konbaんわ」

そういえば、今日は兄の誕生日だ。

Robert un Berge (中編)

Joeが企画して私を招待してくれた日仏学館のクリスマス・パーティー。Joeとステイジで踊りまくって皆から拍手をもらい、急速に親しくなったあの同じパーティーで、実はRobertとも出会ったのだった。
Robertは「2メートル」というニックネイムのベルギー人の大男で手も足も顔も何もかも大きかった。金髪で奥まった目には哀愁と誠実さと傷つきやすさがミックスされていた。外では黒マントを着ている。
Robertの黒マントの中に入って身を寄せると、小さな私は完全にRobertの一部になってしまう。Robertのマントの中にいると、ああ、もう東京に、Gに会いに行かなくてもいいかもしれないと、思えたのだった。
Gに会いに行くのは傷つくためだ。傷ついてGに会いたくなくなるために何度も上京していた。それが無駄だと知ると、今度はGを傷つけるためにGに会いに行くようになった。Gに完全に嫌われるために。

Robertをじっと見た。何の違和感も無かった。強烈な磁力だけを感じ
た。Robertとなら同じ空気が吸える。それにGから遠ざかることもできる。大阪や京都で何度もRobertと会った。
ある日Robertに上京する用事ができた。
RobertにはGがどう見えるのだろう、GにはRobertがどう見えるのだろう。私は「友人に会ってきてほしい」と言ってRobertにGの住所を渡した。

Robertは上高田のGの家まで出向いてGに会ってきてくれた。
「どう思った?」と聞くと、Robertは顔をしかめて首を横に振った。
何か嫌な思いをしたのだろう。
私は二人の出会いにどんな結果を望んでいたのだろうか?
ベルギー人のRobertの部屋には大きなルネ・マグリットの画集があった。画家のGとマグリットの話でもして友達になってくれることを、ひょっとして望んでいたのだろうか。失敗だった。
単にGを驚かせただけだったのかもしれない。

次にGに会った時、さりげなく聞いてみた。
「私の友達が会いに来なかった?」
Gribouille「そう。来たよ。道に迷って電話してきた。お酒屋さんの角を曲がって、って説明したら『お魚屋さんの角を曲がったけれど、またわからなくなった』って電話があって」
これがGの言ったことのすべてだった。
Gはやって来たRobertを一目見て、私の心身にどんな変化が起ころうとしているか、おそらく瞬時にすべてを直感したのだと思う。

////////////////
クリスマス・パーティーから一年すこし後(?)Joeが日仏学館の留学生試験に合格して、それから家の援助も獲得して、半年ほどヨーロッパ遊学をすることになった。
早速第一報の手紙が来た。

「現地に来て学生会館に落ち着きました。まず1,2ヶ月ほどはみっちり勉強です。こちらに来る飛行機の中で思わぬ人と隣席になり吃驚しました。誰だと思う?休暇で実家に帰るRobertです。この先僕に何が待っているのか。一週間後に第二便を出します。楽しみにしていてね。
Je pense a toi. Ton Joe」

Robert un Berge (前編)

「この間電話で僕が『慙愧してよ』って言ったら、Marieは間違えて『わかったわ、懺悔するわ』って言ったでしょ。罪の意識を認めてるんだから、もう」
珍しくJoeが怒って嫌味を言っている。
Joeとお昼ごろに会う約束をして、結局夕方の4時ごろ「ごめんなさい。今日は行けない」ってキャンセルの電話をしたのだから、人間として慙愧して当然だ。けれど当時の私は、約束の時間にまともに行ったことは一度もなく3,4時間の遅刻は当たり前、直前のドタキャンも平気という脱社会娘だった。何人の人をカンカンに怒らせただろうか。Joeは私のそういうところをまだ知らなかったのだ。
「僕はね、Marieから電話がかかってくると思って、電話のある1階に降りて、することがないからずっと靴を磨いてたんだよ。おかげでね、靴がピカピカになったよ」
Joeの強烈な嫌味はこの時しか聞いていない。少しは私自身反省して変わっていったのだろうか?
私はJoeと会う約束をしていながら、京都まで行って、他でもないRobertと会っていたのだ。
Joe「あの日ね、Marieを午前11時頃京都の市電で見かけた人がいるんだよ。しかもRobertと一緒だったって」
Marie「そ、そんな筈はないわ。ひ、人違いよ、クックックッ」
Joe「あっ、笑ってる。Marieはわかりやすいんだよ。ウソを言う時、必ずそうして笑うんだから」
Marie「クックックッ」(実はもう笑って誤魔化すしかない!!)
Joe「電話してきた時、今まだ自宅にいるって言ってたけど、お昼に百万遍にいて、一旦大阪の自宅に帰って、また夕方京都に来たのかい。今度は四条河原町だよ。MarieとRobertに会ったって人がいるんだよ」
Marie「だ、だ、誰なの?クックックックッ。その目の悪い人は,誰なの?クックックックッ」
////////////

Joe「Marie、この前Robertの家から二人して帰る時『今日は帰るわね』って言ってたでしょ。今日は、という他と識別する助詞を使って言うってことは、帰らない日があったって言う事だよ。Marieは少なくとも一回はRobertの所に泊まっている」
Marie「そ、そんな。考えすぎよ。今日は帰るわね、の中に省略があるのよ。今日はこのままJoeと一緒に、って言う意味よ。Joe、そんなくだらないことに頭を使ってはもったいないわよ。クックックックッ」

クリスマスイルミネイションに輝く三越前で

西天満の貿易会社ではなく、それ以前の道修町の園芸会社にいる時だ。この会社はT薬品の子会社で、知人のHT氏が社長で、一応一通りの試験はあったが、入社は初めから約束されていた。
ある日そこへGribouilleから電話がかかってきた。
「明日Kが仕事で大阪に行く。Bruxellesちゃんに会いたいと言っている」

北浜の三越はクリスマスセールの真っ最中で光輝いていた。
6時の約束だったが、ギリギリで、走って行ったら、向こうから、300メートルも向こうから、Kが右手を上げて私の名を呼びながら走ってきた。
「Bruxellesちゃーん」「K?」
走りながら、なんてドラマチックなシーンなんだろうと思った。Kと1対1で会うのは勿論初めてだ。長身のKは女優のようだった。
キタのJOJOやミナミの絨毯バー「街」等、お気に入りの店を案内した。
気がつくと新幹線の最終時間を少し過ぎてしまっていた。

友達の酒田さんの職場、中津の東洋ホテルに案内した。
「シングル」と言おうとしたら、横から中央に来たKが「ダブル」と言った。そして「いいでしょ」と私に小声で言った。
結局ダブルはなくツインの部屋のキーをKが受け取った。
二人してバーで少し時間をつぶして、部屋に入り二つのベッドをくっつけた。
「これで、ダブルね」

以前Kがしみじみした口調で「私はBruxellesちゃんとだったら、年取っておばあさんになっても、どこかの縁側でお茶でも飲みながら、昔話できるような関係でいられると思う」と言った。それを親友の姫神さんに話したら「Bruxellesちゃん、それって素敵ね。Kって、Bruxellesちゃんのことを全部受け入れてくれているのね。ありのままに」と言ったので、Kの上の言葉は記憶に強く残っていた。

今夜はKからGribouilleの話をいろいろ聞けるかもしれない。
「Bruxellesちゃん、ひょっとしてGのこと、好きなんじゃないの。Gとこうしてひとつのベッドに寝たことがあるんじゃないの?」
ギクッ!!Gの話をKから聞くのではなく、私がするの?
B「なぜ、そんな風に考えるの?」
K「どうして知り合ったの?どういう関係だったの?言いたくないなら言わなくてもいい。私にはわかるもの」
B「・・・・・・」
K「こういう風なことはした?」
B「!!!・・・・!!!」
K「ホラ、嫌がっている。私が嫌いなの?」
B「そ、そんなわけでは無いけれど」
K「けれど、BruxellesちゃんはGを決して裏切れないのね」
B「べ、別に、そんなわけでもないんだけれど」
う?ん。覚悟を決めたほうがいいかもしれない。でもKと二人して、Gを裏切るなんて、そんな馬鹿なことができる訳が無い。
K「私はBruxellesちゃんの顔を見るために会いたいと思ったわけじゃない。あなたたちのこと、そしてあなたのことをもっと深く知りたいのよ」
B「!!!・・・!!!」
K「あれっ。Bruxellesちゃん、男の人じゃないとダメなの?」
B「そそ、別にそんなわけではないんですけれど」
K「どうしたの?Bruxellesちゃん!」
B「K,K,ちょっとタイム。吐き気がしてきた!」
K「えぇっ!!」
B「多分食あたりだと思う」

どうしよう。どうしよう。どうすれば、Kも自分も傷つくことなく、苦しむことなく、明日と言う日を迎えることができるのだろうか。

真夜中の喫茶店で

季節は今頃だった。上高田のGribouilleの家の2階の部屋に二人でいた。Kはまだ近くにアパートを借りて住んでいた頃だ。夜中の1時に電話が鳴った。Gが親しそうに話している。誰なんだろう。
G「じゃ荻窪で」と電話を切る。
B「今から出かけるの?地下鉄動いてる?」
G「Bruxellesもおいでよ。紹介しよう」
Gと一緒に真夜中の街に飛び出した。暗い道をどんどん歩く。歩くだけでなんだかウキウキする。
神社の中を通ったら、木に注連縄がぶら下がっていた。それを頭に巻きつける。
B「どお? New Fashion,似合う?」

角の喫茶店の2階にGよりも若い男子学生がいた。めがねをかけている。
B「こんばんわ。はじめまして」
学生はギョっとした表情をみせる。注連縄のせいか?
劇団を主宰して、ヨーロッパ公演を成功させてきた人だと言う。東北の実家のお父さんが倒れて、長男だから帰郷しなければならない。それで、劇団をどうしようか悩んでいる様子だった。私の出る幕ではない。ポカンと他の事を考える。学生は私のそんな様子が気になるようだ。
G「あぁ、この人のことは、気にしないで。いつもこうしてラリッてるから」
(ラリッてる、私が?Gribouilleにはそういう風に見えているのだろうか? 面白い!)
G「これね、ハチマキの代用らしい。ちょっと頭痛がするんだって」
B「頭痛だけじゃなくて、さっきの薬のせいで、手の震えが止まらない、ほらっ」
G「この人、大阪から来て、今(私の)家にいる。この人は薬が、なにしろ主食で、次々と飲んでいるから」
(そう言われてみるとそうだ。薬を主食にして生きているようなものかもしれない。Gribouilleって危険な人を泊めているのだ、でもそれって私?)
(こう紹介されると非常に楽だ。すき放題のことを口に出せる)
それにしても、こんな普通に見える学生が劇団を主宰しているのだろうか。
学生「みんなに、やめないでって言われている。つかさんが今やめたら、日本の演劇界が100年後退してしまうって」
(クックックッ。自信家なんだ、この人)
GribouilleのKOの後輩では、KKを先に紹介されている。KKとはすぐに気があったけれど、この人は私に違和感を感じすぎている。私からこの人を見たら普通過ぎて、KKほど面白くない。
この人に寺山や唐の才気は感じられない。でもこの人には実績がある。なにしろ学生劇団のヨーロッパ公演だもの...。悩みの内容も、しっかり大人だ。この人は人生を手前にしっかり引き寄せている。この人が私に違和感を感じるのは、私が人生を手放しているからかもしれない。

・・・・・・
1,2年くらい後だっただろうか、詩誌「詩と思想」が創刊されて、Gの紹介で私がJazz評を担当し始めた少し後、つかこうへいが同誌に演劇評を書き始めた。彼の名前は既にマスコミに登場し始めていて、あの悩める学生が、つかこうへいだと言うことも、その頃にはもうわかっていた。
Gと彼がどういう経緯であの日真夜中にわざわざ会ったのか、それは私には外側のことなので、一度も詮索したことはない。真夜中の密会?に同席させてくれ、私の同席を一生懸命弁解していたGに、夜道を歩く楽しさを教えてくれたGribouilleに、今でもただただ感謝している。

おもしろそう

定宿にしている神田のホテルを引き上げ、早朝からいそいそと上高田のGの家に向かった。
K「今日は、初めての、若草の会に二人で出かけるのよ。Bruxellesちゃんも一緒に来る?」とKが言う。
B「それ、何の会? そうなの、おもしろそう。でも三人で行ったら変では」
G「相手を探しに来ましたって言えばいい」
B「探してないんだけどね」

広い和室。長い机が2列あって人は4列に座っている。会長さんから少し会の説明があって、自己紹介が始まる。
男装の人は背広にネクタイ。宝塚的ではなく。生活人の匂いがする。しかし生活の重みや社会的偏見と闘っているというよりは、苦渋に浸かっているという感じがする。ここへ来る決心をするまで、大変な思いがあったのだろう。真剣に聞く。
私にも順番が来て、しどろもどろに何か言ったのだと思う。
全員の自己紹介が終わらないうちに、GとKから「出よう」という合図があった。
B「でも、来たばっかりよ」と反対したが、二人は私を引っ張って本当に退出してしまった。

B「せっかく来たのに。それに途中退出ってマナー違反でしょ」
K「Gが急に出ようって言ったの。それにBruxellesちゃん、あそこに本当に居たかった?」
B「確かに。でもここに来た以上歩み寄らなくっちゃ」
G「前の2,3人がBruxellesのことを、嫌な目つきで見ていたから・・・」

???Gったら、何を言っているんだろう。
Gは誰かに私を盗られるとでも、何か感じたのだろうか。

B「クックックックッ、G。Gってとんでもないことを考えるね。それに、もしそこに切実な思いがあるなら、目で見るくらいいいじゃない。そもそもそういう場なんだから」
G「Bruxellesはそうしてフワフワまるで空中を漂うように生きているけれど、他の人はそうじゃない。真剣になられて刃傷沙汰になって、Bruxellesが刺される可能性もある」
B「重い話ね」
G「Bruxellesには夢の宝塚しか見えていない。Bruxellesには、おもしろそう、と言う価値観しかない。東京に留まる決断さへ出来ない。まるで豆台風のように、毎年何回か突然やってきて、あたりを引っ掻き回して有形無形の惨状を残して帰るだけだ」
B「有形無形の幸せを振りまいてと言ってほしい・・のですけれども」
G「ハッハッハッ、それにBruxellesは、そうして独善的で、現実味に乏しく、存在が・・・」

Gribouilleに詰られるとしおらしく頭を垂れて黙っている。でも私はGribouilleの怒りがこうしてストレートに私に降り注ぐ時が一番の大喜びなのだ。ゾクゾクするほどの幸せなのだ。
ああ、屈折してしまっている。

次にGribouilleはこう言うのだ。
「Bruxelles泣いてるの?」

「泣いてなんかいるものか」とおもむろに顔を上げて、それから私はいつも幸福の絶頂のような大笑いをするのだった。

Gribouille & Joe

日仏のクリスマス・パーティーで急速に親しくなって、お正月休みのJoeの帰省には、二人一緒に隣り合わせに座って新幹線で上京した。

J「友達の家に行くのにお土産に、ウイスキーを買うの?」
B「6歳上だし、強烈な人なんだから、頭にガソリン入れなくちゃ、自分を維持できないのよ」
J「その人、女性?」
B「その人たち。今は二人で暮らしている」
J「結婚してるの?」
B「女性ふたり」
J「どういう関係なの?それにBruxellesとはどういう知り合いなの?」
B「文学の・・・。最近サド侯爵について何か書いていたから。今度見せるね。」
J「僕も、一緒に行っていい?」
B「う?ん。自分を大事にしたければ、来ないほうがいい。特に前途のある青年はね」
J「行くよ。Bruxellesが会いたい人って、どんな人なんだろう」

もう一人の女性Kは幸せな結婚をしていた。なのに家出してGribouilleの元に走ったのだ。モデルのように背が高く、顔は三浦布美子に似ている。(と言っても、知っている人は少ないかもしれない)
「おやすみなさい」と彼女たち二人が入っていった寝室にズカズカと一緒に入っていって「真ん中に寝かせろ!」とダダをこねたことがある。
何かを考えていた、というより、何も考えていなかったのだ。おもちゃにされて、放り出された。
隣の部屋はGribouilleの制作室だ。画材が散らばっている。ガランと広い。・・・
今度はお酒を飲んで早々と寝てしまおうと、自分なりの防衛策を考えていたのかもしれない。あるいは、Gribouilleの前で、酔って、自分の本心を自分で把握したいと思っていたのかもしれない。箍をはずしたら、自分がどんな行動をとるのか、と、箍がはずれっぱなしの私が、深刻に考えた結果かもしれない。

B「ここよ」
J「大きな家だね」
B「建設会社社長の家だもの」
J「Bruxelles,勝手に上がっていくの?」
B「いつもそうよ。Joe,帰るのだったら、今よ。せっかく日比谷、京大(Joeの受験の年は東大は受験中止)と順調に来たのだから」

Kは和服を着ていた。おせち料理もしっかり重箱に詰められていた。
私が紹介するまでもなく、Joeが礼儀正しく完璧な自己紹介をした。
Kの手料理の御節を食べて持参のウイスキーを飲んで、意味のないことをしゃべって、それでもGもKもJも気を使って要所要所で笑ってくれた。

翌朝4人は押し黙って一緒に家を出た。誰が撮ったのか、その場の写真が一枚残っている。完全なピンボケだけど前面にJ、後部にKの姿が見える。このときJのいった言葉がよみがえる。
J「Bruxelles、昨夜はご乱行でしたね」
B「えェッ?」
J「Bruxelles、僕ね、気が狂いそうだったよ」
B「・・・」
J「僕には理解しきれない場面が展開するんだもの」
B「・・・」「家に帰れって、何度も言ったでしょ」
J「Bruxellesのことが心配だったんだよ。酔って寝てしまうし。ほっとけないよ」
「ご乱行」と言った時のJの顔は今にも泣き出しそうだった。それはJoeの精一杯の抗議の声だった。
B「ごめんなさい」・・・
記憶をたどってみる。酔った私はKやJの前で、わめきながらGribouilleに飛びつこうとした。
G「亭主の所に行けぇー」
と、Gが叫んで私をJのところに力一杯突き飛ばす。Joeが飛んできた私をドスンと受け止める。振り解いて私はまたGのところに飛んでいく。Gがまた同じセリフを吐いて私をJのところに突き飛ばす。
まるでドッジボールのように空中を飛びながら、GとJに体当たりし、二人の間を往復していた私がいた。
その映像(醜態)は疲れ果てて眠り込むまで延々と続くのだった。

まつぼっくり

ついに養護学校でも寝ついてしまった。保健室に来てもう一ヶ月になる。ひどくもならないが、どうしてもラッセル音が消えない。耳骨を伝ってゼーゼーとうるさい。

音楽室が近いので時々みんなの元気な歌声が聞こえてくる。
その時は楽しい気分になれる。音楽の授業は全校生(30数名?)一緒、同じ内容。
注意して聞くと毎回同じ歌を歌っている。

♪「春になれば、しがこも溶けて、どじょっこだーの、ふなっこだーの、春が来たかと、思うべな」
楽しい歌だと思う。もう一曲は

♪「輝くよ、輝くよ、青草の牧場に、輝くよ、輝くよ、元気よく、ランラン!」
元気が出る歌だと思う。早く元気になりたい。もう一曲は

♪「花の周りで、鳥が回る、鳥の周りで、世界の子供。回れ、回れ、回れ、鳥の様に歌いながら、地球のよおーに回ろうよ」
スケイルの大きな歌だ。

ある時安静時間に誰かが弾くオルガンの音で目が覚めた。初めはラジオかと思ったが違う。明らかに誰かが音楽室のハモンドオルガンで弾いている。
知っている曲だ。マーチだ。いい曲だ。
それに、う?何故知っているんだろう。よく知っている曲だ。夢を見ているのだろうか。素晴らしい演奏だし・・それにそれに、これは私が作曲した曲ではないか!!
自分の曲を誰かに演奏してもらうって、こんなに嬉しいものなのだろうか。本当に夢を見ている気分。覚めないでと祈っている。
学校で新聞部をつくりその紙面に自分で作曲した曲を学校の校歌(「まつぼっくり」)として以前掲載したのを思い出した。
後で聞いたら、教頭の西山先生が、その新聞を見て演奏してくださったのだ。元気だったら、走っていって横で歌いたい気分。勿論歌詞も付けていたのだ。

・・・・・・・・・・・・

音楽室にあったハモンドオルガンで元気な頃直ちゃんに「口笛を吹く男」と「孤独」(これらは例のギターで作曲した)を歌った。この8月に久しぶりに会った直ちゃんに、その話をしたら、きっちり全部、歌詞を間違えずに歌ってくれた。
もうここまできたら、彼女は一生あれらの曲を心に宿していてくれるだろう。嬉しい。

play the guitar

生きるためだけに全力を費やしていた時代が長い。文字通り呼吸困難に襲われ、溺れかけた金魚のように口をパクパクと酸素を吸うためだけに全体力を消耗する。
養護学校から”脱走”したものの、普通校への通学が急にできる様になったわけではない。
その頃の慰めは以前大沢さんに買ってもらったguitarだった。曲が弾けるわけではない。元気な時に持って振り回すだけだ。時々はポロンポロンと弾いて作曲もしたけれど。

高校生になって芸術の選択は音楽をとった。何か楽器を決めなければならない。ギターしかないので、ギターにした。
まだ学校にもクラスメイトにも慣れていない頃だった。病み上がりで登校すると、青梅さんと言う人が「今度の音楽は楽器のテストよ」と教えてくれた。「テストって?」「前回練習した曲を一人一人別々に弾くの。Bruxellesさんはギターでしょう」「どんな曲?」「心配しなくてもコードを弾けばいいのよ」「コードなんて知らないし...」「じゃ私が教えてあげる」

青梅さんと言葉を交わしたのはその時が初めて。しかも4日後のテストのために「家においで」と誘ってくれた。
阿部野橋まで出てそこから路面電車に乗る。まだ新しい家で家人は誰もいないようだった。上がる前に足を濡らしたタオルで拭くように言われた。向かい合って椅子に座る。彼女がするとおりに真似た。一時間ぐらい練習して終わり。
「こんなのでいいの?」「それを先生のピアノに合わせて弾けばいい」

昼食時にT坊に調弦してもらった。午後の最初が音楽の実技テスト。
「さあ、どういう順番にしよう。希望者から手を挙げて」
待ってドキドキするのがイヤだったので真っ先に手を挙げた。「ハーイ」
何も考えずに青梅さんに教えてもらったそのままに弾く。
終わってやれやれと思っていると、教師が言った。
「真っ先に手を挙げるだけあって、なかなか上手だ」
ビックリした。そんな馬鹿な!本当は何もわかっていない。
全員が終わって、もう一度音楽教師が、私の実技を褒めてくれた。おかげで私がギターの名手だと勘違いするクラスメイトが何人か現れた。噂とはそういうものだろうか。

夏休み前になって少しずつクラスが出来上がり始めた。
授業中後ろの方がなんとなくざわついた。一番後ろの席の子が椅子ごとバタンと倒れた。大きな音がしてクラス全員がそこへ駆け寄った。
「靴を脱いで頭にのせろ!」「口にタオルを入れろ!」
叫んでいるけれど、誰も動かない。
彼女が口から泡を吹いていた。
保健室に急ぎながら思った。彼女には持病があったのだ。だからまともに登校も出来ない私に共感してくれたのだ。今度は私が彼女を守らなければ。

養護学校に彼女と同じ病気の子が二人いた。彼らに比べると青梅さんの発作はきわめて古典的だ。ただああいう倒れ方をした場合、地面に石や岩があると危険だ。

翌日彼女は元気な姿を見せてやって来た。けれども二度と私には話しかけることも近づくこともなくなってしまった。私が見てしまった事に彼女がこだわっているのだ。
私もあれ以来ギターを弾かなくなった。
ただ、ポロンポロンと作曲していた時にできた、左手の指のギターダコが消えるまでに、その後数年かかった。
・・・・・・・・・・・・・・
BGM:「Johnny Guitar

「そこに居てね、今行くわ」

足と手が、勝手に動いて
私は切符を買った。
人づてに聞いた住所と地図を握り締めて
見知らぬ駅に降り立った
さらに駅の交番で道順を確かめて
憑かれたように歩き出す
夏の雲のような喜びが
胸いっぱいに発生して
時間が逆戻りを始める
あなたがずっと私を
待っているような妙な確信があって
「そこに居てね、今行くわ」
と、声に出して呟いた。

お寿司屋さんの角を曲がって
さらに公園を右に折れて
登ったり下ったり
道に迷うなんて平気よ
慣れているもの
「そこに居てね、今行くわ」
「そこに居てね、今行くわ」
三叉路でしくじって
一時間は無駄にした
道に迷うのなんて平気よ
慣れているもの

あなたの表札にたどり着いて
家の周りをウロウロする
二人の匂いがたちこめていない
膨大な時間が別々に流れて・・・
それを引き返して来たものの
会いたいのか会いたくないのか
声さへ失くして
私はどんどん小さくなる
氷が溶けるようにたち消えた私は
ついに昔の私に戻っている
そして、あなたは、
あなたはここで今を
あなたの知らない今(あなた)を
多分生きているのだろうと知る。

・・・・・・・・・・・
BGM: ALBERGO A ORE

「白夜」

ポストに小包があった。差出人はY教授。いつも手紙は奥様から来る。本が一冊ポコリと入っている。「白夜」というタイトルの句集。手紙が一枚はさんである。やはりY教授の名前で。字が薄い。何故?まさか、まさか!二行目に妻が永眠しました、と書いてある。69年の生涯にわたって書いた俳句をまとめて・・。現物を見ることがかなわなかった・・。急性心不全。何度も読み返す。

養護学校時代の直ちゃんに電話する。通じない、話し中。奥様は私たちの寄宿舎の寮の先生だった。不眠症になった私を自分の部屋、自分のふとんに寝かせてくださった。そしていろんな外の世界の話。「Bちゃん、こんなところに長くいてはダメよ。社会復帰できなくなる。外の子供たちは高校受験に目をむけているのよ」
鍛錬の時間、体育教師に走らされて、ひどい発作が出たことがある。「こんなになるまで走らせるとは何事ですか!」私のために目に涙をためて抗議してくださった。

若い頃から心臓を病んでおられた。学問好きな方で、養護教員になられてからもずっと勉強を続けておられた。断言できるが私は特に愛情を注いでいただいたと思う。
広田さんの勘違いのお葬式のとき、浪人中の私はハッパをかけられた。「主人がそこで教えているから」・・それだけの理由だったが、あの時出会わなかったら、私は人生に対して一度もファイティングポーズをとることなく、とっくの昔に一生を終えていた気がする。自分自身に持病があるから病弱者に理解が届くのだ。「合格」を告げた時、涙を流して誰よりも一番喜んでくださった。

20年前、直ちゃんの喫茶店「エミグレで「Basicに興味がある」とフト言ったら「それじゃ主人に頼んであげる」ととても嬉しそうな顔をしておっしゃった。夏休みの時期でもあり早速翌週から、私は大学でY教授のBasic個人レッスンを無料で受けることができた。しかも奥様の手作りの昼食付で!ちょうど客員教授としてお二人でペンシルバニア大学に旅立たれる前だったので、英会話のアドバイスを少しして、挙句にその報酬までいただいたのを覚えている。

以前「私がもし間違いを起こして子供を産んだら、先生育ててくれますか?」と何気なく言ったら「私たちが年取る前に。なるべくなら3年以内に産んで頂戴」と冗談をかわされたこともあった。

一昨年大学の構内にできたレストランでフレンチのフルコースをいただいたのが最後となった。

20日の日曜日、養護学校時代の仲間と誘い合わせて、40数年前の先生に会いに行く。

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