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ホテル王

ホテル王と言う言葉は誇張かもしれない。ニックネイムと思っていただきたい。それでもその人は堺の臨海工業地帯にビジネスホテルを5軒ほど所有経営していた。
和歌山県出身で一族は代々材木業を営んでいた。マンション経営をするつもりで建設したのだけれど、海外からの工事建設業者達の来日が多く、週ぎめ、月ぎめ、年ぎめのホテルにしてほしいという顧客側からのリクエストに応えて、次第にビジネスホテルに転用していった、と聞いている。一族の中でもその人が代表取締役で、当時まだ30代だったと思う。私の英会話の生徒だった。
英語圏の客と一緒にバーやクラブに繰り出すとき「先生もご一緒に」と時々誘っていただいた。フランスから帰国してまだそれほど年月がたっていなかったので「できたら、フランス人のときに声をかけていただきたい」とお願いしたら、何度かリクエストに応えて下さった。

B「もう3ヶ月も日本にいるのだったらTVもよく見るでしょう。どんな出演者が印象に残りました?」
仏人技師A「印象と言うより、一番よく見るのは二人組みの幼稚園の子供たち・・」
B「?誰??よくTVに出てるんですか?」
仏人技師C「その子供たちはお遊戯って言うか、幼稚園で習った踊りを踊るんだよ」
ホテル王も私も顔を見合わせた。誰のことか見当もつかない。

ホテル王は私の誕生日には私一人を誘ってくださることもあった。フィリピンバンドが入ったライブをするクラブで、私はやはり「アンチェインドメロディー」をリクエストしたと思う。
帰ろうと思ったらバンドのメンバー全員が、私たちの席に挨拶に来た。何故こんなに?
ホテル王は支払いのつり銭、かなりの額を全部いつも「バンドの方々にチップを」と言って、受け取っていなかった。Bruxellesほんの少しだけ粋の行動パターンを学ぶ。

フランスに行く前、記念にと姫神さんを含めて4人のグループで温泉に行ったことがある。遊びなれた初老の紳士二人がビリアード場で話しかけてきた。10分ほど姫神さんと二人、ビリアードの手ほどきを楽しく受けた。二人の紳士は無駄話をするでなく、爽快感を残してそのままあっさり帰っていった。立ち去る前に私たちのドリンク代とゲイム代まで支払って下さった。粋人の行動パターンを学ぶ。

ハワイのプールのそばのバーに座っていると、アルコール飲料がテイブルに届いた。
ボーイ「あちらの方からのお届けです」
日に焼けたアメリカのダンディーがこちらに笑顔を見せる。
Bさんとよく飲み歩いたときも、こうして別の席の見知らぬ人からアルコールドリンクが届くことが時々あった。
・・・・・・・

仕事の行き帰りに車を使っていた。その当時は仕事をバリバリしていて懐も暖かだった。今日はそれにあまり使っていない。
夜になると道路沿いの店内は外より明るくて中の人は気づかないが、丸見えになる。あれぇ、私の生徒の楠田君と安住君が、二人カウンターに並んで何か食べている。お客は二人っきりだ。様子を見ようとふと車を止めた。そこへ、店の主がひょっこり現れた。
B「カウンターの二人の分、おあいそさせてください。おいくらですか?」
すらすらとそういう言葉が出た。
主が中に戻って、二人に告げたのだろう。支払いを済ませてセカンドで発進しようとした時、二人が中から飛び出してきた。
「あっ、先生、ご馳走さまです」「あっ、ご馳走さまです!」
府立大生の二人は、Ryookoのマンションのパーティーに案内したり、クリスマスパーティーを何回か外の店で一緒にしたり、車を3台連ねて春の花見ドライブをしたこともある。
ホテル王や初老の紳士たちの行動を、自分で気づかずに、ほんの少し私は真似たのだろう。なんだか、家路を急ぎながらとっても嬉しかった。天が与えてくれたタイミングと彼ら二人の気持ちのいい人柄がこの喜びを与えてくれたのだろう。こういうことをしたのは、これが最初で最後だけれど。
・・・・・・

話を元に戻そう。
仏人技師達が話題にしていたのは、ピンクレディーのことだった。あの振り付け、あの歌、成熟した大人のフランス人には、幼稚園児にしか見えなかったのだ!
ピンクレディーが種をまいた「歌って踊る」以後の方向性。これが日本シャンソン界を日本芸能界の片隅に押しやった大要因になったと言うことは、否めない。歌ってお遊戯することを否定するつもりはないが、それが主流になれば、シャンソンは滅びる。大人の歌手は居場所を失くす。

お兄ちゃんがやられてる!

ゴムまりでワンバン野球をしていた時だと思う。何かが原因でアッと言う間にケンカが始まった。貴広ちゃんが兄の胸倉を締め上げて家の外壁に押し付けた。弟のT坊が兄の利き腕を両手で押さえつける。
「お兄ちゃんに何するねん」
私はT坊に後ろからくらいついて引き離そうと引っ張る。正孝ちゃんがそんな私を捕まえてさらに後ろから引っ張る。振りほどいてT坊の腕を払いにいく。正孝ちゃんが今度は私を突き飛ばす。私、倒れる。
「Bruxelles逃げろ」と兄が叫ぶ。
家の中に駆け上がって台所に向かって叫ぶ。
「お兄ちゃんがやられている!」
母は平気な顔をして驚きもしない。そのことに私はさらに驚いて、母のスカートの裾を引っ張って、よいしょよいしょと玄関の外まで連れ出した。
まだ喘息の発作が酷くなる前の幼稚園くらいの思い出だ。
F家の兄弟は皆生まれながらの金髪がかった茶髪、特に貴広ちゃんは運動神経が抜群で、きっとプロ野球選手になるだろうと近所で評判の子だった。
兄と貴広ちゃんは中、高と別々のところにそれぞれ越境入学したので、次第に接することもなくなった。T坊と私は、高校生になって、偶然クラスメートとして再会した。

F家はT坊と私が高校を卒業した直後に引越ししていった。
私は窓を少し開けて、T坊が荷物を運ぶのをじっと見ていた。
小さな天草と外で遊んでいると、いきなりT坊が「バアッ」と言って窓から顔を出したことがあった。T坊のバンドで私がヴォーカルをやったこともあった。
感傷的な気持ちになって、それでも「さよなら」を言いに出て行けなかった。
トラックのエンジン音が聞こえた。
その瞬間兄が立ち上がり、本棚から一冊の本を抜き取り、家を飛び出していった。私が後を追うと、黙って貴広ちゃんにその本を差し出していた。本棚をみると兄の愛読書エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」がなくなっていた。
参照:「そのほかの日々
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   GILBERT BECAUD 「L'important C'est La Rose」

高校2年生

N「Bruxellesさん、田中先輩と親しいの?さっき図書室で話してたでしょう。ねぇ、田中先輩、素敵でしょう?」
B「えェ?ああ、あの人?素敵とか別に思ったことないけど。知ってるの?」
N「クラブの・・」 B「あぁ、コーラス部のね・・」
N「憧れてるのよ。ああして親しく話してみたいわ。羨ましい」
B「電車で朝一緒になるから。話はするけど、別に親しいわけじゃない」

さっき図書室にいたら、後ろから近づいてきて「だ?れだ」と目隠しする人がいた。見当もつかない。「全然わからない。降参」そう言って後ろを見たら、田中先輩だった。後ろに立って両手を私の肩に乗せて、突然小声で耳打ちする。

T「Bruxellesさん、阪大に進学して」
B「ええェ、どうしたんですか」
T「神戸女学院、神戸女学院の方がいいかも」
B「それより、田中先輩は?」
T「親に反対されて、就職することになったの」
B「そうですか。神戸女学院に行きたかったんですか?」

神戸女学院だったらコネがあるから、行けるかもしれないけど、うちは母子家庭だから、お嬢様大学は絶対無理。
T「じゃ、やっぱり阪大」
そこへ田中先輩の友達がやってきて二人でそのまま去っていった。「Bruxellesさんだったら行ける。だから行ってね、約束よ」って言い残して。
B「約束よって、一方的すぎますよ」

女には学問は不要だと考えている親は多かった。その数年後に全国の大学で「女子大生亡国論」なるものが闊歩したくらいだった。「親に反対されて・・」田中先輩の声はたくさんの女性たちの声であり気持ちであった。その気持ちを集約させて、私の両手に置いて、彼女は去っていった。

2年生になって、進学どころか、私は高校さへ止めたいと真剣に思っていた。
遅刻して行って、遅刻の理由を聞かれ、よくは覚えてないのだが「授業がつまらない」と言ったらしい。早速担任に呼ばれた。教師に対してそんな失礼なことを言った覚えはないのだけれど。(思ってはいた)

理由はともあれ、私は最近の登校拒否や引きこもりの人たちの気持ちはよくわかる。
子供には将来の自分にとって何がプラスになり何がマイナスになるか、本能的にわかってしまうのだ。

現行のシステムを抜本的に改革し、機会均等,敗者復活も含め、今よりもはるかに多くの選択肢を用意すべきではないだろうか。
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  FREHEL  「La Java Bleue」

Mon Ami : Paul de Kotte Dikoume

前にParisに来たときに知り合った日本人のYOUに会いに行った。ヴァンセンヌの森の近くの25Avenue Fochのアパルトマンの屋根裏部屋に住んでいた。Parisのレストランで修行している。
一番上の階まではエレヴェーターで、そこから重い扉を押して螺旋階段を昇ってゆく。当然のことながらノックをしても返事がない。
すると隣の部屋のドアが開いて、留守だよ、メモでも入れておけば、という声が聞こえてきた。中を覗くと黒人の青年がいた。ドアはすぐに閉められた。筆記用具がない、どうしようと思っていると、またドアがあいて紙と鉛筆が差し出され、すぐに閉まった。「Merci」でも書く台がない、どうしよう。するとまた隣のドアが開いて百科事典のような重いぶ厚い本が出てきた。それを台にしてメモを書いた。それがカメルーン人PAULとの出会いだった。

事情があって私もその建物の屋根裏部屋に住むようになって、友達になった。
B「郵便配達夫がサインしろって言うんだけれど、サインしても大丈夫?」Paulに相談に行った。
P「サインしないと受け取れないよ。誰かが君にお金を送ってきたんだよ」
さっさとサインしなかったので郵便配達夫は頭から湯気を出して怒っていた。
私が盗難にあったことを誰かから聞いたTTが思いがけないことに日本からお金を送ってくれたのだった。
B「これどうすれば、お金になるの?」
P「郵便局で換金できるよ」

Paulは時々部屋に遊びに来るようになり、私も時々遊びに行った。大きな色彩鮮やかな一枚布をどのように身体に巻きつけて洋服にするか、教えてもらった。一枚の布、裁断したり縫ったりせず、そのまま服になる不思議。
一年前ロサンゼルスに行ってバスに乗ったとき隣席の黒人の体臭に窒息しそうになり、Paulに会うまでは、黒人に対していいイメージを持っていなかった。Paulは体臭もなかったし精神が柔軟で、知性も礼節もあった。
第8だか、第10だか忘れたが、Paulが通っている郊外にあるParis大学のキャンパスを案内してもらったこともあった。
B「Paulは国に帰ったらエリートね」
P「しっかり勉強して帰ったら仕事して妹や弟を養っていかなくちゃいけないんだ」

Paulはよく冗談をいい、いつも楽しそうに笑っていた。私はその頃テキストとしてCRONINの「Deux Soeurs」や仏訳されたEdmondo De Amicisの「Grand Coeur(Le Journal d'un ecolier)」を使っていた。「ちょっとここを読んで」と言って、音読の練習用にPaulにカセットテイプに朗読してもらったりした。
よく喧嘩もした。Paulはしゃべり過ぎてうるさい。しかも説教をする。スプーンやフォークの洗い方が不十分だとか、荷造りの紐のかけ方が正しくないとか、際限がない。私は自分の描いた水彩を壁に貼ろうとしているところで押しピンを2個手に持っていた。
「Arrete! C'est assez!それ以上言ったらこの押しピンでPaulの両目を突くわよ!」冗談とはいえ、そんな発想がよく出たものだと自分でも思う。大山倍達の空手武者修行にそんなシーンがあって、多分それがインプットされていたからだろう。Paulの顔色が変わった。
「オーコワ。びっくりしたあ」
両目をかばうように両手で顔を覆ってアハハと笑いながらも、スゴスゴと部屋を出て行った。(つづく)
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ADAMO 「En Casquette A Galons Dores」

フルーツバスケット

平田守純詩集「フルーツバスケット」が届いていた。発送者は平田美智子とある。もう何年前だろう、この二人の結婚披露パーティーに出席したような気がする。

平田さんは、短詩が自爆して、現代詩に飛び散った本当に古い古い仲間の一人だ。「そのほかの日々」2004年7月30日「隠れサフォーの店」に登場している。そこに書いているように、私は平田さんと万博に行っている。その帰りに、薫さんの店に案内してもらった。彼は背が高く、古風な感じの文学青年で、結婚式のときも誰かが”机龍之介”や”由比正雪”になぞらえていた。神戸のヴァイキングの君本昌久氏に私を紹介したのも彼だ。

「そのほかの日々(2)」2005年7月8日「革新川柳」に書いた川柳人石田柊馬の句集はあたかも短詩集のようだったが、平田さんの今回の第2詩集からは、短詩臭は払拭されている。
彼が編集発行した「短詩峡」や「類」を探し出してみる。「短詩峡」2号の裏表紙には「詩集紹介」として「2N世代」が取り上げられていた。「類」の裏表紙にはBruxellesの作品「MのLO」?逃げるブラジャーが掲載されている。これは大阪ミナミの「街」で詩の朗読会をしていた頃の連作の一部だ。この頃はまだ短詩に未練があり、一行の文がどれだけの修飾節を支えきれるかという実験をしていた。
最後の著者紹介のペイジを見ると、2003年4月23日没とある。残された詩作品を神戸の友人たちが集まって年月をかけて編集し誕生させたばかりのもののようだ。発行は2006年2月10日となっていた。

「類」2号で特集している藤本俊英と平田さんと私の3人で、三宮の駅で夜ポツンと電車を待っていた。するといきなり藤本俊英が私を激しく抱きしめてキスをしてきた。私が状況を飲み込めずに呆然としていると、後ろを向いていた筈の平田さんが「僕もやらないとソンだ」と口走って、突然同じことをした。気まずい空気が流れた。藤本俊英を突き飛ばさなかった私に非があるので、腹も立たなかった、むしろ平田さんのセリフに笑いそうになった。彼は善良な青年なるがゆえに、本当は私を守ろうと、止めに入ろうとしたけれど、もうひとつの野生が突然に目覚めて、自分でも思いも及ばないセリフを吐かせたのだと思う。

数ヶ月後、短詩の旧友の石原明が東京から私に会いに来た時、私は神戸の平田さんを石原明に紹介している。それくらいだから、あの”事件”は、わだかまりになるどころか、平田さんの人間性の良さをむしろ私に印象付けたのだろう。

今は亡き平田守純詩集を手にしながら、いろんなことを思い出している。友よ、どうぞ安らかに。
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HELENE SEGARA 「Humaine」

1月9日「成人の日」

身体が弱かったので、雨が降ったら外出するな、風が吹いたら、外出するな、と言われて子供時代を過ごした。雪が降ると、転ぶと危ないから学校は休みなさい。もし東北や北海道の子供だったら、自宅軟禁状態になっていただろう。
毎日ゼーゼーヒーヒーいいながらTVを見て時を過ごした。20歳までに死ぬと言われていたので、成人したり社会人になることを想定したことなど一度もなかった。
だから20歳を迎えたときは愕然とした。
薬物中毒で、もうどんな薬も効かなくなって、病院のベッドの上で死にかけていた。
でも私には未来があり、この身体のまま、これから先も死ぬことなく生きていかなければならないのだと自覚して、絶望のどん底に突き落とされた。
未来がまるで地底に続くように真っ暗だったからだ。どうして生きていけばいいのか?
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Mamy blue」DALIDAで。フランス語で歌ってもイタリア語で歌っているように聞こえるけれど、これは本当にイタリア語で歌っている。

Music Cross Talk ネイミングの由来

実際行って見て聞いたわけではない。その記事を1969年4月号の「美術手帖」で読んだだけだ。けれど、とても表現できないくらい圧倒的な衝撃を受けた。私がぼんやり考えていたArtの世界がそこに展開していたからだ。五感全体が呼応した。
私は雑誌や書籍を保存するタイプではない。必ず処分する。ところがこの号だけは今も所有している。今改めて見てみると、すごい号だということがわかる。
まず大久保喬樹の「ジャックスン・ポロック論」がある。東野芳明の「ジョージ・シーガル論」(このPLANETE BARBARAの中にもシーガルの作品を写真で登場させています)高階秀爾の「エミール・ノルデ論」そしてローレンス・アロウェイの「オップ・アート論」その上、表紙はロイ・リヒテンシュタインの「VAROOM」。そしてこの号の特集が私のArt観を決定づけたイヴェント報告記事「インターメディアとはなにか」だった。
会場は東京代々木国立競技場第二体育館、日時は2月5,6,7の3日間。そのイヴェントこそ「クロス・トーク・インターメディア」フェスティヴァル。ずっとずっと何があっても頭から離れなかった「Cross Talk 」。様々な分野のArtist達の種火のような鬼火でもある情念と概念の矢が行き交った「Cross Talk」。Art&Technologyの融合の実験場であった「Cross Talk」。そのArt Conceptを受け取った者として長年懐に入れて温めてきた「Cross Talk」のTwo WordsをBarbara研究のあのコーナーに借用させていただいた。

越路吹雪のドラマ

今、越路吹雪のTVドラマを見ている。今回は天海祐希、以前は確か大地真央で越路のドラマを見たような記憶がある。以前岩谷時子は壇ふみ、今回は松下由樹。第一の感想はカメラワークがまるで岩谷時子を越路の守護霊か背後霊のように扱っていたのが少し気になった。第二の感想は、歌の場面はやはり越路の声で流して欲しかった。天海の素人っぽい歌唱力では、逆立ちしても越路のドラマとしては、成り立たない。
今ラストシーン、やっと越路の歌声が流れた。
宝塚を出て宝塚を乗り越えた人は多いが、芸能界では越路吹雪、政界では扇千景、この二人がダントツの双璧だ。
Bruxelles、小一からのズカファンだけれど、残念ながらお二人の現役を知らない。
寿美花代淀かほる加茂さくら真帆しぶき上月昇神代錦春日野八千代までなら、現役を知っている。

このピーターの越路吹雪、なんだかよく似ている。こちらです。
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「Nuit Magique」 Catherine Lara

薬との関わり

今日久しぶりにエフェドリンを多少多めに飲んだ。今効いている。この感じ、頭や気分まで爽快だ。空気が肺の奥深くに入っていくのがわかる。
何度か薬物依存になったけれど、この感覚と共に人生の大半を生きてきた。

ほとんど薬が効かなくなって、京都の漢方薬屋から通販で薬を買っていた時期があった。水の飲めない、たとえば授業中の教室や電車の中で直に飲んだことが何度もある。舌や口の中全体が痺れる。物凄く苦い。
成分に麻黄とある。薬剤師の友人SSに聞いたら、これはエフェドリンの原料だと言った。なるほど、漢方薬にしてはよく効く筈だ。エフェドリンでも化学合成したエフェドリンはほとんど効かない。

小学校2年から喘息発作に特効注射を打つようになった。母の背に負われて真夜中に近所の医院に走ってもらったことがいやほどある。呼吸停止寸前になる。そこへ1ミリくらいの注射と強心剤を片方づつの腕に打ってもらう。2分もしないうちに歌が歌えるほど元気になる。あまりに劇的なので、その快感が忘れられなくなる。しかし、この劇薬、3,4時間しか効かない。一日何度か母に背負われて病院まで走ってもらう。2日目はたいていそのまま病院に入院だ。小学2,3年生はそんな繰り返しだった。体重も身長も増えないし伸びない。朝から夜まで夜中まで、ゼーゼーヒーヒー言いながらTVを見ていた。小学校など、1年に50日も登校出来なかったように思う。

大人になったら治ると言われていたけれど。私の場合は結局治らなかった。

本格的に薬物を減らそうと思って全力で取り組み始めたのは5年前だ。自分なりに知恵を絞り心身両面から取り組んだ。思考回路が完全に病人のものになっていた。こうした時、ひどい発作が出た、というインプットが多くありすぎた。計画が立てられないから、計画性そのものが思考から欠如していた。身体を徹底的に労わり過ぎる。目の前にある薬は、なんといっても薬こそベストフレンドなのだから、何でも口に入れた。そういった自分を過去に葬り去ることから始めた。
3年目で、薬の量を6分の1に減らすことに成功した。同時に肌身離さず持っていた吸入器を持ち歩かなくなった。
今でもまだ薬を絶ったわけではないけれど、5年前に比べれば8分の1くらいに減少させている。2年前からは、喘息を克服したいと言う消極的な目標から、スーパーボディをつくりあげたいという積極的な目標に切り替えた。

P.S:最近こんなサイトを見つけた。目に負担がかかるので詳しく読んでいないけれど、小児喘息に苦しむお子さんをお持ちの方がいらっしゃれば、参考にしてみていいのではないだろうか。こちらです
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Didier Barbelivien 「Les moulins de mon coeur」

生命保険(社会不安の中で)

夜11時過ぎに元生徒の地蔵君から電話があった。生命保険加入をめぐって奥さんと大喧嘩したということだった。子供も2歳になったし、いろいろ調べて将来のことも考えて、保険に入ろうとしたら、奥さんが反対したらしい。保険よりも貯金のほうがいいと。3日前の話だ。

昨日のニュース明治安田生命の1000件を超える不正不払いが報道された。これだけ経済が窒息状態になったら、資金を集めてプラス運用するのは確かに至難だ。しかし保険会社が保険金を支払わないとなれば、自社の墓のみならず、日本の保険会社全体の墓を掘っているのと同じだ。
地蔵君がいろいろ比較した上で加入を決意したのも、そういえば米国のものだった。

銀行に預けても、いつの間にか他者によって預金が引き出されていたり、銀行そのものの破綻の事実もあった。この先年金の削減や増税もチラホラ見えている。
おまけに倒産に人員削減。この15年ですっかり名前が変わったのは銀行だけではない。合併、統合によって、ほとんどの会社が組織再構築(リストラクチャリング)を経て、名前を変えている。あるいは、存在そのものと共に名前を消している会社も多い。

おまけに偽ラベルの食品表示、内部告発で明るみにでた多くの会社ぐるみの不正、粉飾決算、業者の良心が問われる欠陥住宅,悪質リフォーム、ネット関連業者の不正請求、オレオレ詐欺、病院の医療ミスの隠蔽工作、あらゆる取引に伴う嘘八百・・・数え上げたら限がない。心安らかに生きてゆける社会ではない。
さらにこの天変地異。地震、ハリケーン、洪水、津波・・TVの映像はいやがうえにも目に焼きつく。不安は増幅する。この規模の大きさはどうだ。個人の力で踏ん張れる範囲をはるかに越えている。なすすべはない。
挙句に集団自殺、若者が嵌るたいした教義もない新興宗教引き篭もり学級崩壊、いじめ、うつ病、ストーカー、ごみ屋敷近隣迷惑行為児童虐待、尊属殺人・・・勇気をだして直視すると、人間の尊厳も人間間の信用も、もうほとんど破綻に向かって坂を転がっている。よく考えれば、この中で愛の力で克服できる次元のものなど、ひとつもない。

アルコールやセックスや賭博に頭を麻痺させて生きてゆくしかないのだろうか。襲い掛かる社会不安の中で、びくともしない大樹のような精神力を鍛えなければならない。あるいはいっそのこと、さっさと若年でボケてしまうか。はたまた危機感さえ認識できない大多数のダチョウの群れに入って、唯々諾々と尊厳を捨てて家畜化するか。
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「Madame」par Claude Barzotti
Barbaraの「Madame」とは別の曲。Claude Barzotti、あまり知られていないのでサイトを紹介しておきます。お顔などもここで見ることができるので。実力派だと思う。サイトはこちら

定年後の人生(1)

緑風さんが独立して自分の会社を設立して2,3年の頃だった。
「今うちの幹部が入院中で、見舞いに行ってきた。給料も届けてきた。すごく喜んでくれた」・・
会社を設立したら、そういった働いていない社員にも給料を支払わなければならない。個人経営の会社は大変だなと思った。
緑風「うちの社員として、元気なときは働いてもらっていたからね」
働かせてやっているという、社長と、働いてもらっている、という社長と、この違いはすべてにおいて社風を根本から異なったものにする。

入院中の幹部の人の話になった。
仮に名前をD氏としよう。D氏は一流大学を出て一流企業に就職、そこで定年を迎えた。そのまま年金暮らしをすることも出来たが、まだ元気で働く意欲も充分にあった。そこへ知り合いの会社から、ポストと高給を保障され、それまでの経験を活用してほしいと、ぜひにと迎えられた。
断る理由がない。願ってもない話だった。第2の人生をスタートさせた。・・
1年ほどした頃、ほんの形式だけだからと、借入金の連帯保証人を頼まれた。自分のポストを考えると断れない立場にあった。
1回2回と繰り返し、挙句にバブルがはじけて、その会社は倒産した。
今までの人生があまりに順調だったためか、疑ったことなどまるでなかった。しかし、嵌められた、と結果的には思えないこともない。そう考えると疑惑は確信になった。
息子の嫁の実家に恥を忍んで借金の申し込みに行った。あんたはなんて馬鹿なんだと、笑いものにされ大恥をかいただけだった。家、土地、株、預金、全部を処分して裸で出直すしかなかった。
D氏は一生分の悔しさをその時味わったに違いない。
ゼロから就職活動を始め、ようやく緑風さんの会社に生活のために職を探し当てたのだった。
「他山の石としたい」と緑風さんは言った。
「何とかなる。誰かが助けてくれる。そんな甘い考えは捨てなければならない。僕もよく肝に銘じようと思った」と。

D氏に限ったことではない。類似した話は世間に5万とある。想像力がなくても、D氏の味わった苦汁は察するに余りある。
入院は癌のため、ということだったが、やはり、この苦渋がその引き金になったと言えないこともないだろう。

半年後に緑風さんに会った。
「今日は社員の葬儀だったんだ・・」
誰の、と聞かなくてもすぐにわかった。
人生いつ、どこで地雷を踏むかわからない。不景気になればなるほど、見えないところで音もなく、その地雷の数は粛々と増えている。

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MIKE BRAND 「Laisse-moi t'aimer」

「さよならは云わない」コンサートレポート(2)

第二部はシャンソンメドレーで幕開け。
アンドレ・クラボーの「エルザの瞳」の前には作詞者のルイ・アラゴンについての言及が入った。シャンソン歌手の多くに作品を提供しているルイ・アラゴン。「シュールレアリズム宣言」のアンドレ・ブルトンと袂をわかっているので、P.エリュアール同様、実は私は興味をなくしていた。しかしシャンソンの作詞家としては、むしろブルトンよりも注目すべきだと、改めて思った。近々、アラゴンについて小記事を書いてみたい。
アンコールは「大好きなダミアに捧げます」と言って、「かもめ」を歌われた。オランピア公演で照明のジャック・ロベラリスを感動させたダミア直伝の曲。そして最後は、もう石井好子氏のテーマ曲といってもいい「二つの愛 J'ai deux amours」。最高に盛り上がって幕となった。終始自然体で率直なトークの上手さも炸裂して大成功だった。敬老の日とはいえ、”老い”を微塵も感じさせない、パワフルなステイジだった。

最後に1曲のみを取り上げるとすれば「NE ME QUITTE PAS」だろう。紛れもない石井好子の「NE ME QUITTE PAS」特にこの日のこの曲は永久保存ものの素晴らしさだった。
日本人シャンソン歌手として、和訳で歌うか、原語で歌うか、は解決不可能なジレンマ。それにも敢えて言及され、原語で歌われた。
新刊の「さよならは云わない」にはもっと大胆な問題に触れられている。「わたしだって、シャンソンならフランスの一流の歌手を聞きたいし、ジャズならアメリカ人で聴きたい。では日本人シャンソン歌手とは一体何なのか」と。(これは何もシャンソンに限らない。オペラをはじめすべての洋楽歌手に関係する問いだと思う)
歌手にほれ込み、原曲にほれ込み、年月かけて自分の歌にすることだ。
日本人シャンソン歌手の「NE ME QUITTE PAS」ではなく石井好子の「NE ME QUITTE PAS」まで歌いこめば、この永遠の課題も一瞬に解決する。この日の石井好子の「NE ME QUITTE PAS」はそういった意味でも、この名曲を再生し、さらに成長させたと言えるだろう。こうして毎年進化する「NE ME QUITTE PAS」は圧巻だった。そしてブラボーの声が飛んだ。
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大野修平氏の石井好子コンサートレポートはこちら
永瀧達治氏の石井好子コンサートレポートはこちら
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Les Goelands (かもめ)」 石井好子

ダミア亡き今、「かもめ」は石井好子の歌だと言えるだろう

「さよならは云わない」コンサートレポート

2005年9月19日(月)敬老の日に、芝・メルパルクホール石井好子歌手生活60周年記念コンサート第一日目が行われた。祝日のため開演は16時30分と、2日目の18時30分に比べて早めに設定された。開演一時間前にすでにメルパルクホールの前に人々があふれた。男性の姿も多い。そしてどの男性を見ても、シャンソン評論家に見える。女性客もシャンソンとの関わりの歴史を感じさせる。パリにも何度も行っている、本場のコンサートも日本のシャンソニエにも常時出かけていて、中には自分も教えている歌っているという感じの方も多かった。歌手と客層がピッタリ一致する。なんだか、私だけが勘違いして、格闘技を見に来たような雰囲気を漂わせてしまっていて、恐縮する。

一部開幕は、原信夫とシャープス&フラッツの「IN THE MOOD」。意表をつかれた。父がよくレコードを回していた曲だ。ダンスをしていた曲だ。戦後60年の年の60周年記念コンサート。石井好子氏のデビューは進駐軍相手のジャズシンガーだったから、ここは外せない。昔はこういったビッグバンドジャズが主流だった。久々に一人ノリノリになってしまった。

今回の構成・演出は石井好子氏ご自身。これが非常によかったように思う。曲の紹介、解説、自分との関わり、コンサートの流れに、説得力がある。客席に向けてのトークも平常心、自然体で、ステイジと客席が一体化してゆく。司会は永 六輔氏、木原光知子、ピーコと、三人とも石井好子氏とは阿吽の呼吸。百万の援軍。(近親者を亡くされた後だったけれど)力んだり、壮絶になったり、悲壮になったりする必要すらない。これは杞憂だった。
石井氏&ピーコ氏の「サトウキビ畑」はしみじみとして、ステージ上での歌唱とは思えないほど素朴で、永六輔氏もおっしゃっていたが、これは企画家・演出家、石井好子の才能の一端を垣間見させた。
第一部終了曲は「生きるものの歌」。詩も曲も素晴らしく、そして選曲的にもピッタリで、この曲を聴くためにCD店を駆け回るファンは一気に増えるだろう。「こんにちは赤ちゃん」が”生”を歌ったものなので、その対極として”死”を歌ったものを書いたと、永六輔氏はおっしゃっていた。「生きるものの歌」とは、”死”を”生”に飲み込んでいる者の歌なのだ。

ここで20分の休憩。パンフレットを開けて「パリの女 石井好子」という永瀧達治氏の文章に目を通す。そして感嘆!石井氏と永瀧氏と、共に二つの故郷(J'ai deux amours,mon pays et Paris)を持っておられる。その上での石井好子論。完璧で脱帽ものだ。
ー「クラースはブランド物を身につけたり、マナーを学んだり、一流のホテルやレストランに行くことで得られるものではない」ー
ここのところを勘違いしている人がどれだけ多いか。残念ながらその勘違い組みには、真の石井好子の姿は永遠に見えないだろう。・・
ロビーに出てみてあっと驚いた。お祝いの巨大なお花のスタンドが所狭しと並んでいた。ロビーは突然、花々の密林と化していた。そのほとんどはタレント・芸能人・歌手などなどからの贈り物。ロビーに出た客は身長よりもはるかに高い花々の迷路の中を歩くが如し。と突然「こちらはシャンソン界の第一人者、大野修平さん」という声が聞こえてきた。そちらを向くと「いえいえ、そんな・・」といいながら、人々と挨拶をされている、HPの似顔絵イラストそっくりな大野氏がいらっしゃった。一瞬ご挨拶に行こうと思ったが、先にも書いたようにいでたちが場違いなので、恐縮して気後れしてやめにした。      (つづく)

Double Booking (2)

「カウンターの人にそんなに怒っても、仕方ないでしょう。もう諦めましょう」と言う。
「そんな訳にはいかない。あちらの空港で何人も待っている。遅れるわけにはいかない」
「もう飛行機は出てしまったんですから。諦めてみんなで、次に乗れる便が来るまで、静かに待ちましょう。我慢しましょう」と言う。
ミンミンが言った。「カウンターの人たちには責任はないけれども、この人たちと交渉するしかないでしょう。先生、気にせず、交渉して何とか、乗せて」
実は先生、5日前に淡路島の先山にバイクでツーリングして、下りのなんでもないところでゆっくりと転倒し、そしてギックリ足を捻挫していた。本当は立っているのも辛い。しかしそんなことは言っておれない。我慢するべき我慢と、我慢してはいけない我慢がある。交渉を続ける。
「とにかく、次の便に」?「直行ではありません」
「どこまで?」?「ロス行きです」?「それから先は?」・・
45分ほど立ったまま交渉を続けて、7人分だけロス行きの席を用意いたします、という回答をやっと得た。
6人が「わぁっ」と喚声を上げた。すぐに搭乗券が渡され、搭乗口に向かった。その時、思いがけず罵声が飛んだのだ。
壁に並んで疲れて立っている60人以上の日本人が一斉に憎悪と軽蔑の目で私たちを睨みつけた。
「自分たちだけが乗るのか?」
「なんて恥知らずで利己主義なんだ」
「あんまり自分勝手なことをするな」
「私たちの立場になったら、そんな勝手なことはできない筈でしょう」
「エゴイスト!!恥知らず。日本人の面汚し!!」

「ミンミン、あの人たち、何故怒ってるの?」
「わかりません」
「あの憎悪に煮えたぎった眼。交渉をやめろと言ったのに、交渉を続けたから?」
「先生、気にしない、気にしない。早く乗りましょう」・・
座席に案内されて、また6人が喚声を上げた。
螺旋階段を昇って2階に上がる。ファーストクラスだけが空いていたのだ。「やったー!」6人が喜んでくれている。ゆったりとしている。スリッパに履き替える。
「食事もファーストクラスが出るのかなあ」
「食事は無理でしょう」(笑い)・・

ロスに到着してからまたひと波乱あった。ニューヨークに到着してからも、荷物だけが先に届いて、空港の倉庫に入ってしまっていた・・というような事態まで発生した。・・
空港近くのホテルで、月曜日の朝倉庫が開くまで、身動きとれずに無駄に待たなければならなかった。

月曜日、空港の倉庫まで全員で荷物をとりに行く。
ミンミンが倉庫から出てきて言った。
「ソウルに残っていた日本人も来ていました。私を見てこう言うんですよ。『あの人は来ていないじゃないか。あのエゴイストは今度はあんたたちを、おっぽり出して、先に行ったんだろう』って」
「それで?」
「それで『ちゃんと一緒に来てますよ。先生は機内荷物がないので、外でじっと待ってくださってるんです。先生も私たちも、あなたたちに集団で罵倒されるような、エゴイストでも、何でもありません』って言いました」
「うーん。何かが許せないんでしょうね。何なんだろう。何があんなに憎しみを生むのだろう??そしてそれがこっちに向くんでしょう、I wonderね。Why,Why,Why,Why?」
「本来overbookingした大韓航空に向くべきなのに、怒りを押し殺したので、違う方向に向かってきたんでしょうね」
「どうして間違いに気づかないんだろう?」
「自分たちは交渉出来ないから、うらやましくて、憎たらしいんでしょ」・・・・・

私とて初めから、人と対話できたわけではない。これはParisの生活で身についたのだ。当然の権利を行使するためには、発言しなければならない。楽しい楽しくないではなく、そうしなければParisでは生きていけない。パリ病に罹ってノイローゼになる日本人が多いのは、一般的に対話訓練、交渉訓練を全く体験せずに、特殊な風土の中でずっとみんな一緒に”長いものに巻かれる”のを善として生きてきたからだ。

参考サイト:「人間を幸福にしないシステム

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  「J'ai encore reve d'elle」 Il etait une fois
このグループ名が面白い。「昔、昔・・」と言う感じの意味。このグループ名の前半を耳元で色っぽく呟くと、日本人男性はギクッと興奮する(?)

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Double Booking (1)

私がトラブルに巻き込まれて、窮地に陥っていると、普段は普通なのに、必ず、敵側の発想を振りかざして怒りをぶつけて来る近所の人(TM)がいる。隣に無断でかなり迷惑な設計の家が建つので、工事を止めて話し合いに入っていた。すると関係のない(TM)が「腹が立つ」と怒ってきた。以前にもこういうことがあった。
(TM)はいつも近隣のことで揉めている。グチばかり聞かされる。近隣問題で悔しい思いをしている人だ。しかし、困ったことにそれは、妄想だったり、話し合えばいいことなのに、幼児のようにまるで交渉の能力がない。内容も相手に取り合ってもらえず、戦わずして負けてばかりの悔しい思いだけを抱えている。
今回のことで(TM)の怒りが、時々何故こちらに向くかがやっとわかった。
自分は不利な立場におかれても、交渉する能力がないから、堂々と交渉している人が、許せないのだ。
みんなで泣き寝入りしましょう、というのが日本の社会の筈なのに、何故あの人は泣き寝入りしないのか、何故あの人は主張してそれが通るのか・・・悔しい!!というわけだ。
以前にこれと同じ体験をしたことがある。私一人に、この種の怒りをぶつけてきた日本人は、その時は60人以上いた。

以前日記に書いた若い男女6人を連れてニューヨークに行ったときのことだ。あの時はケネディ空港近くのホテルでBicketと連絡が取れず、途方にくれているところを書いた。
実はBicketはレンタカーを借りてChanとGatyaとZenの3人の友達を連れて時間通り迎えに来てくれていた。搭乗者名簿の確認までして、乗ってきた筈だと、4人で何時間も待っていてくれた。しかも一旦帰って翌日も来てくれた。なのに何故空港で会えなかったのか。私たちが十数時間も遅れて到着したからだ。原因は大韓航空のダブルブッキング。


気がついたら、乗る筈の飛行機が去ってしまっていて、私たちは積み残された。オーバー・ブッキング。積み残された日本人がロビーに集まってきた。みんな愕然としている。「積み残しました」という説明があった。時間がたち積み残された日本人にも状況がやっとの見込めてきた。そして日本人らしく?あっさり諦めてうな垂れている。「いつの便に乗れるのか?」などと聞く人もいない。成り行きをじっと傍観しているのだ。ミンミンが「先生なんとかして」と私にせっつく。先生、ここでおもむろにカウンターに出向く。そして英語でやりあうのだ。怒りを表さなければならない。「もっと言え、もっと言え」とミンミンとパッシェルが囃す。先生、カウンターを右手でドンと叩いて、強気の交渉をする。「食事を出します」?ダメ!。「今夜のホテルを用意します」?ダメ!「何人様ですか?」?「全部で7人」・・
そこへ私の袖を後ろから引っ張る日本人が3,4人現れた。      (つづく)

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Herve VilardKilimandjaro」 名曲、と思います。必聴。

サンタルチア

まず「ルチア祭」に関する関連サイトを紹介します。こちら


観光春秋」という関西の私鉄が共同で出している小雑誌があった。そこで「女性の一人旅」という座談会に出たことがある。その関係で制作出版部のMさんと知り合いになった。Mさんに主にスウェーデンで活躍している柚木伸一という画伯を紹介された。ある日突然TELがかかってきた。「スウェーデン領事館であるクリスマスpartyに連れて行ってあげよう」ということだった。柚木さんとMさんに一度秋田の「きりたんぽ」をご馳走になったことがある。それだけだから、柚木さんと二人きりでクリスマスパーティに出席するなんて想像だにしなかった。三宮からタクシーに乗った。

何故こんな昔の話を覚えているかというと、そのクリスマス(ルチア祭という)partyのクライマックスで、スウェーデンの子供たちが声を揃えて「聖しこの夜」ならぬ「サンタルチア」を合唱したからだ。何故「サンタルチア」なのか。これはイタリア民謡ではなかったかしらん?高校の音楽の時間に歌ったことがある。

空に白き 月の光


でもよく考えると、サンタルチア、つまり聖ルチアをルチア祭で歌っても何もおかしくない。さすがに完全に異国だった。美人の小学生以下の少女たちが、ろうそくを手にしずしずと行進してくる。北欧系の美少女達は桁違いに神秘的だ。完全に世俗を超越している。・・

昨日「ルチア祭」を検索してみた。領事館ではなく、本国で本物のルチア祭を体験している日本人のサイトがすでに複数あった。
説明及び画像はそちらに委ねよう。

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Veronique SANSONComme je l'imagine
Veronique Sansonを知ったのはBruxellesの街。すぐに大好きになった。お世話になったBehets Roseへのお礼に、このレコードを買ってプレゼントした。RoseはVeroniqueの歌声にイメージがピタリと一致する。帰国して、自分用にも一枚買った。

父との思い出(1)

まだ小学生低学年だった。めったにないことだが、父が私を外に連れ出してくれることになった。父のデザインしたセーラー服を着た。二人で神戸について、後の二人と合流。この二人のことをほとんど思い出せない。?

ずっと昔、もっと小さい頃、神戸で父と二人で時間つぶしに映画館に入ったことがある。ディズニーの漫画だ。猫がネズミを延々と追い掛け回すだけで、面白くない。「楽しいか?」と聞かれて「ちっとも面白くない」と言ったら、じゃあ出ようと言うことになって、10分足らずで出たのを覚えている。・・

?目当ての軍艦は入港していなかった。それで父が漁船をチャーターした。私は嬉しくて舳先に座った。海風を受ける。漁船はかなりのスピードで沖に飛び出してゆく。キャッホー!

その後の記憶は、私たち4人が岸壁でその船の入港を待っているところだ。甲板に海兵が整列して敬礼している。アメリカの青年たちだ。船が着岸する。一人が私を見てニッと微笑んだ。私と同じセーラー服を着ているアメリカ兵。私を見て手を振ったことが、とても深く印象に残っている。船名は「ゆきかぜ」。米軍に接収されていたのだろう。米兵しか乗っていない。父が一人タラップを昇って行く。米海兵と話をしている。父が振り向く。許可が下りたのだ。私たち三人もタラップを昇っていく。そして「ゆきかぜ」という米軍の軍艦の中に入った。?
(今日は「ゆきかぜ」のことを書いてあったこのBLOGにTrackbackをつけてみます)


まだ5,6歳だったと思う。何かの帰りに父に手を引かれて、神戸の街を歩いた。暗くなり始めている。どこへ行くのだろう。見覚えのない街並みだ。その一軒の前に立ち止まり、父がドアをノックする。
すると中から、金髪のアメリカ人の若い女性が飛び出してきて、いきなり父に抱きついた。そしてキス!!なっなっなんなんだ!!こっこっこの人は!!中に入れと言っている。絨毯の上を靴を脱がずに歩いてゆく。アメリカ風のリビングルームに案内される。若いアメリカ女性は父と私に紅茶を淹れてくれた。私にも話しかける。わかるわけがない。ムチャクチャの英語でジングルベルが歌えるだけだ。父は会社の英会話サークルを仕切っていたので、今から思うと多分そこの女教師だったのだろう。父はジェームス・ディーンに似ていたとはいえ(???)なにしろ貧しいので、そこまでもてるわけがない。・・

父にはところどころ祖父のアメリカが遺っている。父と外出するとすぐにタクシーに乗せてもらえる。そして「Keep the change」父はいつもおつりをチップとして渡す。父は貧しいのだ。多分祖父の所作を継承しているだけだと思う。父は祖父の使った明治時代のゼンマイ式の懐中時計と、上からのぞく蛇腹式の小型カメラを、ずーっと大事に使っていた。兄弟のない父は、そうして早くに亡くした祖父を、心に住まわせていたのだと思う。

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Kiki de Montparnasse 「Le Retour du marin(水夫の帰還)」
 この曲を解説しておられる葦原英了氏の声を録音したテイプを持っている。この曲もストーリー性の強い名曲。旋律もいい。古いシャンソンのよさが滲み出る曲のひとつに違いない。

趣味の世界

8月15日とは、関係のないことを書こう。

10年前古い本箱を整理していた。この本箱は父自らがデザインしたもので、普通の家具色よりも少し色が薄く黄色っぽい。父の大切にしていた書籍がそこに多数横たわっていた。
「丸」という雑誌に「35年前に亡くなった父の蔵書を差し上げます」と、メッセージを出した。

まず裁判所で仕事をしているという年配のH氏が仕事を休んで家までみえた。何人の方に何冊づつ上げればいいかよくわからない。この中から10冊ほど・・と言った。
B「本当はもっとあったんですけど、35年前に大半をKさんに、差し上げたので・・」(と言うと)
H「Kさんって、あのNavy CircleのKさんですか?Kさんをよく、存知でいます。いまからKさんに電話して、僕の身分を証明してもらいます」(と言われた)(そしてKさんが電話口に)
K「H君は本当にまじめな人物なので、安心して上げてください」・・
父の友人のK氏と突然話すことになった。なにしろ父が亡くなったとき、私は小学生で、父より随分若いとはいえ、大人のK氏と直接口をきいた事はなかった。
H氏は紙袋に本を詰めて、明日もまた参りますと言って、帰って行かれた。
次にいかにも営業マンという感じのL氏が会社の車に乗ってみえた。喫茶店で会うことにした。
B「これは父が作った模型ですが、わかりますか?」
L「これは改良された後の赤城ですね」
この方にも写真集を含め何冊か差し上げた。

遠方の方からも「欲しい」という手紙や葉書が数通きた。一番驚いたのは防衛庁資料室のT氏から電話があったことだ。

模型も全部丁寧に引き取る、と言うことだった。防衛庁の資料室に引き取っていただければ、大切に保管されるに違いあるまい。


そこへK氏からTELがあった。
「お父さんはイギリスの19○○年と19××年の年鑑と、そしてイタリアの・・、そしてドイツの19△△年のもの、・・それと・・それに・・を、持っておられた」
私はK氏の記憶力に圧倒された。K氏は一度しか父の本箱を見ていない筈だ。しかも35年も前に。よくこれだけ正確に記憶できるものだと。
K「全部他の人に上げないで僕の分もちょっと取っておいて下さい」
B「それが、さっき防衛庁のT氏から・・・」
その時点では全部防衛庁に渡そうと思っていた。

K「Bruxellesさん、防衛庁のTは評判の悪い人物ですよ。Tはそうして手に入れた資料を神田の○○という古書店に売り飛ばしているんですよ。だめだ。断った方がいい。僕らの間では有名で、どんなルートで売りさばいているかも判明している」

Bruxelles悩む。電話では信頼のできそうな人だった。疑う気になれない。しかしK氏は生前の父が信頼していた友人だ。私は覚えていなかったが、父の棺にK氏はNavy Circleの機関紙数冊と小型の模型数個を入れられたそうだ。家族と心をひとつにして父の死を悼んで下さった方だ。

防衛庁のT氏に断りの電話を入れた。新幹線に乗って引き取りにいくとまでいって下さったT氏。「防衛庁の資料室で保管したほうがお父様もきっと喜ばれたでしょうに・・」そう言われてしまった。

翌日H氏に紙袋2個分を差し上げた。あの情熱ならきっと大切に読んでくださるだろう。K氏にも希望されたものを送った。もともとK氏と父が心をひとつにしていた趣味の世界だ。これでいい。
その後何人か来られたが全部K氏の弟子のような方々だった。K氏の自宅には床が抜けそうなほど、身動きがとり難いほど資料があるらしい。出版社や防衛庁の方々もK氏に写真提供を依頼されることも多いと聞く。それにあの記憶力だ。趣味とはいえ私の想像を超えた立派なお仕事をされているに違いない。民間でこそ資料が生きることもある。情熱こそが決めてだ。・・


ある時電話のついでに七曜会の先輩の福井氏にT氏のことを聞いてみた。福井先輩は自衛隊や防衛庁に人脈がある。数日後回答が来た。
「人格評判、取り立てて問題なし。将来性のある人物なり」

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「Les Valses de Vienne」 par Francois Feldman
この人はよく知らないが,この曲TVドラマに挿入すれば大ヒット間違いなしの旋律。

SON OF A GUNというかなり古い頁に今日はTRACKBACKを張ってみる。こんな古い頁誰も見ないだろうけど。
・・・・・

父は隣の教会の子供たちと遊んでいるとき、祖父がアメリカから持って帰った銃を取り出し「バーン」と引き金を引いた。そしたら実弾が飛び出したらしい。肝を冷やしたと言っていた。心臓が飛び出す程驚いたと。3月13日(金)の空襲でその銃も姿を消したらしい。

私が幼児のころ、父は空気銃で雀を撃っていた。折り曲げて、鉄の玉を入れて引き金を引く。自分の身長ほどの長さの空気銃を持って立っている私の写真がある。

私は銃が好きだ。祖母も父もクリスチャンだったので、貧しい家庭の割にはクリスマスを盛大に祝っていた。サンタクロースは毎年来てくれたし、イブの日は近所の子供全員を招待してパーティを開いた。大きな樹木が家に入って来て毎年本格的飾り付けをした。「ジングルベル」や「聖しこの夜」を近所の子供達も皆歌った。幻灯や蓄音機が家にあったからパーティは毎年盛り上がって、皆が楽しみにしていた。「何が欲しい?」と聞かれて、女の子の私は毎年「ピストル」といっていたのを思い出す。小学生になって「カメラ」や「時計」「電話」などと言い出すまでは、毎年ピストルだった。お人形だったことはない。

その後もずっとピストルが好きだし、大人になってからも何個かおもちゃを買った。「GUN」という雑誌で、サークルを探し訪ねていったこともある。大の男がおもちゃのピストルで真剣に遊んでいる。実弾を撃てる場所はないですか、と聞いたら能勢に射撃場があるという。車で行ってみたら、警察官の練習場みたいなところで、一般人の登録入会は、はなから無理だった。日本に実弾を撃てる場所はない、というのが情報収集後の結論だった。

グアムかハワイに行くしかない。30数ドルでマグナム銃まで撃たせてくれる射撃場があるという。早速ハワイまでピストルを撃ちに行った。1985年あたりだったと思う。ガクンと反動が凄いだろうと覚悟したが、たいしておもちゃと変わらなかった。
銃は持つと必ず撃ちたくなるだろう。それは結果人を殺すことにしか繋がらない。帰国しておもちゃのコルトをハンドバッグに入れて、それで充分満足することに決めた。
いきなりバッグから銃を取り出すと、たいてい人は吃驚仰天する。その顔を見るだけで、充分悪戯心は満足する。
車を運転しながら、いきなり取り出して、隣を走る車を撃ったことがある。全くドが過ぎる危険な悪戯だった。

母の弟は猟友会の会員だ。何度か遊びに行って話を聞いた。家には家人にあんまり愛されていない猟犬が2匹いた。猟はチームのゲイムらしい。取り囲んで追い込んでいく。そこの家には何度も行ったので、新鮮そのものの牡丹鍋や雉鍋もご馳走になった。ピストルマニアと猟銃マニアとは好みのズレがあることも知った。猟は解禁シーズンも短い。さすがに私には猟犬を連れて猟をしたいという願望は全くない。

陪審員」という映画を見た。主人公のデビィ・ムーアがあれだけ勇気を持って恐怖と社会悪と戦えるのは、銃を使えるからだと気づいた。
私は銃擁護社会には大反対だが、女が男と同じように平等で戦うには、銃は必要不可欠だと思った。銃を持って初めて女は、バーチャルな男になれる。男と同じ勇気と発想が持てる。男と女の違いでもあり、アメリカと日本の違いでもある。
拡大解釈して「銃」を「核」と置き換えれば、国際政治がわかりやすい。

・・・・・・・・・・
「Nazi Rock」 Serge Gainsbourg

FMセブン

FMセブン 2005年5月2日 (Mon) 15:53:10

20年ちょっと前、富士通のFMセブンを持っていた。他にシャープのMZ、NECの98などがあったが、FMセブンは低価格でなんとなくおもちゃ感覚だった。その頃ワープロとパソコンは別個の物として存在していた。なにしろパソコンは日本語入力が出来なかった。ゲイムソフトは「ポートピア殺人事件」が大ヒットしていたが、販売ソフトでさえカタカナでセリフのやり取りがなされていたように思う。
何もかも別売だった。フロッピーディスクは既にあったが、私は保存(SAVE)に音楽テイプや、富士通のカセットテイプレコーダーを使っていた。自分で作ったプログラムを保存するのだが、ピーピーガーガーという音しか出ない。辛気くさいしランダムアクセスも出来ない。おそらくプログラムを収納しておく場所がPC内部に存在しなかったのだろう。LOADもそのmusic tapeからまたピーピーガーガーとする。
私は画面と呼んでいたが、ディスプレイはNECの中古のものを直人(天草の弟)を連れて車で日本橋に買いに行った。直人は100キロを軽く超える柔道坊やで重い荷物を軽々と運んでくれた。中古でもFMセブン本体より高いNECの画面、高いだけあってカラーがきれいに出た。しかしついにプリンターまでは手が出なかった。どこでプリントアウトしていたのかというと、梅田にあった富士通のショウルームにせっせと通った。あまり通うのでprint out用紙は持参するように、と言われたのを覚えている。

日本でコンピューターが一般的に登場したのは30,40年くらい前だろうか。情報のinputは穴を開けた沢山のカードのようなものでしていく。キーパンチャーという穴あけ専門の入力職業が、それ以前のタイピストの延長線のようなかたちで存在していた。このパンチカードはかなり長い間使用されていたように思う。情報処理というのは計算機機能の延長線上にあり、思うに通信の分野と言うより、統計学の分野でその威力を発揮したのではないだろうか。

巨大なタンスのようなコンピューターは、計算機から音楽分野に進出した。私はなけなしの貯金をはたいて、国産第一号のローランドのシンセサイザーを買った。それは既に、コンピューターから、一般人の使用可能な楽器に立派に変身していた。どこから見ても。ただその国産第一号、悲しいかな、単音しか出せなかった。
その頃1枚のLPの中の1曲が私の心を捉えていたPremiata, Forneria, MarconiつまりP.M.F.というイタリアのグループの「PHOTOS OF GHOSTS(幻の映像)」の中のA面2曲目「CELEBRATION」のあの出だしの音が出したかったのだ。音と言うものは機械的に出さない限り単なる楽器では、時と共に確実に弱まり消える。いくらfermataで引っ張ったところで、餅のような強い粘りで連続持続し、しかも強めることは出来ない。だからシンセを買ったのだった。他には犬の鳴き声やヘリコプターの音やら、何しろありとあらゆる音が出せることが、本当に楽しかった。その伏線としては、music concreteの影響があった。私がどれだけ生活の中の音を収録したかを、いつか話したい。

情報処理のほうは容量がどんどん巨大化し高速化し、判断力も増し、もはや先祖が計算機だったとはとても思えない進化を見せていた。一般にまで浸透したのはBASICの登場からではないだろうか。コボルやフォートランに比べてBASICはコンピューター言語というより日常語に極めて近く、人間とコンピューター間での言葉のやり取りを可能にした。
タモリがTVで大々的にFMセブンを宣伝しはじめ、私がそれを購入したのもちょうどその頃だった。そんなある日、本町の直ちゃんの喫茶店「エミグレ」で養護学校時代にお世話になったF先生に偶然再会した。(続く)
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Dalida 「Partir ou Mourir」

緑風さん待兼山に行く

20数年前サラ金がバッシングを浴びていた頃、消費者金融のもう少しよいイメージの呼び名はないものかと、緑風さんから相談を受けた話は以前に書いた。サラ金は誕生してまだ間のない頃で、英会話教室と同じで、各都市の駅前ビルに多店舗展開真っ最中だった。緑風さんは地方都市に出張続きで、月に3店舗くらいの勢いで出店、ほとんど休日もなかった。創業者は実兄で彼は、実行部隊のトップだった。
緑風「今僕は自分の実力以上の仕事をしている」(能力以上の仕事を前に、人はどう感じるのだろうか。ちょっと想像がつかなかった)
B「金融業で一番のマイナス、ネックは何ですか?」
緑風「それを相談したかったんだ。焦げ付きが物凄い金額になる。あらかじめ客筋をチェックする方法がないものかと。性格判断ができるアンケートのようなものかなにか」
B「心理学と統計学ですね」
緑風「Bruxellesさんの知り合いのO大の心理学の先生に力を貸してもらえないだろうか」
緑風さんには、私の好みに合わせて、American Ballet TheatreのダンスパフォーマンスやJuliette Grecoのコンサート、鈴鹿のカーレースなどに連れて行ってもらっていた。
B「わかりました。電話しておきます」
Y先生は当時、心理学の助教授でしかも統計学と情報処理の専門家だった。これ以上の人材はいない。しかし、人間のつく嘘まで考慮にいれて、債務者の質の良し悪しをはじき出せるものかどうか。

・・・
確か中ノ島にあったと思う。そこはきわめてexclusiveな会員制のプレイボーイクラブだった。ドアのない広々とした、けれどほとんど個室のような部屋に、噂に聞くバニーガールが、お耳とシッポをつけた例のムチムチウサギちゃんスタイルで現れたときは、さすがにギクッとした。モデルかそれ以上のスタイルをしている。美人だ。よほど収入がよくなければ、ここまで露出するいささかハレンチな格好はできないだろう。膝を折って視線を下げて、下から仰ぎ見て、バーボンを注いでくれる。女性の同伴者がいる場合は、その女性に決して不愉快な思いをさせないことこそ、彼女たちの徹底的に教育されたマナーなのだ。
緑風「役員としてお迎えしたいと言ったんだけど、国立大の教官は副業が出来ない決まりになっていると断られた」
B「残念です。無駄足だったんですね。申し訳ないです」
緑風「とんでもない。紹介してもらったおかげで、研究室に案内してもらい、自らお茶まで出してもらって、じっくり話も聞いてもらった。逆に質問までされた」
B「どんな?」
緑風「クレジットカードや身分証明書を妹の主人が落としたんだけど、拾った人に悪用されて、サラ金でお金を借りられることはないか、って」
B「他には」
緑風「利息は何パーセントですかって。言うのが恥ずかしかったよ。高利貸しというだけあって、あまりに高金利なので」
B「それで、例のアンケートは?」
緑風「技術的には債権者の質の事前識別は可能だって。詳しく説明してもらった。そういうパッケージをシステム的に作ればいい。その前にこちらもそのデーターをたくさん出さなければならない。統計分析のパッケージは可能だから、後は目的の個別化だけだ。それを聞いただけでも、物凄い収穫だったよ」

・・・
「利息を言うのが恥ずかしかった」と言った緑風さんの良識に心を打たれた。サラ金はバッシングされていたが、過度に自己防衛することも、過度に自己正当化することも、彼にはない。
「今はサラ金は悪者だけど、いずれ社会認知される日が来る。TVCMも、2,3年以内に流せる日が来るだろう。数年後には成長の仕方いかんによっては、上場企業にもなる筈だ」・・
緑風さんが予言したように、今、サラ金は知名度の高い一部上場企業になり、サラ金と言うイメージも言葉も消えている。それだけではない。信用第一の大手都市銀行で、サラ金と業務提携、資金提携していないところはない。業界第5位の緑風さんの会社も例外ではない。
ただ、創業者社長のお兄さんは数年前に病死された。緑風さんはそのもっと前に会社を去り独立されている。

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Florent PAGNY 「Ailleurs Land」

犬に名前を法の裁きを

2005年5月27日 (Fri) 18:27:48

その年はミリバールからヘクトパスカルに気圧の単位が変わった年だった。

Bicketは旧家の一人息子で、広いお屋敷に住んでいる。両親とも元教師。大きな門を入ったところに老犬がいる。
「名前は?」「無しです」「ずっと?」「はい。もう弱って目も見えない。人が来ても吠えもしない」

ある時「犬を飼いたいのですが」と電話がかかってきた。ちょうどTTから「犬を貰ってくれる人いないかい?」と電話があった後だった。何も連絡しないでいきなりBicketの車でTTの家まで行った。庭先で犬が10匹ほど吠え立てている。さぞかし近所迷惑だろうと思う。近所の人に「行き先わかりますか?」と聞いたら「多分パチンコ屋だと思う」ということだったので待った。結局夕方の4時から夜の8時まで待った。町内会の旅行に行っていたらしい。残った6匹中オスは1匹だけで、後の5匹は保健所に持っていく、ということだ。まだ目も開いていない。足も立たない。小さな私の手のひらに乗る。「名前を考えてください」帰りの車の中でBicketが言った。Bicketの家に到着してその犬にミルクを飲ませた。当分Bicketの部屋の中で育てられることになった。
「賢い犬になるように、パスカルにしよう。ついでに玄関にへたり込んでるあの老犬にも名前を付けよう。あの老犬はヘクトよ。どお?」「OK有難うございます」

5月の連休にBicketの家のGardenでBarbecue Partyがあった。アメリカ仕込みのステイキとハンバーグをバンバン焼いてくれる。パスカルは白いやわらかい毛が生えて、可愛い、でもまだヨタヨタの子犬になっていた。ヘクトも家人からヘクトと呼ばれていた。名前って、本当に存在と密着し始めるものだと、名前の不思議を感じた。

犬の名前。実は、TTの家で、Bicketと私を唖然とさせる場面に出くわした。なんとTTが、飼っているメスの成犬の1匹を「Bruxelles」と呼んだのだ。そのBruxellesは尻尾を振って走ってきた。Bicketが思わず私の顔をみた。人を不愉快にするこういう行為を、法に訴える手立ては無いものだろうか!!

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「Salade de fruits」 Bourvil
 確か森山加代子が昔日本語で歌っていた。

自己乖離したB

自己乖離したB 2005年5月14日 (Sat) 17:52:57

徹夜というのを生まれてから一度もしたことがないのに、FMセブンでプログラム作りを始めてから、気づいたら朝になっているという体験をした。プログラムのバグ取り、8時間かかって探した挙句、点がひとつ不足していたとか、多かったとか、原因がわかる。色々データーを入れて走らせてみる。そうして原因を突き止めるわけだけれど。これがまるで推理小説のようで、そう昔は結構楽しかった。ああしたらどうだろう、こうすればどうか、と色々データーを入れて試している間に原因が絞られてきて、そしてついに正体が見つかる。一番楽しいのはバグ取りだったかもしれない。まあ、昔は根気があっただけなのだけれど。今ならそんな面倒なことは、はなからチャレンジしようとも思わないだろう。パソコンをいじっていると眠気が起こらない。それだけ物珍しくてスリリングだったのだろう。

ある朝何を思ったのか、気分に異変はなかったのだが、イスからフラリと立ち上がり、足が勝手に洗面所に向かった。何故その場を離れようとしているのか自分でもわからない。洗面所で何をしようとしているのだろう。ただ、自分は洗面所に来たのだ、と知覚した瞬間に、一気に吐いた。吐いている自分に驚いた。全く苦しくもなんともない。それが不思議だ。うがいをして、その辺を洗浄して、吃驚したままデスクに戻った。ショックでしばらくポカンとしていた。そして30分くらい色々原因を考えた。優柔不断で、決断力に乏しい天秤座なのに、決心する前に、もう身体が動いていた。すべてのコードを外し、画面の上にキーボードを乗せて、押入れに向かって歩いていた。あれ以来FMセブンも、NECの画面も、富士通のカセットレコーダーも、ずっと押入れに入ったままだ。あの時パソコンには2度と触れまいと決心した。

10数年前、コンビニのコピー機の前で、プロを目指すギター青年と出会った。彼はプリンスのファンだった。何度目かの時に「パソコンを買って、無料で音楽ソフトをダウンロードしている」という話をした。インターネットだ。「そんなことができるの?」と聞くも驚く話ばかりだったが、パソコンを買いたいとは、思わなかった。windowsはまだ登場していない。自分は蚊帳の外にいようと決めていた。

駅前にパソコンルームができてNet-Surfingをしてみようと久々にキーボードに触れたのは2年前の秋。去年の初め頃はまだ日本語入力もまともにできなかった。どうすれば漢字が出るのだろう。浦島太郎の心境だった。

FMセブンを押入れにいれてから、もう20年が過ぎた。事故で一気に目を悪くし、意識不明の母の24時間介護からくるストレスでさらに視力を落とした。失明だけはしたくない。裸の気持ちとしては、パソコンを生活に取り入れたいとは、あれ以来まだ一度も思ったことはない。
PLANETE BARBARAを救出したいと、よく見えもせぬ目で、それでも歯を食いしばって格闘しているのは、私の中でいつの間にか呼吸し始めていた、Bruxelles一人だけだ。
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FREHEL 「LA DER DES DER」

「遠近法の書」(または昨日の追記)


「遠近法の書」(または昨日の追記) 2004年9月29日 (Wed) 18:20:56

・以前原田さんは私に「東京でと同様大阪でも周りの人を煙にまいているだろうBruxelles」と言ったことがあるが、原田さんの煙にくらぶれば私の煙など、遊園地の忍者アトラクション程度のご愛嬌である。原田さんの煙はすでに彼女自身を足元からすくっているように思えるときがある。・・(略)・・
もしかして人間存在とは火葬するときに吐く煙の色に過ぎないのでは、と思うときがある。少なくとも存在とは、そういった比喩の連続ではないだろうか。
ー思潮社刊「遠近法の書」(原田かえで著)詩集評より抜粋ー
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「海とユリ」の合評会が終わって帰る途中、イスの片付けをしてこなかったと気づいて、急遽早稲田に引き返した。すっかり片付いて照明を落とした店で、ママさんと原田さんがしみじみと語り合っている。「私の美しい背中を見てくれ」といつも背中しか見せない原田さんが、ほとんど無防備な姿で、ママさんに若き日の結婚の失敗を語っていた。「失敗」という言葉から1番遠いところに居る筈の原田さんが。場違いなので黙って帰ろうとした私に気づいてママさんが声をかけた。
「今日昼間,早稲田の学生たちが、Bruxellesさん、あなたのことをここで話してたわよ」
私の知らない原田さんが振り向いた。
ママさんは”失敗”の相手も知っているらしかった。フレーベル館で見る颯爽とした原田さんではなく、まるでフラレ女のように繰言を並べる原田さんが居た。場所と相手によって人は豹変するものかもしれない。

しばらくして原田さんから、彼女が以前思潮社から出した詩集「野猿伝説」が送られてきた。私よりも親友の姫神さんがファンになった。どこがいいのと聞いたら「自分をハイエナに擬するその視点の決意に感じ入る」と言った。確かにその頃原田さんは「詩学」に「マッカナソラトビー」と言う素晴らしい作品を発表していた。

4年後彼女の翻訳本「エルフランドの王女」(原作ロード・ダンセイニ。月刊ペン社妖精文庫)が送られてきた。ゲーと言うほど文字で一杯の本だ。翻訳家デビューしたことになる。さらに2年後「影の谷年代記」(原作ロード・ダンセイニ。月刊ペン社妖精文庫)が出版された。そしてそれはさらに12年後「影の谷物語」(ちくま文庫)として筑摩書房から再販された。

これらの翻訳の後、原田さんは突如文武両道を志し合気道で全国制覇を達成。私生活ではかなり若い後輩と再婚した。出版社をやめフリーの編集者になってもいた。その後が原田さんらしい。1年もたたないうちに港区高輪になんと、整体治療院を開業、仲間達をアッと言わせる変身を遂げたのだった。

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「Marinella」 par Tino Rossi


sweet kiss

sweet kiss 2004年9月28日 (Tue) 17:31:40

会場ぎっしり人が集まった。私が着席した目の前が原田さんだ。相変わらず色っぽい。目で語ってくる。どうしてこの人の前の席になったんだろう。今日はGribouilleの出版記念会(詩学社刊 詩集「耳」)だから、とりあえずホステスとして立ち振る舞おうと決めていた。でもこれだけ見つめられたら、立てない。私も視線を外さないでおこう。・・

他の人達は会場で配られた私の「耳」論をパラパラと読んでいる。詩学社の大西さんに印刷してもらって、とりあえずは私からのGribouilleへの出版記念プレゼントだ。彼女の言語機能は「闇夜の白ステッキだ」と論じたこの文章、38枚書いて彼女に見せたら、いろいろ抗議が来て、二人で相談しながら、糊とハサミを使って原稿を切りチャンチャコ、特に前半の部分は大幅にカットされた。出来上がってみると、かなりよくなっている。
「Bruxellesって素直ね。これだけカットしても怒らないのね」
「確かに過剰な部分もあったから」
Gribouilleが満足してくれたら、それでいい。私もこんな作業がこれだけ楽しいとは思わなかった。原稿はクールで完璧に仕上がった。これを書いて、Gribouilleから少しづつ遠のいていこうと思っていた。

キンダーブックの女性編集長の原田さんは一度離婚している。Gribouilleよりさらに少し年上。手帳のスケジュールはいつもギッシリ。文学を語るにはビジネスライク過ぎる、いい意味でも悪い意味でも大人だと言う、噂の人だ。

う?ん。この眼は誘っている。う?ん、なんとなくお互い了解。OK? OK。小さなテイブルを挟んで5?ほど近づく。5+5で10?。さらに5?近づく。5+5で合計20?。さらに5?。お互い10?まで近づくと、もう目を見詰め合うことに耐えられなくなる。前頭葉のテレパシーが全開する。相手の顔だけが世界のすべてになり、距離を縮めること以外何も考えられない。7?くらいで周囲のざわついた空気をシャットアウトする意味でも目を閉じるしかない。首を伸ばす。5?位か?相手の息が鼻や口にかかる。その体温さえわかる。あと2??しっかり目を閉じると距離が見える。あと1??息を止める。ここで首を突き出すなどという、野暮なまねはしたくない。苦しくてお互い少し息をする。息が過敏になっている唇に降りかかる。さらに3?。息と息で触れ合っている。思いっきり情念を込めて相手の息を吸い込む。呼吸が速まる。触れていない唇の存在を感じる。意識をholdに向ける。何秒間か。行く、しかない。でもその直前にお互いの意志力で(?)同時に思いっきり身を引く。ゆっくりと目を開けて、お互いを見つめかすかに微笑む。それからそっと相手を称えるウインクを交わした。

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「Ma jeunesse fout l'camp」  par Francoise Hardy


バケツの水が頭から


バケツの水が頭から 2004年9月8日 (Wed) 18:51:54

サイトからプリントアウトした一人の人の写真をもう一時間以上もじっと見つめている。ー

カウンター付近に小さな人だかりがある。近づいて行くと「あっ、外人だ」と言う声がする。まさか、私のこと? 成り行き上成りすますことにする。英語で手続きの申し込みをする。係りの人は国籍日本のユースホステルカードを見せているのだから、判っている筈なのに、口を合わせて、おまけに私を外人用の部屋に振り分けた。私が部屋に行こうとすると、その人だかりが全員ゾロゾロついて来る。いくらサングラスで目を隠しているとは言え日本人かどうか判らないのだろうか?仮に外人だとして、そんなに珍しいのだろうか?

先着者に挨拶して荷を解く。うっかり忘れて、私を見物に来た人達に言った。「今日は暑いね」・・。「日本語しゃべれるの?」吃驚している。そんなに吃驚しなくても。「だって日本人だもの。ほら」サングラスを取る。「なーんだ、日本人か」口々に言って、さっさと部屋から出て行った。

自動販売機でコーラを二本買って、一本を一番近いベッドの子に渡した。「いくら?」「要らない」

「何国人?」から話が始まった。・・
「あと4日で国に帰れる、家族に会える。とっても嬉しい」「家族に会うのがそんなに嬉しいの? よっぽどいい家族なのね」「そう」
「お金を使いすぎて、もうこれだけしかないの。そしてついにユースに来たの。明日もここよ」「私も明日もここ」
「パリからイスタンブール、カトマンズ、そこから東京まで飛行機で」「オリエント急行とアジアハイウェーね。じゃ長い旅なのね」」旅行は男友達と一緒にスタートしたのだと言う。
「カトマンズって、素晴らしかったわ。最高に感動したわ。教授資格試験に合格した記念旅行なの」「教授資格試験って、あのサルトルやボーボワールと同じ資格の?」・・
聞けば、論文はマラルメ研究。私も手に持っていた新聞を見せた。「日本語だけど、ここに私の作品(小説)の批評が出てる。読んでみるから聞いてね」日本語の新聞を英訳しながら音読した。「タイトルがカッコいいでしょう。Retournons Mes Anges d'amourってところかな」

次の日。「今日は昨日知り合った日本のサラリーマンが仕事を休んで一日東京案内をしてくれた。おかげで何とかお金がもちそう」「私は今日は文芸評論家(小川和佑氏)の出版記念会で、ヒルトップホテルに行って来た」・・
その夜、夕食のあとだった。彼女が一気に旅のこと、胸の内を打ち明けたのは。

彼のこと信頼していたし愛していた。私も彼が初めてで彼も私が初めてだった。(えぇェ、そんなフランス人がいるの?)2人とも勉強ばかりしていたの。ある日彼が突然打ち明けたの。昨夜,他の女と寝たって。そんな話が彼の口から出るなんて夢にも思わなかった。バケツの冷たい水を頭からかけられた思いがしたわ。(気づかなかったの?)全然。相手は中国女。一日に何度も服やアクセサリーを付け替えるチャラチャラした女よ。男を四六時中物色している女。彼は女性経験があまりないからクラクラきたのね。ショックだった。何故そんなことができるのか私にはわからない。(話し合ったの?)彼がしたいと思うのならすればいいのよ。一人の中から一人として選ばれるより、多くの女を知って、その上で選んでくれるほうがいい。(彼はどう言ったの?)僕が間違ったことをした。だからこのまま一緒に旅を続けるかどうか、君が決めてくれって。一度芽生えた不信、どうしようもなかった。一緒にいたいけど、一緒にはいられない。それで途中で別れた。それから一人。(パリに戻ってからどうするつもり?)わからない。お互いまだ好き同士なんだけど、前のようには戻れない。自分の気持ちをどう整理するか。(一時の気の迷いでしょ。そんなことで別れたら、後悔すると思う。やり直したら)出来たらそうしたいけど、出来るかどうか。?

半月後に手紙が来た。「仲直りできました」
さらに半月後「今ずっと年上の作家と同棲しています」

翌年Parisに行った時は、彼女はストラスブールに行っていた。さらに2年後の時は、私がすぐに盗難にあい、連絡を取るのが遅れた。日本の友達が緊急援助金を送ってくれ、とりあえず一息ついた時点で連絡した。

彼女はSylvainという青年とパリ郊外の手作りの家に、もう一組のカップルと4人で小さなコミューンのような暮らしをしていた。私はそこへ出かけた。SylvainはLenormanに似た感じのいい青年で私にもいろいろ気を配ってくれた。ただSabineが「Bruelles、実は私、あの時の彼のことをまだ愛しているの」と目で合図した。私が近視なのを思い出して、近寄って「昨日、今アメリカにいる彼から手紙がきたの」と耳打ちした。嬉しそうだった。私もいづれアメリカの大学で教えることになると思う、そしてそう言った。その夜はコミューンで寝た。一度Sabineの16区の家に正式ディナーに招待されたが、Sabineとはそれきり会っていない。

ABDIのことを日記に書いた日、Sabineが話した中国女のことをふと思い出した。叶姉妹のような中国女だったのだろうか。Sabineが話していたフランスの教育制度について、調べたくなってインターネットであたってみた。知りたいことが出てこない。いっそのことSabine Raffyと入れてみようと、ふと思った。すぐに沢山HITして吃驚した。BostonのWellesley Collegeでフランス文学を教えていた。Aix-en-Provenceでも教鞭をとっている。Nathalie Sarraute(ナタリー・サロート)の第一級の研究者になっていた。予測出来たこととは言え、かなり驚いた。
Chambre d'echosという出版社から「Le Tapis de memoire 」という物語を一冊出版していた。Sabine,すごいじゃない。さらに検索を進めた。・・

http://www.wellesley.edu/PublicAffairs/
WellesleyWeek/Archive/2000/ww100900、をクリックして、今度はバケツの冷水が私の頭にぶちまけられた。

Professor of French Literature and Cultural Studies,died on September 27,2000 in France.(略)She was a very popular professor and will be missed by both her students and her colleagues.(略)

http://www.chambrechos.freesurf.fr/raffy-echos.html
にLe tapis de memoireの紹介が出ている。Sabineの写真があった。面影しかないが、面影がある。ずぶ濡れの気持ちが乾くまで、まだ何時間もこの写真を見続けるだろう。

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Gerard Lenorman 「ON A VOLE LA ROSE」


ホメイニ万歳!

ホメイニ万歳! 2004年9月4日 (Sat) 18:51:39

ABDIは現在行方不明の友達だ。正式の名をABDOL・HUSSEIN・FARROKH(アブドル・フセイン・ファロッホ)という。

初めてパリに行った時東京の代々木のユースで知り合ったSabine Raffyの家に、フラリと行ってみた。Sabineはストラスブールのセカンドハウスに行っていて、お母さんは手術で入院中。お手伝いさんが16区の重い扉を開けてくれた。お手伝いさんが病院に電話する。受話器の向こうにお母さんの声。
「サビーヌがあなたのお国で楽しい思い出を沢山持って帰りました。あなたのご親切は娘から聞いております。あなたとあなたのお国に感謝申し上げます」そこまで言われるとまるで外交官になった気分。「私は入院中で失礼いたします。ABDIにあなたのお相手をさせましょう」・・
誰もいないと思ったのにABDIという青年がガウンを羽織って現れた。色が白く目が大きく顔も大きく王子様の雰囲気がある。Sabineはイラン系フランス人。ABDIはまんまイラン人。親同士が友達でABDIがSabine宅に下宿?していた。
ABDIの部屋に入ると音楽が好きらしくレコードが沢山ある。ミレイユ・マチューのファンで、一緒にLPを聞いた。
「Acropolis Adieu」なかなかいい曲だ。ABDIと聞くとPersepolis Adieuに感じる。壁にはイランの細密画が掛かっている。ABDIの親戚の高名な画家が描いたものらしい。他にも元、元帥の叔父さんがいると言った。イスラムのカレンダーも見える。イスラムのカレンダーはキリスト式からマイナス622した年号になっている。ヘジラ(マホメッドがメッカからメディナへ逃亡した年)がイスラム元年に当たる。
アケメネス朝やササン朝の話をしようと思ったが、フランス語でどう言えばいいかわからず、日本語でそのままササン朝と言ったら通じたので吃驚した。聞き手の配慮があれば言葉は通じる。調子に乗ってダリウスやシリウスの話題を出したら、とても喜んでくれた。あとでSabineに聞いたらABDIは熱狂的愛国者なのだそうだ。「フランスに居るのにイランのことばかり話す」・・確かに。2度目に来た時はABDIと何度も会ったがいつもイランの話をした。テヘラン、イスファハン、シラーズ、タブリーズ、ハマダーン、地理に弱い私まで、イランの地理に強くなるほど。「イスファハンは世界の半分」パーレビのことは、シャーハンシャー,王の中の王、だと言った。
ホテルまで送ってくれた。「ワインをどうぞ」と言ったが、宗教上アルコールは飲まないと言う返事が来た。
フィーリングでいえば、親兄弟よりもずっと近くに,きわめて近くに感じられ、それでいて誰よりもくつろげる青年だった。?

2度目の時はシャンゼリゼ、モンマルトル、モンパルナス、ヴァンセンヌ、ブローニュ,あちこちに一緒に出かけた。沖至が出演した小劇場にもABDIと行った。私の部屋にも何度も来た。一人息子を一人にしておけないと(?)その時既に両親も兄弟も全員Parisに移り住んでいた。家にも招待してくれた。
「どうして家族でParisに移り住んだのですか?」
「ABDIの教育のためです」ええェ!!吃驚した。お父さんもお母さんも薬剤師としてParisで働いていた。薬学や化学は昔からイスラムの方が進んでいた。伝統があるのだろう。?

写真を見せて、これがテヘランの家だと言った。今はアメリカの軍人に貸している。「その人はアメリカ人らしく3度も離婚したんだよ」「僕は将来ジャーナリストになりたいんだ」と言った。アメリカには一目も置いていない。「Bruxellesはどうして原爆を落とされたのに、そんなに親米でいられるのか」と、やはり聞かれた。音楽好きなABDIはよくテイプやレコードを送ってくれた。全部イランの曲。あるテイプの中の1曲には、イラン人女性歌手が歌うバルバラの「いつ帰ってくるの」もあった。

1978年、イランのことがいきなり新聞のトップに躍り出た。誰も予想しなかったイスラム革命が勃発したのだ。心配になって久々に連絡を取った。自分の名義で家を買ってもらったと言う連絡が来ていた。13区のLa Tour Tokio(東京タワー)という建物に住んでいる筈だ。返事が来た。
お父さんが病死したことが書かれていた。イスラム教では死は天国への旅立ちで少しも悲しむべきことではない。祖国のために自分も今、身を捨てて役立ちたい、とあった。帰国するつもりか?
元、元帥の親戚がいたことが気になった。アメリカ軍人に家を貸していることも。つまりは旧体制派に違いない。ひっくり返れば殺されるかも知れない。
「身の危険を感じたら、日本に来るように」と書いて出した。
返事が来た。一番最後に、私の意表をついて「ホメイニ万歳!」とあった。年配の友人に相談すると「検閲があるから、無理に書かされているに違いない」という意見だった。どちらの側なのか?シーア派イスラム教徒のABDI、ジハードという言葉の前に、祖国のためなら、いつでも命を捨てるだろう。

1979年3月ホメイニ師の新政権はイスラム共和国宣言を発し、12月イスラム共和国憲法を制定した。イランは一気に過激になる。
11月アメリカ大使館占拠、1980年9月から8年間にわたるイラ・イラ戦争に突入。いつの間にか革命の輸出国と呼ばれるようになる。アメリカに敵対しただけでなく、イスラム世界においても孤立してしまう。1988年イランは力尽きて国連の停戦決議を受諾。ひりひりした歴史の先端から身を沈めた。

ABDIから返事は来ない。La Tour Tokioの電話は未知の人に繋がる。ABDI,ou es-tu? qu'est-ce que tu fais maintenant?

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Joe Dassin 「L'ete indien」
痺れるほどに素晴らしい曲。Joe Dassinの魅力満開

Sandinistas・オルテガ


Sandinistas・オルテガ 2004年9月2日 (Thu) 17:00:08

The Clashというバンドに「Sandinista」というタイトルのアルバムがあるらしい。どんなコンセプトのアルバムなのだろうか?
また私のメモによると「Contra」というビデオゲイムがコナミから発売されている。どういう解釈の元で作られたゲイムなのか?

中東戦争をイスラエル側から見るか、パレスチナ側から見るか、と少し似ている。双方命を懸けて正義の側で戦っていた。簡単に言うと、反米か親米か?マスコミの論調は一般的に反米側なので7分3分でコントラとイスラエルが悪者扱いされているのではないだろうか。

Alexisが戦ったSandinistaとは?
悪名高きSomoza独裁政権を倒し1979年から1990年まで権力の座についた組織で、その間アメリカが支援するコントラと内戦状態にあった。

1990年「The Japan Times」を読んでいて信じられない記事を見つけた。1990年2月25日平和に行われた民主主義的な選挙でニカラグアの政権が変わった。それも血みどろの戦いではなくオルテガとチャモロ未亡人が仲良く握手しているではないか。ええェ!!あのドロドロはいずこへ?さらに感動的なのは、翌26日、オルテガがした政権譲渡演説。
「我々は勝利して去る。血と汗を流してきたのは政権にしがみつくためではなく、1821年の独立以来、拒否されてきた何ものかをニカラグアにもたらすためだったのだから。(略)ニカラグアとラテンアメリカにいくばくかの威厳と民主主義と社会的公正をもたらしてきたことを我々は誇りにおもう」・・
FSLNつまりSandinistaは野党になった。よく読むと元々打倒ソモサでオルテガとチャモロは共に戦っていた。その後、身内同士もふた手に分かれて、ニカラグアの政治人は複雑怪奇な争いの渦に巻き込まれていたようだ。?
Sandinistaの大統領オルテガの引きの見事さが強く印象に残った。

ところが、ダニエル・オルテガが革命の英雄かと思ったのも束の間、革命史とは別枠で、とんでもない記事に遭遇してしまった。

1998年30歳の養女ソイラメリ・ナルバエス・ムリロが、11歳の時から12年間に渡って性的暴行を受けていたと告発したのだ。
彼のように多忙な人間には性的な解放が必要なのだ。犠牲になることで彼女はサンディニスタの大義を助けているのだーと言い聞かせていたらしい。かつてサンディニスタ派だったエル・ヌエボ・ディアリオ紙は40ペイジに渡る告発の全文を掲載した。

オルテガは10代の頃から結成されて間もないFSLNに参加し、都市ゲリラや革命のための銀行強盗をやったりした。1967年にはソモサの国家警察に捕らえられ7年間を牢獄で暮らした。彼がニカラグアの大統領になったのは1984年、出獄後10年目である。

ソイラメリの夫アルハンドロ・ベンダーニアは何年もの間オルテガが彼の若い妻に暴行する前で、何も出来ずに脅えていた恥ずかしさを告白した。ラテンアメリカでは養女に対する性的暴行は長い間大目に見られてきた。オルテガの暴行を知っているサンディニスタの古参兵も、オルテガの政敵でさえもが、口を閉ざしてきたし、今も口を閉ざしている。権力を持つ男性の特権に従順な風土も忘れてはならない。

オルテガの性的暴行から、Sandinista革命の正否を問うつもりはない。さらに’風土’を持ち出せば、人格を問うことさへ出来ない。ただ「サンディニスタの大義のために」養女が性的暴行を受ける必然性、関連性が、全く見当たらない。
もうひとつ、コントラとの戦いがもたらした経済的損失を考慮しても、オルテガが大統領時の30000%のインフレ率を考えるだけで、Sandinistaの統治能力がわかる。明白であるのに余り認識されていないこと。武装革命組織が突然政権を持つとどうなるかということは、想像して余りある。Alexisが武器をとったのもわかるというものだ。革命力と統治力は全く逆ベクトルなのだから。政権譲渡こそが必然だったのだろう。そして何も知らないものだけが、「演説」などに感動する。


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Boris Vian 「Le deserteur(脱走兵)」

Alexis Arguello (4)

Alexis Arguello (4) 2004年8月30日 (Mon) 17:48:52

武器を捨て米国に戻りカンバックした後どんな人生を送ったのだろうか。85年、86年、94年それぞれ1試合のみ、それぞれ1勝。最後の試合は95年無名選手Scott Walkerに判定負け。さらにザッと資料をあさってみた。

今年の3月29日garnespot.com/ps/sports/knockoutkings2001/に意外な記事。Alexis,Electronic ArtsとSonyとNintendoを訴えるという見出し。The knockout Kings2001というゲームソフトがあるらしい。登場するのは重量級ファイター、Muhammad Ali,Oscar de la Hoya,Evender Holyfield,Lennox Lewis,Naseem Hamed等。3年前の2001年ファンがそのゲイムソフトにサインをしてほしいと差し出すまでまさか中量級の自分がゲームのキャラクターに使用されているとは夢思わなかったらしい。Los Angeles Timesによると裁判は現在進行中。

もうひとつ。2002年2月25日、latinosportslegends.com/2002/によるとあくまでもこの時点の話だけれども、Alexisの伝記映画、制作予定とのニュース。Ron HammadのFor Ever Filmという会社が名乗りを上げた。Arguello役の俳優にはAntonio Banderasの名が上がっている。1974年Ruben Olivaresを下しWBAフェザー級チャンピオンに。その後ジュニア・ライト級とライト級の世界チャンピオン。ジュニア・ウエルター級のタイトルをかけたAaron Pryorとの2戦は以前に書いた。あれを思い出すだけでも確かに充分映画になりえる。

そして2000年、espn.go.com/boxing/columns/にTim Grahamの書いた記事、Arguello:I wanted to dieを発見、釘付けになる。wantedだからこの記事の時点では、立ち直っているわけだ。記事の中で、繰り返された自殺の試みが語られている。

BoxerとしてAlexisが残したイメージは高貴で勇敢、礼儀正しくハンサム、カリスマ性のある成功者、望むものすべてを手中にしていた。あまりの英雄ぶりにSandinistaはこれ以上人気が出ないよう、放送や印刷物に彼の名を出すことを禁止した。

しかし実際には彼は、酒と麻薬に溺れてゆく。

原因のひとつはもはや戦えない年齢の苦痛。スポットライトと人々の賞賛の喪失から来る苦痛。16歳からプロの世界に入り、ボクシング以外、何のなす術も持たない苦痛。ニカラグアの英雄という人々の期待に応えなければということと、現実とのギャップの苦痛。M-16ライフルを手に戦ったあげく手にした社会の不正に対する絶望。米国がNicaragua支援の為に差し出した援助金を個人的にネコババする現政権の役人を目撃して傷つき、自傷行為(自殺)による復讐を考えるようになる。

99年Maraguaの新聞”La Noticia"に「今一番望むのは誰かが私を永遠に眠らせる注射をしてくれないかということ」とスペイン語で語った彼。Pedro Fernandezのラジオ番組”Ring Talk"でも「私は死にたい」と漏らす。FernandezはCaliforniaのBetty Ford Centerで治療を受けるようわざわざManaguaまで説得に赴くが,全く耳を貸さない。「もうどうしようもない」と当時28歳のAlexisの長男が言う。「財産すべてを売り払うところまできていた」?

2000年1月Managuaのインターコンチネンタルホテルでスコッチとワイン、コカインをのんで荒れ果てたAlexis。すでに彼との間に2人の子供を生んでいるガールフレンドのAliciaが、家に帰ろうと言うと、抑制のきかないAlexis、彼女を突き飛ばす。逆上して反撃しようとする女の首を絞め殺しにかかる。自分の行為にうんざりして2週間落ち込むAlexis。Aliciaはプレスにぶちまける。ついに自らHoderaリハビリセンターに入所、そこで2ヶ月過ごした。ー

それからアルコールや薬物は手にしていない。悪習は3度目の妻から受け継いだMarlborosの煙草だけ。リハビリ中、女中毒も克服した。Alexisジュニアが語る。「あの状態の人間で、最も重要なことは『助かりたい、人生をやり直したい』、と本人が思うこと。自分でそう思ってくれて僕も嬉しい」?

「朝起きて、昨日何があったか、思い出せるのは素晴らしい」とAlexis。「それに気づけるのは、すごい」と、Alexisジュニア。

ボクサー時代のAlexisからは全く想像も出来ない日々が、引退後の彼に待っていたようだ。現在彼の印刷会社は順調な筈。元世界チャンピオンのプライドで公私共に復活してほしい。

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「Dans le meme wagon(そよ風に乗って)」Marjorie Noel

BoxingというSport


BoxingというSport 2004年8月26日 (Thu) 12:18:20

いつ誰と誰のタイトルマッチかもう忘れたが、SKと府立体育館に試合を見に行った。あっという間のレフリーストップで日本人側が負けた。「早いんじゃないの」観客がほとんどいなくなった後2、30人が残りリングサイドに詰め寄っていた。別に抗議しているわけではないけれど、ハイハイと帰る気になれない。ちょっとした満員電車状態。首を横に振ると、そこにジョー・小泉氏の姿。
「ちょっと早いんじゃないですか」思わず言った。
「いや、選手に必要以上のダメージを与えないという観点から、最近は特に、あれ位で止めて、問題ないんですよ」思わず答えてくださった。その頃ビデオで毎週見ていたので、つい友達のようにカン違いしてしまう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「川上さん来はったよ」
近所の人と表で話していた祖母が玄関に駆け込んできた。えぇ?家の前に靴音が近づいてくる。新婚旅行中の川上選手の突然の来宅。「どうぞどうぞ、お上がりください。して奥様はいずこに?」「ホテルで買い物してるよ」

一番最初は私とchaperonの母を中ノ島のロイヤルホテルのフランス料理のフルコースに招待して下さった。兄には英国製缶入りビスケットのお土産。帰りはタクシーまで手配していただいた。部屋には一緒に休暇中の読売巨人軍柴田勲選手のバットがあった。
2度目は中学の修学旅行で行った東京の学生会館にフィアンセ同伴で会いに来て下さった。
「記念にBruxellesちゃんに何か買ってあげましょうよ」と二人で相談して赤とゴールドのオルゴールを買ってもらった。
英語の教師が走って来て「あれ、川上や、君、親戚か?」と興奮して言ったのを思い出す。
試合でも何度か会った。でもやり取りは手紙が中心。「喘息は転地療法がいいらしい。Bruxellesちゃんさえよければ、今度のフィリピン遠征、連れて行ってあげるよ。気候が変われば、よくなるかも知れない」・・こんな親切なことを言ってもらった人は他にはいない。思えば子供の頃、大沢さんといい、川上選手といい、思いがけない人達に大きな愛を頂いている。病気で生きた心地のしなかった子供時代、精神的には充分以上に人々に支えていただいた。

練習しているおもちゃのグローブを見せた。
「ボクシング教えてあげるよ」と、言ってもらった。
私には沢山のボクシングファンから手紙が来ていた。2年前ボクシング雑誌に書いた記事への囂囂たる反響だ。全部本人に見せた。彼は一通一通真剣に読んだ。

川上はボクシングファンほとんどの人の期待を受けて明大ボクシング部からプロに転向したハードパンチャーだった。’62年7月22日、日大大講堂で行われたサマート・ソンデン戦で9回試合を放棄した(右手骨折で)という理由でボクシング・コミッションから2ヶ月の出場停止処分を受けた。挫折を知らない川上の初めての屈辱。

ボクシングは殴り合いでも、殺し合いでもない、スポーツだ。玉砕が正しいわけではない。次へ向けての身体能力の保持、選手生命の管理、家族のためだけではない、プロとして、限界を見極め敗北を選び取る勇気も必要だと思う。
「試合に勝ちを望むのはボクシング界でもファンでもない。まず川上自身だ。(中略)一番悔しかったのは川上であろう。彼は自ら勝負を捨てた。卑怯者に見えるだろうか?私には勇気のある立派なボクサーに見える。また彼はそうであると、私は思っている(後略)」(プロレス&ボクシング、’62年10月号に中学1年のBruxellesが載せた拙文からの引用)

リング上で死人が出るたびに、世界のあちこちでボクシング廃止論が浮上する。殴り合いなど野蛮だと。しかしそれは見ている心が野蛮なのだろう。奴隷を死ぬまで戦わせる暴君ネロの心境がどこかにあるからだ。スポーツとしてルールを考え、選手の身体機能の保持を考え育成を考え、人生を鍛える格闘技としての「道」を考えれば、そして安全指導を徹底さえすれば、廃止などとんでもないことがわかるだろう。
ボクシングがあるからこそ、這い上がってこれる人、這い上がろうと努力する人、世界のあちこちにごまんといる。

涙を流して余力を残して立ち上がらなかった、ネバダ州ラスベガスのAlexisの姿。今から思えば、そこに、家族に対する男の責任や、美学を見て感動したのではない。ボクシングというスポーツに対する愛と、非難に耐える覚悟と、恥を選び取る勇気を見たのだと思う。

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「ハムレット」全曲  Johnny Hallyday
to be or not to be のあたりを、よく詩の朗読のバックに使った。

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